著者 出口治明
発行所 新潮社
発行年月日 2016.01.15
価格(税別) 1,400円
● 副題は「教養に効く! 人類5000年史」。全2冊で『Ⅰ』が「古代・中世編」。『Ⅱ』から読むことにした。特に理由はない。
● “知の巨人”という言葉が昔からあって,かつては丸山真男がそう呼ばれていた。最近は内田樹にその名を冠することが多いようだ。
が,出口さんこそ,その名に相応しいような。オレがオレがというところはまったくなく,ごく控えめに歴史を語っているのだが,その蘊蓄はとんでもない。
● ぼくの乏しい読書歴の中では,宮崎市定『アジア史概説』(中公文庫)が圧倒的な存在感を持って,自分の記憶を占拠しているのだが(松岡正剛さんの解説も一緒に読んでおくのが吉),視野の広さという点からすれば,本書はそれに迫る。
控えめに事実を連ねているので,そこから出口史観というものを抽出することは難しい。そうしたヒケラカシを著者は抑えている。
● そうではあっても,語りおろしということもあってか,著者の好みや,歴史上の個々の登場人物への評価が語られる。そこが本書の魅力のひとつでもあるだろう。
本書は歴史書であるとともに,著者のエッセイでもあって,すこぶる読みやすいのが特徴。
● 以下に転載。
オスマン朝の強さの秘密はなんであったのか。(中略)この王朝の柔軟さと寛大さに,本当の理由を求めるべきです。(中略)オスマン朝は,能力のある人をひたすら大歓迎しました。そのあたりはモンゴル世界帝国とよく似ています。(p63)
ヨーロッパではドイツを中心に宗教戦争が猖獗を極めました。宗教上の争いは本当に根深いものがあります。特にローマ教会とプロテスタントの争いです。典型的なパターンは,ローマ教会の頑迷な君主が弾圧を始め,それにプロテスタントが反発するという形です。(p105)
ハプスブルグ家は,賢主が出ない不思議な家系です。(P109)
一六三六年にはハーバード大学が開校しています。ピルグリム・ファーザーズの上陸から,わずか一六年後です。このことは,新大陸に渡った人々が,いかに進取の気性に富んでいたかを物語っていると思います。(p117)
「人は美しいものに惹かれるのだ。プロテスタントの主張に媚びてはいけない。ローマ教会の信者たちにローマは素晴らしいこの世の天国だと思わせることが大切なのだ」 それがウルバヌス八世の考えでした。(中略)ウルバヌス八世のおかげで,ローマは美しく蘇りました。レオ一〇世の時代を第一のローマ・ルネサンスとすれば,ほぼ一二〇年後,第二のローマ・ルネサンスの時代がやってきたのです。この二人の教皇は,巨額の負債を残したことも共通しています。学問・芸術の保護はお金がかかるのです。(p118)
このnation state(国民国家)という想像の共同体を,初めて現出させたのがフランス革命だったのです。ネーションステートという求心力の強い新しい国家形態を生み出したこと,そして手工業から機械工業へと生産構造を変えた産業革命を実現したことが,ヨーロッパの世紀を導きました。(p155)
ジョージ一世は,ドイツの政治のほうに興味があり,英語もほとんど話せませんでした。しかし議会はまったく気にしませんでした。(p161)
古来,中央ユーラシアからは軍事の天才が登場します。チンギス・カーンやティムールもそうでした。(p169)
産業革命がなぜグレートブリテンで起きたのか。それは産業革命が,インドのまねをすることから始まったからです。(中略)あらためてインドを見つめなおしてみると,この国のGDPがとても大きいことに気がつきました。それは綿織物を生産しているからでした。(p180)
グレートブリテンのインド経営は,本国の負担を限りなくゼロにして,すべてインド亜大陸から搾取する方法を採りました。本国の手は汚さず,憎まれ役はすべて東インド会社が演じたのです。(p184)
こういう贅沢な,しかし素晴らしい料理(満漢全席)は,贅沢好きな君主がいて初めてできあがるのです。優れた文化の誕生には,そういう面がしばしばあります。(p186)
イエズス会のいちばん大きな業績は,科挙の制度をヨーロッパに持ち込んだことだと言われています。イエズス会は,これだけ広大な国がきちんと統治されていることに驚き,その理由が官僚による文書行政であることに気づきました。(p188)
