2021年1月31日日曜日

2021.01.31 茂木健一郎 『もうイライラしない! 怒らない脳』

書名 もうイライラしない! 怒らない脳
著者 茂木健一郎
発行所 徳間書店
発行年月日 2020.03.31
価格(税別) 1,500円

● 日本のお笑いについて怒りのツイートをして炎上・・・・・・。その体験から怒ってはいけないと思ったのかどうか,“怒らない” に焦点を合わせて論述。
 怒ってもいいことは何もないという,まぁ,すでによく知られている命題についての解説と,どうしたら怒らないようにできるかという方法論の解説。これも,しかし,あまり新味はないと思う。すでに誰かが説いている。

● が,ネットで炎上したときの対策はなるほどと思った。ブロックしてはいけないというところには,特に。
 しかし,参考になるというのではない。SNSをやっていたりブログを書いていたりする人は星の数ほどもいると思うのだが,ほとんどの人にとっては炎上を心配する必要はない。100人にしか読まれないTwitterや1日に50PVしかないようなブログが炎上することはあり得ないからだ。
 多くの人に読まれていればこそ炎上もする。炎上を体験できる人は,SNSやブログで何らかの発信をしている人の中のエリートだけだ。おそらく,100人に1人もいまい。1,000人の中の2人か3人ではないか。
 で,炎上に群がって,罵声や正論を浴びせるのは,残り998人か997人の人たちということになる。そういう図式だろう。
 エリート対大衆,ということだ。炎上させて手痛い目に遭うのがエリートで,叩いて気晴らしをしているのが大衆。いつの時代でも救いのないのが大衆だよ。

● 以下に転載。
 怒っても,何も変わらない。むしろ事態を悪化させてしまう・・・・・・。その事実に気づいたから,怒らなくなりました。気づくまでに何十年とかかりましたが(p2)
 怒らない人になってよかったことを挙げるとすれば,人間関係が円満になること。もう一つ挙げれば,脳が活性化すること。怒らない人は,脳の機能を十分に活かすことができます。(p5)
 日本ほど怒りが満ちている国はほかにはない・・・・・・。あくまでも私の体感ですが,そう言っても過言ではないでしょう。(中略)SNSをはじめとするインターネットの世界にも,怒りがあふれています。(中略)世間を騒がした人への誹謗中傷,個人攻撃があとを絶ちません。(p14)
 私自身は「怒らない人生を生きることが人類の究極の目的」だと見なしています。これからの人生をそのように過ごしたいと,心から思っています。(p43)
 脳が怒りに「ハック」されてしまっています。怒りにハックされた脳は,もはや自分自身をコントロール不能な状態にさせます。(p49)
 怒ると,脳の働きが不十分になって言葉で説明するのも難しくなります。こう考えるほうが自然ですが,実は逆です。説明するのが面倒くさいから,怒ってしまうのです。(p62)
 脳には「ミラーシステム」と呼ばれるものがあります。目で見た人の動きを無意識にマネしてしまう働きが,脳にはあります。(中略)誰かが怒っていると,それを見ている人にもその怒りが波及することがあります。(中略)悲しいことに,怒る人は,自分自身が怒りの発火点になっています。(中略)怒る人は相手を怒らせる名人。(p65)
 怒る/怒らないは性格によって決まるものではないこと。脳の前頭葉がコントロールできるかどうかが,深くかかわってきます。(p78)
 気持ちがささくれ立ってきたら,笑顔になりましょう。ニッコリ微笑むだけで,怒りの気持ちは消えていきます。(中略)つくり笑顔でも大丈夫。照れ笑いでもいいでしょう。(中略)それだけで怒りを抑えるのには,十分です。(p94)
 子どものころは,ケンカをして「絶交だ」と言って別れても,数日もすれば,どちらからともなく歩み寄って,仲直りできたものです。(中略)大人になると,そうカンタンに一度こじれた関係は戻りません。(p144)
 「それを言ったらおしまい」ということは決して口にしてはなりません。(中略)言った瞬間にゲームオーバー。(p145)
 脳は本来,無限とも言える回路を持っていて,これまでまったく接点がなかった神経細胞がつながることで,新たな発想やひらめきが生まれたりします。問題が発生しても脳が正常に活動できていれば,打開策や起死回生のアイデアが出てくるかもしれません。ところが,怒りにハックされてしまうと,新たな回路がつくられることもなくなります。(p157)
 常に回路が作られるようにするには,脳を「とらわれない」状態にしておく必要があります。とらわれがあると,脳は特定の回路しか使われなくなりがち。(p158)
 雑談には,目的もルールもない・・・・・・。無計画とか無節操と言われれば,そのとおりなのですが,逆に言うと,「だからいい」のです。(中略)雑談しているときは,脳がたくさんの回路を使っています。(中略)このように脳のあらゆる回路を使う習慣がついていると,イライラしても怒りの回路がつくられるのをブロックします。(p167)
 慣れないことをすると,自分の未熟さや勝手に決めつけていたことなどが見えてきます。自分の無力さを痛感することで,許容範囲が広くなります。(p171)
 集中していても,脳はありとあらゆることに即座に反応できるようになっています。(中略)何かに集中して取り組んでいても,それ以外の回路も開かれています。(p178)
 一度に二つ以上のことをする「ながら仕事」はよくないことのように思われがちですが,脳の複数の回路を同時に働かせることになりますから,なんら悪いことではありません。むしろ脳を活性化させます。(中略)こうしたながら仕事やながら勉強をしていると,脳が多方面で活動することになりますから,特定の回路だけを使うことを回避するようになります。イライラしてきても,脳が怒りにハックされにくくなります。(p178)
 言葉は,その人の分身。使う言葉には,その人の思考や行動,価値観が色濃くにじみ出ています。(中略)脳を「快」にするキレイな言葉を使うと,相手の脳も快になります。(p181)
 私は前日の夜にどんなに遅くまで仕事をしたり飲んだりしても,朝は6時前に起きるようにしています。朝早く起きるのは,することがあるから。(中略)ジョギングするために,朝早く起きていると言っても過言ではありません。(中略)いつまでもグズグズ寝ていないでパッと起きたほうが脳にとってもいいのです。(p184)
 悔しさはあるに違いないのに,勝った人を祝福するのは,そのほうが自分自身も快になるからです。(中略)ある意味では,相手から「成功のおすそ分け」をしてもらっています。(p192)
 「今に見ていろ!」と悔しがると,やる気がフツフツとわき上がっているように感じますが,これは,錯覚です。(中略)攻撃性や闘争本能を高めるためのものなので,誰かを傷つけずにいられないし,長続きしません。(p193)
 私自身,過去にツイッターへの投稿が炎上したことがあり,実にたくさんの人が匿名による怒りのコメントをしてくるのを身をもって体験しました。その負のエネルギーはすさまじく,うつになったり人間不信に陥ったりしてしまう人がいるのもうなずけるほどです。(p220)
 第三者があれこれ口を出すことではないし,正論をぶったり怒りを表明したりするのは,余計なお世話。第三者がSNSで不祥事を起こした当事者に怒りをぶつけるのは,筋違いです。火事場の野次馬と大して変わりありません。(中略)本人は正義の人になったつもりで怒りに任せて正論を述べているのでしょうが,価値観の押しつけです。(p220)
 もしあなたがこのような怒りの投稿をしているとしたら,やめる方法は,第一に炎上した不祥事のニュースを見ないこと。炎上したネット上は罵詈雑言の嵐ですから,それを避けることが自分を怒りから遠ざけることになります。(p223)
 ネット上で怒りをぶつけてくる相手への対応として,大原則と言うべきものが二つ挙げられます。一つは,反論しないこと。(中略)反論するのは,まさにこちらが怒りに感染している証拠。相手はさらにかさにかかってきます。ツイッターの世界では,「トロールにエサを与えてはいけない」という有名な格言があります。(中略)もう一つは,ブロックしないこと。(中略)別の捨てアカウントをとって,攻撃してくるのは可能で,しかもその気になれば何十,何百と取得できます。ブロックされると,むしろ相手の闘争心に火をつけることになり,追求の火の手が激しくなります。(p224)

