2025年11月16日日曜日

2025.11.16 ホテルとディオール

● PR誌2冊を斜め読み。ひとつはこれ。何年か前にどこかの地下鉄駅に置いてあったのをもらってきたんだと思う。
 写真がキレイで,いつか泊まってみたいなぁと妄想に浸れるかなと思ってね。

● 読むところは星野佳路氏のインタビュー(p6~p7)のみ。と言っても,「星のや」には泊まったことはないし,これからもないような気がする。
 お値段もそれなりにするしね。無理して泊まることもない。

● そのインタビュー記事からいくつか転載。
 単に多くの人に来てもらうのではなく,観光地側が制限を変えるなどして,お客さんを選ぶ傾向にあります。しかし,日本は相変わらず2019年に戻ろうとしているようで,世界との差が開いてしまうのではないかと懸念しているんです。
 新しい観光の形として私が考えているのがステイクホルダーツーリズムというもの。(中略)実現させるためには,連泊滞在を強烈に提唱する必要がある。現状,国内旅行の宿泊数は,大半が1泊2日。それだとホテルや交通機関にお金が落ちますが,地元には還元されません。連泊することで中日ができ,アクティビティや飲食を楽しむことにより,経済の循環が生まれます。
 今までは観光地がお客さんに合わせていましたが,これからは地域の特徴を現地から発信し,興味を持った人が訪れる時代。
 星野リゾートではマイクロツーリズム(自宅から1~2時間で行ける場所を旅する)を引き続き推奨しています。観光産業が排出しているCO²の半分が交通で,移動距離が短くなればCO²は劇的に減ります。
● 今どき,CO²の話をしているのかと思ったんだけども,これは本気でそう考えているのか,宿泊候補者へのアピールなのか。この分野の意識高い系が集うホテルには,正直,行きたくないけどな。
 観光地が客を選ぶというのも,おそらく上手くいかないだろう。選ばれる人は多くはないからで,そうなると観光が業として成立しなくなる。これも,それをわかった上でのアピールなのかもしれないけれど。

● もうひとつは,「DIOR MAGAZINE No.45」。ディオールの広報誌。
 こちらは見ても全然ピンと来ない。

● モデルのディーヴァ・カッセルのインタビュー記事からいくつか転載。
 好みやビジョン,フォルムは流行によって変化するものですが,私は,カラーやテクスチャーを組み合わせることで,どんな風に今の時代に融合させ,新たなピースを創造するのかを見るのが好きです。
 私が表現したいと思うのは,ウェアの着こなし方だけでなく,ウェアが体現するものは自分自身で決めることができる,ウェアは私たちを支えてくれるものである,という点です。
 ファッションは自己肯定である
 すでに所有するピースを使って違うスタイルを作り,新しいフォルムを与えることが好きです。
 服飾とは,私たちの振る舞いや歩き方,呼吸の仕方をもデザインします。歴史的な服飾を纏うと,私たちはあっという間にその時代への旅路に招待されます。
● 何だかよくわからない。自分の顔をキャンバスにして絵を描く芸術家(女性)にはピンと来るんだろうか。
 若者であっても,身なりに無頓着な男性は多いだろう。むしろ,無頓着であることに矜持を持っている人もいるのではないか。

● それゆえ,男性にとってはつけ入る隙はいくらでもあるということになる。わずかな努力で報われる分野であるかもしれない。

2025年8月22日金曜日

き2025.08.22 酒井順子・関川夏央・原武史 『鉄道旅へ行ってきます』

書名 鉄道旅へ行ってきます
著者 酒井順子
   関川夏央
   原 武史
発行所 角川文庫
発行年月日 2024.03.25(単行本:2010.12.20)
価格(税別) 800円

● 単行本でも読んでいることを,読み終えてから知った。もちろん,だから損したとかいう話ではない。

● 「人工的なものは何一つない。聞こえてくるのは,川のせせらぎと野鳥の鳴き声だけだ。何の夾雑物もなく,大自然と裸の自分が相対しているうちに,心が研ぎ澄まされてくる。(p181)とは共著者の原武史の文章なのだが,こういう文章を書く(こういう文章しか書けない)人を,ぼくは信用しない。心が研ぎ澄まされる? 何だ,それ。
 おまえはどんな文章を書けるのだ? と言われると,そういう文章すら書けないわけだが。

