著者 池澤夏樹
発行所 インターナショナル新書
発行年月日 2017.01.17
価格(税別) 740円
● 本書で何が語られているか。「はじめに」を読めば本書を読んだことになるかもしれない。著者が言いたかったことは,前半に集中しているように思われる。
何が答えかではなく,何が問題かが重要で,そのためにはインターネットのみに頼っていては話にならない。このあたりが本書の肝のように思う。
● 以下に多すぎるかもしれない転載。
人々が,自分に充分な知識がないことを自覚しないままに判断を下す。そして意見を表明する。そのことについてはよく知らないから,という留保がない。もっぱらSNSがそういう流れをつくった,というのは言い過ぎだろうか。(中略)議論はない。その代わりに罵倒の応酬があって,それでことが決まってゆく。社会を分断する力は強いのに,まとめる動きは弱い。(中略)ものを知っている人間が,ものを知っているというだけでバカにされる。(p8)
テレビを見ていると,ぼくは操作されているという不安をどうしても拭いきれない。新聞ならば見出しをみた上で,精読に価するかどうか判断して読める。自分の側に判断の余地がある。(p15)
世の中に無数のことが日々発生している中で何が問題かを知るには,およそ無関係と思われる記事が雑然と並置されている紙の新聞の,あの紙面が要る。インターネットには深さはあるが広さがない。(p17)
問うべき対象を確定した上で「答え」を探しに行くにはインターネットはとても役に立つ。しかし,それ以前の知的な構図を構築するには-「問い」を立てるには-インターネットだけでは充分でない。(p20)
大事なのは,多くの話題を拾いながら,ことの脈絡は自分でつくるということ。新聞などが提供するのはその素材にすぎない。自分なりの地図があって初めて,個々の記事や評論に価値が生じる。ここにいう脈絡とははっきり言えば偏見である。(中略)なぜならば偏見でない意見などあり得ないから。ニュースに沿って偏見を修正しつづけるのが現実を考えるということである。(p23)
ぼくは情報と意見から成る世界像を一頭の脊椎動物と見なしているわけだ。まずは骨があり,その上に肉があって皮膚で覆われている。だから元気に動くし,走りゆく方向は日々変わる。世界とはそのくらい実在感があるものだ。(中略)こちら(インターネット)は明確な構造を持たず,つまり骨格がなく,細部からひたすら増殖して条件次第でいくらでも変形するし,時にはすっと消滅する。生物でいえば粘菌に似ている。(p25)
中立とか不偏不党などという原理はそこにはない。あるはずがないのだ。報道は取材から印刷まで一段階ずつが選択であり,選択というのは主観的にしかできない行為だから。(p26)
書評の原理は何かというと,「評」の字はついているものの「評価」ではない。評価は,取り上げるかどうかを決める時点で行うもので,ゆえに,取り上げると決めた時点で済んでいる。よくないと思ったら書評をしないのが原則。(中略)基本は褒めるものだ。(p39)
フィクションでない本の場合,目次は丁寧に見るべきだ。ノンフィクションの目次というのは本の内容全体を表しているから,目次を読めば本の構成がだいたいわかる。とくに思想書や研究書の場合,読みだす前に展開を頭に入れておくかどうかで,本文の理解度が変わってくる。(p84)
はっきり言ってしまうと,古典を読むのは知的労力の投資だ、最初はずっと持ち出し。苦労ばかりで楽しみはまだ遠い。しかし,たいていの場合,この投資は実を結ぶ。(p89)
本と人とのあいだには相性というものがある。ゆえに,つまらないと思ったら,それは子どもなりの一つの批評なのだから,その批評を尊重すべきだ。(中略)面白くない本を最後まで読むよう強制されて本嫌いになるくらいなら,投げだしたほうがよほどましだとぼくは思う。(p92)
一般的に本というと,すぐに「蔵書」という言葉が出てきて,ストックになりがちである。(中略)ぼくと本の付き合いはもっぱらフローのほうで,コレクションの趣味はまったくない。だから蔵書は最小限。(中略)できるだけ本を身から放そうとする。引っ越しばかりしているから,という個人的な事情もある。(p114)
単に「昔読んでよかった本だから」という理由だけで取っておくことをぼくはしない。できる限り「いま」必要な本にこそ,書棚を使いたい。(中略)リアル書店は,一定期間たつと売れなかった本を出版社に返品する。それと同じ作業を個人の書棚単位でもする必要がある。(p120)
ぼくが自分の本を比較的早く手放していくのは,自分が死んだ後のことを考えるからでもある。蔵書が残ると,遺族が困る。(p123)
車は「動いていなければ車線変更はできない」のを思い出してほしい。(中略)書棚も同じ。動いているとはすなわち,新陳代謝しているということだ。本人が目を配っていないと始末はできない。いったん止まったら,そのときから棚は死んでしまうとぼくは考えている。(p124)
かつて,本はよく売れた。全百巻などという文学全集が各社から競って刊行され,大きな百科事典が何十万セットも売られた。しかし,だからと言って,その時期の日本人が特に賢かったとも思えない。(p129)
書物を選ぶ評語が「ためになる」から「おもしろい」に変わったのである。この評語を低級として退けることはできない。(p131)
ぼくは人付き合いがとても悪い。人と話すことでアイディアが生まれるという作家もいるようだが,ぼくにはそれはない。(中略)いま流行のSNSをやらないのも,手が回らないのもあるが,それ以前に人嫌いだからかもしれない。(p158)
メモはA4用紙と決めている。コピーの裏紙を使うこともある。(p163)
執筆用のメモにノートブックは使わない。一つのテーマには大きすぎるからだ。(p164)
明け方などに頭が冴えて,いいアイディアが浮かぶこともないわけではないのだが,最もアイディアが湧くのは,実は書いているときだ。書くというのはすなわち考えること(p165)
何を書くにせよ,執筆の途中でメモを取るのは役に立つ。(p166)
ノンフィクションでは,チャートを作って物を考えることはよくある。(中略)一方,フィクションの物の考え方の基本は時系列だと思う。(p171)
結局のところ,整理するにはどこかで努力をしなければいけない。どこに努力するかに,個人の個性が出る。(p173)
労力の節約のために整理をするのだから,整理そのものにはあまり労力をかけたくないわけだ。(p177)
「読む」については学校と自力,「喋る」についてはオン・ザ・ストリート。ぼくはこの方法でやってきた。(中略)状況に強制されたオン・ザ・ストリートに勝るトレーニングはない。(p181)
原書を読むとき,最初から辞書を引いてはいけない。わからない単語があってもあまり気にせずどんどん読み進める。(p181)
口承文芸というのは必ず目の前に聴衆がいる。一方的に読むだけではなくて反応がある。反応を見ながら次々に内容を変えていくことができる。(中略)しかしそれが本になって,活字になってしまうとそういうことができない。(中略)ぼくは作家として個室で一人寂しく書いて,買った人は個室で一人寂しく読む。それが本というメディアの一つの性格です。(p205)
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