2019年2月24日日曜日

2019.02.24 橋本 治 『福沢諭吉の「学問のすゝめ」』

書名 福沢諭吉の「学問のすゝめ」
著者 橋本 治
発行所 幻冬舎
発行年月日 2016.06.10
価格(税別) 1,200円

● 40年前に岩波文庫の『学問のすゝめ』を買った。もちろん読もうと思って買ったわけだが,読まないままこの歳になってしまった。
 で,先に本書を読んだ。何だか,『学問のすゝめ』も読んだような気分になった。っていうか,『学問のすゝめ』は読まなくてもいいんじゃないかと思っている。

● ところで。橋本治さんの本を読むのは,たぶん,今回が初めてだと思う。流行遅れ?

● 以下にいくつか転載。
 私は明治時代の文学に首を突っ込んでいて,明治時代の人間の「分かっていなさ」加減を肌身で感じていた(p4)
 私には「価値の定まった有名なもの」が,本当はどんなものなのかを知りたいという衝動があるので,自分が読んでいないものでも平気で向かって行きます。(p4)
 明治政府は別に,「寺をぶっつぶせ,仏像を叩き壊せ」という命令を出したわけじゃありません。ともすれば,仏教に比べてマイナーになりがちだった神社と神道の地位をアップさせようとしただけです。(p17)
 仏教によれば,「神」というのは地域の土俗信仰の神で,人を庇護したり祟ったりします。でも仏教は「そういう神に振り回されるな」という考えを持った哲学なのです。(p20)
 それ以前の学問の主流は,漢文のテキストを読んで身につけ,自分の身分にふさわしい「教養」とすることでした。それは,「学べば終わり」で,「それを基にして自分で考える」ということを必要としません。(p52)
 「これさえ学んでおけば大丈夫」というのは,学問の自由や思考の自由を奪うことでもありますから,そんな学問に従事していても,「変わらないシステムを変わらないままに守り続ける捨石」になるようなものです。(p67)
 「実学か虚学か」を判断する基準は,「社会の役に立つかどうか」ではなく,まず人の心に納得を呼び起こすかどうかで,「社会の役に立つかどうか」はその次です。(p68)
 江戸時代の人間にとって,最大の出世あるいは最大の栄誉は,「主君」である殿様や幕府によって認められ,そのお誉めに与ることです。(中略)評価の基準は自分にではなくて,自分が従うべき「主君」や「主人」が握っています。《独立》とは,その従属状態から抜け出すことです。(p76)
 人間は,一人の頭で考えてしまうから,「自由」は簡単に「わがまま」になってしまう。(p101)
 人はどんなシチュエーションで「蒙」になるのかは分かりません。いつだって「蒙」になってしまう可能性はあるのです。そして,困ったことに,それを認めるのがいやなのです。だから「啓蒙」をしようとする相手に対して,「上から目線nいやな奴」という拒絶をしようとします。(中略)そういう人は,「バカな自分に分かるような命令」だけを受け入れて,「自分が“気に入った”と思う命令」に対しては「命令」と思わず,「自分の考えで選び取った」と思うのです。(p150)
 民主主義がなぜだめかというと,理由は簡単で,「民主主義はバカばっかり」になってしまうからです。(中略)はっきり言って,頭のいい人よりバカの方が多いのですね。つまり,民主主義を成り立たせている人間の多数派はバカで,なにも分からないバカが意思決定のイニシアティブを握ってしまうことが多々ある(p176)
 福沢諭吉の「バカ嫌い」はとんでもなく凄まじいもので,彼の啓蒙への情熱は,「この世からバカを一人残らず葬り去ってやる!」というところに由来しているのではないかとも思えてしまいます(p194)
 福沢諭吉は東京府会議員になってその副議長に選ばれますが,これを辞退して,ついでに議員の方もすぐ辞めてしまいます。たぶん「バカばっかり」がいやだったんでしょう。(p220)
 さっさと早口で説明する福沢諭吉は,「いいですね? 分かりますか?」というような立ち止まり方をしてくれないのです--という風に,我々はうっかりすると思ってしまいます。しかし,それはもちろん私達の間違いで,早口なのは福沢諭吉ではなくて,我々の法なのです。(中略)この当時の読み手はスラスラなんか読みません。考え考え読みます。(中略)福沢諭吉もその「読み手のスピード」に合わせて書いたのです。ゆっくり考えながら読むようなものを「さっさと読む」のスピードで読んだら,なんだか分からなくなります。(p226)