● 以下にいくつか転載。
 マニアって,あえて自分に徒労的義務を課すんだけ。(関川 p127)
 (五能線は)演歌の代替物なんだろう。冬,日本海,荒波,「都落ちする私」。自己憐憫は不滅だから。ここで疑似体験するんだろうね。(中略)もともと,演歌と汽車と「都落ち」は相性がいい。それからフォークソングも。演歌の変奏だったから。(関川 p137)
 戦跡は観光には適さない。遺構がなく,つかみどころがないからだ。(関川 p168)
 汽車趣味もお城・戦国趣味も,やっぱり「児戯」には違いない。ただ,雑学自慢にならない言語化ができれば救われるのだが,それはラクなことではない。(関川 p170)
 「旅情」を感じつつ孤独にひたる,などというのもやや見当違いではないかと思う。「旅情」や「感傷」など,実人生に掃いて捨てたいほどある。あえてよそに探しに行くことはなかろう。(関川 p217)
 ガツガツしてる奴は年をとってもガツガツしてる。あんまり年齢は関係ないですね。(原 p244)

2025年8月8日金曜日

2025.08.08 『秩父三十四ヵ所を歩く 改訂版』

書名 秩父三十四ヵ所を歩く 改訂版
発行所 山と渓谷社
発行年月日 2006.03.
価格(税別) 1,400円

● 先月,初めて秩父に行った。面白そうなところだ。面白いと言ってはいけないのかもしれない。ただ者ではない感に満ちているということだ。
 他所から移り住む人も多いかもしれない。一度来たら虜になる人がいそうな気がする。沖縄のように気候風土が日本離れしているわけではない。空気感が独特という感じを受けた。

● 酒や食も奥深さを湛えているような気がするが,何より神社仏閣が多い。人口に比して明らかに過剰だ。
 それを支えているものは何なのか。それを追求したいとは思わないが,秩父三十四ヵ所は巡ってみたいと思っている。本当にやるかどうかはわからないが,その気はある。

● 若い頃(中年の頃)は,退職したら四国八十八ヵ所を歩いて回りたいと思っていた。体験記をいくつも読んだ。この前に弘法大師の本も読もうと思って,ちくま学芸文庫の4冊を買った。
 が,手を付けていない。四国八十八ヵ所を巡るのは半ば以上諦めている。

● が,秩父ならばできるかもしれない。
 と思って本書に目を通してみたわけだが,果たして実行するやいなや。

● 巻頭に秩父札所連合会会長の羽金文雄さんの挨拶文(?)が載っているのだが,これがまことにつまらない。こうした挨拶文はこういうふうに書くものという不文律があって,それにしたがっているのだろうな。
 というより,本人が書いたものではないかもしれないが。

2025年2月22日土曜日

2025.02.22 角田陽一郎 『人生が変わるすごい「地理」』

書名 人生が変わるすごい「地理」
著者 角田陽一郎
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2019.08.02
価格(税別) 1,500円

● 地理とあるけれども,若い人への人生論のようなもの。

● 昭和50年代まで「中国の子供たちは目がキラキラしている(日本の子供にはなくなったものだ)」という爺様がいたが,どうもそれに近い印象を持ってしまうところもあった。
 後半では中国の経済力を称賛する記述がけっこうあるのだけれども,現在の中国は破綻の危機に瀕しているわけで,経済に限らず,目先の情勢トレンドをどう扱えばいいかはなかなか難しい。

