著者 百田尚樹
発行所 PHP
発行年月日 2018.07.02
価格(税別) 1,950円
● 本書の後半が晩年の“到達点”についての叙述。モーツァルトとベートーヴェンが3回ずつ,あとはブラームス,スメタナ,シューベルト,バッハ,R.シュトラウス。
自分がいかに聴けていないかがわかる。LP・CDを2万枚も買い集めた著者と,WALKMANでたまに聴くだけの自分を比較してはいけないのだが。
● 特にR.シュトラウス「四つの最後の歌」は,最近,生で聴いている。まさしく猫に小判,豚に真珠,馬の耳に念仏,とはこのことだった。
活字で知識を得たからといって,聴き方が変わるわけではないとしても,変わるきっかけくらいにはなったと思いたい。何よりも,聴くべき曲がくっきりと見えてきたしね。
● 以下にいくつか転載。
偉大な芸術家は決して同じところに留まってはいません。常に進化し,変容していきます。また芸術家にはサラリーマンのような定年もなければ,スポーツ選手のような引退もありません。生涯を音楽に捧げた歴史に残る大作曲家たちは,亡くなる直前まで,曲を書き続けていました。(p1)
私は音楽家たちの青春期や壮年期の作品も大好きですが,晩年の作品により惹かれます。これは若い頃からそうでした。(p2)
彼は演奏家としても著名だったが,その生涯を眺めると,コンサートで賞賛を浴びたいという欲求もあまりなかったように見える。(中略)もしかしたらショパンは人前で演奏するよりも自分のために演奏したかったのではないだろうか。というのもショパンのピアノ曲を聴いていると,まるで彼がピアノで呟いているようにも聴こえるからだ。(p13)
音楽はどう受け取っても聴く者の自由である。文学は作者の思想や考えが文字によって描かれるが,歌詞のない器楽曲にはそれは不可能である。だからこそ,音楽を聴く喜びは,そうした抽象世界のイマジネーションを広げることになるのではないかと思う。(p16)
シュトラウスがこの曲(『ツァラトゥストラはかく語りき』)を書いた当時は,この本はほとんど知られていなかった。(中略)ところが当時二十代のシュトラウスは刊行された当初からこの本を読んでいたのだ。(p37)
基本的に旋律線は一本なので和音にも限界がある。両手で弾くピアノのようにポリフォニック(多声音楽的)な世界は描けない。しかしバッハが独特のテクニックを用いて,それを可能にしているのは驚くべきことである。そして宇宙的な広がりを感じさせることに成功している。たった一台のチェロが大オーケストラにも匹敵するような広大な世界を表現しているのだ。(p72)
かつてはこの曲(「春の祭典」)を完璧に演奏できる指揮者もオーケストラも非常に少なかったが,今では学生オーケストラでも演奏できる。演奏技術がそれだけ上がったということでもあるが,実際のところはCDのおかげであると思っている。楽団員たちはCDによってこの曲を熟知しているから,極端なことを言えば,指揮者の指示がなくても,複雑な変拍子にも,入りのタイミングにも対応できるのだ。(p95)
彼(フォーレ)は女性関係においてはかなり放埒な生き方をした。(中略)道徳的な見方をすれば倫理観に乏しい男かもしれないが,私は芸術家とはそいういうものではないだろうかと思っている。情熱的で恋多き男であるからこそ,素晴らしい芸術作品を生み出せるという一面があるのではないか。モーツァルトもベートーヴェンもリストもヴァーグナーもすべて恋多き男であり,何度も「不倫の愛」を経験している。(p99)
ベートーヴェンが語った面白い言葉が残っている。「聴衆がこの曲(八番)を理解できないのは,この曲があまりに優れているからだ」 いかにも皮肉屋のベートーヴェンらしい言葉だが,私はこの言葉に大いに賛成したい。(p104)
オペラの題材に使われるストーリーは,勧善懲悪,史劇,悲恋,ファンタジー,コメディと多彩だが,難解な内容のものはあまりない。要するに芸術性を厳しく追求するものではなく,あくまで大衆性を目指したものだったからだ。ところが二十世紀になった途端,オペラの世界は一変する。古典的ドラマトゥルギーを無視した近代文学を思わせるような晦渋な作品が次々と生み出されるようになる。その嚆矢とも言えるのが「サロメ」である。(p111)
ベートーヴェンの即興演奏は残念ながら耳にすることができないが,それがいかに素晴らしいものであったかは多くの文献に残されている。(中略)ところが彼はいざピアノソナタを作曲するときには,即興演奏を楽譜にすることはなかった。これはなぜか。彼は即興で聴く音楽と,繰り返し聴く音楽は違うものであるという考えを持っていたからだ。(p140)
クリエイターというものは異なる作品を生み出しても,その人ならではの「本質」とでも呼ぶべきものがある。ブラームスの場合,いったいどれが彼の本質なのか見えにくい。(p147)
聴力を失った作曲家といえば,ベートーヴェンがよく知られている。(中略)スメタナもまた完全に聴力を失ってから,「モルダウ」という名曲を生み出した作曲家なのだ。作曲家にとって聴力ほど重要なものはない。単純なメロディーならともかく,多くの楽器から編成される複雑なハーモニーの曲を頭の中だけで鳴らすのであるから,その困難さは誰でも想像がつくと思う。(p155)
(モーツァルトのピアノ協奏曲)第二七番は,すべての色彩を取り去ったような透明感に満ちた不思議な曲なのだ。またオーケストラの編成がとても小さい。無駄を削ぎ落としたようなシンプルな編成である。またピアノも技巧を見せつけるようなところは微塵もない。とても単純な音で淡々と奏でられるのだ。若いときにしばしば見せたケレンや遊びはどこにもない。(p165)
ベートーヴェンの変奏曲は,主題に様々な音をちりばめる「装飾変奏」ではなく,主題から動機を取り出し,リズムやテンポさえも自在に変え,異なるメロディーを生み出して次々と展開していく独創的なものだ。これは「性格変奏」と呼ばれるもので,彼は若い頃からこれを得意としていた。そして人生の最晩年に,これまで培ってきたピアノ書法のすべてを注いで書いたのが「ディアベリ変奏曲」だ。これはバッハの「ゴルトベルク変奏曲」に匹敵する,クラシック史上に残る大傑作の変奏曲である。(p173)
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