2023年3月18日土曜日

2023.03.18 下川裕治 『アジアのある場所』

書名 アジアのある場所
著者 下川裕治
発行所 光文社
発行年月日 2021.08.30
価格(税別) 1,300円

● 日本のバブル崩壊後の “失われた30年” で,アジアに対する日本の経済的優位性は相対的に大幅に低下した。一人当たりの国民所得で日本を追い越した国は,シンガポールをはじめアジアにもいくつか誕生した。抜かれないまでも,日本と他のアジア諸国の差は少なくなった。
 バックパックを背負ってアジアを貧乏旅行できたのは,個人の嗜好云々よりも先に,日本の経済的優位性があったからだ。日本で3ヶ月肉体労働をすれば,1年間はアジアを旅できた。

● その優位性が日本から消えた以上,バックパッカーは存在し得ない。一人もいないわけではあるまいが,細い流れながらもひとつの潮流とはなり得ない。
 そもそも,アジアの諸国よりも日本の方が物価が安かったりする。当然,お金のない若者は日本に留まる。海外を放浪するより,国内の方が生活コストが安いとなれば,当然そうなる。

● 下川裕治といえば,アジアを貧乏旅行して,それを文章にして生計を立てている人というイメージだ。が,下川さんがそれをやっていた頃と今とでは状況が違ってしまった。彼の文章世界は過去形で語られるものになった。
 唯一の救いは,彼の紀行文に社会派の成分が濃厚だったことだ。これは経済状況が様変わりしても命脈を保てることがある。
 本書においても社会派の部分が読み応えがある。著者ならではという感じがする。文献を読み込んでいるのだろう。

● 以下に転載。
 込み入った会話ができないことが居心地のよさにつながる気もする。アジアから日本に帰るとき,いまでも緊張する。(中略)言葉が通じない世界を歩いてくると,日本語の嵐がストレスになる。(中略)インドに一年近く滞在した日本人バックパッカーが帰国し,羽田空港から電車に乗った。しかし日本人が怖くなってインドに戻ったという話を聞いたことがある。その心境がよくわかる。(p4)
 バンコクという街で,彼らは冷遇されていた。バンコクに生まれ育ったタイ人は,こちらが心配になってしまうほど彼らをバカにしていた。田舎者--それがイサーンの人々の代名詞だった。彼らが口にするイサーン方言を真似,皆で嗤う。(p52)
 ここ十年,いや二十年でタイはずいぶん豊かになった。賃金も上がった。(中略)もう,日本で働いても割に合わないのだ。(p70)
 大家は外国人に貸したくはないということだけだった。(中略)外国人が店を出すエリアが偏っていく理由がわかった。ミャンマー料理店が高田馬場に多いのは,簡単に物件を借りることができるためだった。(p102)
 「浅草ってね,東京のたとえば,新宿や渋谷って考えないほうがいい。村です。私たちだって,ふたりとも浅草寺幼稚園の出身。横でしっかりつながっているんです」(p120)
 日本人なら昼寝を起こされ,不機嫌そうな顔をつくる人もいるのかもしれないが,彼ら(タイ人やミャンマー人)はとりあえず笑顔をつくる。あれは天性だといつも思っていた。(p122)
 日本での仕事は気遣いが多かった。フリーランスといっても,編集部の人間関係に振りまわされ,そのなかを泳いでいかなくてはならなかった。体はいつも重く,どこか地面の下から得体の知れないものに引っぱられているような気がした。(p127)
 軍事政権の時代だった。人々は軍人の奴隷のようになって生きなければならなかった。希望は国を出ることだった。(中略)皆が裏金で生きなくてはならなかった。軍事政権とはそういう時代だった。パスポートをつくるときの裏金は,日本円で百万円を超えていたと思う。当時のミャンマーではとんでもない額の金だった(p135)
 日本のなかに星の数ほどあるエスニック料理店には申し訳ないが,現地のなにげない食堂に勝る店に出合ったことがない。(中略)香辛料だと思う。香辛料の鮮度が違うのだと思う。(p152)
 自由貿易型の植民地が利益を生むには時間がかかる。(中略)本国のイギリスはそれを待ちきれなかった。(中略)日本の台湾統治にしても,はじめこそインフラを整え,農業の技術者を派遣し・・・・・・といった長い目でみた統治を進める。しかし気長には待てなかった。背後には軍事力をもっているわけだから,手っとり早い台湾利用に走る。それが植民地政策の本質なのだから,すぐにその安易な手法に傾いていってしまうのだ。(p159)
 中国に長く暮らす日本人から,まとまることができない中国人の話をよく聞く。
「中国人って,砂のおにぎりみないなものだと思うんです。いくらひとつに固めようと思っても決してひとつにならない。ぱらぱらと崩れちゃうんです」(p188)
 史明の行動を見ていると,育ちのいいロマンチストという言葉が浮かんでくる。どこかオノ・ヨーコに似ていないくもない。理想を胸に革命運動に身を投ずる姿に酔っているようなところもある。(p190)
 史明は身分を隠し,青島から台湾に脱出する。日本人の妻も一緒だった。妻は中国共産党での日々を後にこう話していたという。
「あれは人間が住む世界ではなかった」(p192)
 李登輝という人物への評価は,台湾より日本のほうが高いように思う。台湾の人々はより冷静に彼を見つめていた。というのも,李登輝は人々を苦しめ続けた国民党の人間だったからだ。(p205)
 いまのリトルオキナワ(中野区昭和新道)には,ボリビアやブラジル料理店が何軒かある。そのメニューを見ると,牛肉料理の横に沖縄そばの写真が載っていたりする。この店を経営しているのは,南米に移住した沖縄の人たちの二世,三世だった。(p219)

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