● 以下に転載。
 縄文時代は,約1万5000年前から約2300年前(紀元前3世紀頃)までの結構長い時代を指します。僕ら日本人がこの時代を「縄文時代」と意識しはじめたのは,モースが大森貝塚から縄文式土器を発掘してからのことで,150年も経っていません。日本史の中で一番長い時代であるにもかかわらず,織田信長も徳川家康も坂本龍馬も,縄文時代を知らなかったということです。このささいな事実に気づくことが,「地理思考」をするうえで重要な要素となります。(p26)
 現代に生きる僕たちが,僕たちの目線や常識でかつての時代を判断すると,歴史を曲解してしまう危険をはらむような気がします。(p27)
 「地理思考」で大事なことは,だいたいの標準的な数値を肌感覚で知っていることだと思います。(p33)
 コメと小麦には特筆すべき違いがあるのです。それはなにかというと,米がおもに自給を目的として作られる一方で,小麦は商品的な性格を持つということです。(p38)
 産業革命によって効率化を優先するようになった人類は,働き方も効率優先で考えるようになりました。そこで生まれたのが会社という組織です。(中略)この会社の誕生によって,人間の生活は「食べるために働く」から「働くために食べる」へと転換してしまいました。(p43)
 僕は,世界とは「子どもの集まり」だと思っています。(中略)世界とは「組織化されていない人間社会である」とまずは理解し,1つひとつの国は一個人と同じなのだと考える。それも,上から統制されない,原始的で野蛮な人間関係が如実に現れるものなのだと認識することが,地理試行的な考え方といえます。(p58)
 平和を維持するために,“なあなあで済ましておく” というのは,実は平和の本質なのではないかと僕は感じています。(p67)
 地名は,「人間が環境という外部から影響を受けると,どうリアクションする(してきた)かの集合体」と言い換えることもできます。(p92)
 淀んだ場所だから,街ができる。すごく淀んだ場所だから,街が大都市になる。(p95)
 知の本質は,物事の「縁起」を丁寧に深堀りすることで見えてきます。(p100)
 報道のあり方というのは,テレビ局の内部の視点でいうと,そんな大仰なことではないのです。(中略)それは,スタッフが日々の仕事に忙殺されていることです。それが,結果として雑な仕事になって現れているのだと思います。(p143)
 一時期,築地市場の移転問題と,相撲問題ばかりが取り上げられていたことがありました。それはなぜだと思いますか?(中略)それは,「築地と両国国技館の距離が都心のテレビ局に近かったから」。(p143)
 雑多な人と接触し,情報を寄せ合い,そして情報の混交が進む。それが果たせないのなら,もはや都市に集まっている意味がないのではないでしょうか?(中略)渋谷の高層インテリジェントビルに隔離されたIT企業。そこで働く人は日中ほとんど外部の人と合うことはなく,ほとんどの情報交換をネットですませます。外部の人と接触するのは通勤の満員電車のなかだけという,なんとも皮肉な現実です。(p144)
 ひとすじ縄ではいかない世の中で,僕たちは僕たちはどう生きていけばよいのか? 私も途方にくれることが多くあります。しかしながら,「途方にくれそうになるのが世界なのだ」あるいは,「それが,人間が生きている社会の常なのだ」と理解してしまうことも,意外と有効な考え方ではないかと思っています。(p170)
 結局のところ,地図は「嘘つき」だと僕は思っています。なぜなら,「地図には制作者のイデオロギーが入り込んでいる」からです。(中略)そして,やっかいで,肝要なのは,そのイデオロギーはときとして「人の目には気づかれないように(巧妙に)隠されている」ということです。(p176)
 何かを学ぶ際,いや,人生を送る際にもっとも大切なことは,「適度に信じて,適度に疑う」ことだと僕は思います。そして,その具体的な方法とは,1つの観点から物事を見るのではなく,上から,横から,斜めから,まさにバラエティに富んだ観点を持つことが大切なのです。(p181)
 鎌倉幕府の定義がぼやけるのは,その呼称そのものが後世に名付けられたためです。(中略)学校で習う “勉強” の多くは,つまり若い頃に大人たちから教わる情報は,その定義が曖昧か厳格かなんて要素はまったく考慮されずに,ただ “決まったこと(=定義)” として降ってくるのです。(中略)でも,本当の勉強とは,過膜幕府の成立年を覚えることではなく “鎌倉幕府という定義は,曖昧なのだ!” と理解することなのです。(p211)
 物事の始まりは曖昧です。(中略)事実を追求することも大切ですが,僕は,この歴史で起こった減少もつねに「始まりは曖昧だ」ということを理解することの方が,人生にとって重要なことだと思うのです。(中略)“決まり” とは,誰かが “決めた” から “決まり” なのではありません。(中略)みんなが(意識する・しないにかかわらず)そう思うから “決まり” になるのです。(p217)

2024年6月5日水曜日

2024.06.05 下川裕治 『旅する桃源郷』

書名 旅する桃源郷
著者 下川裕治
発行所 産業編集センター
発行年月日 2023.07.18
価格(税別) 1,250円

● 本書で取りあげられる「桃源郷」はラオスのルアンパバーンをはじめ19の街にのぼる。19の街がそれぞれどのような理由で著者にとっての桃源郷になったのか。そこが本書の要なのだが,それを説明するよりは,本書を読んでもらった方が話が早い。
 旅行作家にとってはコロナ禍は相当以上のダメージをもたらしたらしい。が,それ以上のダメージを,日本の経済力の衰えと円安がもたらしているのではないかと思っていた。大方の日本人にとっては海外旅行など高嶺の花になりつつあると思えるからだ。

● 日本人は内向きになったと言われるが,正確には,内向きにならざるを得ない状況に置かれているということだろう。日本でならひと月はもつ現金が1週間ももたずに消えていくようなところへ,どうして行くことができよう。
 行けるわけがないのだから,そんなところに興味を持っても仕方がない。