東インド会社の侵略戦争がいずれも数次にわたるのは,決して無理押しをしないからです。戦っては休み,相手の分裂などに乗じてまた先端を開く。この繰り返しです。(p189)
ナポレオンはグレートブリテンの強さの理由を理解していました。インドという金のなる木があって,そこから利益を吸い上げているからです。だから,インドとの連携を断ち切ろうと考えたのです。(p201)
一五世紀のルネサンスの頃からヨーロッパが世界の先頭に立ってきたと考える人もいますが,数字から見ると,実はヨーロッパが世界の覇権を握ったのは,一九世紀のアヘン戦争が契機なのです。(p203)
一九世紀を代表する人物としてはナポレオン一世が挙げられます。彼について考えると,やはり世界を変える天才とは,強い風が吹き始めたときに,うまく風に乗る能力がある人物のことだと思います。(p204)
ナポレオンの傀儡国家は,基本的には軍事独裁政権です。しかしそのエネルギーの源泉はフランス革命にあり,理念はあくまで自由・平等・博愛です。(p209)
一八一〇年,スウェーデン議会はカール一三世に世継ぎが生まれなかったので,王位継承者としてナポレオン軍の元帥ベルナドットを指名しました。ナポレオンは承諾し,ここに誕生したスウェーデン王家が今日まで続いています。ですからスウェーデン王家の祖先はフランス人です。(p210)
ウィーン会議で主導的理念を唱えた人は,敗戦国フランスの外相タレーランでした。(中略)タレーランがこのウィーン会議で唱えた理念が,正統主義でした。(中略)「悪いのはフランスではない。革命という麻疹だな」 こうして敗戦国フランスは旧来の領土をほとんど失うことなく,ヨーロッパの国境はナポレオン以前に戻ってしまうのです。(p215)
ペリーの強硬な交渉を,若き老中,三〇代半ばの阿部正弘が受けて立ちました。世界の情勢を熟知していた彼は一八五四年に日米和親条約を結びます。(中略)この阿部正弘の決断は二〇〇年以上も続いていた鎖国を断ち切ったわけですから,たいへんな英断であったと思います。(p233)
信長の時代の日本のGDPシェアは世界の四-五%前後あったのに,鎖国の間にほぼ半減してしまいました。したがって明治維新とは,鎖国の二〇〇年の間に大きく落ち込んだ日本を,もう一度取り戻そうとする運動であったのではないか。(p237)
明治維新のとき,なぜあんなにもろくも幕府軍は負けてしまったのでしょうか。ひとつの理由として為替政策の失敗がありました。日本は鎖国をしていたので,世界の情勢に暗かった。それで,銀と金の交換比率を間違えて設定してしまったのです。(中略)食うや食わずでは薩長軍に勝てるわけがありません。こうして幕府は戦わずして敗れました。(p237)
クリミア戦争は近代戦の幕開けともいわれており,ジャーナリズムに煽られた世論が戦争を引き起こし,また勝敗を決したのは戦場鉄道でした(物量戦)。(p239)
ビスマルクの外構の戦略目標はフランスの封じ込め・孤立化と,大英帝国に敵対しないこと,そして同時にロシアを封じ込めつつ味方につけておくことでした。(中略)この複雑で高度な外交は,「ビスマルクの下で皇帝であることは困難である」と漏らしたヴィルヘルム一世の万全の新任を得て,初めて可能であったともいえます。(p251)
民衆を動かしたアジテーションは尊王攘夷という旗印でした。(中略)この思想は,長い鎖国で外国を知らなかった日本人にはなじみやすいものでした。しかし維新の原動力であった薩長両藩の首脳部は,尊王攘夷の非現実性をよく知っていたので,内心では,幕府の開国・富国強兵路線を評価していました。ところが同じ倒幕派の中でも本気で尊王攘夷を信じている人もいました。彼らが中心となって一八六八年に神仏分離令が出されました。(中略)このお達しが出たものですから,尊王攘夷で盛り上がった民衆は,寺院の打ち壊しを始めました。(中略)中国の文化大革命あるいはターリバーンやISILの歴史遺産の破壊と同じです。(p255)
西郷隆盛は明治維新のシンボルで,詩人の魂を持った人でした。落日の士族を見捨てるに忍びなかったのでしょう。一方の大久保利通は冷静な実務家肌の人で,近代化・富国強兵を実行しない限り日本の未来はない,と考えていました。この二人が征韓論で対峙し,西郷が破れた。どこか夢想的なところがある西郷が下野し,現実を直視する大久保が残った。このことが明治維新を推進させた大きな要因であったと思います。(o257)
