書名 男子の作法
著者 弘兼憲史
発行所 SB新書
発行年月日 2017.01.15
価格(税別) 800円
● そんなことは知ってるよ,と言いたくなることが書かれている。いや,自分はそうは思わない,というところもあるかもしれないが。
が,知っているのとできているのとは全くの別物。このとおりにできたら確かに人生の達人で,著者はたぶんやってきたのだろう。というわけで,静かな迫力がある。
● 以下に転載。
世の中には自己啓発本が好きな人種というのがいる。(中略)そういう本に振り回されちゃいけない。(p5)
高級店でもコストパフォーマンスが悪い店はダメだ。(p19)
銀座の高級鮨店には,値段に見合った仕事がある。これはどの高級店にも通じることだが,秒を争うような温度管理がなされている。(p10)
その日の一番いい食材を一番美味しい方法で食べたかったら,店がすすめる料理や作法に従ったほうがいい。(p25)
パリなんかは内陸部だから,新鮮な素材が入ってこない時代はソースにこだわって勝負していた。(中略)今は内陸部でも新鮮な素材がどんどん入ってくるから,その必要がなくなって素材の味を引き出すようになったわけだ。(p25)
ゆで時間が10秒過ぎると美味い料理も不味くなる。葉野菜なんかをゆでたりするときは,色がきれいな緑になった瞬間に火を止めなきゃいけない。10秒ずれたらもうおしまいだ。(p33)
人生で最もストレスを抱える時期が,男性は40代,女性は20代というデータがある。(中略)そういう時期の女性にとって,同じく人生の転換期にある40代の男性はストレスを解消するのに最適な相手となる。(p55)
そもそも人間はひとりでは生きていけない。だが,男はどこかに自分ひとりでやっていく心構えというものを持っていたほうがいい。起業する場合なんかでも,共同よりひとりでやったほうがいいと思う。(p61)
他人の感情を読み取るのが苦手な男にとって,上下の関係がはっきりしている組織は楽な環境だ。それだけに会社という組織の中で長い間生きてきた男が,定年退職をして上下関係の介在しない社会に放り出されると,周囲の人たちとコミュニケーションが上手くとれうに孤立してしまうケースが多い。(p62)
男は違う世界で生きてきた人間とは,簡単に打ち解けることができない傾向がある。(p64)
編集者から,マーケティングリサーチの結果,こういう漫画を書いたらヒットが狙えると言われてもほとんど従ったことがない。自分が描きたいものを描いてダメだったらそれで仕方ない。(p69)
漫画家になってからは,時間帯によっていろいろな客が集まるファミレスが人間観察の場となった。同じ空間なのに午前中には午前中の顔があって,夜はまた違う顔があるから面白い。(p72)
人間観察で気を付けなければいけないのは,自分の経験値に頼らず分析することだ。(p73)
年をとるということは,年輪を重ねて成長しているということだ。「僕はいつまでも若いだろ」などと自慢するようなヤツは,「いつまでも成長していない」と自分で白状しているようなもの。(p79)
できないところを指摘するよりも,できるところを指摘して自信を持たせることが大事だ。(p82)
同窓会は,ある程度の幸せ者同士が会って昔話をしたり,淡い恋心を復活させたいと思ってお洒落をして集まるような場所なのだから,引け目を感じる人間が参加しても場の雰囲気を壊して噂話のターゲットになるだけだ。(p109)
遊びというのは,同じレベルで遊べる相手じゃないと共有できないものだ。(p110)
おカネがないときでも,飯を抜いて映画館に行っていた。自宅で見たテレビの深夜番組を合わせれば,多い日は1日8本も映画をみたときがあった。ウィリアム・ワイラー監督の『ローマの休日』なんて40回以上みているが,あれもネタの宝庫さ。いろいろなところからたくさんアイデアをもらっている。(p136)
大型液晶テレビが普及して,ブルーレイで見れば家にいながらとてもきれいな映像を楽しめるようになったが,映画はやはり映画館のスクリーンで見てこそ,制作者の意図が汲めるというものだ。(p136)
配偶者だからといって,お互いのことを全部知っていなければいけないことなどない。自分のことを全部教える必要もないし,相手だって知りたくもないと思う。(p147)
「あったら便利」「みんなと同じ」と追いかけるのはもうやめたほうがいい。(p151)
そういう40代後半の男女で,僕の漫画を読んでいる人たちがもう一度やってみたいことは何かと考えてみたら,燃えるような恋じゃないかと思った。それで中高年のラブストーリーを描こうと思って誕生したのが『黄昏流星群』だった。(p161)
