2019年3月17日日曜日

2019.03.17 百田尚樹 『この名曲が凄すぎる』

書名 この名曲が凄すぎる
著者 百田尚樹
発行所 PHP
発行年月日 2016.02.29
価格(税別) 1,800円

● 名曲解説ってことになるんだけども,曲を語ることは(何を語っても同じことだが)自分を語ることだ。存分に自分を語っている。だから面白い。
 「田園」について蒙を啓いてもらった。「田園」って,ベートーヴェンの中では例外的につまらないと思っていたのだ。
 あと,ジョプリンを教えてもらったこと。

● 以下にいくつか転載。
 言葉ではなく音楽で語るから,心に突き刺さる(p26)
 仮にショスタコーヴィチの意図がどうであろうと,私たちは演奏された音を純粋に聴くのみだ。だから,この曲(交響曲第5番)も「勝利の行進曲」でも「強制された喜び」でも,本当のところはどっちでもいいと思っている。(p40)
 正直なところ私はモーツァルトやベートーヴェンを古楽器演奏で聴くのは好きではない。しかしバロック音楽は古楽器でやると,なぜかすごく新鮮で躍動感を感じる。(p49)
 このオペラ(「ドン・ジョヴァンニ」)をベートーヴェンが非常に嫌ったのは有名な話である。おそらく彼にはこのオペラがポルノのように見えたのだろう。音楽という素晴らしい芸術を使って,このようなふしだらな物語を作るということが,ベートーヴェンには許せなかったのだ。(中略)しかしモーツァルトにとってはそうではなかった。想像するに,おそらく彼はこの物語に嬉々として音楽を書いた気がしてならない。というのも「ドン・ジョヴァンニ」に使われている音楽は,モーツァルトの音楽の中でも最上級に素晴らしいものだからだ。(p59)
 実はシューベルトは未完の曲が非常に多い。(中略)これがシューベルトの特徴なのである。彼は典型的な気まぐれな天才肌の芸術家であった。(p75)
 モーツァルトも作曲するときは時間をかけずに書いたが,彼の作曲のほとんどが他人に依頼されてのものだったから基本的に未完はない。ただそんな彼も誰にも頼まれずに書いた曲のいくつかは未完で終わっている。天才モーツァルトにしてもそうなのだ。一度着想した曲を何カ月も何年もかけてひたすら完成に向けてたゆまず努力するベートーヴェンのような男はむしろ特殊なのかもしれない。(p76)
 この曲(「未完成」)が書かれたのは一八二二年,シューベルトが二十五歳の時で,ベートーヴェンが「第九交響曲」を書く以前である。驚くのはその先進性である。当時,クラシック音楽はまだ「古典派」の時代であり,たとえば交響曲では長いフレーズは使われることがなかった。短いパッセージやモティーフを組み合わせていき,全体を構築していくというのが古典派の交響曲のスタイルであった。つまりシューベルトの息の長いフレーズは明らかに時代を超えていると言える。(p77)
 現代では楽団員の多くが音楽大学出身で,理論も学識も備えていて,演奏する曲のスコアにも精通しているので,指揮者の影響力は低下した。(p83)
 フルトヴェングラーは別格中の別格,まさしく「神々の中の王」とも言える存在である。(中略)彼の手にかかると,それまで何気なく聴いていた曲が始めて聴くような曲に聞こえるのだ。(p84)
 再現芸術を一段低く見る人がいる。どれほど上手に演奏しようと,彼はその曲を作曲したわけではない,という見方だ。所詮演奏家などは,無から有を生み出したクリエイターの作品を補完するだけの存在ではないかと言う人もいる。しかしフルトヴェングラーを聴けば,そんな考えはまったく浅はかなものであると気付くだろう。(p85)
 これ(ベートーヴェンの6番)は田園風景の表面を描写しているだけの音楽ではない。田園と聞いて誰しもが思い浮かべる心象風景をあらわしているのだ。(p107)
 天才的な芸術家というものはたいていどこか常軌を逸したところがあり,その破天荒さが魅力の一つでもあるが,ヴァーグナーの場合は,その俗物性に辟易させられる。たとえば彼は女たらしであるが,開放的な女好きではなく,しばしば他人の妻を奪っている。それも自分が世話になった恩人の妻や自分を慕ってやってきた弟子の妻である。しかもいずれも自分が不遇な時代に手を差し伸べてくれた人たちである。(p129)