2019年2月16日土曜日

2019.02.16 弘兼憲史 『弘兼流 60歳からの手ぶら人生』

書名 弘兼流 60歳からの手ぶら人生
著者 弘兼憲史
発行所 海竜社
発行年月日 2016.11.25
価格(税別) 1,000円

● この本も「まえがき」だけを読めばいいかもしれない。モノ,習慣,人間関係を含めて,捨てるべきは捨てよ,と説く。
ぼくも年賀状はやめた。中元や歳暮には昔から無縁だ。交換した名刺はその日のうちに捨てていた。学校時代の通信簿や卒業証書も処分済み。友人はもともと少ない。
 では,捨てるべきがないかというと,さにあらず。“老前整理”すべきものはけっこうある。

● 以下に転載。
 60歳を過ぎると残された人生は,それほど長くありません。そういう貴重な時間を,いろいろなものにゴチャゴチャと囲まれた,わずらわしい生活にしたくないと思ったのです。(p4)
 「身軽に生きる」というのは,「停滞しない」ということでもあります。(p7)
 その人間関係は今も本当に必要でしょうか。(中略)場合によっては,すでに不要なのに「必要だと思い込んでいる」,または「思い込まされている」ということだってあります。(p8)
 物語は「結」に突入しているのですから,ここから拡大させる必要はありません。エンディング近くでなんの前振りもしていない,新しい登場人物が出てきてしまったら,それこそ物語は収拾がつかなくなってしまいます。(p21)
 数年前から「アンチエイジング」という言葉を聞くようになりましたが,個人的にはあんな無駄なこともないと思っています。(中略)そんなことに抵抗して,いらぬパワーやお金を使ってもしようがない。大事なのは「いかに老いを受け入れるか」です。(p25)
 新人賞を取るほどの力のある漫画家であっても,その後もずっとプロとして描き続けられるのはほんの一握りです。プロの世界とはそういう厳しい世界です。ですから,本気で目指すのなら「夢に期限を設ける」ことが絶対に必要です。(p28)
 いくつになってもオシャレであることは,僕は大事だと思います。そうしないとすぐに老け込んでしまいます。不要になったらまた処分すればいいのです。(p39)
 自分に合った新しい服を買うと出かけたくなります。(p40)
 本でも映像でも写真でも,多くのものをパソコンで取り込み,ハードディスクやクラウドといったものに保存することができます。「どうしても捨てられない」という人にはいい時代なのかもしれません。しかし,その作業にかかる膨大な時間を考えると,僕はそれをまったくやる気になりません。常に見返すのならやる意味もあるのでしょうが,仕事で忙しい毎日の中で過去を振り返っている時間などほとんどないのが現実です。(p48)
 友人の数は多いほうが幸せである,と思っている人は,僕の印象ではけっこう多いのです。(p56)
 比較というのは,妬みやそねみといったネガティブな感情を生み出す原因になりがちです。(中略)比較というのは,そもそも何となく劣等感を感じている部分に関してする傾向にあります。(p65)
 どんなことでも,ひとりで楽しめる人の人生は豊かです。(p72)
 よく同い年ぐらいの友人から「新しく買った機械の使い方がまったくわからない」という愚痴を聞くこともありますが,それも原因は頑固さゆえだと思います。(中略)説明書をきちんと読み,その通りに操作すれば,何歳になっても使い方がわからないなんてことはないはずです。ところが,年を取ってくると「このスイッチを押せば動くはず」などという長年の経験値がありますから,ろくに説明書を読もうとしません。(p75)
 「年長者なのだから俺の言うことを聞け」「少しくらいわがままをしても許されるはず」。そういう態度だと周囲から嫌われ,浮いてしまいます。それは「孤独」ではなく,「孤立」です。孤独を楽しむことはできますが,孤立すると人生には損しかありません。(p77)
 僕が友人は減らそう,というのには,ひとつには日本特有の連帯責任が嫌い,というのもあります。(中略)連帯責任とは,簡単にいえば巻き添えです。(p82)
 同窓会というのはおもしろい場で,基本的に人生がうまくいっているやつしか参加しません。(中略)そうなると場は必然的に明るい雰囲気になります。(p88)
 老後不安であれ何であれ,不安というのは,つまるところお金の不安です。少なくとも日本という文明社会に生きている以上,人生の大半の不安は,お金に対する不安に尽きる。(p95)
 僕は,お金持ちというのは,それほどうらやむ存在ではないと思っています。(中略)お金をたくさん持つ,というのは,他の何かをたくさん持つことと根本的に変わらず,増えれば増えるほどわずらわしい面があるのです。(p114)
 最近では「お盆玉」なんてものまで登場しました。(中略)高齢者にお金を使わせたい企業が新しく考えたイベントにいちいちつき合っていたら,それこそ破産してしまいます。(p118)