2021年1月30日土曜日

2021.01.30 茂木健一郎 『ど忘れをチャンスに変える思い出す力』

書名 ど忘れをチャンスに変える思い出す力
著者 茂木健一郎
発行所 河出書房新社
発行年月日 2019.07.20
価格(税別) 1,300円

● 著者の茂木さんも年を取ったということか。本書で説かれていることのひとつの柱は円熟ということ。尖っているよりも円熟を目指すべきだ,と。
 読者層も高齢期に入った人たちを想定しており,高齢者に宛てて書いている。老人生活論的なものだ。柔軟性を失うな,自分の暮しをルーティンで満たすな,初めてのことに挑戦してみよ,今の延長線上に未来があると思うな,と,老人を励ます言葉が並ぶ。

● 以下に転載。
 面倒な過去は思い出さないほうが楽に暮らすことができますし,われわれは「できれば悩みなど持たずに暮したい」と思うものですが,それが逆に,若さやエネルギーを失わせ,幸福の追求の妨げになってしまうことがあります。(p3)
 あまり意識していないことですが,われわれは小学校の頃から学年主義を押しつけられてきました。(中略)外から与えられた文脈に素直に適応していると,年をとってから困ることがあります。(中略)実際にはまだまだ働く力があるのに,まるでそのあたりの年齢で働く能力がなくなるかのように社会制度側に言われてしまう。それで脳は「そういうものなのかな」とその文脈に適応して,自分から元気をなくしてしまいます。(p16)
 これからは,男らしさ,女らしさ,などありとあらゆる「らしさ」が取り除かれていく時代になります。私たちが無意識のうちにまとっている「らしさ」の一つは年齢です。(p22)
 インターネットは,自分で自分が好きなことに,情熱を燃やしていい場所です。そして作品の発表の機会は,誰にでも開かれています。(中略)年齢が関係ない世界になっているのです。(p23)
 若い人は未来の自分のためにお年寄りのイメージを,お年寄りは過去の自分のために若者のイメージをもっているのがいいと思っています。一人の人間の中にゼロ歳児からお年寄りまで,全年齢の人が存在することでバランスがとれるからです。(p30)
 右も左もわからないことをする,経験値ゼロで挑む,というのが5歳児の力です。それは,50歳からでも80歳からでも可能です。(中略)もしあなたが15歳の少年少女だったら,「これからの人生は,これまでの15年の人生の延長線上だろう」などとは想像もしないでしょう。(中略)自分が慣れている方法で,これからも生きていかなければならないというのは,「制約」です。(中略)これまでに作ってきたルールを前提にしてしまうと,これからできることは限られてしまいます。「自分らしく」と思っていること自体が,自分の未来を限定したり,規定したりしてしまうのです。(p32)
 「らしさ」というのは,実は人生の途中で作った一つの仮説にすぎません。(中略)仮説だからそれはいつでも変えられる。(p34)
 趣味や副業がせっかくあっても,「本業」あってこそと,「趣味」や「副業」をないがしろにしてしまっている人たちがいます。すべての文脈を同列にとらえずに,本業だけを重要視していますが,本当は「本業」も一つの仮説にすぎないのです。(p36)
 人間は生き物です。生き物として重要な記憶は,実は,感情を使って覚える記憶です。(p40)
 生き物としての脳が本気になることの一つに,初めてのものごとを体験するときがあります。(中略)感情が最も働くのが,初めてのときなのです。(p42)
 誰でも「偽の記憶」を持っています。海馬という編集のメカニズムがあるために,われわれはありもしなかったことまで,鮮やかに思い出すことがあるのです。(p45)
 意識的に考え尽くして行き詰まってしまったら,もう寝てしまって,脳に完全に任せてみると,記憶の整理がついていい答えが出ることがある,というのが常識になっています。(中略)われわれが思っているよりもずっと,脳は賢いのです。(p52)
 無意識だけに任せていると,自分の悪癖を強化してしまうことがあります。(中略)自分の思い出し方の癖を脱却するために,普段思い出さないことを意識的に思い出すようにするのです。(p53)
 自分の人生経験も,その感情的意味合いは,意識して思い出し,多角的に眺め,何度も分析していくことによって,さまざまに変わっていきます。人間の記憶,感情の仕組みから言えば,過去は変わらないものではなく,育つものなのです。(中略)たくさんの経験をすればするほど,それを思い出せば思い出すほど,創造につながる。新しい理解づくりをしているという意味で,このような頭の中での経験の処理も,芸術家の作品づくりと同じく,人間の創造性と言うことができます。(p56)
 「Aを選んでしまったから,Bはもうできない」というのは実は思い込みで,Bは工夫次第でできるのです。(p63)
 どんなおじさん,おばさんも,かつては少年少女でした。思い出すこと(中略)は,もう一度少年少女に戻ることです。(中略)八千草薫さんなど,いつまでも若々しくて,多くの人の憧れになるような人は,少年少女だった頃のことを,思い出すのが得意な人なのだと思います。(p65)
 何かを学ぶために「学校に行かなければ」「カルチャーセンターへ行かなければ」「先生を見つけなければ」「正しいことが書いてある教科書がどこかにあるだろう」という考え方から離れることです。現代の「学び」は,自分のやり方でやることが大事です。なぜならば,「正解などどこにもない」ということがつかめた人が,万能人になっているからです。(p77)
 現代が万能人を出す基盤が整っているというのは,学校では分野ごとに分けた教育をしていても,検索エンジン,ユーチューブなどで,興味があるキーワードを入力してみれば,いくらでも無料で学ぶ素材が出てくるからです。(p81)
 ストレスなく楽しそうにしている人が,一番学習をしている人という不思議な状態に今はなっています。(p83)
 脳の回路は,経験によって毎秒毎秒つなぎ替えられています。そのつなぎ替わり方には,われわれの想像を超えることがあって,一部が外傷や病気で傷ついたときにも,他の部位が代わりをして,才能を開花させることがあります。できなくなることによって,できることが生まれる。(中略)「ある回路があることで,抑えられている能力がある」とも言えます。(p97)