 彼はこの曲(「トリスタンとイゾルデ」)でわらゆる和音を完成させたとも言われている。ただ,この音楽を初めて聴く者は,間違いなく退屈する。というか,まず聴いていられない。というのも全曲にわたって半音階が使用され,普段私たちがメロディーと思っているような旋律はほとんど出てこないからだ。(中略)どこが頭やら尻尾やらわからない意味不明の音楽が切れ目なしに何十分と続く。これこそ,決して成就することのない愛を描くためにヴァーグナーが行った無限旋律だが,ひおとたびその音階の魅力にはまると,もう抜け出せない。(p135)
 鉄血宰相と呼ばれたビスマルクは,「アパッショナータ」についてこんな言葉を残している。「この曲をいつも聴くことができれば,私は常に勇敢でいられるのだが」(p141)
 世界には素晴らしいテクニックを持つピアニストはいくらでもいるが,私にはリヒテルのテクニックは別次元のようなものに思える。これはうまく説明できないが,演奏中にリヒテルには何かが乗り移ったかと思うような瞬間があり,その時の演奏は人間が弾いているのではないようなきがするのだ。(p148)
 一般にクリエイターはただ「作るだけの人」と思われているが,実は同時に「批評家」でもある。これは芸術のジャンルを問わない。クリエイターにとって「批評家の目」を持つことは絶対条件である。(p153)
 当時,貴族たちは演奏会場で緩徐楽章になると,うとうとと居眠りを始める者が多く,ハイドンはそういう聴衆を驚かせて目を覚まさせようとして,こんな和音を書いたのだと言う。(p164)
 ベートーヴェン以降,交響曲は苦悩や葛藤を表現するジャンルの曲になったが,ハイドンの音楽にそんなものはない。ただ音楽を純粋に楽しむ喜びに満ちている。しかしそれこそが音楽の本来の姿ではないかと思うときもある。(p166)
 マーラーの妻アルマは夫の死後,彼の自伝を書いているが,その内容は独善的で自分に都合よく書かれ,しかも真実かどうかもわからない。アルマの本を読む限り,彼女はかなり自己顕示欲と自意識が強い女性であることがわかる。厄介なのは,マーラーが語ったとされる言葉の多くが,アルマの本に書かれていることだ。(p169)
 ヘンデルの音楽は豪華絢爛な響きが満ちていると書いたが,これは敢えて意地悪な見方をすれば,「ハッタリ」的な要素があるとも言える。ヴァーグナーの音楽にも似たものを感じる。(p190)
 引退後,田中(希代子)は忘れられ,一九九六年に六十四歳で亡くなっている。晩年,あるラジオ番組に出演したとき,田中はこう語っている。「もし,神様が,お前からは随分いろいろなものを奪ったけれども,お皿を洗う能力は返してあげよう,といったら,私は跳び上がって喜ぶでしょうねぇ。お皿を洗うことだって,立派な自己表現ですもの」。(p201)
 彼らは年齢を重ねると技巧を増して円熟していくが,それが必ずしも作品の向上につながっていくとは限らない。(中略)ところがクラシック作曲家,特に交響曲作家の場合においては話が異なる。彼らは不思議なことに,年を取れば取るほど,また技巧を身に付ければ付けるほど,曲の質が向上していくのだ。(p203)
 ドビュッシーの場合,個人的にどことなく陰湿な感じがする。というのは,彼と関係を持った女性たちの多くが不幸な運命を辿っているからだ。(p214)
 自殺と自殺未遂は大きな違いがある。というのは世の中には,捨てた男の気持ちを振り向かせるために自殺未遂を企てる女性というのが少なからず存在するからだ。ギャビーとリリーがそうであったとまでは言えないが,二人ともエキセントリックな性格だったのかもしれない。もしそうならドビュッシーはそういうタイプに惚れる男であったといえる。(p215)
 ドビュッシーは後にこう語っている。 「私は結婚に不向きな人間だ。芸術家は自由でなければならない」 私はこの言葉には苦笑せざるを得ない。悪妻に苦しめられた男が言うならわかる。また結婚生活を続けようとしたにもかかわらず上手くいかなかった男の言葉なら理解もできる。しかし妻に支えられながら浮気を繰り返し,挙句はボロ雑巾のように捨ててしまう男性が口にすると,それはどうなのかなあと思ってしまう。(p216)