 そもそも目標や計画を立てて,仮にその通りにいったからといって,それが楽しいとも思えません。それは,旅行にガイドブックを持っていき,その通りに回るのと似ていないでしょうか。あれは旅行に行っているのではなく,ガイドブックの確認に行っているだけです。(p124)
 誰もが,「お父さんお母さんを大切にしよう」とか「家族は仲よく」なんてことを子どもの頃からくり返し,学校や社会から教え込まれてきています。(中略)しかし逆に言えば,そんなことをくり返し教えるということは,「教えないとそうならない」ということでもあります。(p139)
 一度こじれるとなかなか修復できないのが家族関係でもあります。(p141)
 いつも「お前どっちがしたい? どっちが好き?」と子どもに選ばせてばかりでは,楽なほうしか選ばない人間になってしまう可能性があります。(p153)
 主婦業に定年はありません。ということは,結婚している限り,奥さんはいつまでもあなたの世話から解放されないのです。貴重な残りの人生を,どうしてそんなつまらないことに費やさなければいけないのでしょうか。(p156)
 奥さんから見た場合,「定年退職した男の価値はゼロ」というのは大きく間違っていないはずです。(中略)そのあたりがわかっていないと,旦那というのは,定年前と変わらず奥さんに対して威張った態度で接してしまったりするわけです。(p156)
 奥さんから自立し,嫌われないために,あなたが心がけることは2つあります。それは,「奥さんとなるべく一緒にいないこと」,「お互いの距離を保つこと」。(p159)
 「もう2人だけなのだから,これからは一緒にいる時間を増やそう」なんて発想は,奥さんにとってはいい迷惑ですから,早いこと捨てることをおすすめします。奥さんとの距離を保つには,奥さんのテリトリーに侵入しないことが大事です。奥さんの行動にも干渉しないこと。(p160)
 いずれ近いうちに死んでいく世代が,医師や病院のベッドを占領してはいけないと思うのです。(p179)
 ある医師からこんな話も聞きました。「人の死は,飛行機が着陸態勢に入り,少しずつ高度を下げていくようなもの。延命治療は,せっかく着陸態勢に入った飛行機にガソリンを入れ,ムリヤリ高度を上げさせるようなもの」だと。そして,その医師はそれを「とても残酷なことだ」と言いました。(p180)
 女性の中には「専業主婦がいちばん幸せ」というような考え方があるというのです。つまり,自分は外で働くことなく,「旦那の稼ぎで趣味や習い事をするのが,いちばんのステータス」という考え方です。そして,そんな女性は働く主婦を「働かなきゃいけないなんてかわいそう」と見下すのだそうです。(p197)
 楽をすることが楽しいことだと思っている人は本当の楽しさを知らないだけでしょう。(p198)
 同じ金額で雇うならできるだけ若くて元気なほうがいい,というのが正直なところです。(p200)
 介護の現場というのは,近いうちに亡くなっていく人をケアする場で,未来ある若者を治療し,社会復帰させる医療の現場とは根本的に違います。そういう場に果たして若者の力を使うべきなのか,ということが僕は疑問です。若者にはもう少し違う職場で,日本の未来のために働いてほしい,というのが僕の本音です。(p203)
 僕は京都へ行くと,わざと観光客のいない,ごちゃごちゃっとして狭い路地に行くようにしています。(中略)どこか異国の地にでも迷い込んだような感覚があって,それが僕は何となく好きなのです。(p210)
 日常から少しだけ離れてみるのが旅行です。お金や時間などかけなくても頭を使えばいくらでも楽しむ方法はあるのです。(p211)
 60にもなると,自分でも気づかないうちに考え方や行動が保守的になって,新しいことを受けつけなくなっている場合があります。未知なる刺激を求めるより,「損や後悔をしたくない」という気持ちが上回り,安心や安定を求めるようになるのです。(中略)安心や安定が悪いわけではありません。物事はルーチン化することで,効率を上げ,失敗を減らすことができますから。でも,いつもそれでは何となく味気ないし,つまらなくないでしょうか。(p211)
 何度も通うとどうしても人間関係ができ,店の人から連絡をもらうと,どうしても「行かなきゃ悪い」という気持ちになってしまいますから,僕はそれがあまり好きではないのです。(p213)
 怒るというのは,思っている以上にパワーを使います。ですから,怒りというのは時間の経過とともに薄まっていく。あれは,つまりパワーが持続しないから,薄まっていくのです。僕はそんなことにパワーを使うのはあまり意味がないと思っています。(p236)
 僕がくよくよと落ち込まないのは「そんなことに時間を費やすのはもったいない」という発想があるからです。(p237)
 「老い」も成長のひとつです。何にでも「いい感じ」をつければ,「いい感じに体力が落ちてきた」「いい感じに貧乏になってきた」「いい感じにもの忘れがひどくなってきた」なんて,なんでもいい感じになってしまうのです。(p238)