 生物は用不用説が原則なので,生きるうえでとりあえず不要だと思われている機能は抑えられていますが,それが他の機能がなくなったことで,不要から要に変わって行くことがあります。言語能力が優れている人は,通常言葉で全部記述しようとしてしまうけれども,言葉が苦手な人は絵を描いたりして自分を表現しています。逆に言えば,ものごとを粘り強く論理的にとらえられている人は,絵画的にものごとを見ることができないというところがあるのです。(p99)
 可塑性を十分に発揮するには,生きる意欲が鍵になります。(中略)何かをして,「これは楽しい」「これは生きることに役立つ」と脳が思うと,脳の中で報酬物質ドーパミンが出て,回路がつなぎ替えられることになっています。(p100)
 自分の脳が何を欲しているかということ,つまり,脳が脳の欲求を自覚することは,永遠に学び続けられる脳にするために,とても必要なことです。(p107)
 比較的リラックスしているときに,「どうしてこれが?」というような文脈とはまったく関係のない何かが思い出されたことはありませんか?(中略)その「何か」というのは,無意識からの手紙のようなものです。(中略)そういうものにこそ注意を向けて,「自分の無意識は何を訴えているのだろう?」とよく考えてみてください。(p117)
 心地よく暮している感じが剃るときは、あなたは自分の人生を自分で導いているとは言えません。(中略)決まった脳の回路ばかりを使っていて,人生が固まってしまっているということです。あなたには,何か使っていない回路があるはずです。(p121)
 音楽でも,ヘビーローテーションで同じ曲ばっかり聴いていたとしたら,危険な兆候です。(中略)すでに自分が好きだとわかっているものの中だけで,生活を営むようになっているとしたら,実は,好奇心を失ってしまっているか,自分の欲望がみえなくなってしまっているのかもしれません。(p124)
 「物」があると,脳は思いだしやすい傾向があります。今の時代は,デジタル時代,バーチャル時代で,「物」が置きざりにされており,本当に「思い出す」ことがしにくい時代です。(p128)
 あなたは今この瞬間のあなあだけがいるわけではなく,もしかしたら今から見れば「あり得ない」と思うような,昔のあなたも確かにいたわけで,思い出すことでそれがひとつながりになっていきます。それによってものごとが一面だけではなく,重層的に見られるようになります。(中略)それによって,未来のことも,「このままの世界がずっと続いていくだけだ」というふうには思わなくなります。(p129)
 無意識が自由にものを言えるようにするために,意識して,ニュートラルに,満遍なく,さまざまな時代を思い出すのがいいのです。(p131)
 奈良の正倉院の御物でさえ,ときどき虫干ししているといいます。宝物は,ときどき箱から取り出して日に当てなければ,虫に食われたり,黴が生えたりしてしまいます。記憶も同じです。ときどき思いだして,虫干しをしてみるといい。(p135)
 創造とは,何もないところに急に何かができあがることを言うのではありません。もともとあったもの同士が,つながり方を変えて出てきたり,もともと何かがあったところへ,別の何かが来ることによって,パズルのピースがはまるように,完成したりすることです。だから,年を重ねた人のほうが,クリエイティブになるには有利な点があるのです。(中略)たくさんの経験を持っていて,なおかつ「何かやりたい」「何かないかな」と常に外の世界と,自分の中の図書館とを探索している好奇心の強いお年寄りなら,まったく新しいものが創れる可能性があり,最強だと言うことができます(p143)
 時代が変わってしまったからこそ,今に生きつつ過去を振り返ることが強みになるのです。(p145)
 中高生と話していると,「こんなにものを知らないのに,なぜこの子たちは自信にあふれているのだろう」と思うことがあります。つまり,何も知らなくても持てるものが「自信」です。若者は聞きかじりの知識だけで,「将来はロボットに人間の意識を移せるんですよ」などと大胆に言ってきます。意欲があるとは,そういう大胆さ,無謀さがあることで,それは圧倒的な宝なのです。(中略)自信や意欲は,根拠なく持っていい。--これは覚えていてください。(p145)
 子どもを見ると,本当によく遊んでいます。動物も人間も,若いときほどよく遊ぶことが観察されていて,驚くべきことに,遊ぶときに脳の回路が劇的につなぎ替えられるといわれています。(中略)ものごとを一つの意味だけでしかとらえず,遊ばない,遊びの余地を残さない,無駄なことをやらないと,脳は学びをなくしてしまいます。(中略)意欲を持ちにくい人は,意味を問う癖がついてしまっている可能性が高いです。(p149)
 クリエイティブなのは,尖った人で,円い人は,成功などしない。道徳的な人はつまらない。--まだそう思う人のために補足しておきましょう。成功している人は,イメージは確かに尖っていても,その実,そうでないことが多いものです。(中略)本当に素でも尖っているという人は,だんだん仲間も仕事も減ってしまうのではないでしょうか?(p156)
 文明的にも文化的にも発達の途中で,とにかく駆動力が必要だった時代には,尖ったものが必要だったでしょうが,物があふれて,何もかも飽和状態の今は逆に,円熟の思想こそ求められているのです。(p158)
 個性は,ネットワークの中で作られていくのです。周りの人を活かす中で,自分が活きてくるという不思議な関係にあります。(p167)
 何をするのがベストという客観的な「答え」はなくて,そうしたほうがいいのかどうかわからないから「自分が判断する」必要がある。(p186)
 お金につながらなくても,自分の時間を何に使うか自分で決めて,飽きることがないというのが何よりも大事です。(p186)
 「プロになって第一線で大活躍しなければ意味がない」と思うのは間違いで,「新しいことを始める」「自分がやってみたかったことを素直にやってみる」ということがどれだけ自分に満足感や喜びを与えるか,確かめてみてください。(p187)
 子どもの頃の気持ちを取り戻すためには,自分がまったく素人になるものごとにチャレンジするのが一つのコツです。自分の直感がまったく働かないものごとをやってみれば,また,自分が誰よりも下手というところに身を置いてみれば,簡単に子どもや若者と同じ状況になります。(p198)
 幸せな気分になったときに,人は初心を取り戻しやすいのです。(p209)
 「何が何につながるかわからない」というのが,脳の基本性質だということです。自分がどこにたどり着けるかは,いろいろなことの合わせ技で決まります。(p216)

