書名 禅とジブリ
著者 鈴木敏夫
発行所 淡交社
発行年月日 2018.07.18
価格(税別) 1,600円
最後は良寛の書を見ながら,鈴木さんと細川さんが語り合う。鈴木さんの書にたいする造詣あるいは鑑賞眼は相当なものとお見受けする。
彼の仏画も何点か掲載されている。これも相当に打ち込んでいる。
● 鈴木敏夫さんの風貌がジャズピアニストの山下洋輔さんとかぶるんだけど,そう感じるのはぼくだけか。
● 大学生のときにホテルオークラのプールの監視員のバイトをしているときに,オークラの社長夫人に気に入られたというエピソードが語られる。社長夫人の琴線に触れる何かを持っていたわけだ。
きちんと仕事をしていたとか,そういうことではなく,オーラのようなものが出ていたんでしょうねぇ。
● 以下に転載。
私の祖父の松原泰道は,百二歳で亡くなる三日前まで,死神と競争しながら勉強しているような方でした。それには戦時中の経験が大きかったようです。(中略)終戦間際には,体の弱かった祖父にも招集がかかって,僧侶の身でありながら武器を持つことになった。それはいったいどんな気持ちだったのか。帰ってからは,午前三時からずっと勉強をしていたと聞いています。(細川晋輔 p20)
私たちは,よく悟りを月にたとえるのですが,教えは月を指す「指」でしかないんですよね。指のほうに注目してしまうと,どうしても肝心の月が目に入らなくなってしまいます。(細川晋輔 p22)
結果として多くの人が見てくれれば嬉しいですが,「本当にわかる人に届けばいい」,そういう気持ちでいますけれどね。(p23)
目の前のことを忘れている人が多すぎるから。今,みんなそれで悩んでいますよ。人生は本来,ケ・セラ・セラ。明日のことなどわからないはずなのに,みんなが過去に捉われ,未来のことを考えている。(p29)
過去や未来に捉われることの一番の問題は,今この瞬間に集中できないこと。だから僕は「もっと今に集中しろ」ってしょっちゅう言っているんです。(p30)
合理的にやってもしょうがない。どうやって無駄なことをするかですよ。(p32)
あの映画の新海誠監督は背景の絵作りをともかく熱心にしたそうです。僕は商売だからそういう味方になるけれど,「この映画,背景ばっかり目立つな」と。背景を目立たせるためにキャラクターの芝居があり,音楽がある。しかもあの背景は,本物を観察しながら描き,なおかつ本物じゃない。つまり「あの世」だと思ったんですよね,僕。(p33)
ジブリで『君の名は。』みたいな映画を作れるか,と言われれば作れません。(中略)「この世の中,捨てたもんじゃないよ」というのがジブリの基本的な姿勢なんで。(p34)
「不識」,つまりわからないことこそが人生なんです。むしろわかってしまったらおもしろくない。(細川晋輔 p37)
白隠さんも,非合理に問うことで人の心を揺さぶり,あえて心の水面に波を立てます。波が収まって澄み切ったところに本当の「答え」がある,と考えていたんだと思います。(細川晋輔 p38)
今の時代,「何かをしたら,何かを得たい」という気持ちが強い。しかし坐禅は何かを得るより,捨てる場だと思うんです。(細川晋輔 p41)
彼女,まさに「一日暮し」ですよ。彼女と大家族を撮った写真があって,みんなお金がなくて,その日の暮しにも困っているくせに,それを微塵も感じさせないすごく明るい顔をしているんです。(p48)
幕末・明治に日本に来た外国人が国へ送ったレポートや手紙を集めた本なんですけどね。それによると,日本人はみんなニコニコしていて,子どもを大事にし,一日にわずかな時間しか働かないで,後は集まって喋っている。「なんていい国なんだ」というレポートばっかりなんですよ!(p48)
今の世の中で,「生きるとはどういうことか」をテーマに映画を作るのは,ものすごく難しいんですよ。現代の生き方そのものが複雑怪奇だから。何に手触りがあるのか,実感を持てるのかがわからない。(p50)
宮崎駿は「いま,ここ」の人である。(中略)明日は明日の風が吹くし,昨日のことは水に流す人だ。「いま,ここ」に誠実であるがゆえに,過去に自分が何をやったのか何を言ったのか,よく憶えていない。(p51)
