2018年1月30日火曜日

2018.01.30 立川談志・山藤章二 『談志百選』

書名 談志百選
著者 立川談志
   画:山藤章二
発行所 講談社
発行年月日 2000.03.06
価格(税別) 2,500円

● 立川談志が芸人百人を選びだし,その芸人について書いたもの。というより,自身の芸談を披露したもの。
 芸人の中には,噺家や漫談師,浪曲師のほか,プロ野球選手やアナウンサーも含まれている。大衆相手に自分の姿を晒して,何ごとか(エンタテインメントになるわけだが)を伝える職業に従事している人は,広く芸人と考えているようだ。

● 古今亭志ん生
 つまり,勝手なのだ。手前ぇ勝手に生きていた。“周囲なんざァどうでもいい”というその了見は肉親にまで及び,家族を貧乏のドン底に叩き込み,はては娘まで売った。(p14)
● ビートたけし
 判りやすくいやぁ,たけしの人生,乞食から大名になったようなものだ。その乞食時代,彼の家族はたけしを一家の恥として敬遠したろう。それが,たけし売り出しの巻ともなると,一緒にTVに出てるなんざァ,恥も外聞もない家族である。(p18)
 たけしの人生,その姿,どこか,豊臣太閤と似る。そして,晩年もきっと・・・・・・。(p18)
● 林家三平

● 春野百合子
 その名人芸の一作を創るまでの血を絞る様な苦労,苦心はあるはづだ。で,そのプロセスのようなものを舞台の芸に感じる名人もいるし,幸枝若の様にそれをあまり感じない名人もいる。(p24)
 いっちゃあ悪いが,浪曲の客はワルい,レベルが低い。(中略)俗にいやあ,あまり演りたくない場所で,演じることのほうが多いのではなかろうか。一方,その方が真の大衆芸というのかも知れないし,私も散々そういう「客の修羅場」というべき場所で闘ってきたが,それは若い頃の修行でいい。(p26)
● ケーシー高峰
 あのネ,皆さん,教えとくが,「上手く演じる」なんざァ芸人の恥なのだよ。(p31)
● アダチ龍光

● マルセ太郎

● ザ・ドリフターズ
 ドリフターズのTVショウは,「素人共の悪ふざけ」ではない。修練に修練を重ねた技芸と稽古の積み重ね,加えてギャグの集大成なのだ。(p40)
 家元,ドリフは認めたが,コント55号は認めなかった。面白くも何ともなかった。(p42)
 加藤茶は日本中の子供に影響をあたえた。それが“よろしくない”と世間の母親と称するバカ共はTV局に文句の殺到ときた。“世にバカ親の種は尽きまじ”だが,「バカは隣の火事より怖い」。(p43)
● 中田ダイマル・ラケット
 現代のように二人が勝手に喋る漫才ならセンスさえありゃすぐ出来る。『パペポ』がいい例だが,上岡と鶴瓶がどうあがき,どうやってもダイマル・ラケットの足元にも及ばない。そのことは勿論二人共知っている。(p47)
● 玉置 宏
 彼の舞台は歌手のツマミ,ヨイショどころか,己れ自身が歌い手を巻き込んで,結果己れの舞台にしているのだ。判りやすくいうと歌手の私物化,歌い手を利用して自分のショウなのだから凄え,いや酷え。(p50)
 「でもサ,よくつき合ってるネ,仕事となりゃあ舞台を含めて一緒に飯ィ喰ったり,喋ったりするだろ,よく我慢してるネ」に玉さん,「一週間が限度ですよ」とサ。(p50)
 咄家それぞれ,伝説になっており,何か人間として深い経験と,人生観があるように思われているが,世の中に,これくらいの錯覚は他にあるまい。(p51)
● 泉 和助

● 桂 文治

● ジミー時田

● 横山ノック
 本質的に物事が理解っているのだろう。つまり,知事とは何ぢゃいな,大阪人とは何かいな,いえ,“人間ってなァあんなもの”と識っているのだ。少なくとも人間を常識という学習から眺めていない,不完全なものとして人間を見ている感がある。(p64)
● 春風亭柳好

● 景山民夫
 粋の裏腹に野暮の存在を含めないと粋でない(p74)
● 橘家円蔵

● 早野凡平
 けっしてギャグを強く入れない,そして追わない,優しい,上品な芸だ。(p83)
● 薗田憲一とディキシーキングス

● ショパン猪狩

● 柳屋三亀松

● 沢登 翠

● 鈴々舎馬風
 落語の一席と違って,漫談で客ぅハズしたらこんな始末のつかないものはない。噺なら落げぇいって降りてくりゃ済む,けど,漫談はダメ,一席全編受けてなきゃ駄目なのだ。(p100)
● 海老一染之助・染太郎

● 横山やすし・西川きよし
 芸人全盛で死ねりゃ一番だが,因果と生きる。芸の持続があればよしだがまづは無理だから,無残な姿ぁ晒す事になる。それも芸人の生き様だが見てて辛い。(p111)
● 柳屋小さん

● ナポレオンズ
 何故か,この二人が好きなのだ。何処かで信用しているのも不思議だ。きっと“何かある”“何か持ってるはづだ”と思ってるけどまだ一度も見た事はない。それが奴等の芸なのかネ,そう思わせるところがサ・・・・・・。(p118)
● 東 武蔵
 きっと若き頃,浪曲界には名人,上手が居並び,とてもぢゃないが,“正攻法ぢゃ敵わない”“若くして世には出られない”,との発想から創り上げた武蔵節。(中略)少なくとも“苦しまぎれ”と家元は見ているのだが,「変則芸が当たる」世にこれほど独創的なことはない。(p123)
● あした順子・ひろし
 したたかな芸歴の二人は,現代を喋ろうとして“若さを求める”ということをしたときにそのまま現代から遠ざかるのだということを,芸の何処かで知っているのだろう。(p124)
 これらのドロ臭い芸というのが,根強く寄席に残っているということは,むしろ大衆の本音はドロ臭いのが好きなのかも知れナイ・・・・・・。(p126)
● ディック・ミネ

