著者 波頭 亮
茂木健一郎
発行所 PHPビジネス新書
発行年月日 2012.02.03
価格(税別) 800円
● 本書の出発点となる問題意識は次のようなもの。
かつて「工業化の時代」では,中産階級に属する標準的な能力を持ったワーカーが多く求められました。彼らがみなで揃って一生懸命,まじめに働くことで,価値を生み出していたからです。 ところが,「標準的な人が標準的な労働」で生み出す製品が世界に溢れるようになると,そこで付加価値を生み出すことが難しくなった。その結果,ごく一部の人が生み出す発明や発想やリーダーシップが,時代を切り開いたり,大きな価値を生む時代に変わってきたのです。(波頭 p20)時代が変わってきたのに,日本と日本人はそれに対応できていない。対応するためにはどうすればいいのか。そういうことなのだろう。
● が,かすかに違和感も感じる。本当にそうだったのか。かつての工業化時代においては,標準的な能力の集合が価値を生みだしていたのか。
その時代であっても,「突き抜けた人材」がブレイクスルーをなしとげて,富の源泉を開いたのではなかったか。欧米のものまねだけでここまできたわけではないのではないか。
だから,この整理の仕方が本当に正しいのかどうか,ぼくは一抹以上の疑問を持つ。
● 日本の現状を打破する方向も,本書で語られているのとはまったく違ったところから顕わになってくるように思う。根拠はまったくないんだけど。
こういうのって,どうも,識者が語るようになった例しはないと思ってるんで。
● たしかに,価値の創造というか価値の転換という大業はグーグルやアップルが攫っていった感があって,日本のNECやSONYははるか後塵を拝してしまった。今や,存亡すら危ぶまれる有様だ。ゲーム機メーカーやカーナビの生産業者も,iPhoneやAndroidのおかげで商売あがったりだ。
けれど,通信技術やITだけが価値ではない。NECやSONYがイコール日本ではない。インターネットやITでヘゲモニーを握らなかったことが,逆に幸いするかもしれない。部品供給に徹したことが将来の活路になるかもしれない。
こういうのって,本当に塞翁が馬で,人知を寄せ付けないところがあるんじゃないかと思う。
● 以下にいくつか転載。
日本が一九八〇年代に一億総中流化を達成した以降は,エリート層やリーダー層の意識までが中流化してしまい,挙げ句の果てには能力まで中流化してきているように思います。(波頭 p24)これまた,1980年代以前のエリート層やリーダー層が以後に比べて優れていたのか。そうでもないんじゃないか,と。
日本の優秀な人たちは時代を切り開くリーダーではなく評論家なのです。具体的な解決策を見つけ,提言するような指向性に欠けていて,文句をつけることが仕事になってしまっている。(茂木 p27)
いま日本の大学生は四年間で一〇〇冊しか専門書を読みません。一方,アメリカの大学生は平均で四〇〇冊。四倍違いますが,これはかなり実感に近い数字といえます。それどころか四年で一〇〇冊という数字は,日本の学生ではかなり優等生の部類に入るように思います。(波頭 p33)
生きるか死ぬかの熾烈な競争がなければ,真のインテリジェンスも必要ありません。まさに日本のビジネス環境では,コモディティ化したインテリジェンスしか必要とされていなかったのです。(茂木 p39)
新聞やテレビも,「変わらなくていい。変わらないほうが,この社会では得をする」というメッセージを一貫して出し続けています。このような日本の現状維持装置は,基本的に匿名性によって支えられている気がします。(茂木 p41)
ザッカーバーグは日本にいたら,かなり初期の段階で絶対に潰されたでしょう。彼は社会的スキルは必ずしも高くなかった。しかしフェイスブックがあることで,アメリカがどれだけ助かっているかを考えると,彼のような人を排撃するのは,国家に対する罪です。(茂木 p48)
手先の器用さや職人芸というのは,日本人固有のものではなく,どこにでもあるものです。(波頭 p51)
日本大学芸術学部もそうですが,その組織が人材を輩出するのは,往々にして世間からの評価が定まっていないときです。評価が定まり,秀才たちがそこを目指すようになると,その組織の活力が低下するパターンが多い。 おそらく標準化されたテストでよい点を取る秀才と,「突き抜ける人材」とは相容れないのです。(茂木 p186)
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