この二つの世界大戦が何であったかといえば,原点にあったのは,全盛期のアヘン戦争以降,世界をリードしてきたヨーロッパにおいて,猛烈な勢いで国力を伸長してきたドイツをどのように位置づけていくかという問題だったと思います。(p263)
司馬遼太郎の『坂の上の雲』では,ロシアが執拗に南下しようとし,健気な日本がじっと我慢して耐え,ロシアの横暴に対してついに立ち上がったような筆法になっていますが,大陸での利権を求めて開戦の機会を狙っていたのは日本であった,というのが史実に近いようです。(p269)
世論を煽ることがいかに危険であるかを世界はクリミア戦争で学んだはずだったのですが,賠償金が取れなかったことに怒った群衆は,ポーツマス条約に反対して日比谷焼き討ち事件を起こし,怒りの矛先はアメリカにも向かいました。親日派であったルーズベルトの贔屓感情は薄れ,やがてアメリカは日本脅威論に傾いていくのです。(p270)
(一九八一年)五月には,おそらくアメリカからもたらされたスペイン風邪が世界中で猛威をふるいだしました。その死者の数は,第一次世界大戦の死者より多いとされています。両軍の兵士たちの厭戦気分は,さらに高くなっていきました。(p282)
一九二二年二月には,イタリアを含めたワシントン海軍軍縮条約が結ばれました。それは各国の主力艦,戦艦や航空母艦の保有比率を,米英:日:仏伊で,それぞれ五:三:一.七五と定めたものでした。この数字に対して日本では,英米の日本軽視であって国辱である,との声が上がります。しかし冷静に考えてみれば,当時のアメリカの国力は,日本の一〇倍以上はありました。したがって五:三という比率は,結果的にはアメリカの軍備増強に歯止めをかけるものでした。しかし日本は,戦勝国の一員であるということで五:五を肩を並べようとした。問題を実質で見ないで観念で見てしまう風潮が日本に出始めます。(p289)
第一次世界大戦の集結時を振り返ってみると,キール軍港での水兵の蜂起があって,ドイツは休戦を受諾しました。しかしこのとき,連合軍の軍隊は一兵もドイツに入っていませんでした。つまり普通の市民は,実感としてあまり負けた気がしなかったのではないか。(中略)このあたりの市民感情に,ナチスはうまく乗ったのではないか。(p291)
満州は元々中国の領土です。そこへ侵入したのは日本です。それにもかかわらず,リットン報告書は,中国の主権は譲らないが日本の既得権を尊重して自治政府を作ったら,と提案しています。暴走する日本を平和裏に止めようとして,中国の主権だけは守るという前提で,日本に「名を捨て実を取る」ことを要請したものでした。(p298)
軍部大臣「現役」武官制となれば,陸軍や海軍はいつでも内閣を倒せるのです。この制度ができたのは,一九〇〇年,陸軍閥の山縣有朋が内閣総理大臣のときでした。それに対して一九一三年に内閣総理大臣になった海軍大将の山本権兵衛が,「現役」の二文字を削ってしまいました。議院内閣制度を守るためです。(中略)山本がこの二文字削除を断行したとき,当時の陸軍大臣は山縣と陸軍の怒りを買い,一生冷や飯を食わされたそうです。しかし,この広田弘毅の愚挙によって,また軍部が内閣の命運を握るようになりました。(p304)
国共合作を成立させた蒋介石は,一一月に南京から重慶へ遷都し,日本に対する徹底抗戦の姿勢を内外に示しました。日本はただちに重慶に対する無差別爆撃を開始しました。これが世界で初めての,大都市に対する無差別爆撃となります。(p307)
一九三八年一月,日本の近衛文麿内閣は声明を出します。「爾後,国民政府を相手にせず」というのです。これは不思議な声明で,交戦国の責任者を相手にしないということは,どのような出口戦略を考えていたのか理解に苦しみます。日露戦争時の伊藤博文とのあまりの落差の大きさに慄然とします。(p307)
勝てそうな戦争には後から参加する,負けそうになったら早めに降りる。イタリアは伝統的にこのあたりのセンスが抜群です。(p315)
(一九五五年)一〇月にはオーストリアが永世中立国を宣言しました。これによりウィーンは,東西の諜報機関の活動の中心になっていきます。戦後のスパイ小説やスパイ映画に,ウィーンを舞台にしたものが多いのはこのためです。(p332)