● 高田文夫

● 松井錦声

● ミッキー・カーチス

● 桂 三木助

● トニー谷

● 立川志の輔
 家元別に年齢なんざァどうでもいい,そ奴の芸に対する執念だけが勝負であり,その執念さえありゃ志の輔ぐらいにゃなれる。(p154)
● 山野一郎
 世の中の人達は自分が生きていなかった時代は“オレ知らねえ”と云い,演者が昔話をするだけで,それを唯単に「古い話」「知らねえハナシ」と頭からきめ,己れの知ってるその時代のことのみ受けるので,“それに準じる芸人がほとんど”となるが,結果それが芸人の命とりになるのだ。(p159)
● 田中 朗
 つまり己れから売り込むようなことは一切やらない。いえ出来ない,シャイなのであろうが,裏ぁ返せば傲慢なのである。(p163)
● 三橋美智也
 三橋美智也の最大の欠点は「己れは大歌手なのだ」という自覚がなかった,の一言に尽きる。(p164)
● 中村勘九郎

● 三遊亭円楽

● 千葉 茂
 千葉が二塁を守備ってたから川上は守備は放っといて打撃に専念出来た。一,二塁間のゴロは全部千葉が捕っていた。(p178)
 我家に千葉さんと,中上(英雄)さんをゲストに喋った宝物の録音がある。川上なんざァ,ボロクソだよ・・・・・・つまり,了見が違うのだから仕方ない。(p179)
● 大地真央
 役者自身が好きな台本をやると失敗じる例のほうがむしろ多いのが今迄の芸界の歴史でもある。(p183)
● 三遊亭可楽
 (「今戸焼」の)内容は一口にいうと「愚痴」,唯愚痴である。その愚痴の基本は映画俳優や歌舞伎役者に対する咄家という己れの稼業の卑下だ。何が嫌だったって,己れの稼業を卑下する奴ァ最低だ,嫌なら廃業ゃいい。(p184)
● 松旭斎すみえ

● 曾我廼家十吾
 “役者当人が消えて,そこに役の人間のみが浮かんで来る,これが名人”などということをいっているのではない。そんなこたァ出来る訳がないのだ。しかし,そこかで観客はこの状態を希望むというのは一体なんなのだろう。(p195)
● 海原お浜・小浜

● デープ・スペクター

● 桂 米朝
 人間,出来そうもないものに本気でぶつかり,「努力で解決」なんて嘘である。才能もないのに,巨大なものに挑戦する奴あ唯のバカで,結果バカだから駄目に決っている。(p206)
● 色川武大

● 小林のり一
 粋なんてもんぢゃない。乗り越えてケツカル,理解る奴にゃ堪らない。けど,一般にゃ受けるはづがない。当人も承知だ・・・・・・。(p214)
● 小金井櫻州

● 爆笑問題

● 舞の海

● 柳屋小半治
 生活は浮浪者に近い世界で平気ていたっけ・・・・・・。それは文字通り「平気」であり,一つも卑下はない。(p231)
● 小野 巡

● 立川談春・立川志らく
 芸に完成はない。その芸人のプロセスが芸である。(p238)
● 毒蝮三太夫

● 金原亭馬生

● ボン・サイト
 よく世の中,「不器用でも,下手でも芸熱心ならいつか良くもなる」というけれど,それは違う。世の中に「不器用な芸熱心」ほど始末の悪いものはない。けど,ボン・サイト,不器用,熱心が暖かさという人柄を背景に花が咲き実ったのだ。(p250)
● 和田信賢

● 上岡龍太郎
 大阪人が知性なんぞ,なまじ持ったら東京にゃ受け入れられない,というこった。(p258)
● 柳屋権太楼

● 中村江里子
 女子アナファン,それぞれの贔屓はあるだろうが,“江里子さんダントツである”。それはくどいが,その容姿である。(p266)
 「人間本当に下劣になると他人の不幸しか喜ばなくなる」というが,その通りの世の中となった。(p267)
● リーガル千太・万吉

● 苅田久徳

● 林家木久蔵
 木久蔵の奴ぁ世の中ぁナメてかかっているのだろう。「どう気負ったって所詮世の中,たいした事もあるまいに,なら己れの才能のチョイ出しで充分,軽く世の中そこそこ渡っていける」と踏んでいるに違いない。だからけっして無理ィしない,家元の如くシャカリキに物事に対峙しない。そんなこたァ“野暮の骨頂”だ,と思ってケツカルのである。(p278)
 してみりゃ妙な奴どころか,したたかな奴なのだ。「人生なんてたいした事はない」という落語の本質を身体で,頭で,識っているのである。(p279)
● 藤村有弘
 いや,はや,どうも。こんなに上手い,「見事」の一言に尽きる「世界の語り」は他に類を見ない。(中略)タモリにゃ悪いが,ケタが違う。プロとアマチュアの差だ。(p282)
 芸は「意味」で楽しませるより「音」で楽しませるほうが楽なのだ。ただし,出来ればネ。(p282)
● 森繁久彌
 その森繁久彌,「屋根の上のヴァイオリン弾き」からおかしくなっちゃった。面白くも何ともない芝居で,見ていた家元思わず客席から怒鳴りたくなった。(p286)
● 神田松鯉