2019年2月3日日曜日

2019.02.03 池澤夏樹 『知の仕事術』

書名 知の仕事術
著者 池澤夏樹
発行所 インターナショナル新書
発行年月日 2017.01.17
価格(税別) 740円

● 本書で何が語られているか。「はじめに」を読めば本書を読んだことになるかもしれない。著者が言いたかったことは,前半に集中しているように思われる。
 何が答えかではなく,何が問題かが重要で,そのためにはインターネットのみに頼っていては話にならない。このあたりが本書の肝のように思う。

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 人々が,自分に充分な知識がないことを自覚しないままに判断を下す。そして意見を表明する。そのことについてはよく知らないから,という留保がない。もっぱらSNSがそういう流れをつくった,というのは言い過ぎだろうか。(中略)議論はない。その代わりに罵倒の応酬があって,それでことが決まってゆく。社会を分断する力は強いのに,まとめる動きは弱い。(中略)ものを知っている人間が,ものを知っているというだけでバカにされる。(p8)
 テレビを見ていると,ぼくは操作されているという不安をどうしても拭いきれない。新聞ならば見出しをみた上で,精読に価するかどうか判断して読める。自分の側に判断の余地がある。(p15)
 世の中に無数のことが日々発生している中で何が問題かを知るには,およそ無関係と思われる記事が雑然と並置されている紙の新聞の,あの紙面が要る。インターネットには深さはあるが広さがない。(p17)
 問うべき対象を確定した上で「答え」を探しに行くにはインターネットはとても役に立つ。しかし,それ以前の知的な構図を構築するには-「問い」を立てるには-インターネットだけでは充分でない。(p20)
 大事なのは,多くの話題を拾いながら,ことの脈絡は自分でつくるということ。新聞などが提供するのはその素材にすぎない。自分なりの地図があって初めて,個々の記事や評論に価値が生じる。ここにいう脈絡とははっきり言えば偏見である。(中略)なぜならば偏見でない意見などあり得ないから。ニュースに沿って偏見を修正しつづけるのが現実を考えるということである。(p23)
 ぼくは情報と意見から成る世界像を一頭の脊椎動物と見なしているわけだ。まずは骨があり,その上に肉があって皮膚で覆われている。だから元気に動くし,走りゆく方向は日々変わる。世界とはそのくらい実在感があるものだ。(中略)こちら(インターネット)は明確な構造を持たず,つまり骨格がなく,細部からひたすら増殖して条件次第でいくらでも変形するし,時にはすっと消滅する。生物でいえば粘菌に似ている。(p25)
 中立とか不偏不党などという原理はそこにはない。あるはずがないのだ。報道は取材から印刷まで一段階ずつが選択であり,選択というのは主観的にしかできない行為だから。(p26)
 書評の原理は何かというと,「評」の字はついているものの「評価」ではない。評価は,取り上げるかどうかを決める時点で行うもので,ゆえに,取り上げると決めた時点で済んでいる。よくないと思ったら書評をしないのが原則。(中略)基本は褒めるものだ。(p39)
 フィクションでない本の場合,目次は丁寧に見るべきだ。ノンフィクションの目次というのは本の内容全体を表しているから,目次を読めば本の構成がだいたいわかる。とくに思想書や研究書の場合,読みだす前に展開を頭に入れておくかどうかで,本文の理解度が変わってくる。(p84)
 はっきり言ってしまうと,古典を読むのは知的労力の投資だ、最初はずっと持ち出し。苦労ばかりで楽しみはまだ遠い。しかし,たいていの場合,この投資は実を結ぶ。(p89)
 本と人とのあいだには相性というものがある。ゆえに,つまらないと思ったら,それは子どもなりの一つの批評なのだから,その批評を尊重すべきだ。(中略)面白くない本を最後まで読むよう強制されて本嫌いになるくらいなら,投げだしたほうがよほどましだとぼくは思う。(p92)