● 子息を欧米へ留学に出せる世帯がどれほどあるか。授業料だけで年1千万円もかかるというではないか。無理,無理。そんなことに興味を持つな,となる。
 シンガポールや香港で暮らすのは,大企業の部長クラスの給料ではとても無理だろう。そういう時代になった。
 日本で半年働けば,2,3年は東南アジアを放浪できるという前提が消滅した。これではバックパッカーも激減するしかない。

● 以上の事がらは,著者のような旅行作家の読者が減ることにつながるだろう。多難な状況になったものだと思っていたのだが,ぼくはこうして著者の作品は出るたびに読んでいる。
 ぼくがそうだということは,他の読者も同じである可能性が高い。旅には出なくなっても,著者の文章は読まれ続けているのかもしれない。

● 文章じたいに香気があること。本書でも触れられているのだが,単なる紀行文ではなくて,その国の歴史や民族構成などを視野に入れて,多面的な情報を伝えてくれること。
 著者の作品を読んでいると,文化人類学の本を読んでいるのか,それにしては(学者が書くものとしては)文章が巧すぎないかと錯覚するようなこともあった。

● ともあれ,以下に転載する。
 みごとな眺めや味は,それぞれの人生にシンクロしてはじめて桃源郷という天上界にも似た世界に昇格するということなのだ。だから旅の桃源郷は人によって違う。しかしそこに至るプロセスは酷似している。(p6)
 旅に出ない日々のなかで出合う世界は生々しい。人生と一体化している。しかし旅で出合う桃源郷は,旅という日常を離れた世界の先に見えてくるものだ。(p6)
 七十歳近い年齢になったが,僕はこれからも旅に出る。つらくなったら,これまでつくってきた僕の桃源郷に逃げ込む。それが僕の財産のようにも思う。(p7)
 ルアンパバーンは音のない世界だった。はじめてその川岸に立ったとき,街の音をメコン川が吸いとっているような気になったものだった。(p18)
 以前,ネパールのアンナプルナのトレッキングルートを歩いたことがあった。登山道が整備され,登山隊や多くの観光客が訪れるようになった。山で暮らしていた人々は宿をつくり,生活は豊かになった。しかしいとつの村の村長さんがこういった。「富は貧困を連れてくる」
村に金を狙った窃盗団がやってくるようになったのだ。(p52)
 「遊ぶのは 楽しすぎて たまらない」
 沖縄の多良間島。島の中央を走る道沿いでひとつの看板が目を引いた。(p58)
 かつて未成年の喫煙を防ぐために,煙草の自動販売機の販売時間を制限していた時代があった。(中略)しかし沖縄では買うことができた。違法の自動販売機があったのだ。その自販機は電気が消えていて,一見,買うことができないように映ったが,硬貨を入れてボタンを押すと,コトッという音を残して煙草が受けとり口に落ちてきた。(中略)「沖縄は夜が遅いから,十一時以降は販売禁止になると不便だからさー」
沖縄生まれの知人は,そう説明してくれたものだった。(中略)本土のルールを軽くいなしてしまうような沖縄が好きだった。(p69)
 そこには本土への反骨精神などなにもなかった。(中略)島に流れる風に従っているだけのようにも映る。(p72)
 人はひとりの小市民として生きていくために,さまざまなルールを守っていかなくてはならない。それは社会人としての規範でもある。ときにそのルールは大きなストレスにもなる。そこから解き放たれたとき,ここは桃源郷ではないかと思えてくる。人が暮らす社会だから,沖縄にも独自のルールはある。しかしそこには本土の決まりごとが入り込まないエリアがある。旅人はその世界に触れたとき,圧倒的な開放感に包まれる。それが旅の醍醐味だと思っている。(p73)
 僕もどちらかというと話をしなくてすめばそうしたいタイプだ。(p76)
 ここ(沖縄)には,国家というものを鼻で嗤ってしまうような風土があった。日本と中国の狭間で生きてきた人々の遺伝子に刷り込まれた自由さ。それは憧れだった。ときにアナーキーなものに映る発想が僕には心地よかった。(p77)
 僕は学生の頃から,足繁くタイに通った。ときにこの国は桃源郷のように映ってもいた。その流れでバンコクに暮らしたのだが,その日々のなかでは見たくないものが見えてしまう。聞きたくもない言葉が耳に届く。(中略)タイの暮らしで学んだことは,その社会に深入りしないことだった。(p77)
 タイという国は,ときおり,その発散するエネルギーに辟易とすることがある。アメリカの西海岸をはじめて訪ねたときは,あまりに明るい日射しと,無駄に明るい人たちに気圧されてしまった。そこへいくとギリシャの街を歩いていると,心が落ち着いてくるのがわかる。ひとりでぽつねんと旅をするならギリシャだった。(p83)