● 桂 文珍

● コロムビアトップ・ライト

● 笑福亭松鶴

● 式守勘太夫
 ズバリいやぁ勝負は行司に任せるべきだ。「物言い」は付けても,それがTVのモニターを結論とすると,相撲の権威が失われてしまう。(p307)
 それ故にその行司の品位というか,容姿が内容と共に大切なことになる。で,勘太夫の土俵姿に惚れ惚れするのだ。(p307)
● 三遊亭円生
 文楽師匠に至っては,この昭和の名人に対して“円生は無駄ばかり,私の咄は全部十八番・・・・・・”といったが,世の中に,これ程の誤解はない。咄家の芸評なんて,こんな程度だったのだ。(p311)
 円生師匠が,下手な奴ァ真打ちになる資格がない・・・・・・,といったとき,珍しく我が敬愛この上もなかった人生の兄貴色川武大がいった。“円生だって真打ちになった頃は下手もいいところだったのに・・・・・・”(p311)
● 山城新伍

● 松山恵子

● 十返舎亀造・菊次
 寄席の世界に入ったときに,誰だったかそこそこの真打ちがいった。「亀造みたいにあまり考えると早死にするんだ」。これを聞いて怒りがこみ上げてきた。(中略)これが寄席の世界では通行しているのだから,滅びるのも当然である。(p323)
● 船村 徹
 船村徹にとって一生の痛恨は高野公男の若き死であるはづだ。友は死して石の下に,“寒いだろう,辛いだろう”と墓石に書いた船村徹の詩は胸を打つ。(p326)
● 古舘伊知郎
 だが人間,芸を求めたときにこの平衡感覚という世の常識が邪魔になる。また邪魔にならない奴の芸なんて面白くも何ともない。
● 三遊亭百生

● 三木トリロー

● 権藤 博
 勝っても負けても驚かない,変わらない,人生勝ちもありゃ,敗けもある。“人生勝たにゃ駄目よ,勝って何値やからな・・・・・・”等とホザく貧乏者共とは訳が違う。(p340)
 “プロは教えるもんぢゃあないよ”,精々譲って「アドバイス」。また,教えられて何とかなる奴ぁいないよ。かのイチロー,誰かに教わったわけでもあんめえ・・・・・・。(p342)
● 笑福亭鶴瓶
 放っておいても騒動になる,巻き込まれる。持って生まれた才能だ・・・・・・(嫌な才能だが),これを称して「芸人の才能」という。「芸人の本質」なのである。この「才能」に競べりゃ「技芸」なんて屁みたいなものだ。(p346)
 メチャ鶴瓶を救っているのは,彼の意外や「平衡感覚」なのであり,逆にいうと,それが鶴瓶の本質から鋭さを失わせる。つまり規格品の刃物となり,どこの店でも売れるのである。(p346)
● ジャック武田

● 三遊亭金馬

● ダウンタウン
 松本のスタイル,行動の全てに照れが漲る。家元照れない奴ァ嫌だ。バカなんだ。バカぁ照れない。(p358)
● 夢路いとし・喜味こいし
 爽やかで,キレイであるからその逆の「強烈さ」とか,「これでもか」という姿勢をとらないのだ。(p362)
 このコンビあまり観客の「笑い」という反応に答えない。己れ達の作品を見事に演じることが主となっている。(p362)
● 中尾 彬

● 白山雅一

● 立川談四楼

● 古川緑波

● 澤田隆治
 とことんやらねば気が済まない,その行為はコメディ作りから始まって「大阪漫才」,「上方落語」,演芸一般,つまり全部ということ。現在は浪曲にも関わり合っているが,これまた資料を徹底的に集め分析し,“何とかそれが世に出ないものか”と行為を起こす。見ていてやるせなくなる。(p382)
● 桂 三枝

● 広沢瓢右衛門
 伊藤仁太郎こと痴遊の作品,『痴遊全集』は凄い。正・続三十巻はある。ちなみにいうと司馬遼太郎の維新物のネタの源はこの痴遊全集であろう。“あろう”でない,“だ”と断言出来る。(p390)
● 神田伯龍

● 森サカエ
 歌手のくせに歌手に何処か劣等感を持っている。といって,「芸術といってはいるがそれほど客は思っていない」,ということにも薄々バカなりに気がついている,ということだ。(p396)
● 柳家金語楼
 日本中に金語楼を知らない人はいなかった,ということは「誰にでも解る“笑い”」ということになり,それはイコール薄い笑い,もっというと「軽薄な笑い」と,その道のプロはいう。さァ,それだ,その問題だ。一と口にいやあ人間何で笑おうが,大きなお世話だ,他人がとやこういう筋合いはないはづ・・・・・・。けど,それをいう,いうからには理由がある。その理由はそれを認めることによる己れの不安なのである。(p402)
● 林家正楽

● 桂 文楽

2018年1月28日日曜日

2018.01.28 和田秀樹 『心の習慣ひとつでお金が集まる人になる』

書名 心の習慣ひとつでお金が集まる人になる
著者 和田秀樹
発行所 新講社
発行年月日 2007.09.20
価格(税別) 857円

● 「お金が集まる人」になれれば,こんないいことはない。この手のタイトルに心を動かさない人はいないだろう。どんなに使ってもお金が減らない程度に金融資産を保有している資産家は別にしても。
 一方で,こうしたタイトルに何と下品なと顔をしかめる人もいるかもしれない。著者によると,そういう人が「お金が集まる人」から最も遠い位置にいる人,ということになる。