 一般的に本というと,すぐに「蔵書」という言葉が出てきて,ストックになりがちである。(中略)ぼくと本の付き合いはもっぱらフローのほうで,コレクションの趣味はまったくない。だから蔵書は最小限。(中略)できるだけ本を身から放そうとする。引っ越しばかりしているから,という個人的な事情もある。(p114)
 単に「昔読んでよかった本だから」という理由だけで取っておくことをぼくはしない。できる限り「いま」必要な本にこそ,書棚を使いたい。(中略)リアル書店は,一定期間たつと売れなかった本を出版社に返品する。それと同じ作業を個人の書棚単位でもする必要がある。(p120)
 ぼくが自分の本を比較的早く手放していくのは,自分が死んだ後のことを考えるからでもある。蔵書が残ると,遺族が困る。(p123)
 車は「動いていなければ車線変更はできない」のを思い出してほしい。(中略)書棚も同じ。動いているとはすなわち,新陳代謝しているということだ。本人が目を配っていないと始末はできない。いったん止まったら,そのときから棚は死んでしまうとぼくは考えている。(p124)
 かつて,本はよく売れた。全百巻などという文学全集が各社から競って刊行され,大きな百科事典が何十万セットも売られた。しかし,だからと言って,その時期の日本人が特に賢かったとも思えない。(p129)
 書物を選ぶ評語が「ためになる」から「おもしろい」に変わったのである。この評語を低級として退けることはできない。(p131)
 ぼくは人付き合いがとても悪い。人と話すことでアイディアが生まれるという作家もいるようだが,ぼくにはそれはない。(中略)いま流行のSNSをやらないのも,手が回らないのもあるが,それ以前に人嫌いだからかもしれない。(p158)
 メモはA4用紙と決めている。コピーの裏紙を使うこともある。(p163)
 執筆用のメモにノートブックは使わない。一つのテーマには大きすぎるからだ。(p164)
 明け方などに頭が冴えて,いいアイディアが浮かぶこともないわけではないのだが,最もアイディアが湧くのは,実は書いているときだ。書くというのはすなわち考えること(p165)
 何を書くにせよ,執筆の途中でメモを取るのは役に立つ。(p166)
 ノンフィクションでは,チャートを作って物を考えることはよくある。(中略)一方,フィクションの物の考え方の基本は時系列だと思う。(p171)
 結局のところ,整理するにはどこかで努力をしなければいけない。どこに努力するかに,個人の個性が出る。(p173)
 労力の節約のために整理をするのだから,整理そのものにはあまり労力をかけたくないわけだ。(p177)
 「読む」については学校と自力,「喋る」についてはオン・ザ・ストリート。ぼくはこの方法でやってきた。(中略)状況に強制されたオン・ザ・ストリートに勝るトレーニングはない。(p181)
 原書を読むとき,最初から辞書を引いてはいけない。わからない単語があってもあまり気にせずどんどん読み進める。(p181)
 口承文芸というのは必ず目の前に聴衆がいる。一方的に読むだけではなくて反応がある。反応を見ながら次々に内容を変えていくことができる。(中略)しかしそれが本になって,活字になってしまうとそういうことができない。(中略)ぼくは作家として個室で一人寂しく書いて,買った人は個室で一人寂しく読む。それが本というメディアの一つの性格です。(p205)

2019年2月2日土曜日

2019.02.02 野口悠紀雄 『「超」独学法』

書名 「超」独学法
著者 野口悠紀雄
発行所 角川新書
発行年月日 2018.06.10
価格(税別) 840円

● 座学で何とかなるものは,学校に行くより,独学の方がずっと効率がいい。IT化によって,独学が格段にやりやすくなっている。以上が本書の骨子。
 いい時代に生きているのだなと,元気になれる本だ。