2021年1月17日日曜日

2021.01.17 鈴木敏夫 『禅とジブリ』

書名 禅とジブリ
著者 鈴木敏夫
発行所 淡交社
発行年月日 2018.07.18
価格(税別) 1,600円

● ジブリの鈴木敏夫さんと3人の禅僧との対談。その3人とは細川晋輔,横田南嶺,玄侑宗久。
 最後は良寛の書を見ながら,鈴木さんと細川さんが語り合う。鈴木さんの書にたいする造詣あるいは鑑賞眼は相当なものとお見受けする。
 彼の仏画も何点か掲載されている。これも相当に打ち込んでいる。

● 鈴木敏夫さんの風貌がジャズピアニストの山下洋輔さんとかぶるんだけど,そう感じるのはぼくだけか。

● 大学生のときにホテルオークラのプールの監視員のバイトをしているときに,オークラの社長夫人に気に入られたというエピソードが語られる。社長夫人の琴線に触れる何かを持っていたわけだ。
 きちんと仕事をしていたとか,そういうことではなく,オーラのようなものが出ていたんでしょうねぇ。

● 以下に転載。
 私の祖父の松原泰道は,百二歳で亡くなる三日前まで,死神と競争しながら勉強しているような方でした。それには戦時中の経験が大きかったようです。(中略)終戦間際には,体の弱かった祖父にも招集がかかって,僧侶の身でありながら武器を持つことになった。それはいったいどんな気持ちだったのか。帰ってからは,午前三時からずっと勉強をしていたと聞いています。(細川晋輔 p20)
 私たちは,よく悟りを月にたとえるのですが,教えは月を指す「指」でしかないんですよね。指のほうに注目してしまうと,どうしても肝心の月が目に入らなくなってしまいます。(細川晋輔 p22)
 結果として多くの人が見てくれれば嬉しいですが,「本当にわかる人に届けばいい」,そういう気持ちでいますけれどね。(p23)
 目の前のことを忘れている人が多すぎるから。今,みんなそれで悩んでいますよ。人生は本来,ケ・セラ・セラ。明日のことなどわからないはずなのに,みんなが過去に捉われ,未来のことを考えている。(p29)
 過去や未来に捉われることの一番の問題は,今この瞬間に集中できないこと。だから僕は「もっと今に集中しろ」ってしょっちゅう言っているんです。(p30)
 合理的にやってもしょうがない。どうやって無駄なことをするかですよ。(p32)
 あの映画の新海誠監督は背景の絵作りをともかく熱心にしたそうです。僕は商売だからそういう味方になるけれど,「この映画,背景ばっかり目立つな」と。背景を目立たせるためにキャラクターの芝居があり,音楽がある。しかもあの背景は,本物を観察しながら描き,なおかつ本物じゃない。つまり「あの世」だと思ったんですよね,僕。(p33)
 ジブリで『君の名は。』みたいな映画を作れるか,と言われれば作れません。(中略)「この世の中,捨てたもんじゃないよ」というのがジブリの基本的な姿勢なんで。(p34)
 「不識」,つまりわからないことこそが人生なんです。むしろわかってしまったらおもしろくない。(細川晋輔 p37)
 白隠さんも,非合理に問うことで人の心を揺さぶり,あえて心の水面に波を立てます。波が収まって澄み切ったところに本当の「答え」がある,と考えていたんだと思います。(細川晋輔 p38)
 今の時代,「何かをしたら,何かを得たい」という気持ちが強い。しかし坐禅は何かを得るより,捨てる場だと思うんです。(細川晋輔 p41)
 彼女,まさに「一日暮し」ですよ。彼女と大家族を撮った写真があって,みんなお金がなくて,その日の暮しにも困っているくせに,それを微塵も感じさせないすごく明るい顔をしているんです。(p48)
 幕末・明治に日本に来た外国人が国へ送ったレポートや手紙を集めた本なんですけどね。それによると,日本人はみんなニコニコしていて,子どもを大事にし,一日にわずかな時間しか働かないで,後は集まって喋っている。「なんていい国なんだ」というレポートばっかりなんですよ!(p48)
 今の世の中で,「生きるとはどういうことか」をテーマに映画を作るのは,ものすごく難しいんですよ。現代の生き方そのものが複雑怪奇だから。何に手触りがあるのか,実感を持てるのかがわからない。(p50)
 宮崎駿は「いま,ここ」の人である。(中略)明日は明日の風が吹くし,昨日のことは水に流す人だ。「いま,ここ」に誠実であるがゆえに,過去に自分が何をやったのか何を言ったのか,よく憶えていない。(p51)
 僕は著作権については,かねがね疑問があるんですよね。どんな作品も,さまざまな人やモノに影響を受けた上で,生み出されるわけじゃないですか。もしそれをすべて否定して,「誰の真似もしていない,オリジナルだ」と主張しすぎるのは,なんか違うんじゃないかな。宮さんも,いろいろなものに影響を受けていて・・・・・・影響って,いわば真似るということじゃないですか。(p55)
 「真似は当たり前だろ」って言ってるんです。でももとがわかっちゃいけない。(p56)
 近代人は「個性」を学んだでしょ。そのために苦しんでいますよ。(p58)