● 「お金が集まる人」になるための「心の習慣」とは,まずはお金を嫌わないこと。お金なんてと思わないこと。いやいや、積極的にお金を好きになること。
 それ以外には,動くことを億劫がらないこと,社交を避けないこと,短気でないこと,明るいこと,といったあたりになるようだ。

● クレジットカードは使うなという話も出てくる。払うべきものは現金でサッサと払え,と。クレジットカードを使うのは,支払いの先延ばしであって,財布から活気が失われてしまうのだ,と。昔,邱永漢さんも同じことを言っていた。クレジットカードを使うのは借金と同じだ,と。
 本書が出たのは10年前。このあたり,今はどうなんだろう。内容からして経年変化はないはずだが。

● ぼくも買物はクレカがメインになった。コンビニで500円の買物をするときもクレカを使う。スタッフもそちらを歓迎するようなのだ。現金の授受がなくなる。釣り銭を間違えることもなくなる。
 現金を持ち歩かなくてもすむから,現金絡みの事故も減る。できれば,1枚のクレカですべてがすむようになってくれればいいと思っている。今はまだ現金を持ち歩かないですますわけにはいかない。
 ということで,ぼくの財布からは活気が失われているかもしれない。

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 支払いをズルズルと引き延ばす人は,請求すべきお金も何となく後手に回ってしまいます。義務も権利も曖昧にする傾向があるのです。お金に対してこういう曖昧さを持つと,自分の周りでお金が動かなくなってしまいます。(中略)何より活気がないのです。「お金が集まる人」は,この「お金の活気」というものをとても大事にします。(p32)
 支払うべきお金はバッサバッサと支払ってしまうことです。(中略)少なくとも,減らないように減らないように心がけてケチケチ暮らすより,出ていくお金があるだけでも財布には活気が生まれます。(p34)
 お金に縁がないと思っている人は,たまにまとまったお金が入ってくるとココロが乱れてしまいます。(中略)入れ物が小さいから,入り切らないお金がどんどんこぼれていくのです。(中略)「お金が集まる人」は,大きな額のお金を持っても小さな額のお金を持っても,態度が変わりません(p41)
 「たまの贅沢」を楽しんでいる限り,お金は残らないというのがわたしの考えです。(中略)なぜなら年収三百万円でも「たまの贅沢」が味わえるからです。(p48)
 「たまの贅沢」を楽しむときは,値段にこだわらないものです。(中略)お金が集まらない人には,万事にこういう傾向があります。その場の雰囲気を壊したくないから,値段のことは後回しにしたり目をつぶったりするのです。セールストークに弱いのもこういった人たちです。(p51)
 「お金が集まる人」は貧しさを楽しめますが,お金が集まらない人は贅沢を楽しめません。(p53)
 あるIT関連の社長は自分のブログにその日の食事を詳しく書いていますが,サラリーマンでも自腹で飲み食いできる店がほとんどです。その代わり,いつも「うまい,うまい」と子どものように喜んでいます。値段ではなく味を楽しむことに徹すれば,金持ちも貧乏も変わりありません。(p54)
 お米でも肉でもふだん飲むお茶でも,値段の高いものが味もいいことぐらい知ってします。でも,たとえそういったものがバーゲンで売られていても買いません。買ってその味に納得してしまえば,通常の値段に戻ってもつい買ってしまうことを知っているからです。(p57)
 自分の時間単位の価値がわかれば,勉強するときや遊ぶときでも真剣になります。「わたしの一時間にはこれだけの価値があるんだ」と意識すると,その一時間を費やして取り組む勉強をおろそかにすることはできません。(p73)
 そうして自分の単価を低く見積もることに,何か意味があるのだろうかというのがわたしの考えです。低く見積もればそれだけ働く意欲も低下するし,時間の無駄遣いが増えてきます。(p77)
 収入が増えるということは,それだけ使えるお金が増えるというだけではなく,自分の価値が増すということなのです。いままで以上に時間の無駄遣いができなくなるということなのです。(p84)
 とにかく分野を問わず,自分の売り物を磨き続けることです。まずはそれが第一歩。楽しみながらできることであれば,きっと長続きするし,あるレベルまで達すれば,情報交換によって加速度的にレベルが上がっていきます。可能性はいくらでもあるのです。(p86)
 お金というのは人の集まらないところには決して集まりません。したがって自分のネットワークを広げるのはお金儲けの第一歩になります。けれどももっと大事なのは,そのネットワークを通してコミュニケーション能力が磨かれるということです。これからの時代,お金持ちになるための最低条件はコミュニケーション能力に優れていること,といえるでしょう。(p87)
 「お金が出ていく人」は,周囲に同じように「お金が出ていく人」だけを集めてしまいます。自分にない個性や長所に出会っただけで尻込みしてしまいます。でもこれは,性格ではなくコミュニケーション能力の差でもあるのです。(p94)
 長い人生のサイクルを考えれば,順調な時期だけということはありえません。どうしてもお金が出ていく時期があり,減っていく時期があります。そんなときに明るく我慢できるか,一発逆転を狙って悪あがきするかで,結果に大きな違いが出てきます。(p98)
 お金の性格を考えたとき,いつも感じるのはお金が明るい場所に集まるということです。(中略)わたしたちはお金に対してやはり明るいイメージを持つべきです。儲けることは楽しいことだと誰もが認めていいのです。(p106)
 自分の器が仕事を飲み込んだと思ったときは,もはやその職場に居続ける意味がなくなります。これが仕事の選択だと思ってください。(p116)