人間は「思いつめないで生きる」ことが大事だと思っている。(p171)
身体的には老化が始まっている40年代でも,脳はまだまだ活性化できる。しかし,感動するものがなくなると一気に脳も老化を始めてしまうという。そのまま10年経つと,もう感受性は戻らなくなるらしい。(中略)そういう感動は,待っていても巡り会えるものではない。追い求める気持ちがなければ,感動するものには出会えない。(p173)
本来プライドというものは,あくまで内なる自分が持っているものであって,他人に誇示したり自慢したりするものではないと思っている。一流の職人は,「ここにこだわっています」「素材はこれしか使いません」なんてことを,ほとんど口にしない。ラーメン店でも,スープはこういう素材を使って,麺はここにこだわっています,なんてことを壁一面に掲げているところがあるが,あれはプライドではなくて能書きというものだ。そういう店で美味いところは,僕の経験上,少ない。(p176)
書名 すぐメモする人がうまくいく
著者 堀 宏史
発行所 自由国民社
発行年月日 2018.10.17
価格(税別) 1,500円
● 「仕事や興味のある分野の情報をメモしそれに対してコメントしてさらに世の中にシェアしていく」(p143)ことを説く本。
典型的にはTwitterでメモして,自分の考えを一言添えて,そのままツイートする。それを続けなさい,と。実際,Twitterは写真も保存できるメモ帳だ。
● 以下にいくつか転載。
スマホを使って,気になったことを書き留めていくだけです。(中略)そして,どんどんSNSにシェアしていきましょう。(p14)
ここで必要なのは「入ってくる情報をいかに減らすか」ではなくて「入ってきた情報をいかに外へ出すか」という思考の転換なのです。(p24)
行動の習慣化には精神論や気持ちの話ではなく,いかに合理的に行動をシステム化できるかという視点が重要です。自分の意思が弱いから行動が続けられないのではなくて,やり方に問題があるから続けられないのです。(p61)
メモをシェアしていくことによって他の人からの反応がある,これであなたの承認欲求を満たすのも大事な報酬システムです。(中略)あなたの行動はあなた一人で閉じているものではなく,オーディエンスがいるんだと意識するだけで楽しい気持ちになってきます。(p63)
情報は人に伝えていくことではじめて,あなたの中でその情報がしっかりと腹落ちした状態になります。(中略)つまり,情報のシェアによって,一番勉強できるのは他でもないあなた自身ということなのです。(p75)
最終的には「アウトプットのためにインプットする」というコペルニクス的転換にたどり着けば,もうあなたはすぐメモ上級者です。(p78)
ツイートの内容の濃さや頻度などは気にせず,シンプルな情報や気分のシェアとして自分のペースでツイートするのがポイントです。これは,あまり周りの反応を気にしてしまうとその時の感覚をツイートする楽しさが少なくなり,うまく続けることができなくなってしまうからなのです。(p81)
眼の前にあるネタを瞬間的に料理できる,その技術とスピードがとても大事なのです。(p85)
未来や過去のことはメモにまかせて,「今この時」に集中する環境を作りましょう。こういったほんの小さなすぐメモの積み重ねが,意外と大きなストレス解消につながります。(p174)
人を巻き込むには何よりあなたが「これが好きだ」という熱量が大事です。(p180)
今目の前にある興味にフォーカスしましょう。興味を追っていけば,いつしか遠くまで走れているものなのです。(p182)
「テーマという訳ではないけれど,今は情報が多すぎるから忘れないようにすぐにメモしてシェアすることにはこだわっているかな」と答えると,「それを50個の切り口で書いてみたら?」とあっさり言われました。なるほどと思って,その日から切り口を思いついたらすぐにメモするようになりました。そしてしばらくして切り口が50個溜まり,それらを一つにまとめるとこの本の目次になっていき,その流れで一気に本を出版するという所までつながりました。(p186)
書名 35歳からの「愚直論」。
著者 櫻井秀勲
発行所 ナナ・コーポレート・コミュニケーション
発行年月日 2009.10.20
価格(税別) 1,200円
● “愚直に一つ事を”と説いている。堀江貴文さんに代表される,ネットやITで時間を短縮せよという教え(?)とは真逆。
