著者 出口治明
発行所 新潮社
発行年月日 2016.01.15
価格(税別) 1,400円
● 全2巻。先に「Ⅱ」を読んでから「Ⅰ」を読んだ。そうした理由は別にないが。
著者は経済人(現在は立命館アジア太平洋大学の学長)であって,歴史の研究者ではない。が,驚くべき博覧強記。こんな細かいことをどうやって知ったのだ,と嘆息すること多数。
量は質に転化するという,これは見事な好例。
● 以下に転載。
歴史に現れる出来事は,眼の前の現象だけを分析しても理解できません。全体がわからなければ,部分がもつ意味もわからないからです。つまり人間の歴史のなかに,日本史や中国史といったものが孤立して存在しているわけではありません。人間にはたったひとつの歴史があって,その大きい枠組みのなかに,それぞれの地域の歴史があるのだと考えます。(p2)
ここで大事なことは,未知の土地へ旅するときには,海沿いに進むほうが容易だということです。(中略)人間の歴史のなかには,古くから海や河川のルートがありました。「山は隔て,海は結ぶ」のです。(p22)
狩猟採集生活から農耕牧畜社会に変わると,食料が過剰に生産されるようになり,その食料は貯蔵されて富を生み,交易にも用いられるようになります。そこから貧富の差が生じます。生産力の拡大は人間社会に,食料生産に直接携わらない人々を誕生させました。寄生階級です。王や神官などの支配層や商人たちです。寄生階級は生産をしないので,田園や牧場に住む必要がありません。彼らが生活する場として都市が生まれます。都市とは基本的に寄生階級の住む所です。(p24)
すべての人間を支配すると,次はすべての生き物を支配しようと思い立ち,動物園をつくる。さらに進むと過去もすべて支配したいと思い,文物の収集へと至ります。(p32)
食料や生活に必要なものが蓄積されると,人間は交易を始めるようになります。なぜかと言えば,それは自分の生きている生態系だけではこれ以上発展しない(生態系が貧しい)ことを本能的に理解していたからです。(p33)
現代のヨーロッパが直面している難民にも似た問題ですが,歴史を動かしてきた大きな原動力は人々の移動なのです。(p47)
地理的条件も気候条件も違う広大な地域を統一しようとすれば,統治技術が相当進化していないと不可能です。マウリヤ朝のあと,一六世紀のムガール朝までインドに統一国家は生まれませんでした。(p72)
始皇帝は,古代ではおそらくダレイオスと並ぶ極めて有能な名君でした。仕事が大好きで卓越した才能の持ち主でしたから,あらゆる改革を行いました。(p73)
最近では,秦と漢を併せて「秦漢帝国」と呼ぶ学者が増えました。なぜそう呼ぶかといえば,劉邦は何もしていないからです。始皇帝の作った枠組みをそのままもらってしまう。(p75)
人間が考える時間には二つの観念があって,直線の時間と回る時間なのですが,直線の時間には始まりがあって終わりがあります。でも回る時間には終わりがありません。すると,人間も次々と生まれ変わるわけです。この輪廻転生と因果応報が結びついたら,どうなるか。(中略)ここから仏教の思想までは,もう一歩です。(p81)
中華思想とは,結局,漢字の魔力だったのです。漢字が広まって初めて周の歴史を読んだ人が,中華は立派であると勝手に思ってしまった。漢字に書かれていたことがひとつの権威になっていったのです。(p84)
イオニアの自然哲学者たちの興味は,外界にありました。ところがソクラテスは,初めて人間の内面に考察を向けました。「汝自身を知れ」 ソクラテスによって哲学が転回したのです。(p86)
プラトンは,すべての事物にはイデアという原型があると考えましたが,彼の二元論は,輪廻転生からヒントを得ているのです。東西の文化交流の一例です。(p87)
こうして中国の思想界は,本音は法家,建前は儒家,知識人は道家,という棲み分けが完成しました。これが結果的に中国を安定させます。国は有能な官僚が治め,庶民は儒教で親を敬い子供を大切にして,一所懸命働き,みんなで仲良く国を守る。知識人は自由に生きてくださいというガス抜きもあるので,うまく収まるわけです。(p95)
旧約聖書の中でいちばん古い物語は『モーゼ五書』ですが,実はこの部分がいちばん新しいのです。(中略)家系図を書くときに,父母から祖父母へと遡るのと同じで,古い祖先の話は最後に(新しく)書かれるのです。(p97)
唐と新羅の連合軍に白村江で敗れた倭国の持統天皇と藤原不比等が,『古事記』や『日本書紀』を創作して,大唐世界帝国に対抗して倭国のアイデンティティを守ろうとしたのです。例えば初代天皇神武という存在が,ここで新しく創作されました。聖書の創世記と同様に,いちばん古い物語が,実はいちばん新しいのです。(p98)