 (株の)ハイリスク・ハイリターンの危険性にいまさらのように気づいて,やっぱり自分には向いていないと考えて手を引くか,損を「授業料」と考えて自分なりの金儲けの方法をさらに追い求めていくか,このどちらかです。そしてわたしの考え方を説明すれば,これからの時代,人生をよりたくさん楽しめて自分の夢の実現に邁進できるのは後者になります。(p122)
 世の中にお金の嫌いな人はいないはずですが,嫌う素振りをする人はいます。そういう人には,じつはお金のほうも近寄って来ないのです。(p126)
 お金というのは人生観や世界観をどんどん大きくしてくれます。一万円しか自由に使えない人と,百万円を自由に使える人では考え方がまったく違うように,その数字が大きくなれば大きくなるほど,自分の人生に限りない可能性が広がることは間違いないはずなのです。(p131)
 とにかく越えにくいのは最初のハードルなんだと気づいてください。それさえ踏み越えてしまえば,あとは弾みをつけてポンと飛び越えるようになります。起業にはとくにそういう傾向があります。(p135)
 自分の欲望に一度は忠実になってみることも必要だと考えるのです。それをしない限り,お金持ちになれないということもありますが,もっと大事なのは欲望に従うことで人生に大きな弾みがつくということです。(p142)
 彼(イチロー)には独特の“言葉”があります。一打席一打席をふり返って自分の言葉で分析できる選手というのは正直言って驚きです。(中略)いまはまだ口にできないことも相当あるでしょう。それでも分析だけは続けていますから,イチローのバッティング理論を聞いてみたいというファンにとって,たとえ引退しても魅力に満ちた選手ということになります(p147)
 サラリーマンが美味しいラーメン屋を「発見」してもせいぜい話の種になるぐらいです。けれどもこの「話の種」があなどれないのです。(中略)世の中にはこのタネを持ち合わせない人が大勢います。コミュニケーション能力は,自分と異質の人間や考え方の違う人間ともつながりを持つ能力であって,同僚や友人といつも同じ話題を繰り返す能力のことではありません。けれども(中略)「話の種」がなければ隣の人物と接点も持てないことになります。(p151)
 人はこういう場所に集まるのです。その人の周りにはいつも愉快な話題や刺激的な話題があって,絶えず好奇心をくすぐられる場所に人間は集まってくるのです。(中略)これだけは間違いなく言えることですが,「お金が集まる人」の周りにはいつもたくさんの「話の種」が散らばっています。(p154)
 アイデアはいろいろな意見に揉まれているうちに具体的になっていきます。(p155)
 男性も身近な女性の変化には注目すべきです。もちろん自分が食べたり飲んだり街を歩いたりする場合でも,女性をキーワードに絞って変化を探すべきです。いつの時代にも,女に無関心な男はお金にも無関心なものだとわたしは思っています。(p159)
 同じだけの情報量を個人が集めることはまったく不可能なのですから,他人の話は宝の山と考えることだってできるのです。その中にはいくつか「なぜだろう?」と不思議に思う情報が混じっています。(中略)「なぜ行列に我慢できるのか」「なぜあんな不便な場所に人が集まるのか」「なぜあんなに値段の高いものをみんなが買い求めるのか」 そういったふと浮かぶ疑問に,自分なりの答を出してみる習慣をつけることです。(p160)
 「お金が集まる人」に共通して備わっているのは,まず自分が動いてみるという素早さです。(中略)よく「ケチは金持ちになれない」と言います。これもケチに徹すれば一切のお金を出し惜しむことになり,自分から動くこともなくなるからです。(p162)
 どんな情報やアイデアでも,その成否や成功のパーセンテージを考えているヒマがあったら実行に移したほうがいいし,どんな事業でも最初に手がけた人間にお金が集まるのは当然のことなのです。(中略)思いついて実行に移したときがいつも絶好のタイミングなのです。(p162)
 お金儲けには性格も関係してくることになります。万事に楽観的で,思いついたことはためらいなく実行に移せる人間でなければ,「お金が集まる人」にはなれないということになります。(p163)
 自分の堅実さを活かして,なおかつ「お金が集まる人」へと踏み出す方法があります。それは他人の後ろに従うことです。堅実な人だからこそ見極めることができる,「この人なら」と思える上り調子の人間についていって,自分の運を試してみることです。(p163)
 いまはどんなに雑学的な知識にすぎなくても,情報発信することでその分野のオーソリティになることができます。しかもそこから広がるネットワークがかならず生まれます。このネットワークこそ,貯金と同じで何を始める場合でも大切な元手になってくるのです。(p182)
 たとえば銀行や証券会社で二十年間働き続けてきた人間は,いまのわたしが経済や金融の本を読んで「なるほどなあ」と思うレベルをはるかに超えています。(中略)だからこそ不思議になるのです。どうしてその知識や体験をもう一度加工して自分の土俵にしないのか。(p183)
 お金というのはとても自由気ままで,少し気を許すとたちまちどこかに翔んでいってしまうということです。気を許すというのは贅沢や無駄遣いも含みますが,それだけではありません。「お金持ちなんて無理だから,いまのままでいいや」 そんな気持ちがじつはいちばん,お金に嫌われてしまうということなのです。(p188)

2018年1月27日土曜日

2018.01.27 中川淳一郎 『ウェブを炎上させるイタい人たち』

書名 ウェブを炎上させるイタい人たち
著者 中川淳一郎
発行所 宝島社新書
発行年月日 2010.02.24
価格(税別) 667円

● 副題は「面妖なネット原理主義者のいなし方」。『ウェブはバカと暇人のもの』の流れ。よほどこの本は売れたに違いない。
 面白かったもんな。痛快だったし。自分のことを棚にあげて,まったくそのとおりだ,よく言ってくれた,と快哉を叫びたくなる本だったからね。