時代を遡ったかのようなアドバイスだけれども,これは時代を問わず大切なことなのかもしれない。ネットやITを活用しつつも,“飽き”を超えて一つ事を継続していくこと。
● ただし,本書が出された2009年は不況の時代で,若者の就職難,リストラに怯えるサラリーマン,というのが,時代を象徴していた頃だ。
今はそうではない。人手不足で労働市場は売手が強い。単純業務はやる人がいなくなって,各国で外国人の奪い合いになっている。
若者人口は減少を続けるのだから,売手市場は半永久的に続くだろう。そうした時代基調の変化は踏まえておいた方がいいかもしれない。
● 以下に転載。
日本三筆の一人良寛は江戸時代,紙が高くて買えなかったため,「空中習字」という方法で,みごとな署の大家になっています。筆をもって,空中に文字を書くというシンプルな方法ですが,じつは私もこの方法で,小学校時代から毛筆文字を学びました。(p6)
政府や経営者を責めたからといって,突然,いいことが起こることはないのです。非常にきびしくいえば「他人のせい」にしている人は脱落していくだけです。(中略)これらの理由で辞めたひおとんどの人は,辞めぐせや批判,非難ぐせがついてしまい,社会を斜めから見るようになってしまいます。(p17)
私は幸運にも,20代の編集者時代に作家の松本清張先生と親しくなり,「もし櫻井君が作家になることがあれば,一日13時間,机の前に座りなさい」というアドバイスを受けました。(p27)
「アマはプロになれない。プロは最初からプロである」という言葉があります。それはプロになるのであれば,できるだけ早くにその道に邁進しろ,という意味です。(中略)戦争を指揮する司令官で,召集された人間はいません。世界中の指揮官は全員,士官学校,陸(海)軍大学出身といわれます。これは骨の髄から軍人として叩き上げられないと,殺し合いはできない,ということを意味しています。(p32)
あるプロ野球の元監督は,こう言っています。「ボールスリーから打たないで四球を選ぶような選手は,一人前になれない」 (中略)それは失敗を怖がってしまし,失敗の教訓を学びとろうとしないからです。(p47)
活力源ともいえる「欲」だけは,絶対手離したくないものです。ここでその欲を一層確実にするには,どうすればいいでしょうか? それは一欲にしぼることです。マラソンでいえば,タイムは捨てても,ゴールまで走り抜く,という欲だけはもちつづけることです。(p51)
いまの時代は成功を追い求める人ばかりで,下流階層にはなんの興味もない,といってもいいかもしれません。(p58)
ただ愚直に歩いて行きさえすれば,いつの間にか,才気のある男たちより先に立っていることも,けっして夢ではないのです。(p60)
その部署の「当たり前の空気」を乱しては,周りに迷惑をかけることになるのです。そんな場合は声の出し方一つでも,大きからず小さからず,並にしてみるのです。これをしっかり覚えておかないと「自分では一生懸命やって,結果を出したのに」と思っていながら,いつの間にか不用の人間にされてしまいます。(p66)
私の事務所は,JR山手線高田馬場駅の近くにありますが,ここは早稲田大学の本拠地だけに,若者の天国です。そして駅周辺には,未来を夢見るミュージシャンの卵が,毎晩出ています。ところが残念なことに,長い人でも数カ月でいなくなってしまうのです。(中略)愚直さが足りない,と結局私は思うのです。(p70)
ここであなたが恐れなければならないのは,自分の「顔」です。他人から見ると,あなたの顔は,どう映っているのでしょうか? まだ子どもっぽさが残っていませんか? なんとなく軽く見られる顔ではありませんか?(p80)
女性にモテるかモテないか,またモテるとしたら,どういう理由で女性が寄ってくるのか-ここは,とても重要な点です。もし,あなたがまだ「甘い顔」だったとしたら,今日からふんどしを締め直さなければなりません。金はなくとも,顔で稼げるほどの,不敵な面構えはとても重要です。そして,この面構えこそ「愚直な生き方」によって,つくられていくものということを知らなければなりません。(p82)
たとえば,パチンコをやっていても,負けた場合の限度額を決めて,それを愚直に守り通せる人は,必ず人生の成功者になれます。(p88)
テレビゲームのように,自分一人だけの完結した趣味は,社会的広がりがないだけに,トクかソンかといえば,結局大ゾンです。酒の趣味は,大きく捉えれば,たいへんなトクです。この世の中で,友だちを広げる最有力の武器だからです。(p90)