僕は著作権については,かねがね疑問があるんですよね。どんな作品も,さまざまな人やモノに影響を受けた上で,生み出されるわけじゃないですか。もしそれをすべて否定して,「誰の真似もしていない,オリジナルだ」と主張しすぎるのは,なんか違うんじゃないかな。宮さんも,いろいろなものに影響を受けていて・・・・・・影響って,いわば真似るということじゃないですか。(p55)
「真似は当たり前だろ」って言ってるんです。でももとがわかっちゃいけない。(p56)
近代人は「個性」を学んだでしょ。そのために苦しんでいますよ。(p58)
禅の修行では,個性なんてまったくいりません。オリジナリティなんて一番いらない。ひたすら修行を続ければ,自然に出てくるもの,という考え方です。お経を自分の個性で解説してしまうと,仏教から離れてしまう可能性がある。(細川晋輔 p58)
禅道場では上下関係がものすごく厳しくて,先輩に「カラスは白だ」と言われれば「白」。質問や言い逃れはしてはいけない,という生活です。道場に入ったときにはかなり違和感がありましたが,慣れれば楽なんです。(中略)基本は師匠の言ったことが絶対であり,伝えられてきたことはしっかり守る。「一器の水を一器に移す」という言葉を使いますが,枡に入った水を一滴もこぼさず次の枡に移すのが,私たちが「仏法を伝える」ということなんです。(細川晋輔 p59)
私は,「熏習」という言葉が好きなんです。薫りで習えと。禅の世界では,誰も手取り足取り親切に教えてはくれません。かといってできないと怒られる。それでどうするかというと,先輩がどうやっているかを観察して真似るんです。(細川晋輔 p60)
何か言われると,「いや・・・・・・」から入ってしまう自分がいて。承服できないことも,「ハイ」から入れば,いったん受け止めて対応できるんじゃないか,というのは気にしています。(細川晋輔 p61)
すべては,あらゆるものとの関係性で動いていく。(中略)自分で完成させなくても,誰か身近な人にバトンタッチすればよい。(細川晋輔 p64)
僕と宮さんに共通するのが,何でも忘れちゃうこと。努力してそうするわけではないけど,本当に忘れちゃうんですよ。(中略)いつでも初心に戻れる。(p67)
これまでよりも規模の大きな映画を制作しようとするとき,保守的になって自分の得意なもので勝負するでしょう? ところが彼(宮崎駿)はぞれを全部ナシにして,まるで新人監督のような作り方をしたんです。(中略)この人は五十歳を過ぎてもこんな初々しいものを作れるんだと驚きました。まあ,不思議な人ですね。(p69)
朝二人で話していると,僕もたまには彼に衝撃を与えるいい話をするんです。「鈴木さん,それおもしろい」って。それでお昼を挟んでまたやってきて,「鈴木さん,いいこと思いついたんだ」と言って話し出すのが,朝,僕がしゃべった内容なんですよ!(p70)
四十年付き合って,昔の話をしたことがないんですよ。それが最大の特徴。「あのときこうだったね」「将来こうしよう」もないんですよ。たいがい日常茶飯の話。(p71)
お釈迦さまの言葉を借りると,河を渡るときは,筏,すなわり仏教の教えを使ってください。でも陸に上がって山に登るのなら,河を渡してくれた仏教の教えはどこかに捨てていきなさい,というのが「忘筌」。(細川晋輔 p72)
その方に,テーブルマナーを教えていただきました。でもその方は「だけど」とおっしゃるんです。「一番美しい食べ方は,自分が正しいと思ったことをちゃんとやること。そうやって食べなさい。これ,一生役に立つわよ」って。(p73)
坐禅でも,作法に捉われてしまうことがあります。「作法ができていればいい」と考えてしまうと,本当に伝えたいことが伝わらないのではないかと思います。(p73)
禅では「不立文字」といいまして,言葉にできないものを伝えるために,あえて言葉を多用しているところがあります。でも言葉では結局,似て非なるものしか伝えられないんですよね。(細川晋輔 p75)