「生きる不安」などというものは,生きることそのものに苦労しながら,毎日必死に働いている庶民には無縁です。仏教はブルジョアジー向けの宗教なのです。(p101)
もともと人類のコミュニケーションでは,話す人の表情であったり,歌や踊りであったり,また絵であったりと,感情に訴えることが大切にされていました。しかし文字が生まれると,その情報量が圧倒的に多いので,言語や文字がコミュニケーションの主力となり,歌や舞踊は,演劇,音楽や舞踊の形で伝統芸能になっていったという歴史があるのです。(p116)
イスラム教の創始者ムハンマドは商人でした。商人がつくった宗教ですから,合理性を重んじたのです。無駄なことはしなかった。この寛容さがスペイン,北アフリカからインドに至るまで,イスラム教が広く受け入れられた理由です。(中略)この寛容さは,キリスト教とは異質なものです。(p147)
太宗を始めとして唐の皇帝たちは,遊牧民の鮮卑の出身です。ですから,万里の長城はつくりませんでした。同じ遊牧民同士,共存関係を求めていたのです。(p154)
仏教が都市のインテリの信者に寄りすぎて,農民や貧しい人々がヒンドゥー教に流れてしまい,それを防ぐために大乗仏教が生まれたのでした。ところが今度は,それに対する不満がお金持ちやインテリ層から出始めました。平たく言えば,「観音さま,ありがとう」とか,「南無妙法蓮華経」だけでは物足りない。「俺たちは,もうちょっと賢いで。もっと高尚な教えはないのか」とインテリたちは考えるわけです。これも無理からぬことです。そこで考えらたのが密教です。(p156)
天皇がいろいろな豪族の娘と結婚してしまうと,次から次へと外祖父が出てきて,外戚の専横につながりかねません。それを防ぐために,天皇家は皇族と結婚するか,特定の豪族としか婚姻関係を結ばないようにしたのです。蘇我氏はおそらく,そのために選ばれた一族であったと思われます。(p163)
平城京には,白村江で滅びた百済の王族を始めとして,唐からの来訪者,唐を経由してきたペルシャ人,海からは南アジアに人々などがやってきて住みつき,人口の七割が外国人であったという説さえあります。東大寺の大仏開眼供養の導師はインド人でした。主催者は孝謙女帝です。この時代の日本は,グローバルに開かれた国だったのです。(p164)
キリスト教もイスラム教も信じている神様は,同じアッラーであり,YHWHです。セム的一神教に共通する,独占欲が強くて嫉妬深い神様です。(p171)
イコノクラスムスがなぜローマ帝国では可能だったかといえば,東方は文化の高い地域だったからです。かなりの数の民衆は字が読めたので,イコンがなくても布教は可能でした。しかし西方,ローマ教会の担当地域は貧しく,ほとんどの民衆は文字が読めません。ローマ教会の宣教師たちは歌や紙芝居がないと,イエスの物語や教えを伝えることが難しかった。(p172)
ところが密教はチベットに行きました。わざわざヒマラヤ山脈を越えて行ったのです。なぜかというと,インダス川のあたりはすでにイスラム圏になっていたからです。異教徒よりは山越えの方がまだ楽なのです。(p185)
日本にも密教は入ってきました。しかし,日本に伝わったのは密教の一部分だけでした。密教がチベットを経由して中国に入ってくるまで,時間がかかったのです。だから,最澄と空海が持ち帰れない経典がたくさんありました。(p186)
唐は本来,世界帝国としてその他の宗教にも寛大でした。しかし,中唐から晩唐へと国勢が衰えるにつれて,閉鎖的になっていきます。(p194)
また(開封の)劇場では,包拯という裁判官がいろいろな事件を解決するお芝居が人気を博していましたが,実は江戸時代の大岡越前の話は,ほとんどこの芝居がネタ本になっていたのです。(p218)
インドでは廃れていた上座部仏教がセイロン島に残っていて,この最も古い仏教の教えが,海沿いにビルマに入ってきたのです。こうしてパガン朝に入ってきた上座部仏教は,タイのスコータイ朝に伝わり,カンボジアからラオスへと広がります。東南アジアには上座部仏教という,いわばいちばん古い仏教が,いちばん新しく伝わって現在に至っているのです。(p226)
古来,政権を強化しようとする改革は,貧富の差を嫌い,中間層を育てようとします。大商人や大地主が市場や土地を独占していたら,経済はうまく回りません。(p228)
王安石の合理主義が最終的に姿を消すのは,南宋の時代になって,孔子廟から王安石が取り除かれ,代わりに朱熹が入ったときです。(中略)進歩の時計の針が逆回転してしまったのです。(p231)