サービス精神もない,会話もできない,押しも強くないコンプレックスだらけの人が,最初に広い門から社会,つまり会社に入ってしまうと,あっという間につまずいて,そのあと立ち直れなくなってしまいます。こういうタイプの人は,対人関係ビジネスは不得意なので,できるだけ小さな企業,少人数のビジネス,細々と続いている業種,あるいは現在,裏通りで繁盛しているようなビジネスなどに,最初から飛び込むべきなのです。(p94)
私自身が教わったビジネス論では,500人の支持者がいれば,一つのビジネスは成り立つということです。それこそ宗教は500人の信者がいたら,教祖は悠々自適です。絵描きは全国に500人のファンがいたら,会社組織が成り立つほどです。つまり,いまの社会では,500人の購買層を握っていたら,十分やっていけるのです。(p94)
愛情だって,射精量が一番わかりやすい例だ,という人もいるくらいです。男の愛をたっぷり受ける女性は,受ける射精量もたっぷりなのです。(p96)
運を貯えるには,金銭を貯えることと,暴飲暴食を慎むことのこの二点は絶対に欠かせません。さらに人に愛されることも,運の貯えとなります。(中略)相手も運も加えて,自分の総量がふえる計算になるのです。(中略)離婚でも,よほどの悪夫,悪妻でないかぎり,まずは我慢をした方がいい,といわれるのも,それをきっかけに運の総量が,いっぺんに減ってしまうからです。(p97)
私が一番よく耳にする若い人の言葉に,「うちの会社ってダメだよなァ。あんな課長雇っているんだから」「なんでオレにいい仕事をまわさねえんだよ。くだらねえあんなAのやつに回しやがって」 こういったせりふがあります。しかし,こういったせりふを聞いた100人が100人,この言葉をいった男はまったく使いものにならない,という判断をするはずです。(p102)
この思慮分別だけは,きっちり守らなければ,社会では誰も本気で付き合ってはくれなくなることでしょう。(中略)もっとわかりやすくいうと「思ったことを,そのまま口に出さないこと」などを愚直に守りつづけましょう。(p104)
歴史は愚か者でなければ,変えることはできないということです。それもただの愚か者ではなく「大愚」とつくほどの人でないと,偉業というものは達成できないのでしょう。(中略)これらの人々に共通していることは,多くの現代人がしがみつきがちな「名誉」という欲望を完全に捨てている,という点です。(p110)
現在でいえば,彼らの地位は不安定そのものです。龍馬はフリーランサーであり,沖田総司は警備会社の社員のようなものです。ソレでいながら、自分を低く見ているところなどひとつもありません。それどころか,何人もの一流の女性たちから慕われ,愛されています。これは私たちに,一つの生き方そのものを教えてくれています。(p123)
黒崎編集長からは,もう一つ大切な愚直論を,きびしく叩き込まれました。それは「上の者が先に倦きてはいけない」というものでした。(中略)あるとき俳優の加山雄三もいっていましたが,彼の出世作『若大将シリーズ』も,最後の方では出演者が倦きて『青大将シリーズ』に変更する案すらあったそうです。しかし,監督や上層部が倦きなかったことが,結局はああいった成功につながったのです。「バカの一つ覚え」の実践ほど大切なものはないのです。(p125)
人間は,ある年齢以上になったら,それほど自分がキレ者である必要はないのです。(中略)反対に考えれば,老年になっているのに,秀でた額で働く人は,人望がありません。(p132)
私たちの仕事は,本当につまらないことばかりなのが現実です。(中略)それでも有能な人たちは,(中略)自分なりにその仕事を継続しているのです。じつはここが成功者と敗者の,決定的な違いといっていいでしょう。成功者とは,つまらない仕事でも,なにか考え方を変えて,真剣に取り組むことができる人たちをいいます。(p135)
このところ,脳のテーマがブームですが,これも多くの人が最新技術に頼ったことで,脳が劣化してきた背景があるからこそのブームです。ここで二つの方法論が考えられます。その一つは,あなた自身が最新技術に頼らないことと,もう一つは,最新技術の真反対の仕事に注目することです。(p140)
私たちは社会に出るとき,「何をやるか」は考えても「どういう気持でその仕事をやるか」は,考えません。(p142)