● 大学で勉強することには,重要な意味があると考えている。それは,「大学での勉強とはこの程度のことだ」と知りうることだ(p84)。言い得て妙。 
 大学を出た親が自分の子供を大学に行かせることの不思議。東大OBは子供を東大に行かせようと思っていない,なぜなら東大の程度を知っているからだ,と聞いたことがある。だとすると,さすがは東大OBってことになりそうだ。

● 以下に多すぎる転載。
 周到な準備をしてからおもむろに歩み出すのではなく,とにかく始めるのだ。何事においても最初の一歩を踏み出すことができれば,物事は進展する。難しいのは,第一歩目を踏み出すことだ。(p4)
 英語の勉強のためには,通勤電車の中でYouTubeの動画を聞くのが一番よい。(p7)
 社会人にとっての独学は,学校での勉強の補完物でも代替物でもない。多くの場合に,それより効率的で優れている。(p23)
 人間は,生まれたときには,ごく限定的な能力しか持っていない。人間の能力のほとんどは,後天的な勉強(学習)によって獲得する。こうした意味で,人間はきわめて特殊な動物なのだ。人間の本質は,勉強にある。勉強こそ,人間の人間たる所以だ。だから,勉強することは本能的に楽しいのだ。(p31)
 毎日最低1つは,新しい言葉を調べること。これを習慣にしよう。これは独学の第一歩である。(p36)
 「学校選び」から始めるのでは,間違った選択をした場合のやり直しのコストが高い。(p39)
 私は,「敵・味方理論」というものを信じている。あるものが敵であると考えると,自分からますます遠ざかってしまって,本当に敵になってしまう。その反対に,味方であると考えると,自然に自分に近づいてくる。分からないことは,自分の敵である。それを調べないで放置しておけば,敵のままだ。(p40)
 「丸暗記方式」というのは,ユダヤ人の伝統であるようだ。熱心なユダヤ教徒は,旧約聖書を自由自在にそらんじることができると言う。一般にユダヤ人に知能の高い人が多いのは,本の丸暗記という教育方法が伝統的にあるからだと言われる。(p50)
 ITは,知の制度化を大きく破壊している。大学で学んだ知識は陳腐化してしまっている。他方で,ウェブを見れば,最先端のことまで分かる。制度化された現代の最強のギルドである医学さえ,最先端の分野では,変化から免れない。(p71)
 最初に買ったのは,過去の問題集である。そこに出ている問題い答えられるように勉強を開始した。つぎに,経済学百科事典を買ってきて,問題を解くために必要な箇所を拾い読みしていった。経済学の教科書を購入したのは,その後である。つまり,教室で順序立てて勉強するのとは,ちょうど逆方向に勉強したのだ。(中略)公務員試験が目的であれば,功利主義的であっても,一向に構わないだろう。教科書を最初から読むのに比べると,この方法のほうがずっと効率的であり,しかも(これが重要な点だが)興味を失わずに勉強を続けられる方法なのである。(p77)
 では,教師と学生の差はどのくらいか? 昔であれば,実年齢だったろう。つまり20年程度は離れていただろう。(中略)しかし,現代の世界では,それでは到底追いつかない。とくに変化の激しい分野では,そうだ。(中略)新しい分野であれば,教えるほうも独学で勉強するしかないのだ。(p81)
 私は,「大学で勉強することが無意味」と言っているわけではない。むしろ,大学で勉強することには,重要な意味があると考えている。それは,「大学での勉強とはこの程度のことだ」と知りうることだ。(中略)人間は誰も,知らないことや分からないことに対しては,畏敬の念を感じるものだ。大学の外にいる人間にとって,大学というのは,まさに近寄りがたい知の殿堂なのである。(中略)しかし,そうではないのである。(p84)
 日本の企業は,これまで普遍的知識や技能を評価するのでなく,企業に特有の条件を強調してきた。そして,実務のための専門的知識は,学校の勉強ではなく,OJTによって取得するものを考えられていた。だから,実務経験しか評価しない。(p92)
 なぜ世の中が変わるのか? それは,技術進歩が加速化するからだ。とくに,ITによって,経済社会は大きく変わり,これからも変わり続ける。(中略)社会の変化が急速になると,勉強し続けていないかぎり社会の変化についていくことができなくなる。(p94)
 変化が激しいとは,新しいフロンティアが広がるということだ。そこにはまだ誰も手をつけていないので,思うがままの発展をすることができる。社会が大きく変われば,新しいチャンスが生じる。それを捉えることができれば,新しい成長ができる。(p95)