 禅の修行では,個性なんてまったくいりません。オリジナリティなんて一番いらない。ひたすら修行を続ければ,自然に出てくるもの,という考え方です。お経を自分の個性で解説してしまうと,仏教から離れてしまう可能性がある。(細川晋輔 p58)
 禅道場では上下関係がものすごく厳しくて,先輩に「カラスは白だ」と言われれば「白」。質問や言い逃れはしてはいけない,という生活です。道場に入ったときにはかなり違和感がありましたが,慣れれば楽なんです。(中略)基本は師匠の言ったことが絶対であり,伝えられてきたことはしっかり守る。「一器の水を一器に移す」という言葉を使いますが,枡に入った水を一滴もこぼさず次の枡に移すのが,私たちが「仏法を伝える」ということなんです。(細川晋輔 p59)
 私は,「熏習」という言葉が好きなんです。薫りで習えと。禅の世界では,誰も手取り足取り親切に教えてはくれません。かといってできないと怒られる。それでどうするかというと,先輩がどうやっているかを観察して真似るんです。(細川晋輔 p60)
 何か言われると,「いや・・・・・・」から入ってしまう自分がいて。承服できないことも,「ハイ」から入れば,いったん受け止めて対応できるんじゃないか,というのは気にしています。(細川晋輔 p61)
 すべては,あらゆるものとの関係性で動いていく。(中略)自分で完成させなくても,誰か身近な人にバトンタッチすればよい。(細川晋輔 p64)
 僕と宮さんに共通するのが,何でも忘れちゃうこと。努力してそうするわけではないけど,本当に忘れちゃうんですよ。(中略)いつでも初心に戻れる。(p67)
 これまでよりも規模の大きな映画を制作しようとするとき,保守的になって自分の得意なもので勝負するでしょう? ところが彼(宮崎駿)はぞれを全部ナシにして,まるで新人監督のような作り方をしたんです。(中略)この人は五十歳を過ぎてもこんな初々しいものを作れるんだと驚きました。まあ,不思議な人ですね。(p69)
 朝二人で話していると,僕もたまには彼に衝撃を与えるいい話をするんです。「鈴木さん,それおもしろい」って。それでお昼を挟んでまたやってきて,「鈴木さん,いいこと思いついたんだ」と言って話し出すのが,朝,僕がしゃべった内容なんですよ!(p70)
 四十年付き合って,昔の話をしたことがないんですよ。それが最大の特徴。「あのときこうだったね」「将来こうしよう」もないんですよ。たいがい日常茶飯の話。(p71)
 お釈迦さまの言葉を借りると,河を渡るときは,筏,すなわり仏教の教えを使ってください。でも陸に上がって山に登るのなら,河を渡してくれた仏教の教えはどこかに捨てていきなさい,というのが「忘筌」。(細川晋輔 p72)
 その方に,テーブルマナーを教えていただきました。でもその方は「だけど」とおっしゃるんです。「一番美しい食べ方は,自分が正しいと思ったことをちゃんとやること。そうやって食べなさい。これ,一生役に立つわよ」って。(p73)
 坐禅でも,作法に捉われてしまうことがあります。「作法ができていればいい」と考えてしまうと,本当に伝えたいことが伝わらないのではないかと思います。(p73)
 禅では「不立文字」といいまして,言葉にできないものを伝えるために,あえて言葉を多用しているところがあります。でも言葉では結局,似て非なるものしか伝えられないんですよね。(細川晋輔 p75)
 言葉ではなく「間」で伝えていくんですね。(細川晋輔 p75)
 「みんなで渡れば怖くない」で,どんどんやっちゃったらいいんじゃないですかね。何でも「やっちゃいけない」というのは馬鹿げていますよね。(p77)
 ここへ来て,みんながこだわっているのは枝葉どころじゃない。僕は強く言いたいのですが,「木を見て森を見ず」どころか,枝葉,そして現代が見ているのは葉脈です。この先はもうないと思うんです。(中略)何で,みんな自分たちで住みにくくしているんですかね。(p78)
 どんなものにも二面性があるのに,一面だけを見てすべてを否定するから。寛容さも多様性もありませんよ。何かが起こると,自分たちでルール化する。そこに問題があるわけです。(p78)
 日本では時間と空間が変幻自在ですよね。(中略)一番の典型例はね,ジブリではなく野球アニメ「巨人の星」。主人公の星飛雄馬がボールを一珠投げるのに,三十分使うんです。時間が伸び縮みして,三十分の間に,いろいろな過去のエピソードが入る。空間だって変幻自在。飛雄馬と父・一徹,姉・明子,三人でご飯を食べているときの部屋の広さは四畳半。ところが,一徹と飛雄馬がケンカを始めたら,部屋が五十畳に広がるんです! そしてケンカが終わると,もとの四畳半に戻る。これって,西洋の人には理解不能なんです。(p82)
 そもそも西洋と日本では物語の作り方が違うんですよね。評論家の加藤周一さんがおっしゃるには,「西洋の物語で,最初に決めるのはラストシーンである」と。ラストに向かって物語を進めていく。一方で日本は,『源氏物語』であれなんであれ,物語がどこに転がるかわからない。(p82)
 「自分」にこだわるから世の中がややこしくなるわけで,「自分」さえなくなれば,気が楽になるんじゃないかな,と。(p87)