もしあなたが定着した仕事をもっていないのなら,思いきってブログでもメルマガでもいいから,スタートすることをすすめます。ただし,最低でも一日,数回単位で更新することです。内容は問いません。もちろん文章のうまい下手など,考えないこと。要は「毎日やっているものがある」という愚直な生活習慣をつくり上げることにあります。(p146)
「成功している人はここが違う」といわれると,つい,当たり前にことより,特別なことに重きを置きがちなのが私たちです。「情報が大切」といわれると,裏の情報や,アメリカ発の最新ビジネス情報などを手に入れないと,うまくいかないのではないか,と思ってしまうものですが,そんなものより「眼の前の一人の客のこと」を愚直に考えていることの方が,じつはよほど大切なのです。(p149)
往々にして大勢が流れていく先は「間違いである!」と知っておくといいでしょう。いわゆる「(情報に)流される人々」の意見は考えは,役に立たないことが多いのです。(中略)なんによらず,「みんな,大勢,大声,大口」といった集団からは遠ざかるべきです。「大儲け,大繁盛,大成功,大騒ぎ」組からも逃げた方が正解です。むしろ少成功を期して,愚直を実践しましょう。(p151)
高山に登る人は,異常にゆっくり歩きます。けっして急がないのが特徴です。さらに一時間歩いたら五分休憩,というように,けっしてペースを乱しません。まさに「踊り場理論」の実践ですが,これだと世界最高峰の登頂にも成功できるのです。(p158)
人生に成功する人は,この喜怒哀楽の感情が非常に豊かです。そしてまた喜怒哀楽の豊かな人は,周囲からとても愛され,尊敬されます。それはなぜでしょうか? 喜怒哀楽の感情を,人のために用いるからです。(中略)仮にあなたが,現在,それほど幸せな位置にいなくても,この喜怒哀楽を感情を友人や知人のために発揮できれば,必ず将来,大成すると,私が太鼓判を押してもいいくらいです。特に喜怒楽は除いて,「哀」の感情を他人のために表せる人は,必ず愛と尊敬の両方を受けることになるでしょう。(p162)
現在どういう境遇にあっても,「電車の中で絶対優先席に座らない」という若者なら,私は彼の将来を心配しません。そういう人間が伸びていくことは間違いないからです。反対に,いまどんなにいい位置にいても,他人の心の痛みに気づかない,電車の中で脚を伸ばしているような若者は,将来どこかで必ず転落するでしょう。(p164)
小学館は業界第二位の出版企業ですが,先頃なくなった相賀徹夫オーナーは,「真似ることを恐れてはならない」と,講談社の方針を真似て,多くの雑誌で講談社を圧倒しています。これも,私に言わせればもっと「新鮮な企画を出せ」という,他の出版社をあざ笑っているような名言です。(p175)
私は,全国の図書館に納める出版各社の単行本や全集の選書の仕事をしています。この仕事をしていてわかったのは,図書館から駆り出されるレベルの高い,小難しい本ほどページの半分しか汚れていないということです。つまり,そういった本は,読者から全ページ読まれていないのです。鋭い経営者ほど,こういった現実の傾向をちゃんと見抜いているのです。だから,本の内容の視座を低くするということは,全ページを読者に読みきっていただく出版人としての知恵でもあるのです。(p175)
実際人間というものは,一日のほとんどを,泥臭い時間を過ごしているものなのです。ファッションビルや美術館,音楽会に行く時間など,あまりにも少ないのです。(中略)このように考えてみると,泥臭さを忘れて成功はない,と思っても間違いないはずです。(p177)
もともと名前というのは「成る,為す,生る」という意味が込められているもので,もしその名を轟かせようとしなかったとしたら「名無し」となって,生きる甲斐さえなくなってしまいます。(p182)
書名 クラシック 天才たちの到達点
著者 百田尚樹
発行所 PHP
発行年月日 2018.07.02
価格(税別) 1,950円
● 本書の後半が晩年の“到達点”についての叙述。モーツァルトとベートーヴェンが3回ずつ,あとはブラームス,スメタナ,シューベルト,バッハ,R.シュトラウス。
自分がいかに聴けていないかがわかる。LP・CDを2万枚も買い集めた著者と,WALKMANでたまに聴くだけの自分を比較してはいけないのだが。
● 特にR.シュトラウス「四つの最後の歌」は,最近,生で聴いている。まさしく猫に小判,豚に真珠,馬の耳に念仏,とはこのことだった。
活字で知識を得たからといって,聴き方が変わるわけではないとしても,変わるきっかけくらいにはなったと思いたい。何よりも,聴くべき曲がくっきりと見えてきたしね。
● 以下にいくつか転載。
