2018年6月17日日曜日

2018.06.17 伊集院 静 『さよならの力 大人の流儀7』

書名 さよならの力 大人の流儀7
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2017.02.27
価格(税別) 926円

● タイトルの「さよらなの力」とは,次のようなもの。
 苦しみ,哀しみを体験した人たちの身体の中には,別離した人々が,いつまでも生きていて,その人の生の力になってします。だからこそ懸命に生きねばならないのです。(p187)
● 以下にいくつか転載。
 生きることが哀しみにあふれているだけなら,人類は地球上からとっくにいなくなっているはずだ。では別離は私たちに何を与えてくれるのか。(p3)
 文章は才能で書くものではない。文章は腕力で書くものである。腕力とは文字そのまま腕の力である。つまり体力が文章を書かせるのである。体力の素は,気持ち,気力である。(p45)
 私に言わせると,金で買えるようなものは碌なものではあるまい,となるが,そう言っても理解できまい。(p47)
 少しとぼけて生きることは大切である。(p56)
 職業というのは,要は覚悟である。(p56)
 私は自分の過去を振り返り,あれこれ思ったことは一度もない。これは性格なのだろう。亡くなった父親にも,そういうところがあって,昔話をしている父親を見たことがない。(p66)
 芥川龍之介も川端も,なぜいまひとつ作品を認め切れないかと言うと,自死には彼等が自分を特別な存在と信じ込んでいる傲慢さがうかがえるからだ。(p72)
 私は修羅場を目の当たりにすると,ひどく冷静になる。それはたぶんに私が少年の頃,何百回と相手に殴られて来たからだと思う。(p73)
 私については,その野球の時以外は日記を書いたことはない。だいたいが,私は過去でも,朝から起きたことでも,それを覚えないどころか,ほとんど興味がない。自分が書いた小説を読み返したことは一度もない。アラが目立って,情ないやら,腹が立つからである。(p93)
 種田山頭火は,或る冬,自分の日記を焼き捨てたらしい。 焼き捨てて 日記の灰の これだけか 私はこういう俳句を詠む男が好きでない。わざわざ焼き捨てたことを書くか。そこの私の嫌悪するナルシズムを感じるのだ。(p94)
 見渡す限りの人が,どうしようもない人と決めつけたものが,どうにかなるはずがない。法を犯してない,ということよりも,どうしようもない奴だ,許せない,と言う感情が,法を越えた。(p109)
 武器というものは,昔から机上の空論が大半で,実にバカバカしいものに人件費が使われ,原題も同様で,まずミサイルを撃ち落とすことはできない。少し考えれば,それが常識なのはわかる。(p118)
 人は,他人が自分と同じ哀しみを抱いていると思った時,初めて自分が抱いた同じ哀しみを静かに打ち明ける。(p154)
 弟,前妻以外にも多くの友を半生の中で亡くし,年齢の割にはそれが多すぎて,私のほうに問題があるのではないかと考えたこともあります。考え続けた結果,「いつまでも俺が不運だ,不幸だと思っていたら,死んでいった人の人生まで否定することになってしまう。短くはあったが,輝いた人生だったと考えないといけない」と思い至ったのです。というより,そうするしか生きる術がなかった。(p182)
 たとえ三つで亡くなった子どもだって,その目で素晴らしい世界を見たはずです。だから「たった三つで死んでしまって可哀想だ」という発想ではなくて,「精一杯生きてくれたんだ」という発想をしたい。そうしてあげないと,その子の生きた尊厳もないし,死の尊厳も失われてしまうのです。(p186)

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