● 本書の肝は「はじめに」に述べられている。
 この15年ほど,インターネットは技術決定論的に語られてきた。要するに,「この技術を使えばこーんな夢みたいなことが起こりますよ!」ということだ。これは罪のなく頭の良い「技術ちゃん」を善人が理想的な使い方をする時に発生する原則論である。(p14)
 心が弱く,あまりコミュニケーションも上手でない人がネットに救いを求めてもロクなことはないし,企業がネットユーザーの善意を信じて色々やろうとしてもロクなことは起こらない。(p19)
 ネットで目立とうとしても,目立てるのはすでに高い能力を持った人だけである。(中略)「イケている人をますますイケている人にし,イケていない人との格差を広げる」のがインターネットなのである。(p19)
● 著者がそう考えるに至った源泉は,ネットニュース編集者としての経験。さんざん煮え湯を飲まされたというか,こんなヤツがいるのかと驚かされたというか(しかも,そういうのが普通にいる),そうした経験を山ほど積んできた。
 それが仕事であるなら,人はたいていのことには耐えられる。老人介護施設で介護にあたっている人たちも,それが仕事だからできる。自宅で自分の親にできるかといったら,たぶんできないだろう。
 仕事でも耐えがたかったとなると,それは相当以上な辛さだったのだと,とりあえずは推測できる。でも,著者はその仕事を仕事として全うしたようなのだが。