偉大な芸術家は決して同じところに留まってはいません。常に進化し,変容していきます。また芸術家にはサラリーマンのような定年もなければ,スポーツ選手のような引退もありません。生涯を音楽に捧げた歴史に残る大作曲家たちは,亡くなる直前まで,曲を書き続けていました。(p1)
私は音楽家たちの青春期や壮年期の作品も大好きですが,晩年の作品により惹かれます。これは若い頃からそうでした。(p2)
彼は演奏家としても著名だったが,その生涯を眺めると,コンサートで賞賛を浴びたいという欲求もあまりなかったように見える。(中略)もしかしたらショパンは人前で演奏するよりも自分のために演奏したかったのではないだろうか。というのもショパンのピアノ曲を聴いていると,まるで彼がピアノで呟いているようにも聴こえるからだ。(p13)
音楽はどう受け取っても聴く者の自由である。文学は作者の思想や考えが文字によって描かれるが,歌詞のない器楽曲にはそれは不可能である。だからこそ,音楽を聴く喜びは,そうした抽象世界のイマジネーションを広げることになるのではないかと思う。(p16)
シュトラウスがこの曲(『ツァラトゥストラはかく語りき』)を書いた当時は,この本はほとんど知られていなかった。(中略)ところが当時二十代のシュトラウスは刊行された当初からこの本を読んでいたのだ。(p37)
基本的に旋律線は一本なので和音にも限界がある。両手で弾くピアノのようにポリフォニック(多声音楽的)な世界は描けない。しかしバッハが独特のテクニックを用いて,それを可能にしているのは驚くべきことである。そして宇宙的な広がりを感じさせることに成功している。たった一台のチェロが大オーケストラにも匹敵するような広大な世界を表現しているのだ。(p72)
かつてはこの曲(「春の祭典」)を完璧に演奏できる指揮者もオーケストラも非常に少なかったが,今では学生オーケストラでも演奏できる。演奏技術がそれだけ上がったということでもあるが,実際のところはCDのおかげであると思っている。楽団員たちはCDによってこの曲を熟知しているから,極端なことを言えば,指揮者の指示がなくても,複雑な変拍子にも,入りのタイミングにも対応できるのだ。(p95)
彼(フォーレ)は女性関係においてはかなり放埒な生き方をした。(中略)道徳的な見方をすれば倫理観に乏しい男かもしれないが,私は芸術家とはそいういうものではないだろうかと思っている。情熱的で恋多き男であるからこそ,素晴らしい芸術作品を生み出せるという一面があるのではないか。モーツァルトもベートーヴェンもリストもヴァーグナーもすべて恋多き男であり,何度も「不倫の愛」を経験している。(p99)
ベートーヴェンが語った面白い言葉が残っている。「聴衆がこの曲(八番)を理解できないのは,この曲があまりに優れているからだ」 いかにも皮肉屋のベートーヴェンらしい言葉だが,私はこの言葉に大いに賛成したい。(p104)
オペラの題材に使われるストーリーは,勧善懲悪,史劇,悲恋,ファンタジー,コメディと多彩だが,難解な内容のものはあまりない。要するに芸術性を厳しく追求するものではなく,あくまで大衆性を目指したものだったからだ。ところが二十世紀になった途端,オペラの世界は一変する。古典的ドラマトゥルギーを無視した近代文学を思わせるような晦渋な作品が次々と生み出されるようになる。その嚆矢とも言えるのが「サロメ」である。(p111)
ベートーヴェンの即興演奏は残念ながら耳にすることができないが,それがいかに素晴らしいものであったかは多くの文献に残されている。(中略)ところが彼はいざピアノソナタを作曲するときには,即興演奏を楽譜にすることはなかった。これはなぜか。彼は即興で聴く音楽と,繰り返し聴く音楽は違うものであるという考えを持っていたからだ。(p140)
クリエイターというものは異なる作品を生み出しても,その人ならではの「本質」とでも呼ぶべきものがある。ブラームスの場合,いったいどれが彼の本質なのか見えにくい。(p147)
聴力を失った作曲家といえば,ベートーヴェンがよく知られている。(中略)スメタナもまた完全に聴力を失ってから,「モルダウ」という名曲を生み出した作曲家なのだ。作曲家にとって聴力ほど重要なものはない。単純なメロディーならともかく,多くの楽器から編成される複雑なハーモニーの曲を頭の中だけで鳴らすのであるから,その困難さは誰でも想像がつくと思う。(p155)