 なぜ,ここまでの原色を選ぶのだろうか。それが民族の主張であることに気づくまで少し時間がかかった。彼ら(ラカイン人)は,コックスバザールという街では少数派だった。街を埋めているのは圧倒的にベンガル人が多い。そのなかでは民族を主張しなければ押しつぶされてしまう。原色での服装は精一杯の自己主張だった。(p106)
 路線バスの車掌は女性が多い。彼女らは傘もささずに外に出ていく。(中略)制服はぐっしょりと濡れ,パーマをかけた髪はちりちりになり,ぽたぽたと水が落ちるような状態で戻ってきた若い女性の車掌の顔が,うれしくなるぐらいに輝いているのだ。雨に打たれたことが,まるで楽しいことだったようにしゃきっとしてくる。(p134)
 (タイ料理と中国料理が融合したタイ中華の)特徴はあまり辛くないこと。そして(中略),味が混ざりあっていることだ。この味の融合はどういう効果を生むかといえば,早く一気に食べることができる。働く人々の昼食向けということになる。もうひとつのカテゴリーは純血タイ料理である。(中略)大きなポイントは,それぞれの味が交わっていないことだ。(中略)味が交わることなく,それぞれがおいしい・・・・・・。それが純血タイ料理の王道ということなのだ。(中略)そして純血タイ料理はかなり辛い。(中略)急いで食べることができないのだ。(中略)純血タイ料理は,ある意味,現代の時間感覚と合っていない。ゆっくりと時間が流れていた時代の料理といってもいいかもしれない。(p171)
 「私たち(チベット人)はものではないものを守って生きていますから」
 ガイドはなにを思ったのか,突然,日本語で僕に伝えた。(p195)
 チベットは貧しい(漢民族の)物乞いも惹きつけているが,心の空白を抱えてしまった豊かな中国人も呼び入れている。(p197)
 飛行機や列車,バスなどで移動し,新しい街に着く。そんなとき,必ずといっていいほど,それまで滞在していた街に戻りたくなる。当然の話だ。前にいた街は,多少なりとも様子がわかっている。(中略)新しい街では,旅の日々をゼロからつくっていかなくてはならない。(中略)新しい街に向かうということは,新たなストレスに晒されることだ。それを乗り越えていかないと旅は続かない。(p200)
 移動することが旅だとすれば,沈没とは旅へのテンションがさがっているということにもなる。旅というものは,それなりのエネルギーがいるものだ。(p201)
 シンガポールはストレスのない街だ。空港や繁華街の出口で客を待つ客引きもいない。タクシーに乗ると,運転手は黙って料金メーターのスイッチを入れる。騙されるという不安の中で,つい表情が硬くなってしまうようなことがない。(中略)しかしそれは一日しかもたない。翌日から,この快適さを維持する装置のようなものが目につきはじめる。(中略)二日目から眺めるシンガポールは,薄気味悪さが浮き立ってくる。(p204)
 僕は旅行作家という肩書きを持っている。旅はその国の経済状況や歴史,文化と無縁ではない。単純な旅を描いても,読者は納得してくれない。ひとつの国に入ると,アンテナを何本も立て,現行のテーマを探してしまう。猥雑なエネルギーが弾ける国を,その経済環境から読み解こうとする。旅をしているようなふりをしながら,テーマを探しているようなところがある。僕の頭は旅先で休まることがない。(中略)しかし僕も年をとった。若い頃から続けてきた旅のスタイルが,ときに重く肩にのしかかってくる。(p206)
 暑い空気のなかで,ほとばしるアジアのエネルギーに身を沈めなければ旅ではないといった頑なな思いあがりもあった。(p219)
 世界のなかでも最貧国に数えられていたバングラデシュは,逆に見れば援助受け入れ大国でもあった。(中略)自立を促すことの難しさは,現地の人々と直接話す立場では,いかに難しいことか・・・・・・。僕は痛感していくことになる。(p227)

2024年5月27日月曜日

2024.05.27 和田秀樹 『もうちょっと「雑」に生きてみないか』

書名 もうちょっと「雑」に生きてみないか
著者 和田秀樹
発行所 新講社
発行年月日 2017.07.24
価格(税別) 900円

● 著者が言う「雑になれない人」は日本人には多いのじゃないかと思う。ぼくもそうかもしれない。しかし,手抜かりやウッカリも相当やらかしてきたから,自分で思うほどには「雑になれない人」ではないかもしれない。
 と思ってしまうのも,「雑になれない人」の特徴か。