ド・ゴールは,インドシナ半島で,ホー・チ・ミン相手にフランスが泥沼状態に陥ってしまったことをよく理解していました。そこで一九五九年に,アルジェリアの民族自決を認めます。(中略)軍人でありながら私情にとらわれず,国家と民族の行く末を冷静に見据えたド・ゴールの政治家としての決断は,賞賛に値すると思います。(p335)
始めはエジプトのナーセルもカストロも決して反米のスタンスではありませんでした。むしろアメリカの助けを求めていたのです。それをアメリカが高飛車に脅かしたところ,窮鼠猫を噛むのたとえどおり,反米になってしまったのです。冷戦が激化するに伴い,アメリカの寛大さが失われていく感じがします。(p336)
毛沢東は根本的には詩人で夢想家でした。(p344)
アメリカが核の拡散防止に熱心なのは,新しく誰かが入ってくるたびにゲームが複雑化するからです。(p346)
自由経済システムと計画経済システムの戦いでもあった冷戦が,その優劣を如実に示してしまった一つのきっかけがオイルショックでした。(中略)東側の諸国は,石油が潤沢に使えたので,例えば燃費の悪い機械があっても改良する必要がありません。それで十分やっていけたのです。しかし,気がつくと東西の技術力格差は決定的なものになっていました。市場は人間のアタマより賢いことが実証されたのです。(p365)
巨大な人口を擁する中国は,有史以来一九世紀半ばまで,常に世界のGDPシェアの二割-三割以上を占めてきた大国です。むしろ,この一五〇年間の落ち込みが異例であったと考えるべきでしょう。(p376)
二〇一三年には,テロにより一万六〇〇〇人を超える市民が犠牲になりましたが,その八〇%は上位五カ国に集中しています。イラク,アフガニスタン,パキスタン,ナイジェリア,シリアです。ナイジェリアを除く四カ国は,アメリカがアフガニスタンやイラクの政権を力づくで倒したことが原因で政情が不安定となったものです。このことは,善悪や好悪を超えてそれなりに安定していたものを壊してしまうことの恐ろしさを示唆していると思います。(p380)
原因があって結果があるという,直接の因果関係で歴史は説かれがちなのですが(地球が寒くなって遊牧民の移動が始まったなど),必ずしもそれらばかりではなく,直接の因果関係はなくても大きい事件は起こりうると最近は考えられています。カオス理論がその典型です。(p381)
二〇一〇年から二〇一二年にかけてアラブの春と呼ばれた一連の民主化運動が,中東・エジプト・北アフリカで連続して起きました。(中略)これらの政変は,長期独裁政権に対する反対運動だったといえば簡単です。しかし引き金となったのは,先進国の金融緩和による過剰流動性によって,発展途上国のインフレが激化し,パンを始めとする多くの日常品が値上がりしたからです。(p381)
僕はよく「接線思考」と呼んでいるのですが,円に接している直線は,ほんの少し円が回転するだけで大きくその傾き(方向)を変えます。そうすると直線の動きに目を奪われて,円の動きという本質を見逃します。これと同じで,人間はどうしても目先のことを過大視しがちです。(p383)
問題点を指摘することは,比較的たやすいことです。どの世界にも,歪なかけらが山ほどあるからです。しかし大事なことは,全体としてのシステムの安定性です。人間社会とはいつの世にあっても,歪なかけらが集まって,一つの安定状態を形成するものなのです。(p384)
二〇世紀に戦われた二次にわたる世界大戦をみると,人間の愚かさにほとほと愛想が尽きそうになります。五〇〇〇年史を振り返っても,人の世というものが,ずいぶんいい加減で愚かなものだということがよくわかります。しかしこれだけ愚かな人間が,これだけの愚行を繰り返してきたにもかかわらず,人類は今日現在,この地球で生きているのです。それはいつの時代にも人類のたった一つの歴史,つまり五〇〇〇年史から少しは学んだ人がいたからではないでしょうか。今,人類が生きているというこの絶対的な事実からして,僕は人間の社会は信頼に足ると確信しています。(p385)
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