● 以下に転載。
 人間には真に大切な人間はそんなにいない。(中略)それなのに,自分に関する情報をインターネットにアップし,のこのこと他人との関係を作ろうとし,もともと意図はしていなかったものの,あえて摩擦を起こそうとする人々がうじゃうじゃしているのがインターネットなのだ。(p25)
 ブログから書籍デビューした人は大勢いるものの,一発出して終わりの人が多く,継続して書籍を出し続けたり,そのままメジャーになった人はあまりいない。さらに,身も蓋もないことだが,女性に特に顕著な「顔がいい」ことが重要になっている。(p28)
 ネット上の自己表現・発言を勧める彼らはネットリテラシーも高く,頭も良い人々であり,さらには社会的地位も高い人々であるから不用意なことを書かぬ配慮や経験則,バカを論破するだけの能力を持っている。自分に能力があるからこそ,「みんな情報発信原理主義」的なところもあり,「皆が情報を発信できるのは素晴らしい!」という考え方を持っている。(p31)
 09年秋~10年初頭にかけ,完全にネット界ではツイッター狂想曲のような状況になっていた。(中略)その結果,どれだけの企業がトンチンカンな使い方をし,そこにわざわざ人員を割き,炎上対策の会議をするなど,どれだけ余計なコストが増えたことか! 手段が目的化した場合,ネットで情報発信などしても意味はないのである。(p39)
 ネットの世界で最強なのは「失うものがないバカと暇人」なのだ(p40)
 「一流大学を出て,一流企業に入った」というほぼ同じようなクラスターで育ちも同じような人間同士でさえ,社内では軋轢ばかりが生じているのに,そんな育ちも考え方も生活レベルも,これまで経験してきたこともあまりに違いすぎる人間同士が分かり合えるわけがないのだ。インターネットはこうした「分かり合えぬ人々」同士の接点を増やしてしまった。(p46)
 下劣な行為は,背後にどんな理由があれど下劣だ。炎上させる人間はろくでなしだ。それが私の結論だ。(p69)
 本来,人を批判するには自分が反論されることを前提にしているべきはずだ。しかしネットでは,それが不要なのだ。(中略)罵倒された側はどこの誰かも分からない人間に対してどう反論して良いのかも分からないので泣き寝入りをする。(p83)
 「玉石混交の中から『玉』を見つければいいじゃん!」と言われるかもしれないが,そこまで作業する必要はない。(中略)書店へ行けば,ピッタリのことが書かれた本を買うことができる。(p84)
 日本の企業や日本人の実名ブロガーは,どう考えてもおかしいクレームに対し,妙に誠実に対応しているが,そんな必要はない。バカはバカなのである。無価値の意見など聞く必要もないし,そんなものはゴミ箱に捨ててしまえばいいのだ。(p84)
 企業はネット上でブランディングが達成できることや,ユーザーがファンになってくれ,クチコミをしてくれることを夢見てきた。会員サイトを作ろうとしても,ブランディングを重視し過ぎるあまり,余計な音やFLASHが入っていて,ユーザーからしたら本当に知りたいものを見つけられない。(p100)
 ネットユーザーはただ自分が好きだから,面白から使うのである。そこは情報の送り手側がコントロールできるものではない。(p101)
 脊髄反射で反論をする必要はない。無視するのが一番である。(p138)
 無料メディアの二大巨頭・民法テレビとネットの親和性の高さは“神レベル”である。(中略)メディアとしてのネットを語るにあたっては,本来テレビの存在は避けて通れないのだ。テレビで観た印象がそのままネットに反映されると思っておいた方が良い。(p151)
 極論を言ってしまうと,ネットへの書き込みなど,ほとんどはバカバカしいのである。(中略)宣伝目的の二流芸能人が「今日のランチはカルボラーナ 量は多かったけどデザートは別腹」などと書き,それに対し暇人が「カルボラーナ,おいしそうですね」と返答をする。はっきり言うと「五流以下のゴミ溜めのような言論空間」がインターネットの大部分なのだ。(p152)
 「本当にクレームする必要のある人は商品のパッケージに書かれた電話をかけてくる」と言いたい。投稿フォームがあってクレームをつけやすいから,本気でもない人間からクレームを受け,炎上するのだ。(p153)
 ネットの双方向など,意味はない。時に「ネットの人の意見で素晴らしいことが起こった」と言う人がいるが,「ネットの人の意見で苦しんだ」という人の方がどれだけ多いか?(p154)
 ネット上に自分の名前を出すことの利点を勝間氏や佐々木氏は説くが,そんなものは特に目立った実績もなければ,個人名で仕事を取りたい人以外には意味がない。あまりネットの力を過信し,それを伝導するのはどうかと思う。(p157)
 イケてる人は,自分から何もせずとも勝手に仕事は来るものである。(p161)
 最近,新しい飲食店に行く場合はグーグルで検索をするようにしている。(中略)「クーポンを発行している」ことが明らかになったら「必死に宣伝をし,さらにはクーポンを発行しなくては客が来ないレベルのたいしたことない店」であることが明白になる。そして,実際に店へ行ってみるとその判断は正しいことが実に多い。このように逆の検索もできるのがインターネットである。(p161)
 人間など,自分とは考えが違う人があまりにも多いから多様性があって面白いのではないか! そして,多様性があるからこそ,様々なものが生まれるわけだろ! もう少し,自分とは違う人も認めてあげようよ!(p167)
 10年現在,日本のインターネットユーザーは9000万人を超えた。もはやこれは「世間」である。リアルの世界で世間,そして他人に期待をすることはますます減っているにもかかわらず,インターネット上ではあまりにも他人に期待し過ぎる。(p170)
 最近はとにかく「個人情報」が大切にされている。(中略)それなのに,同様に「世間」であるネットうえにはなんとまぁ,プライバシーが転がっていることか! どれだけ人は自分のことをさらけ出すのか!(p170)
 だいたい,立場のある人間が,自分のことを他人に知らしめる必要もないのである。(p175)
 テレビやゲームや漫画,雑誌や本,アミューズメント施設なども,「暇つぶしの多様化」をもたらしているだろう。だが,ネット業界にいる私から見ると,彼らは「実」があるように思えてしまう。(中略)受動的な情報の収集は時に思いがけぬ知識を与えてくれる。ネットは,基本的には自分の興味のあることだけを深掘りしていくため,こんな思いもかけぬネタを拾うことは難しい。(p193)
 インターネットにハマり,そこに使う時間をいくら増やそうが人生は豊かにならないからだ。むしろ,ブログを必死に更新したり,ネット上で何かと議論をしたり,コメントを書き残したりする行為は暇つぶし以外の何物でもない。(p204)
 ネット系のイベントやオフ会に参加すると顕著なのだが,はっきり言ってしまうと 参加者が子供っぽい のである。無邪気にネットやブログ,ツイッターの凄さを語り合う。(p207)
 「情報を整理できる」「検索が可能」というとんでもなく有用な機能以上に何を求めているのか?(中略)2ちゃんねるは1999年の開始以降,「殺風景な灰色の画面に次々と文字が書き込まれる」という基本的な機能は何も変わっていない。というかもはや「スレッドに文字を書き込む」という2ちゃんねるの機能が究極の進化だったのである。(p210)
 ネットはそれほどすごいことをもたらさない。(中略)一日の多くの時間をネットを見ながら過ごしていると,「結局すごいかすごくないかは使う人間次第」という話になる。(p213)
 ネットはあくまでも情報をアップし,拡散する手段でしかない。すごいもの・すごい人がますます目立つためのツールなのである。そこでは凡庸な一般人が凡庸な才能をいくら披露しようと無視されるだけで,現実の辛さを味わうに過ぎない。(p214)
 気付かなければいけないのが,ネット上で流行っていること,ネット世論など,ネット上だけに存在するものでしかないということだ。(p217)
 では,ネット上で情報発信する本質とは一体何だったのか? すでにイケてる人が,その知名度と財力を元にさらに宣伝でき,ますます儲ける手段を手に入れたということだ。(中略)いきなり1万人がフォローしてくれるのも,宣伝行為が可能なのも,人々が親切に色々教えてくれるのも「有名人特権」に他ならない。(p219)
 多額のカネを使ってブランドサイトを作っている企業の人々には悪いが,ネットをプロモーションに最大限に活用しているのは風俗店である。(p243)
 『Twitterの衝撃』なんて書籍タイトルは所詮「単4アルカリ乾電池の衝撃」と同じ程度の意味しかない。(p243)
 この15年間,日本を覆いつくしたインターネットのへの過度な期待・・・・・・これは何だったのか? またまた残念な結論になってしまうが,「子供のおもちゃ自慢大会に大人が巻き込まれた」ということでしかない。ネット上の日記,掲示板,アプリ,ブログ,SNS,ツイッター,セカンドライフ,質問サイト,レシピサイト,クチコミサイト・・・・・・。いずれも暇つぶしに最高の材料を与え,働き盛りの世代の人々の生産性を落とした。(p244)
 ネットに書かれている情報は時に数千万人が一気に知ることになる。それらは知識として押さえておいても良いが,それだけを知っていても他者との差別化はできない。だからこそ,たいていは売れても数万部程度にしかならぬ「書籍」を読むべきだし,色々な人とリアル世界で交流すべきだ。その方が知の差別化はできる。(p254)

2018年1月19日金曜日

2018.01.19 藤原智美 『あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている』

書名 あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている
著者 藤原智美
発行所 プレジデント社
発行年月日 2017.12.18
価格(税別) 1,300円

● 著者が新聞に連載したエッセイを1冊にまとめたもの。その中の1つのエッセイのタイトルが「あなたがスマホを見ているとき スマホもあなたを見ている」。
 だから,本書全体がスマホを話材にしているわけではない。