● 企業をはじめとする日本社会の同調圧力も,真面目さを作る要因になっているかもしれない。あるいは,見えない相互評価が隠然たる拘束要因になっていることも。
 そして,そうした評価というか,他者との関係性においてしか自分を認識できないこと。

● 本書で最も参考になるのは,「マシ」という考え方を持つことだと思った。只今現在において完全でなければ意味がないという考えを捨てること。
 それができるかどうかを決めるのは,性格ではなくて知性かもしれないとも思った。柔軟であるという意味での知性だ。

● 以下に転載。
 がんばりすぎて疲れを感じている人,あるいはその結果としてうつ病になったりする人には完全主義的な傾向があります。生き方が一直線なのです。(p3)
 完全主義な人は「くだらないこと」や「無駄なこと」を嫌う傾向があります。馬鹿話で盛り上がることもあまりないでしょう。上昇志向が強い傾向もあります。ひと言でいえば,息苦しい生き方ですね。(p4)
 わたしは長く受験生を指導してきましたが,はっきりと言えることがあります。雑な受験生のほうが結局は勝つのです。(中略)まじめな受験生は手を抜けません。試験問題と向き合ったとき,とにかく第1問から解こうとします。(中略)それがむずかしい問題や日が手な分野からの出題だとしても,あきらめることができません。(中略)でも,時間がどんどん過ぎていきます。(中略)雑な受験生は違います。解けそうもない問題や,苦手分野からの問題はさっさとあきらめてしまいます。(中略)結果はどうでしょうか?(p33)
 一つの仕事が続かないようでは,何をやっても中途半端になるだろうと考えてしまうのです。(中略)でも,そういった考え方をしてしまうと,一直線の人生しか思い描けなくなります。いまやっていることや,いまの自分の延長線上にしか将来を描けなくなります。それはそれで,堅実に見えても選択肢のない,危うい人生ということにならないでしょうか。(p46)
 たとえば強迫神経症の人です。手の汚れが気になって,一度洗い始めたら1時間でも洗い続けないと気が済まないような人は,家の中もさぞ清潔だろうなと思いますが,じつはばい菌だらけだったりします。本人は自分の手の汚れだけを気にして,それ以外の汚れには案外,無頓着なのです。これは,部分しか見えていないということです。(p47)
 雑になれるということは,たくましく生きていけるということです。いい加減なように見えても,ほんとうに大事なものを見失わないのが雑な人でもあるのです。(p48)
 「いまがすべて」という思い込みを捨てることさえできれば,どんな不幸や不運も人生の転機を教えてくれるものでしかないのです。(p77)
 人はあなたに期待していません。少なくとも,あなたが思うほどには期待していないことが多いのです。(p90)
 雑になれない人が思うほど,周囲の人間は無力ではありません。安心して任せていいし,頼っていいことがたくさんあります。(p92)
 行き過ぎた長所は短所になってしまうのです。(p100)
 じつは,大正時代というのは日本人がぜいたくに憧れた時代でもありました。「ぜいたくは敵」が登場するまでの日本は,ぜいたくに罪悪感を持つ人は少なかったのです。(p102)
 日本は明治時代から昭和の初めまで,学校での体罰は禁止されていたようです。それが守られたのも,当時の教師が師範学校を出たいわば知的エリートだったからだといいます。ところが昭和10年代になって,軍事教練が始まるようになると教育の現場に軍人が入ってきます。そこで体罰が当たり前のように繰り返されたのです。(p103)