 ごく少数の人間の革新的なアイデアが,現代のリーディング企業を作っているのである。このため,アメリカをリードするハイテク企業は,さまざまな工夫をして,個人の創造性を引き出そうとしている。(p96)
 日本の経営者は,大学で法律や経済を勉強した人が多い。それらの知識は,実際の企業経営や経済運営とはほとんど関係がない。(中略)そのために,専門的な経営者が生まれなかったことは,事実である。その結果,「企業は人なり」とか,「企業の社会的責任」などという薄っぺらなことしか言えない人が多い。(p98)
 勉強するのは若いときのことであると考えている人が多い。しかし,これからは,高齢者の独学が重要な課題になる。高齢者は,それまで得た知識のストックを保有しているわけだから,新しい知識を吸収し,それを解釈し,それを活用することを,若い人よりは容易にできるはずである。(p100)
 ITによって,少なくともコンピューターパワーに関するかぎり,資本の重要性は著しく低下した。「持たざる経営」が可能になってきているのだ。(p105)
 フリーランサーとして仕事をするためには,インターネットを通じて情報発信することが不可欠だ。ブログを開設したり,自分のホームページを作るのがよい。したがって,これについて勉強することが必要になるが,それは自分でやるのが最も効率的だ。この類の情報は,実はウェブで一番手に入りやすい情報である。(p111)
 まず最初に注意すべきことは,これら(英会話学校,パソコン教室等々)がビジネスとして行われているという事実である。これらは,授業料を稼ぐために行っている営利事業である。そのため,勉強をしたい人のニーズに本当に応えているかどうか,疑問である。(p114)
 社会人の勉強では,必要とされる知識が,人によって大きく違う。また,達成したいと思う目的も個人によって違う。一般的な社会人講座で得られるような知識では,仕事には役立たないことが多い。(p118)
 シリコンバレーのベンチャーの多くがスタンフォード大学から生まれた。それは,スタンフォード大学で(あるいは大学院で),「ベンチャービジネスの起こし方」という講義を行ったからではない。学生同士(あるいは,大学のスタッフ)が一緒に仕事をし,情報交換をしたからだ。こうした効果を独学に期待するのは難しい。独学をするなら,そうした機会は別途見つける必要がある。組織が外に対して閉鎖的である日本の場合に,これは,とくに重要なことだ。(p125)
 計画が長続きしないのは,長期目標ばかり考えて,中期計画がないからである。(p137)
 勉強を進めるためのインセンティブの基本は,向上心だ。これが勉強の原点だ。あからさまに言えば,「勉強をして自分の社会的地位を向上させたい」という欲求だ。(中略)多くの人は実利を目的として勉強している。その実利とは,「社会をよくする」といった類の抽象的で利他的なものではない。もっと利己的なものである。貧しい社会では,明らかにそうだ。(p138)
 子供から教育の機会を奪うのは,最も憎むべき犯罪行為だ。(p140)
 貧しい社会では,本人が「勉強したい」と考えていても,それが必ずしも親に支持されるとはかぎらない。高度成長期以前の日本では,多くの子供たちが,親に隠れて勉強した。(p140)
 「人に見せたいから,あるいは自慢したいから努力する」というのは,決して悪いことではない。「政治家は,偉くなるほど能力が高まる」と言われる。それと同じことである。人間のこうした心理は,勉強においても積極的に活用すべきものだ。(p142)
 勉強の最も強いインセンティブは,好奇心である。面白いから,楽しいから勉強するのだ。研究者は,社会に貢献しようとして研究しているのではない。面白いからやっているのだ。(p143)
 問題意識を持っていれば,情報が捉えられる。問題意識を持って情報をプルする人と,プッシュされる情報をただ受ける人の差は大きい。(p143)
 「知識を増やしたければ教えよ」と言われる。これは正しいと思う。「人に教える」ことは,勉強の強力な牽引力になる。(p146)
 昔であれば,自費出版には大変な費用がかかった。しかし,いまではそれと同じことが,ブログで簡単にできる。無料だから,誰にも文句を言われることはない。少々間違えても,後で訂正すればよい。そして,それを友人に知らせる。あるいは,ツイッターで広める。「人に教えるほどの専門知識はもっていない」と言われるかもしれない。それなら,「勉強のまとめ」を作ればよい。(p148)
