著者 山口正介
発行所 講談社文庫
発行年月日 2013.12.13
価格(税別) 530円
● 池波正太郎と山口瞳の比較論というのか。あるいは,二人の共通点や相違点から渡世の勘所を炙りだそうとする試みか。著者は山口瞳の息子。
● 若い頃に,山口瞳の作品は全部読んだ。小説も,「週刊新潮」で超長期連載となったエッセイ「男性自身」も,紀行文や対談集も。
池波さんの作品も食や旅に関するエッセイはだいぶ読んだ(小説は,じつはまったく読んでいない)。
というわけで,少し懐かしくなって,本書を読んでみた。
● 「あとがき」で著者が二人の違いをまとめている。
料亭なり旅館のお座敷に二人がいるとすれば,池波さんは旦那であり,瞳は幇間であったろう。池波さんはお座敷で,きちんと旦那として振る舞うことができたひとだ。(中略)瞳のスタンスは,お店の側から見て嫌は客は駄目ということであり,お店の人に嫌われるようなことは止めましょう,ということになる。(中略) これが池波さんの粋であり,瞳の洒脱であった。(p227)● ほかにいくつか転載。
座持ちがいいというのは我が家では評価が高いのだった。つまりお座敷には太鼓持ちが必要だという発想であった。(p25)
池波さん流の旅にはもう一つ,一般の旅人とは大きく違うところがある。当てずっぽうに出かけた寂れた村落でさえ旅心を満喫出来るのは該博な知識があるからだ。「食堂一つない」と書く小さな港町に,栄光の時代があったのを知って歩くのと,知らないで通りすぎるのでは雲泥の差だ。やはり,なにごとにつけても勉強は必要だ。(p39)
瞳も京都に好んで出かけたが,まず神社仏閣に立ち寄るということをしない。名所旧跡に興味がない。土地土地の美術館などにも寄らない。だいたい歴史というものが分かっていない。だから古刹の由来が分からない。分からないから面白くないので行かない,となる。(p43)
池波さんは小さなときから癇性で,ということは潔癖病か,銭湯でも上がり湯で何度も身体を洗わないと気が済まない質だったという。これは瞳も同じであった。(p40)
どうも瞳の発想には競馬でいえば連複(一着,二着を当てるが,その着順は問わない)や麻雀の両面待ちということが多く,別の言葉でいえば二股をかけてリスクを少なくして効果をあげるという発想になるらしい。(p109)
瞳の場合は原稿用紙を前にしたときは全て,指定された原稿の枚数分の文章がすでに頭の中で出来上がっているようだ。最初の一文字から書き出して,最後の行の最後の升目にきちんと句点を書いて終わる。だから下書きをしないし,清書という作業もない。(p132)
落ちたからといってガックリはしない。もう,すぐその日から仕事ができる。その考えでいかないと,時間というものがロスになってしまう。なぜというに,ぼくらと一緒に出て行った連中が,一回落ちると二年ぐらい書けないで,みすみす才能がある人がずいぶん討死をして,ついに世に出られなかった人が多いんだよ。(池波正太郎 p133)
俳優は,見物席からでは想像もつかぬほどのスピードで頭上から降りて来る幕の彼方から湧き起る拍手に酔う。このとき,俳優の脳裡には脚本も演出もない,ただ,自分の演技への陶酔があるのみだ。それでよい。それが俳優の生甲斐なのである。(池波正太郎 p154)
男のお洒落の中でも重要な時計,眼鏡,万年筆,ライターなどはどうなのだろうか。(中略)池波さんも,瞳も,この点に関しても禁欲的で実用一点張りである。というよりは男のお洒落は実用をもって旨とすべし,という堅い信念があるようだ。(p172)
しかし,まずかったな,と言うのは一度だけ。こうしたとき,変にこだわったり悔やんだりすることはなかった。やってしまったことはやってしまったことです,という清さ潔さがあった。(p174)
瞳の嗜好には,その母である静子の趣味について書かなければ理解できない一面がある。なにしろ静子は,篆刻家で陶芸家だが,美食でも有名な当代一の趣味人といわれた北大路魯山人と互角にやりあうとうひとだった。(中略)この母が一流を好んだ。お稽古事は最高の名人に習わなければ駄目だということで,本人も長唄は昭和の大名人と呼ばれた四世,吉住小三郎に師事し,彼の与えた最後の名取りとなる。 「ダンディズムとは,何でも手に入ってしまうひとが持つ虚しさ」という至言があるが,瞳のシニシズムとダンディズムにも同様なものを感じる。(p176)
外食では単に食事をしているわけではない。職人の技術に対価を支払っているのだ。外食の贅沢とは,自宅ではおいそれと出来ない料理をいただくということなのだ。(p206)
常連扱いから家族扱いになる,次第にお店の人との距離が縮まり,遠慮がなくなってくる。客が立て込んでくると,注文したものが後回しになったりする。そんなとき瞳は「この辺が引け時」と考える。つまり行かなくなる。いくら親しくなったとはいえ,客は客,である。そこには自ずから,越えてはいけない一線というのがあり,遠慮があるべきだ。(p206)
あえて反論しないのも瞳流であった。“御派が違う”というような言い方をしていただろうか。考え方の基本が違うひとと話し合ってもしようがない,ということだろう。(p208)
だいたいにおいて,寿司屋での立ち居振る舞いの礼儀作法というものには,すこしでも美味しいものを安く食べたいという下心が少なからずあるように思える。そこを“粋”というオブラート(これも死語だろうか)で上手くくるむところに妙味があるようだ。(p213)
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