(モーツァルトのピアノ協奏曲)第二七番は,すべての色彩を取り去ったような透明感に満ちた不思議な曲なのだ。またオーケストラの編成がとても小さい。無駄を削ぎ落としたようなシンプルな編成である。またピアノも技巧を見せつけるようなところは微塵もない。とても単純な音で淡々と奏でられるのだ。若いときにしばしば見せたケレンや遊びはどこにもない。(p165)
ベートーヴェンの変奏曲は,主題に様々な音をちりばめる「装飾変奏」ではなく,主題から動機を取り出し,リズムやテンポさえも自在に変え,異なるメロディーを生み出して次々と展開していく独創的なものだ。これは「性格変奏」と呼ばれるもので,彼は若い頃からこれを得意としていた。そして人生の最晩年に,これまで培ってきたピアノ書法のすべてを注いで書いたのが「ディアベリ変奏曲」だ。これはバッハの「ゴルトベルク変奏曲」に匹敵する,クラシック史上に残る大傑作の変奏曲である。(p173)
書名 この名曲が凄すぎる
著者 百田尚樹
発行所 PHP
発行年月日 2016.02.29
価格(税別) 1,800円
● 名曲解説ってことになるんだけども,曲を語ることは(何を語っても同じことだが)自分を語ることだ。存分に自分を語っている。だから面白い。
「田園」について蒙を啓いてもらった。「田園」って,ベートーヴェンの中では例外的につまらないと思っていたのだ。
あと,ジョプリンを教えてもらったこと。
● 以下にいくつか転載。
言葉ではなく音楽で語るから,心に突き刺さる(p26)
仮にショスタコーヴィチの意図がどうであろうと,私たちは演奏された音を純粋に聴くのみだ。だから,この曲(交響曲第5番)も「勝利の行進曲」でも「強制された喜び」でも,本当のところはどっちでもいいと思っている。(p40)
正直なところ私はモーツァルトやベートーヴェンを古楽器演奏で聴くのは好きではない。しかしバロック音楽は古楽器でやると,なぜかすごく新鮮で躍動感を感じる。(p49)
このオペラ(「ドン・ジョヴァンニ」)をベートーヴェンが非常に嫌ったのは有名な話である。おそらく彼にはこのオペラがポルノのように見えたのだろう。音楽という素晴らしい芸術を使って,このようなふしだらな物語を作るということが,ベートーヴェンには許せなかったのだ。(中略)しかしモーツァルトにとってはそうではなかった。想像するに,おそらく彼はこの物語に嬉々として音楽を書いた気がしてならない。というのも「ドン・ジョヴァンニ」に使われている音楽は,モーツァルトの音楽の中でも最上級に素晴らしいものだからだ。(p59)
実はシューベルトは未完の曲が非常に多い。(中略)これがシューベルトの特徴なのである。彼は典型的な気まぐれな天才肌の芸術家であった。(p75)
モーツァルトも作曲するときは時間をかけずに書いたが,彼の作曲のほとんどが他人に依頼されてのものだったから基本的に未完はない。ただそんな彼も誰にも頼まれずに書いた曲のいくつかは未完で終わっている。天才モーツァルトにしてもそうなのだ。一度着想した曲を何カ月も何年もかけてひたすら完成に向けてたゆまず努力するベートーヴェンのような男はむしろ特殊なのかもしれない。(p76)
この曲(「未完成」)が書かれたのは一八二二年,シューベルトが二十五歳の時で,ベートーヴェンが「第九交響曲」を書く以前である。驚くのはその先進性である。当時,クラシック音楽はまだ「古典派」の時代であり,たとえば交響曲では長いフレーズは使われることがなかった。短いパッセージやモティーフを組み合わせていき,全体を構築していくというのが古典派の交響曲のスタイルであった。つまりシューベルトの息の長いフレーズは明らかに時代を超えていると言える。(p77)
現代では楽団員の多くが音楽大学出身で,理論も学識も備えていて,演奏する曲のスコアにも精通しているので,指揮者の影響力は低下した。(p83)
フルトヴェングラーは別格中の別格,まさしく「神々の中の王」とも言える存在である。(中略)彼の手にかかると,それまで何気なく聴いていた曲が始めて聴くような曲に聞こえるのだ。(p84)
再現芸術を一段低く見る人がいる。どれほど上手に演奏しようと,彼はその曲を作曲したわけではない,という見方だ。所詮演奏家などは,無から有を生み出したクリエイターの作品を補完するだけの存在ではないかと言う人もいる。しかしフルトヴェングラーを聴けば,そんな考えはまったく浅はかなものであると気付くだろう。(p85)
これ(ベートーヴェンの6番)は田園風景の表面を描写しているだけの音楽ではない。田園と聞いて誰しもが思い浮かべる心象風景をあらわしているのだ。(p107)