 「いままでの苦労はなんだったのか」という完全主義のつまらなさを,AIが教えてくれる時代になるような気がします。(中略)そうなってくると,もはや人間の取り得は雑になれることしかありません。(中略)真面目な人間ほど,AIの時代に適応できなくなるような気がします。(p112)
 遊ぶために働いているのですから,せめて休日ぐらい,頭の中から仕事のことは消し去っていいのに,それができません。「働くために休む」という考え方から抜け出せないのです。これは,ほんとうに気が休まるときがないということです。(p117)
 「そんなことして何になる」と言い出せば,目的のないすべてのリラックスは無意味になります。温泉でゴロゴロしたって何にもなりません。時間とおカネのムダです。(中略)そういうまじめさの裏には,やはり刷り込まれた道徳観や価値観が潜んでいるような気がします。(中略)でも,ほんとうにAIの時代になったら,そういった刷り込まれた道徳観や価値観こそが重荷になるし,そこから抜け出さない限り,苦しい生き方しかできなくなります。(p118)
 雑になれない人に気づいてほしいことがあります。自分がまじめすぎるだけで,相手も周囲も口で言うほどまじめではないし,真剣でもないということです。(p123)
 かりに仕上がりに不満があったとしても「できないよりマシ」と喜んでいいのです。ところが完全にこだわってしまうと,欠点ばかりが目につきますから,「やらないほうがマシだ」となります。(p129)
 雑になれない人がマシでは満足できないのは,いまだけを見ているせいもあります。「いまがすべて」と考えると,いま50パーセントなら全然,ダメなのです。(p130)
 マシという考え方は,動く弾みをつけてくれます。(中略)これは,「とりあえずやってみよう」という積極さにもつながってきます。失敗したらそのときのことと考えて,ダメでもいいからまず動いてみようという考え方です。(p136)
 雑になれないひとほど一直線の人生を描いてしまうと書きましたが,その理由は決められたルールに乗ってしまうからでした。(p137)
 人生の目的は幸せになること,楽しく生きることというのはだれでも気がついているはずです。はたして完ぺきを期すことが,そういういちばん大切な目的をかなえてくれるのかどうか,雑になれない人にはゆっくりと考えていただきたいと思います。(p149)
 (雑になれない人は)とにかく,自分のモノサシを持ち出さないと気が済まないのです。相手の行動や考えがそのモノサシに合わないときには,どうしても冷たい言い方になってしまいます。そのことに,本人はなかなか気がつかないのです。(中略)まず最低限,人にはそれぞれのモノサシがあることを受け入れてください。あなたがまじめで頑張り屋さんなのは,みんなが認めています、つまり,周囲の人はあなたのモノサシをとっくに受け入れているのです。(p162)
 子どもには子どものモノサシがありますね。(中略)きちんとした子,まじめな子に育てば親は満足するかもしれませんが,逆にその子の長所や得意なことを伸ばせないままになってしまう可能性もあります。(p167)
 雑になれない人ほど,雑になれない人の餌食になってしまう可能性があります。そのことにも気がついてください。(p173)
 人と人は弱みを見せ合いながら生きていきます。うわべはどんなに強気を装っていても,長くつきあえる関係というのは弱さを見せ合う関係でもあるのです。(p178)
 ここで最後の,雑になれない人の特徴を書きますが,じつは臆病な人ということもできるのです。臆病だから手を抜けないし,負けちゃいけないと思ってしまうのが雑になれない人です。(p182)