 道楽は今ではイメージの悪い言葉ですが,本来は「仏道を歩むことを楽しむ」という仏教用語なんです。(細川晋輔 p88)
 僕に言えるのは,「オン・オフを作るな」ということでしょうか。「頑張るとき」と「解放されるとき」,そうやって境界線を引くから疲れるんじゃないですか。いつも同じ気持ちでいられたほうがいいと思うんです。(p89)
 だって男女がひっつく理由は,結局ウカツとか軽はずみ。それで結ばれればかまわない,と,どこかで思っているんですよ。自分もそうでしたし。(p92)
 きっといろんな問題が起こるんですよ。起こるけれど「それでいいんじゃないの」って。人間という生き物は,どうもそうやって巻き起こる日々の混乱が喜びなんだもん。そう思っているんですけれどね。(p93)
 世の中おせっかいが足りてないんじゃないかな。(p93)
 流行りを追いかけると大変ですよ。いろんなものに目を配らなくちゃいけないじゃないですか。そんなことはしたくないんです。(p99)
 私は初めて修行道場に行ったとき「これはいい暮らしだ」と思いましたね。(中略)「坐禅して暮らしていける,こんなにいいことはない」と思いました。(横田南嶺 p103)
 僕なんかはやっぱり喰いのある人生なんですかね。結局,自分のやりたいことをやっていないんですよ。望むことがあったとしても,結局はそれにつか付かない。ただ,人に頼まれたからやるか,と。(p104)
 仏道に励む心,「願心」というのは絶対に続かないのよ。一度は必ず,現実の壁にぶち当たって折れてしまう。折れて妥協するか,あるいは別の世界に行ってしまうか。そこが大事なんですね。(中略)現実の壁に突き当たり,思うようにならず,もう一度やり直す。誰でもその繰り返しですよね。(横田南嶺 p104)
 我々臨済宗では,管長や修行道場で若い雲水(修行僧)を指導する立場の者は結婚いたしません。禅は生活そのものが修行ですから,物理的に無理でしょうな。私はいまだに鈴木さんがくるまったのと同じ柏布団で寝ています。そして「これがいい」と思っているんです。(横田南嶺 p108)
 メニューは “つけうどん”。横田管長がニコニコしながら,口火を切った。「ぼくらにとって今日のご飯は,ご馳走です」
 声が明るい人だった。声だけじゃない。人としても明るい人だった。ぼくは,少し気が楽になった。(p111)
 本来人間というのは衣食住,この三つがあれば生きていけるわけじゃないですか。それをまじめにやりたかったんです。なぜかというと,今の時代,衣食住はあって当たり前,そうすると後はみんな付加価値で生きているわけです。そこにどれだけ意味がないかを映画でやってみたかったんですよね。(p116)
 『臨済録』には「屙屎送尿」「着衣喫飯」「困じ来たれば即ち臥す」という言葉があるんです。「大便小便を出すこと」「服を着ること・ご飯を食べること」「疲れたら寝ること」。禅のすべてはこれだと書いている。(中略)ようやくこの頃ね,ああそのとおりだなと。(横田南嶺 p118)
 我々禅僧は禅の削ぎ落とした世界にずっと留まって,それで幸せだというのではだめなんですよ。削ぎ落とした世界の基本を忘れず,この現実の世界に生きなくてはならない。これが,大事なところなんですね。(横田南嶺 p119)
 皇居の周りを走るんだったら,歩いて通勤すりゃいいと思うんですがね。それは嫌なのよ。(横田南嶺 p119)
 本来,人間が生きていく上で,必要なものと必要でないものがあって,その伝で言えば,やっぱりジブリだって必要ないですよね。その気持ちは,映画を作るときにどこかで持っていないといけない。その上で人に何かを伝えるわけですから。本来,食べ物を作るとか,生活用品を作るとか,そのほうが偉いに決まっているんですもの。(p122)
 ある学者がこう言ったんです。「人類というのはまだ幼い。ましてや大人になんてなっていないんだ」と。その幼い人間が一生懸命作っているのが今の人工知能でしょ。「人類ってすごい」なんておごり高ぶっていると,ひどいしっぺ返しに遭うんじゃないかな。「人類は幼い」とは大事な考えだと思います。(p123)
 坊さんの集まりは昔話ばっかりなのよ。(中略)自分の修行時代の自慢話を必ずやる。だから極力行かない。そういう人と話をしたって何にもならない。修行自慢なんて,いったい何になりましょうか。(横田南嶺 p127)
 私どもの世界には,師弟関係というのがありますがね。私らは,師匠のことをやみくもにありがたいと思うわけではないのですよ。よく言われるのは,一番いい師弟関係は,「敵同士」だと。(中略)白隠さんと師匠の正受老人もそうだと思います。白隠さんという方は,正受老人のもとで八カ月間修行をしたけれど,その後二度と訪ねていない。(横田南嶺 p132)
 素直に言うことを聞いてたらだめですよね。僕も生意気な部下のほうが好きです。やっぱり突っかかってくる奴じゃないとおもしろくないですよ。(p135)
 トリカブトは毒として有名ですが,実はすぐれた漢方薬なんですよ。微量に摂れば体が活性化する。大量に摂ると毒になる。怒りや憎しみ,競争心もそうなんですよ。ほどよく入っていれば,人間の体は元気になって働いていける。(中略)でも漢方薬なら先生が調合してくれるけれど,怒りや憎しみの場合は,それを調合するのは自分なんですよ。坐禅が自己を見つめるというのはそこのことです。(横田南嶺 p137)