 最も重要なのは,余計なことをしないことである。人生は短い。私は,だいぶ前から,省庁の委員会の類への出席を一切やめた。(p151)
 自分でしなくてよいことは,金を払ってでも,人に任せたほうがよい。(p152)
 独学のための理想的な環境は,通勤電車の中だ。(中略)満員の電車の中では他にすることがないから,気が散らない。集中できる。地獄の満員電車は最高の勉強場になる。(p153)
 まず重要なのは,問題そのものを「探す」ことである。何を目的にして何を勉強したいのかという問題意識を明確にすることが重要である。学校秀才に欠けている能力は,これである。日本の学校教育では,問題を探す訓練をしない。(p160)
 勉強できる学生はまんべんなくやっているのではなく,重要な点を押さえている。つまり,不均質な努力をしているのだ。(中略)「どこに努力を集中するか」こそが,重要なのである。(p161)
 新しい分野を勉強するとき,基礎から一歩一歩というのが普通だ。しかし,私は,この方法に疑問を持っている。私が強調したいのは,「途中で分からないところがあっても,とにかく全体を把握せよ」という勉強法だ。とにかくできるだけ早く山頂に登る。(中略)「高いところから見れば,よく見える」からだ。(p163)
 読みたいところから読む。順番にこだわる必要はない。小説は最初から読まないとだめだが,ビジネス書や教科書であれば,最初から読む必要はまったくない。(p166)
 本の中核となっている部分は,全体の2割にもならないということだ。2割どころか,数%しかない場合も多い。そして,そこを重点的に読めば,すべてを平板に読むよりずっと多くを学べるということだ。(p169)
 1980年代には,「日本企業で仕事をしたいので,日本語を習いたい」と言っていた学生が多かったのだが,そうした時代ははるか大昔だ。(p173)
 「仕事に使う道具」という視点がないことが,日本人の実用英語学習における大きな誤りである。語学教室で,こうした英語教育を提供できないのは,専門分野の知識を有する教師を揃えることができないからだ。(p179)
 外国語を勉強する方法は,シュリーマンが言っていることに尽きる。つまり文章を丸暗記するのである。単語を孤立して覚えるのでなく,文章として覚えるのだ。孤立した単語を1つずつ覚えようとしても覚えるのは難しい。だが,ある程度の長さの文章であれば,何度も繰り返し読めば,覚えることができる。何度聞けばよいかは個人差があるが,普通は20回程度聞けば覚えられるだろう。20回繰り返して読むためには,独学で行うしかない。つまり,外国語は独学でしか習得できないのだ。(p180)
 人間の記憶は,関連のない単語を孤立して覚えられるようにはできていない。意味がある一定の長さの文章を覚えるように,できているのだ。(p181)
 英語のリスニング訓練は,完全な独学が可能である。英会話学校に通ったり個人教師について勉強する必要はない。(中略)いまやインターネットからいくらでも教材が入手できる。市販の高価な教材を買う必要もない。というより,自分用の教材を作り,1人で勉強するほうがはるかに効率的だ。(p185)
 言語の勉強で最も重要なのは,興味を失わないことである。学校の教科書の最大の問題は,興味をひかれないことだ。(p190)
 外国語の勉強で陥りやすい誤りは,「日本語に翻訳して理解しようとすることである。そうではなく,外国語のままで理解しなければならない。そうしないと,英語を実用的な目的に使うことができない。(p193)
 コンピュータの脅威だけを言うのでなく,AIやブロックチェーンを利用することが必要だ。そうすることのできる人が,未来の勝者になるだろう。(p222)
 新しい情報に接したとき,それにどのような価値を認めるかは,それまで持っていた知識による。新しい情報に接しても,知識が少なければ,何も感じない。しかし,知識が多い人は,新しい情報から刺激を受けて,大きく発展する。(p230)
 何かを知りたいと思うのは,知識があるからだ。そして,質問を発することによって,探求が始まる。知識が乏しい人は,疑問を抱くこともなく,したがって,探求をすることもなく,いつになっても昔からの状態に留まる。(中略)創造的な人は,それまで他の人がしなかった問いを発することによって,新しい可能性を開く。(p231)
 知識は,何かを生産するための手段として必要なものと考えられてきた。しかし,実は知識そのものが重要なのかもしれない。つまり,知識を得ることそれ自体に価値があるのかもしれない。これは知識に関する深遠な問いだ。(p233)