イングランドはアングロサクソンの国,と考えてしまいがちですが,すでに一一世紀には,支配層のほとんどはノルマン人になっていたのです。この国はこれからもどんどん変わっていくのですが,いずれにせよ,アングロサクソンの国というのは半ば伝説の領域なのです。(p244)
嫉妬深い神を奉じるセム的一神教にとって,異教は絶対悪となりやすく,それに対していくら残虐な行為を行っても,すべては赦されるという錯覚が生まれやすいのです。十字軍はそのひとつの典型であったと思います。(p255)
この戦い(イスラエル北部ヒッティーンの戦い)でサラディンは,十字軍に対して虐殺を行わなかったばかりか,キリスト教の聖地にも一切手をつけませんでした。この知性的な態度に,十字軍国家側のテンプル騎士団やヨハネ騎士団も,脱帽せざるを得なかったと伝えられています。(p268)
そして「耳聴告白制」という制度を確立したのです(一二一五)。教会内部に特別のスペースが設けられ,信者たちは,司教や司祭を顔を合わせることなく,自分の悩みや罪について相談できるようになりました。(中略)この制度は,信者たちに歓迎されました。秘密を一人で心に秘めておくのは誰でもつらいものですから。 ところで,一人ひとりの信者は,自分ひとりのこととして告白するわけですが,みんなの告白を統計的に分析すると,その村や都市や国全体で,何が起こっているかがよくわかってきます。(中略)つまり,耳聴告白を集大成すれば,高度なスパイ網として機能するのです。ローマ教会は,この制度を活用します。(中略)豊富な情報を手に入れることで,ローマ教会の政治力は飛躍的に向上しました。(p288)
モンゴルの戦争は,常に周到な準備を行ってから進めたようです。理想は戦わずして相手を屈服させることでした。そのためには現地の情報,なかでも精緻な世界地図が必要です。(中略)驚くべきことには,どうやらモンゴルはポルトガルの希望岬到達の二〇〇年以上も前に,アフリカ大陸の姿をほぼ正確に把握していたようです。(p317)
ロシア人は,タタールの支配下で車を引かされている牛や馬のように,重税と過酷な支配に苦しめられたと言い伝えられてきたのですが,それは一九世紀ロシアのナショナリズムがつくりあげた神話です。モンゴルの支配はイスラム帝国と同様に,帰順した人々には極めて寛容でした。誰がロシアの農民たちを苦しめたかといえば,バトゥの支配下に入り,直接に農民を管理していたロシアの貴族たちでした。(p323)
クビライは海外の事情に通じており,日本と交易をするつもりで使者を送りました。ところが鎌倉幕府は,国際情勢も外交上の儀礼も知らずに使者を斬ってしまった。それが文永の役の発端でした。(p330)
クビライは徹底的に能力を重視して,思想,心情とは関係なく,有能な人をひたすら登用しました。彼はダイバーシティの権化のような人でした。(p331)
クビライが七二歳のとき,東方三王家の乱が起こりました。(中略)首謀者である三王家の筆頭家の当主ナヤンは二九歳の若者でした。彼にしてみれば,クビライを皇帝にしたのは,自分たちだ。そろそろ若い世代に譲ってもいいんじゃないかと考えて反乱を起こしたのです。(中略)しかし,ナヤンは,なんの苦労も知らないお坊ちゃんです。まず前祝に大宴会をやって寝てしまいます。(中略)クビライは反乱の一報を聞くと激怒して,すぐに戦象に乗ると駆け出しました。驚いた親衛隊は一斉にクビライの後を追います。(中略)勝負は瞬時につきました。(p336)
一四世紀は,寒冷化とペストの世紀でした。(中略)ヨーロッパでは人口の三割以上が死に,その人口は一八世紀まで戻ることはありませんでした。しかしペストによって死と直面した人間が,宗教的観念に打ち勝って,積極的な人生観や人間讃歌を生み出します。これこそがルネサンスを生み出す導火線となったのです。(p339)
一三一二年,サブサハラのイスラム国家マリ帝国ではマンサ・ムーサが即位しました。(中略)一三二四年にはマッカ巡礼を思い立ち,その途中にカイロを訪れました。ラクダに大量の黄金を積んできたムーサは贅沢三昧を行ない,大量の金塊がマーケットに放出されました。その結果,エジプトの金相場は大暴落しました。(中略)のちにエンリケ航海王子がアフリカの西海岸を南へ航海したのも,このマンサ・ムーサのカイロでの大散財が大きな動機になってしました。(p353)
後醍醐天皇が足利尊氏と別れて樹立した南朝は吉野の山奥にほそぼそと永らえていた弱小政権で,統一という言葉が適切かどうかは極めて疑わしいものがあります。おそらく朱子学の影響を受けて,南朝が正統政権とされてしまったことにすべての原因がありそうです。(p379)
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