 直日(坐禅を指導監督する役の僧侶)など指導するほうは徹底的にいじめ抜くんですよ。それに対してね,この野郎という気持ちにならないと,力が出ない。(横田南嶺 p137)
 僕らが見て育ったアメリカやフランスの映画に,日本人のことを考えて作った作品なんてないですからね。みんなその地域に根ざしてやっているわけで。(中略)最近,海外ではアニメ映画を作るときに,最初から世界に通用させようとして題材を選ぶんです。でも,そういうものって大体うまくいかないんですよ。(p149)
 なぜ日本の禅がそれだけシンプルになったのかというと,白隠さんや仙厓さんが,日本の八百万の神とうまく折り合っちゃったんですね(中略)ほかの信仰を全部肯定して,どこから行ってもそこに禅があるでしょ,という形で禅を示した。(中略)八百万を受け入れるためには,禅はコアなものにならざるを得ないんですよ。よけいなものを捨てないと。(玄侑宗久 p151)
 「旅の恥はかき捨て」には「立つ鳥跡を濁さず」。「急がば回れ」なら「善は急げ」。対立する二つの言葉があるんです。でも「今日できることを明日に延ばすな」という慣用句には対がない。だから対を作らないと,健全じゃないんです。(玄侑宗久 p153)
 『竹取物語』でかぐや姫がもともといた「月」とは,私は死者の国だと思うんですね。(中略)日本では,亡くなった人が行くところは,明らかに月のイメージが入っているんです。たとえばお盆だって,もともと旧暦の七月,満月の十五夜でした。(中略)日本人にとっては死後の世界は月の世界。嫌なところだと思っていないんですよ。(玄侑宗久 p158)
 仏教的には,本来お骨に何かが宿っているとは考えないんですよ。一方で日本人には,すべてに魂が宿るという考え方があるから,本人のお骨に何も宿らないわけがない,とつい思っちゃう。(玄侑宗久 p160)
 仏教思想に,一切は自性(物それ自体の本性)を認めない「空」という考え方がありますが,「色即是空」を徹底すると執着はなくなります。「愛」だって,仏教的には執着ですよ。(中略)愛も憎しみも両方ないなんて,我々の周辺の人間関係にはあり得ないじゃないですか。だから,僧侶としては本来「空」を説かなきゃいけないんだけど,その話はしにくいんですよ。「慈悲」のほうが法話として語りやすい。(玄侑宗久 p161)
 お釈迦さまが目指したことって,あらゆる迷信的なものを排除するという面があったと思うんです。でも,お釈迦さまの遺骨をお祀りしたいというのも人情じゃないですか。(中略)その人情を認めてしまうから,組織が生まれ,それが充実していくわけです。(玄侑宗久 p165)
 「縁起」は,あらゆる物事の網目のような関係性の中で,思いもよらないことが生起すると考える。この世の複雑さを説明するのに,縁起以上の考え方はないと思うんです。(中略)目標に向かって努力して,その通り実現することって,世の中で起きていることのほんの少しだと思うんですよ。(玄侑宗久 p168)
 私は中国の『荘子』という本が好きなんです。その冒頭がすごい。もともと小さな魚の卵が,鯤という巨大な魚になり,魚になったと思ったら,鵬になって空へ飛んでいく。(中略)ここでは,「これが自分だ,と思ったものを何度でも脱ぎ捨てなさい」と説かれているのだと思うんです。「自分とは,これだ」と思ったときから苦しみは始まる。だから,「まだ途中なんじゃないのか」と問いかけるんですね。(玄侑宗久 p180)
 仏教の観音さまは,サンスクリットではアヴァローキテーシュヴァラ。英語で直訳すると “away-look” なんです。つまり “look” ジーっと見つめていると,対象に近づきすぎて感情が交じり,どんどん目が曇ってくる。それを “away” 離れろ,と。近づいたり離れたりを繰り返しているうちに見えてくるのが本質だ,と仏教では考えています。(玄侑宗久 p185)
 僕がよく言うのは,若い夫婦に問題が生じるのは,必ず「向き合おう」とするところからだと。向き合うとたいがい相手の欠陥しか見えないんですよ。(p186)
 若い人が描く理想としての老人像に,ある種の「枯れ」があるんですよ。ところが,老人が描く老人に,枯れた人なんてどこにもいない。(中略)結局,老人だって,やっぱり本当はみんなへばりついて生きていきたいんでしょう。でも,それでいいんですよね。(p215)
 映画で言うと,最後まで枯れなかったのは小津安二郎。扱っている題材は渋くて地味なのにね。ところが黒澤は最後にあがきました。(中略)映画監督に限らないですえど,大体,年を取ったらつまらないんですよ。その例外になるのは至難の業。宮さんにはそれができるんだろうか,というのが僕の一番の関心事なんです。(p216)
 「狎れ」っていう言葉があるじゃないですか。禅で「手放せ」と言うのはそれじゃないですか。自分の経験,知識で機械的にこなしちゃうのが「狎れ」。それはよくないですよね。やっぱりある範囲の中で新鮮なものをやらないと。(p216)

