読書で人生が変わるなどということは,まずもってないものでしょう。読書が人を賢くすることも,たぶん,ないと思います。 読書は安価でお手軽な娯楽であり,時間消費の手段です。それでいいというより,娯楽でない読書は可能な限り避けたいものです。 娯楽としての読書があれば,老後もなんとかしのげるのではないでしょうか。というか,しのげると思いたいわけですが。
2013年2月28日木曜日
2013.02.28 大橋鎭子 『「暮しの手帖」とわたし』
書名 「暮しの手帖」とわたし
著者 大橋鎭子
発行所 暮しの手帖社
発行年月日 2010.05.21
価格(税別) 1,714円
● 雑誌「暮しの手帖」の社主である大橋鎭子さんの自伝のようなもの。
一読して感じたことは,時代の重さ。戦争を生きなければならなかった人たちが,否応なく経験させられたことのあれやこれや。
そうしたことがらを抑えた筆致で綴っている。抑制は品の良さを産む。
● もうひとつは,大橋さんが当時のアッパークラスに属する人だったこと。戦後の貧しいときに,服飾を考えることができたというそれ自体,アッパークラスにしか許されなかったことだろう。
肺結核で亡くなった父親も,当時とすれば充分な療養を受けている。正直,羨望の念を禁じ得なかった。
● 戦中・戦後の混乱期に反物や洋服をもって農家に行き,わずかな米や芋に替えてもらった,という話が語られることがある(本書にも登場する)。それって,アッパークラスや中流が,農民(下流)にかしづかなければならなかった屈辱を語っているに過ぎないと言ってしまうと,言い過ぎになるか。
そんなことは,時代のほんの一瞬の出来事,時のいたずらに過ぎない。農民は持ちなれないモノを所有できて,舞いあがったことだろう。どうせろくな着こなしはできなかったに違いない。豚に真珠を地で行ったはずだ。あるべきモノがあるべきところにある,というのが一番だ。
が,彼らの心情は理解できるではないか。
● おもしろいのはやはり「暮しの手帖」にまつわるあれこれの話だ。恐ろしいほどの完璧主義。なるほど,実のある雑誌はこうして作られるのか。
この完璧主義が成立するには,しかし,いくつかの要件がありそうだ。上意下達ではダメだろう。完璧主義者が複数いることも必要だ。仕事なり職場なりが,基本,楽しいこと。その楽しさに乗って,部活のノリで行け行けどんどんってんじゃないと,完璧主義は貫徹しないかもしれない。
当然,脱落する人もいるだろうなぁ。ぼくなんかはいの一番に脱落しそうだな。
● 大橋さんって,苦労が身につかないタイプの人かもしれない。それがつまり,育ちの良さってことなのかも。
一番面倒な仕事(原稿依頼と催促)を妹とふたりでずっとやってきてるんですね。これって絶対できないって人がけっこういるんじゃないか。
● 「暮しの手帖」の哲学といってもいいんだろうけど,日々の暮らしを丁寧に,大切に。それが身についている人っているんだよなぁ。
これがぼく的には本当に難しい。間に合わせの連続で生きている。簡便&インスタント至上主義になっている。
● 「暮しの手帖」といえば花森安治。しかし,大橋鎭子がいなければ,「暮しの手帖」は間違いなくあり得なかった。というのが,読後の感想だ。
全体的に筆を抑えているから,読後感がスッキリする。後味がいい。
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