著者 橋本 治
発行所 幻冬舎
発行年月日 2016.06.10
価格(税別) 1,200円
● 40年前に岩波文庫の『学問のすゝめ』を買った。もちろん読もうと思って買ったわけだが,読まないままこの歳になってしまった。
で,先に本書を読んだ。何だか,『学問のすゝめ』も読んだような気分になった。っていうか,『学問のすゝめ』は読まなくてもいいんじゃないかと思っている。
● ところで。橋本治さんの本を読むのは,たぶん,今回が初めてだと思う。流行遅れ?
● 以下にいくつか転載。
私は明治時代の文学に首を突っ込んでいて,明治時代の人間の「分かっていなさ」加減を肌身で感じていた(p4)
私には「価値の定まった有名なもの」が,本当はどんなものなのかを知りたいという衝動があるので,自分が読んでいないものでも平気で向かって行きます。(p4)
明治政府は別に,「寺をぶっつぶせ,仏像を叩き壊せ」という命令を出したわけじゃありません。ともすれば,仏教に比べてマイナーになりがちだった神社と神道の地位をアップさせようとしただけです。(p17)
仏教によれば,「神」というのは地域の土俗信仰の神で,人を庇護したり祟ったりします。でも仏教は「そういう神に振り回されるな」という考えを持った哲学なのです。(p20)
それ以前の学問の主流は,漢文のテキストを読んで身につけ,自分の身分にふさわしい「教養」とすることでした。それは,「学べば終わり」で,「それを基にして自分で考える」ということを必要としません。(p52)
「これさえ学んでおけば大丈夫」というのは,学問の自由や思考の自由を奪うことでもありますから,そんな学問に従事していても,「変わらないシステムを変わらないままに守り続ける捨石」になるようなものです。(p67)
「実学か虚学か」を判断する基準は,「社会の役に立つかどうか」ではなく,まず人の心に納得を呼び起こすかどうかで,「社会の役に立つかどうか」はその次です。(p68)
江戸時代の人間にとって,最大の出世あるいは最大の栄誉は,「主君」である殿様や幕府によって認められ,そのお誉めに与ることです。(中略)評価の基準は自分にではなくて,自分が従うべき「主君」や「主人」が握っています。《独立》とは,その従属状態から抜け出すことです。(p76)
人間は,一人の頭で考えてしまうから,「自由」は簡単に「わがまま」になってしまう。(p101)
人はどんなシチュエーションで「蒙」になるのかは分かりません。いつだって「蒙」になってしまう可能性はあるのです。そして,困ったことに,それを認めるのがいやなのです。だから「啓蒙」をしようとする相手に対して,「上から目線nいやな奴」という拒絶をしようとします。(中略)そういう人は,「バカな自分に分かるような命令」だけを受け入れて,「自分が“気に入った”と思う命令」に対しては「命令」と思わず,「自分の考えで選び取った」と思うのです。(p150)
民主主義がなぜだめかというと,理由は簡単で,「民主主義はバカばっかり」になってしまうからです。(中略)はっきり言って,頭のいい人よりバカの方が多いのですね。つまり,民主主義を成り立たせている人間の多数派はバカで,なにも分からないバカが意思決定のイニシアティブを握ってしまうことが多々ある(p176)
福沢諭吉の「バカ嫌い」はとんでもなく凄まじいもので,彼の啓蒙への情熱は,「この世からバカを一人残らず葬り去ってやる!」というところに由来しているのではないかとも思えてしまいます(p194)
福沢諭吉は東京府会議員になってその副議長に選ばれますが,これを辞退して,ついでに議員の方もすぐ辞めてしまいます。たぶん「バカばっかり」がいやだったんでしょう。(p220)
さっさと早口で説明する福沢諭吉は,「いいですね? 分かりますか?」というような立ち止まり方をしてくれないのです--という風に,我々はうっかりすると思ってしまいます。しかし,それはもちろん私達の間違いで,早口なのは福沢諭吉ではなくて,我々の法なのです。(中略)この当時の読み手はスラスラなんか読みません。考え考え読みます。(中略)福沢諭吉もその「読み手のスピード」に合わせて書いたのです。ゆっくり考えながら読むようなものを「さっさと読む」のスピードで読んだら,なんだか分からなくなります。(p226)
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