2024年5月17日金曜日

2024.05.17 和田秀樹 『60歳からはやりたい放題』

書名 60歳からはやりたい放題
著者 和田秀樹
発行所 扶桑社新書
発行年月日 2022.09.01
価格(税別) 880円

● これまで著者が,「70歳・・・・・・」「80歳・・・・・・」と年齢を冠して刊行した多くの著作と内容は被っている。出す本,出す本がメスとセラーになるのを横目で見ているだけというわけにも行かず,多くの出版社が著者の本を出そうとした結果のことかと思う。

● とはいえ,以下に転載。
 日本人は予期不安と呼ばれる「起こっていないこと」への不安を抱きがちです。しかし,多くの日本人は,不安を抱いているのに何も対策を取らない。その結果,余計に不安が高まってしまうのです。では,この悪循環を断ち切るにはどうしたらいいのでしょうか。それは,「最悪の事態」を想定しておくことです。(p16)
 日本人は,「起こってほしくないこと」を,「起こらないこと」として片づけてしまう傾向があり,その結果,不安を放置しているがゆえに起こる最悪の事態が,頻繁に起こってしまっているのは事実です。(p17)
 浴風会に勤務していた際,相当な高齢なのに常にアクティブで若手に慕われている某現役政治家の脳のCT画像を見たことがあります。その方の前頭葉自体は「認知症なのでは」と思うレベルで萎縮していましたが,逆に考えると,脳が萎縮していても使い続ければ脳の機能は衰えないのだという大きな根拠を得たと感じました。(p27)
 医師の平均寿命は一般の人よりも低いといわれています。それは,医師の言うことをうのみにしていても,長生きはできないことの証明です。(p31)
 脂肪には脂肪を燃焼する作用があるので,脂肪を完全に絶ってしまうと,体内の脂肪を燃やせず,接種した脂肪を蓄積する一方です。(p41)
 人間がおいしいと感じるもの。それは,甘いものや脂肪分があるもの,うまみ成分(アミノ酸)が含まれているものなどです。なぜ人間がこのような食べ物をおいしく感じるのか。それは,生物進化の過程で「体に必要なものはおいしく感じるように進化しているから」です。(p47)
 農業中心で誰もが激しい労働をしていた時代よりも,現代のようにホワイトカラー人口が増えてからのほうが,外見も若返っている上に,寿命も延びています。体は使い続けるに越したことはないのですが,屋外で紫外線を浴びて激しいスポーツをするよりも,適度な散歩や自宅でできる簡単な筋トレ程度が望ましいと考えています。(p66)
 前例踏襲をする限りは,どんなに難しいことをしても前頭葉を使ったことにはなりません。(中略)では,どんな人が前頭葉を使っているのかというと,他人と違う意見を言う人です。(p71)
 片付いている部屋が好きな人もいれば,少し雑然としてるほうが落ち着く人もいます。それは本当に人それぞれです。今の環境が自分にフィットしていると思うのであれば,あえてそれを変える必要はありません。(p75)
 高齢者が感動できる景色や料理,芸は本物です。シニア世代が喜ばないものを「若者の感性がわかっていないから」と言ってしまうのは,非常に本末転倒なこと。(中略)だからこそ,せっかくの感性を雑多なコンテンツに費やすのはもったいない。ぜひ,様々な “本物” のグルメや芸に触れて,その感性を十分に楽しませてほしいと思います。(p80)
 「何が一番頭を使っていることになるのか」というと,最も効果が高いのは他人との会話です。(中略)声を出すこと自体にも,ボケ防止の効果があるように感じます。(p112)
 認知症予防として,何をすればいいのでしょうか。その一番の対策は「楽しいことをやる」ことだと思っています。楽しいことをやればやるほど,脳にはプラスの効果が伝わります。(p114)
 「人と交わる機会がなくてかわいそうだ」「独居は孤独でつらいのではないか」などというのは,世の中で多様性を認めない人々の思い込みだと私は思います。(p118)
 ガンは治療をすると非常に苦しい病気ですが,治療させしなければ,死ぬ数ヶ月くらい前までは元気に過ごす事ができます。(p130)
 60代で「ガンで余命はあと1年ほどです」と言われた場合,治療でどんなに頑張っても,おそらく余命は2年程度しか持ちません。1年を2年に延ばす治療となると,抗ガン剤は必ず使われるでしょう。(p131)
 結婚関係を続けるための一つの指標として,夫婦の間にどれだけ会話があるかという点が挙げられます。(中略)また,定年退職したあとも,子ども抜きでふたりが出かける関係を築けているでしょうか。(p136)
 60代以降は「性格の先鋭化」が顕著になります。「実はひとりのほうが気楽だった」という人は,もっとひとりを好むようになります。だからこそ,60代以降の人間関係は「したい人だけすればいい」と思います。(p149)
 言葉を選ばすにいうと,日本は,お金持ちであればあるほどに,子どもが「バカ息子」「バカ娘」になりやすいシステムが残っています。お金があるほど,子どもをエスカレーター式の大学の付属校に幼少期から入学させ,大学まで受験を知らずに育てるケースが非常に多いのです。(p167)
 「年を取ったら物欲がなくなる」という方もいますが,資本主義社会にいて消費に参加しないのは,発言力がなくなるのと同じこと。(p175)
 今は要介護認定されれば,介護支援を受けることができます。つまり周囲のサポートがなくてもなんとかなるので,「嫌われてもいい」と開き直ることができる時代です。(中略)自分を押し殺してまで,その共同体にしがみつくことが本当に大切でしょうか。(p186)
 物事を楽しめる体力や脳の機能が生きているうちに,様々なことを思いっきり楽しむ,これは終活よりも大切なことです。(中略)「年甲斐もなく」という言葉さえ忘れてしまえば,世間体を気にせずあらゆることをずっと楽しんでいていいのです。(中略)年甲斐もないことは,むしろ脳の老化予防にも役立つことが多いのです。(p191)
 他人と比べている限りは,いつまでも生きづらさや苦しさから逃れることができません。(中略)「他人よりも優れている人がえらい」という価値観は,もう60代になったら捨てる準備をしてください。できることはオンリーワンでよいのです。(p197)
 「できること」はできるだけ維持し続ける一方で,「できないこと」を無理に「しよう」とする必要はないのです。(中略)どんな人でも歳を取れば,当然「できないこと」は増えていきます。ですので,「できないのは当たり前」と割り切る姿勢が大切なのです。(p198)