言葉ではなく「間」で伝えていくんですね。(細川晋輔 p75)
「みんなで渡れば怖くない」で,どんどんやっちゃったらいいんじゃないですかね。何でも「やっちゃいけない」というのは馬鹿げていますよね。(p77)
ここへ来て,みんながこだわっているのは枝葉どころじゃない。僕は強く言いたいのですが,「木を見て森を見ず」どころか,枝葉,そして現代が見ているのは葉脈です。この先はもうないと思うんです。(中略)何で,みんな自分たちで住みにくくしているんですかね。(p78)
どんなものにも二面性があるのに,一面だけを見てすべてを否定するから。寛容さも多様性もありませんよ。何かが起こると,自分たちでルール化する。そこに問題があるわけです。(p78)
日本では時間と空間が変幻自在ですよね。(中略)一番の典型例はね,ジブリではなく野球アニメ「巨人の星」。主人公の星飛雄馬がボールを一珠投げるのに,三十分使うんです。時間が伸び縮みして,三十分の間に,いろいろな過去のエピソードが入る。空間だって変幻自在。飛雄馬と父・一徹,姉・明子,三人でご飯を食べているときの部屋の広さは四畳半。ところが,一徹と飛雄馬がケンカを始めたら,部屋が五十畳に広がるんです! そしてケンカが終わると,もとの四畳半に戻る。これって,西洋の人には理解不能なんです。(p82)
そもそも西洋と日本では物語の作り方が違うんですよね。評論家の加藤周一さんがおっしゃるには,「西洋の物語で,最初に決めるのはラストシーンである」と。ラストに向かって物語を進めていく。一方で日本は,『源氏物語』であれなんであれ,物語がどこに転がるかわからない。(p82)
「自分」にこだわるから世の中がややこしくなるわけで,「自分」さえなくなれば,気が楽になるんじゃないかな,と。(p87)
道楽は今ではイメージの悪い言葉ですが,本来は「仏道を歩むことを楽しむ」という仏教用語なんです。(細川晋輔 p88)
僕に言えるのは,「オン・オフを作るな」ということでしょうか。「頑張るとき」と「解放されるとき」,そうやって境界線を引くから疲れるんじゃないですか。いつも同じ気持ちでいられたほうがいいと思うんです。(p89)
だって男女がひっつく理由は,結局ウカツとか軽はずみ。それで結ばれればかまわない,と,どこかで思っているんですよ。自分もそうでしたし。(p92)
きっといろんな問題が起こるんですよ。起こるけれど「それでいいんじゃないの」って。人間という生き物は,どうもそうやって巻き起こる日々の混乱が喜びなんだもん。そう思っているんですけれどね。(p93)
世の中おせっかいが足りてないんじゃないかな。(p93)
流行りを追いかけると大変ですよ。いろんなものに目を配らなくちゃいけないじゃないですか。そんなことはしたくないんです。(p99)
私は初めて修行道場に行ったとき「これはいい暮らしだ」と思いましたね。(中略)「坐禅して暮らしていける,こんなにいいことはない」と思いました。(横田南嶺 p103)
僕なんかはやっぱり喰いのある人生なんですかね。結局,自分のやりたいことをやっていないんですよ。望むことがあったとしても,結局はそれにつか付かない。ただ,人に頼まれたからやるか,と。(p104)
仏道に励む心,「願心」というのは絶対に続かないのよ。一度は必ず,現実の壁にぶち当たって折れてしまう。折れて妥協するか,あるいは別の世界に行ってしまうか。そこが大事なんですね。(中略)現実の壁に突き当たり,思うようにならず,もう一度やり直す。誰でもその繰り返しですよね。(横田南嶺 p104)
我々臨済宗では,管長や修行道場で若い雲水(修行僧)を指導する立場の者は結婚いたしません。禅は生活そのものが修行ですから,物理的に無理でしょうな。私はいまだに鈴木さんがくるまったのと同じ柏布団で寝ています。そして「これがいい」と思っているんです。(横田南嶺 p108)
メニューは “つけうどん”。横田管長がニコニコしながら,口火を切った。「ぼくらにとって今日のご飯は,ご馳走です」声が明るい人だった。声だけじゃない。人としても明るい人だった。ぼくは,少し気が楽になった。(p111)