天才的な芸術家というものはたいていどこか常軌を逸したところがあり,その破天荒さが魅力の一つでもあるが,ヴァーグナーの場合は,その俗物性に辟易させられる。たとえば彼は女たらしであるが,開放的な女好きではなく,しばしば他人の妻を奪っている。それも自分が世話になった恩人の妻や自分を慕ってやってきた弟子の妻である。しかもいずれも自分が不遇な時代に手を差し伸べてくれた人たちである。(p129)
彼はこの曲(「トリスタンとイゾルデ」)でわらゆる和音を完成させたとも言われている。ただ,この音楽を初めて聴く者は,間違いなく退屈する。というか,まず聴いていられない。というのも全曲にわたって半音階が使用され,普段私たちがメロディーと思っているような旋律はほとんど出てこないからだ。(中略)どこが頭やら尻尾やらわからない意味不明の音楽が切れ目なしに何十分と続く。これこそ,決して成就することのない愛を描くためにヴァーグナーが行った無限旋律だが,ひおとたびその音階の魅力にはまると,もう抜け出せない。(p135)
鉄血宰相と呼ばれたビスマルクは,「アパッショナータ」についてこんな言葉を残している。「この曲をいつも聴くことができれば,私は常に勇敢でいられるのだが」(p141)
世界には素晴らしいテクニックを持つピアニストはいくらでもいるが,私にはリヒテルのテクニックは別次元のようなものに思える。これはうまく説明できないが,演奏中にリヒテルには何かが乗り移ったかと思うような瞬間があり,その時の演奏は人間が弾いているのではないようなきがするのだ。(p148)
一般にクリエイターはただ「作るだけの人」と思われているが,実は同時に「批評家」でもある。これは芸術のジャンルを問わない。クリエイターにとって「批評家の目」を持つことは絶対条件である。(p153)
当時,貴族たちは演奏会場で緩徐楽章になると,うとうとと居眠りを始める者が多く,ハイドンはそういう聴衆を驚かせて目を覚まさせようとして,こんな和音を書いたのだと言う。(p164)
ベートーヴェン以降,交響曲は苦悩や葛藤を表現するジャンルの曲になったが,ハイドンの音楽にそんなものはない。ただ音楽を純粋に楽しむ喜びに満ちている。しかしそれこそが音楽の本来の姿ではないかと思うときもある。(p166)
マーラーの妻アルマは夫の死後,彼の自伝を書いているが,その内容は独善的で自分に都合よく書かれ,しかも真実かどうかもわからない。アルマの本を読む限り,彼女はかなり自己顕示欲と自意識が強い女性であることがわかる。厄介なのは,マーラーが語ったとされる言葉の多くが,アルマの本に書かれていることだ。(p169)
ヘンデルの音楽は豪華絢爛な響きが満ちていると書いたが,これは敢えて意地悪な見方をすれば,「ハッタリ」的な要素があるとも言える。ヴァーグナーの音楽にも似たものを感じる。(p190)
引退後,田中(希代子)は忘れられ,一九九六年に六十四歳で亡くなっている。晩年,あるラジオ番組に出演したとき,田中はこう語っている。「もし,神様が,お前からは随分いろいろなものを奪ったけれども,お皿を洗う能力は返してあげよう,といったら,私は跳び上がって喜ぶでしょうねぇ。お皿を洗うことだって,立派な自己表現ですもの」。(p201)
彼らは年齢を重ねると技巧を増して円熟していくが,それが必ずしも作品の向上につながっていくとは限らない。(中略)ところがクラシック作曲家,特に交響曲作家の場合においては話が異なる。彼らは不思議なことに,年を取れば取るほど,また技巧を身に付ければ付けるほど,曲の質が向上していくのだ。(p203)
ドビュッシーの場合,個人的にどことなく陰湿な感じがする。というのは,彼と関係を持った女性たちの多くが不幸な運命を辿っているからだ。(p214)
自殺と自殺未遂は大きな違いがある。というのは世の中には,捨てた男の気持ちを振り向かせるために自殺未遂を企てる女性というのが少なからず存在するからだ。ギャビーとリリーがそうであったとまでは言えないが,二人ともエキセントリックな性格だったのかもしれない。もしそうならドビュッシーはそういうタイプに惚れる男であったといえる。(p215)
ドビュッシーは後にこう語っている。 「私は結婚に不向きな人間だ。芸術家は自由でなければならない」 私はこの言葉には苦笑せざるを得ない。悪妻に苦しめられた男が言うならわかる。また結婚生活を続けようとしたにもかかわらず上手くいかなかった男の言葉なら理解もできる。しかし妻に支えられながら浮気を繰り返し,挙句はボロ雑巾のように捨ててしまう男性が口にすると,それはどうなのかなあと思ってしまう。(p216)