2021.01.17 伊藤まさこ 『本日晴天 お片づけ』

書名 本日晴天 お片づけ
著者 伊藤まさこ
発行所 筑摩書房
発行年月日 2018.04.25
価格(税別) 1,600円

● なぜ片づけるのか,上手な方法があるのか。そういう話ももちろん出てくるのだけど,片づけに限らず,生活というものをどうデザインするかという話。
 総じて,著者は,見た目の美しさ,デザインがいいこと,を選択の第一条件にしているように見える。
 ちなみに,著者はパソコンもMacを使っている。

● 以下に転載。
 私はたくさんのものと向き合う仕事をしていますが,家の中はわりといつも片づいています。(中略)それは暮らしの流れをよくして気分よくいたいから。理由はわりあい単純です。(p2)
 無理せず楽しく元気よく。お片づけい終わったあとの心は,晴れ晴れと広がる青空のよう。ああ,だから私は片づけが好きなんだなぁ。(p3)
 このセラー,扉がガラスというところもポイント。いつでも中が見渡せるので,うっかり同じものを買ってしまったり,持っていることを忘れて賞味期限が過ぎてしまった!なんてことがないのです。(中略)見渡せることによって沸き起こる緊張感っていいことなのかもしれませんね。(p18)
 しまうと使わなくなる,というのが私の考え方。好きなものだからこそ,いつも目が届き,すぐに使える状態にしておきたいと思っています。(p27)
 使わなくても好き,というものもありますよね? 私はその気持も大切にしたい。要はものが多くてもその台所の持ち主が心地よければそれでいい。(p27)
 古着なんかでも若い子が着るとかっこいいし様になるんですよね。服を「着倒す」力があるというか。そして逆に私が着るとどうも貧乏臭くなってしまう。なので少しくたびれたなと思う服は,心を鬼にして思い切って処分します。(p32)
 私は三月中旬を過ぎたら基本的には冬物は着ません。(中略)それから九月の初めになったら夏ものは着ません。(中略)私のまわりのおしゃれさんはやはりみんなそんな感じ。「おしゃれは気合い」だと自分に言い聞かせて多少やせ我慢しています。(p34)
 基本的にその人が幸せであれば,無駄なものをたくさん持っていてもいいのではとも思います。あまり情報に振り回されず,自分らしくいられればいいんじゃないかな。(p35)
 一日の動作をあらためて書き出してみると,自分と自分のまわりをきれいに保つためにこれだけいろいろなことをしているのかと驚くばかり。ということは放っておくとどんどんきたなくなっていく・・・・・・こわいものです。(p36)
 年齢を重ねるとお化粧に時間をかけるよりも,身だしなみをきちんとととのえる方が大切,そう思っています。(p40)
 私がすてきだなと思う人は清潔感を漂わせている人。そのためには自分に気を配る,自分のためにケアの時間を使うことがとても大切だな,と思っています。(p40)
 まず決めたのは,とりあえずでものは買わないということ。それから,多少使いづらくてもデザインのいいものを買おうということ。(p54)
 自分にとっての,なんだかいいなっていう感じをもっと信じた方がいい,(中略)そんなものを大切にしながら,ひとつひとつていねいにえらんでいったら,やがては好きなものだらけの部屋になるんじゃないかな,と思うのです。(p74)
 これは九九パーセントくらいの確率で言えることだと思うのですが,仕事ができる人は,返信がものすごく早い。(中略)何事にも言えることだけれど「ためない」ってとっても大事だなと思います。(p92)
 お皿の上は常に美しくあるべきだと思っています。盛りつけも,食べている途中も,また食べ終わったあとも。(p95)
 旅のよしあしはホテルで決まるといってもいいくらい大切に思っているのです。レストラン同様,質の高いサービスを受けることは自分自身の勉強にもなる,そして長い目で見るとそれは人生のプラスになっているのですね。(p107)
 自分の身体にかけるお金は多めになってきています。たとえば月に二度の美容院,鍼治療,エステなど。お金をかけた分,見た目にそれは表れるもので,これはもう大人の必要経費なのだなと思っています。(p108)
 こうなるまでには,買いものの失敗をたくさんしました。勢いで買ってしまった服はまったく似合いませんでしたし,旅先の浮かれ気分で買った器は自分が作る料理や他の器と合いませんでした。(p108)
 何よりお金に執着しないこと。それにかぎります。今までの経験ですが,執着している人で風通しよくお金が回っている人に会ったことがありません。それからケチケチしないこと。ケチな人にはケチな人が集まってくるような気がするから。(p109)
 「ためる前に,拭く」は私の掃除の基本。毎日,少しづつの手間で家中がいつもすっきりさっぱり気持ちいいのだから,やらない手はありません。(p132)
 掃除器具は使い勝手がいいのはもちろん,見た目もとても重要。なんと言っても美しいデザインの道具は持っていて気分がいいし,出しておいても邪魔にならない。それどころか部屋のアクセントのひとつにもなってくれるのですから。(p144)

2021年1月10日日曜日

2021.01.10 伊藤まさこ 『おべんと探訪記』

書名 おべんと探訪記
著者 伊藤まさこ
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2017.03.22
価格(税別) 1,400円

● 主には,高校生の娘に作った弁当を紹介して,そこに短い文章を添えたもの。仕事を持ちながら,毎朝弁当を用意するというのは,やったことのない自分にもその大変さは想像できる。
 お金を渡して,これでコンビニか学校の売店で好きなものを買って,とやるのが簡便で,じつは子供の方もそれを望んでいるのじゃないかと思うのだが,著者と著者の娘の間ではそういうことはない。

● 吉本ばななのインタビューも載っている。弁当を選ぶときのポイントを訊かれて,「添加物がなるべく入っていないもの,という視点で選ぶことが多いかな」と答えているんだけど(p29),添加物が入っているかいないかなんて,どうすればわかるんだろうか。
 添加物というと,今では保存料の代名詞になっているかと思うのだが,なぜ添加物を避けるんだろうかね。