本来人間というのは衣食住,この三つがあれば生きていけるわけじゃないですか。それをまじめにやりたかったんです。なぜかというと,今の時代,衣食住はあって当たり前,そうすると後はみんな付加価値で生きているわけです。そこにどれだけ意味がないかを映画でやってみたかったんですよね。(p116)
『臨済録』には「屙屎送尿」「着衣喫飯」「困じ来たれば即ち臥す」という言葉があるんです。「大便小便を出すこと」「服を着ること・ご飯を食べること」「疲れたら寝ること」。禅のすべてはこれだと書いている。(中略)ようやくこの頃ね,ああそのとおりだなと。(横田南嶺 p118)
我々禅僧は禅の削ぎ落とした世界にずっと留まって,それで幸せだというのではだめなんですよ。削ぎ落とした世界の基本を忘れず,この現実の世界に生きなくてはならない。これが,大事なところなんですね。(横田南嶺 p119)
皇居の周りを走るんだったら,歩いて通勤すりゃいいと思うんですがね。それは嫌なのよ。(横田南嶺 p119)
本来,人間が生きていく上で,必要なものと必要でないものがあって,その伝で言えば,やっぱりジブリだって必要ないですよね。その気持ちは,映画を作るときにどこかで持っていないといけない。その上で人に何かを伝えるわけですから。本来,食べ物を作るとか,生活用品を作るとか,そのほうが偉いに決まっているんですもの。(p122)
ある学者がこう言ったんです。「人類というのはまだ幼い。ましてや大人になんてなっていないんだ」と。その幼い人間が一生懸命作っているのが今の人工知能でしょ。「人類ってすごい」なんておごり高ぶっていると,ひどいしっぺ返しに遭うんじゃないかな。「人類は幼い」とは大事な考えだと思います。(p123)
坊さんの集まりは昔話ばっかりなのよ。(中略)自分の修行時代の自慢話を必ずやる。だから極力行かない。そういう人と話をしたって何にもならない。修行自慢なんて,いったい何になりましょうか。(横田南嶺 p127)
私どもの世界には,師弟関係というのがありますがね。私らは,師匠のことをやみくもにありがたいと思うわけではないのですよ。よく言われるのは,一番いい師弟関係は,「敵同士」だと。(中略)白隠さんと師匠の正受老人もそうだと思います。白隠さんという方は,正受老人のもとで八カ月間修行をしたけれど,その後二度と訪ねていない。(横田南嶺 p132)
素直に言うことを聞いてたらだめですよね。僕も生意気な部下のほうが好きです。やっぱり突っかかってくる奴じゃないとおもしろくないですよ。(p135)
トリカブトは毒として有名ですが,実はすぐれた漢方薬なんですよ。微量に摂れば体が活性化する。大量に摂ると毒になる。怒りや憎しみ,競争心もそうなんですよ。ほどよく入っていれば,人間の体は元気になって働いていける。(中略)でも漢方薬なら先生が調合してくれるけれど,怒りや憎しみの場合は,それを調合するのは自分なんですよ。坐禅が自己を見つめるというのはそこのことです。(横田南嶺 p137)
直日(坐禅を指導監督する役の僧侶)など指導するほうは徹底的にいじめ抜くんですよ。それに対してね,この野郎という気持ちにならないと,力が出ない。(横田南嶺 p137)
僕らが見て育ったアメリカやフランスの映画に,日本人のことを考えて作った作品なんてないですからね。みんなその地域に根ざしてやっているわけで。(中略)最近,海外ではアニメ映画を作るときに,最初から世界に通用させようとして題材を選ぶんです。でも,そういうものって大体うまくいかないんですよ。(p149)
なぜ日本の禅がそれだけシンプルになったのかというと,白隠さんや仙厓さんが,日本の八百万の神とうまく折り合っちゃったんですね(中略)ほかの信仰を全部肯定して,どこから行ってもそこに禅があるでしょ,という形で禅を示した。(中略)八百万を受け入れるためには,禅はコアなものにならざるを得ないんですよ。よけいなものを捨てないと。(玄侑宗久 p151)