● 以下にいくつか転載。
 情報断食中は,一日がこんなに長かったのかと驚くはずだ。私は3か月に1回ほど,3日の情報断食を続けているが,効果はというと,しだいにSNSから遠ざかり今ではまったくやらなくなったこと。ネット全体に費やす時間も以前よりだいぶ少なくなった。(p33)
 人を撮るという行為にはコミュニケーションが必要だ。すぐれた写真家はそれがうまかった。土門拳,木村伊兵衛,現役では荒木経惟。しかしネットの時代は,自己防衛として撮られる側の権利意識がどうしても強くなる。そうした「心のバリアー」は,見知らぬ人とのコミュニケーションを難しくする。こうなると,やがて他者への関心自体も薄れていくのかも。(p44)
 ある料理屋で板前さんが常連客とかわした言葉が耳に入った。「最近の店は白い無地の器ばかり使うから,盛りつけが雑になっている。彼らは色や絵のある器は,使いこなせないんじゃないか」(中略)なんでも無地で無難,というのではちょっと貧相ではないか。(p200)
 昔は「無地で無難」を最も上等なものとして推奨することが多かったような気がする。文士と呼ばれた人たちが男性の服装について語るときは,ストライプの難しさを指摘するのと,無地を勧めるのが定番になっていたような。このあたりも時代とともに移ろうんだな。

2018年1月15日月曜日

2018.01.15 白鳥和也 『七つの自転車の旅』

書名 七つの自転車の旅
著者 白鳥和也
発行所 平凡社
発行年月日 2008.11.19
価格(税別) 1,600円

● 7つの自転車旅が行われた時期は大きくバラバラ。青春時代を懐かしむように書かれたものもあれば,最近のものもある。
 最も印象に残ったのは“第2章 津軽から秋田へ”。その年齢でしかできないことというのは,自転車旅にも存在する。

● ぼくなんかは,若い時期にそういうことをしないで過ごしてしまったので,定年になってまったき自由を得たら,若いときにできなかったことをガンガンやって,当時の空白を埋めようと思っていた(今も思っている)。が,事はそう単純にすむものではないらしい。
 若い時分の空白は,いつまで経っても,空白のまま残るしかないのだろう。

● アグスティン・ピオ・バリオス・マンゴレという南米最大のギター作曲家,が紹介されている。
 白鳥さんの手にかかると,すこぶる魅惑的な音楽家に思えてくる。CDを探してみようかと思った。

● 以下にいくつか転載。
 この映像作品(「四季・ユートピア」)の素晴らしい魅力は,しかしそういう物語構造にあったのではない。ドキュメント作品のように,そこにある人や風景や物事を等身大で扱いながら,なおかつそこに驚くべき詩を発見したことが,奇跡的だった。(p51)
 森は恐ろしい。だからこそ,人々は森を刈り,そこに耕作や牧畜の光を入れようとしたのであろう。(p55)
 記念写真用程度のカメラは持っていた。止まって出そうと思ったが,できない。 見世物デハナイゾ オマエ トオリガカリノモノ。 集落全体がそういう風に言っているかのように思えた。(p57)
 津軽にもいろいろ事情はあるのだろうが,人々の生活ぶりに,この国の地方世界を侵しつつある,ある種の衰退と陰鬱は,個人的にはほどんど感じなかった。さながら,中世の都市国家のように,中央の都合など関係のないところで街が成立しているかのようで,そのことにかえって驚かされた。(p93)
 今日だけでも,二〇インチ小径車で約八〇kmも走ったのはいささか出力過剰的だったかもしれない。(p93)
 小径車で80km走るのは,一般的にけっこう大変なこととされているんだろうか。ぼくは140kmほど走ったことがあるんだが。
 ロードには乗ったことがないので比較ができないんだけど,そんなに違うものなんだろうか。
 予定の行程を無事消化して目的地に辿り着き,宿を確保し,泊まる街の中を流す黄昏の時間は,自転車旅行者にとって,静かな,だが何物にも代えがたい喜びに満ちた濃密なひとときである。(p114)
 北陸を自転車で旅して誰もが感じるものは,車の少ない旧市街や名もない海沿いの漁村を行く道,工業地帯の傍らに見つかる味わい深い町並みなど,太平洋岸の都市ではすでにあらかた失われた,湿度と節度と叙情に満ちた空気感だ。(p117)
 もう一五年も前だが,旧い四輪車にどっぷり浸かっていた頃に,ランドナーで旅行していた女子大生を見て,ちょっと参ったな,と思った場所である。(p120)
 日本海の海岸線を旅することの醍醐味のひとつは,間違いなく落日の景観だろう。海に呑み込まれていく太陽は,どうにも切なく,その切なさの中に,何か手の届かないものへの思いが残る。(p126)
 北に日本海を見る風景の感覚は,南に太平洋を見るそれとえらく異なる。ちょっと眩暈が起こりそうなくらいの位相感覚の揺らきなのだ。(p192)
 旅に出ようが出まいが,旅を続けようが帰ろうが,とどのつまり,存在は旅でしかあり得ない。われわれは地上のまれ人として,何十年かこの地表を動き回り,やがては来た場所に帰っていく。旅は畢竟その比喩だ。(p201)
 人間的なものの属性のひとつは,ゆっくりと活動することであるのかもしれない。素早いもの,高度な運動性を備えたものは,超人的であることは間違いないが,その中には獣性の要素も含まれる。(p285)
 SFが真に問題としているのは世の人々の多くがそうだと考えている科学技術や未来社会の想像たくましくも無味乾燥な仮想実験なのではなくて,人間と変化,である。と少なくとも私は思っている。そして変化こそ,われわれに知覚可能な,時間の属性だ。(p285)