「旅の恥はかき捨て」には「立つ鳥跡を濁さず」。「急がば回れ」なら「善は急げ」。対立する二つの言葉があるんです。でも「今日できることを明日に延ばすな」という慣用句には対がない。だから対を作らないと,健全じゃないんです。(玄侑宗久 p153)
『竹取物語』でかぐや姫がもともといた「月」とは,私は死者の国だと思うんですね。(中略)日本では,亡くなった人が行くところは,明らかに月のイメージが入っているんです。たとえばお盆だって,もともと旧暦の七月,満月の十五夜でした。(中略)日本人にとっては死後の世界は月の世界。嫌なところだと思っていないんですよ。(玄侑宗久 p158)
仏教的には,本来お骨に何かが宿っているとは考えないんですよ。一方で日本人には,すべてに魂が宿るという考え方があるから,本人のお骨に何も宿らないわけがない,とつい思っちゃう。(玄侑宗久 p160)
仏教思想に,一切は自性(物それ自体の本性)を認めない「空」という考え方がありますが,「色即是空」を徹底すると執着はなくなります。「愛」だって,仏教的には執着ですよ。(中略)愛も憎しみも両方ないなんて,我々の周辺の人間関係にはあり得ないじゃないですか。だから,僧侶としては本来「空」を説かなきゃいけないんだけど,その話はしにくいんですよ。「慈悲」のほうが法話として語りやすい。(玄侑宗久 p161)
お釈迦さまが目指したことって,あらゆる迷信的なものを排除するという面があったと思うんです。でも,お釈迦さまの遺骨をお祀りしたいというのも人情じゃないですか。(中略)その人情を認めてしまうから,組織が生まれ,それが充実していくわけです。(玄侑宗久 p165)
「縁起」は,あらゆる物事の網目のような関係性の中で,思いもよらないことが生起すると考える。この世の複雑さを説明するのに,縁起以上の考え方はないと思うんです。(中略)目標に向かって努力して,その通り実現することって,世の中で起きていることのほんの少しだと思うんですよ。(玄侑宗久 p168)
私は中国の『荘子』という本が好きなんです。その冒頭がすごい。もともと小さな魚の卵が,鯤という巨大な魚になり,魚になったと思ったら,鵬になって空へ飛んでいく。(中略)ここでは,「これが自分だ,と思ったものを何度でも脱ぎ捨てなさい」と説かれているのだと思うんです。「自分とは,これだ」と思ったときから苦しみは始まる。だから,「まだ途中なんじゃないのか」と問いかけるんですね。(玄侑宗久 p180)
仏教の観音さまは,サンスクリットではアヴァローキテーシュヴァラ。英語で直訳すると “away-look” なんです。つまり “look” ジーっと見つめていると,対象に近づきすぎて感情が交じり,どんどん目が曇ってくる。それを “away” 離れろ,と。近づいたり離れたりを繰り返しているうちに見えてくるのが本質だ,と仏教では考えています。(玄侑宗久 p185)
僕がよく言うのは,若い夫婦に問題が生じるのは,必ず「向き合おう」とするところからだと。向き合うとたいがい相手の欠陥しか見えないんですよ。(p186)
若い人が描く理想としての老人像に,ある種の「枯れ」があるんですよ。ところが,老人が描く老人に,枯れた人なんてどこにもいない。(中略)結局,老人だって,やっぱり本当はみんなへばりついて生きていきたいんでしょう。でも,それでいいんですよね。(p215)
映画で言うと,最後まで枯れなかったのは小津安二郎。扱っている題材は渋くて地味なのにね。ところが黒澤は最後にあがきました。(中略)映画監督に限らないですえど,大体,年を取ったらつまらないんですよ。その例外になるのは至難の業。宮さんにはそれができるんだろうか,というのが僕の一番の関心事なんです。(p216)
「狎れ」っていう言葉があるじゃないですか。禅で「手放せ」と言うのはそれじゃないですか。自分の経験,知識で機械的にこなしちゃうのが「狎れ」。それはよくないですよね。やっぱりある範囲の中で新鮮なものをやらないと。(p216)

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