2021年2月21日日曜日

2021.02.21 山口由美 『ホテルと日本人』

書名 ホテルと日本人
著者 山口由美
発行所 千早書房
発行年月日 2008.08.10
価格(税別) 1,300円

● 本書の元になった連載は1996年4月から2000年4月までのもの。2000年7月に『ホテルクラシック』というタイトルで刊行された。本書はその加筆改題版。
 『ホテルクラシック』も刊行された当時に読んでいたが,そんなのは本書を読了した後も,しばらく気づかなかった。

● 本書に掲載されているホテルは次のとおり。
 1 富士屋ホテル
 2 仙台ホテル
 3 京都ホテル
 4 日光金谷ホテル
 5 都ホテル

 6 帝国ホテル
 7 軽井沢 万平ホテル
 8 奈良ホテル
 9 東京ステーションホテル
 10 東京丸の内ホテル

 11 ホテルニューグランド
 12 上高地帝国ホテル
 13 蒲郡プリンスホテル
 14 琵琶湖ホテル
 15 リーガロイヤルホテル

 16 雲仙観光ホテル
 17 川奈ホテル
 18 赤倉観光ホテル
 19 第一ホテル東京
 20 小田急 山のホテル

 21 志摩観光ホテル
 22 フェヤーモントホテル
 23 高輪&新高輪プリンスホテル
 24 山の上ホテル
 25 白馬東急ホテル

 26 ホテルオークラ
 27 キャピトルホテル東急
 28 ホテルニューオータニ
 29 苗場プリンスホテル
 30 西鉄グランドホテル

 31 京王プラザホテル
 32 浅草ビューホテル
 33 東京全日空ホテル
 34 ヒルトン東京ベイ
 35 ホテルヨーロッパ

 しかし,「二〇〇八年の今,本書に収録した三十五のホテルのうち,一軒が廃業し,二軒が建て替えのため休業中,そして五軒の名称が変更になり,多くのホテルの経営主体が変わった」(p21)。
 この35のホテルの中で,ぼくがともかくも泊まったことがあるのは,8・9・11・23・26・28・31・34の8つに留まる。

● 以下に転載。
 かつて香港の伝説的なホテルだったリージェントの冷蔵庫には,水と氷しか入っていなかった。これは,飲み物のサービスは人手を介して致します,という最高級ホテルとしてのメッセージだったのだが,一杯のナイトキャップのために,ルームサービスに注文するのが煩わしいと文句を言っていたビジネスマンを私は覚えている。(p8)
 そのビジネスマン氏の気持ちがよく理解できる。召使いを家畜のごとく使った経験を持たないほとんどの日本人にとって,「一杯のナイトキャップのために」人を使役するのは臆するところがあるだろう。
 グランドホテルを代表するホテルマンであるセザール・リッツは一八五〇年の生まれだが,実は日本のクラシックホテルを代表する富士屋ホテルの創業者である山口仙之助も,リッツと同じ年に生まれている。(p12)
 アマンリゾーツが,なぜ魅力的なのか。それは,行き届いたサービスもさることながら,バリ独特の文化が洗練された形でホテルの細部に採り入れられていることではないだろうか。しかもそれは,決してバリそのものではない。(中略)外国の旅行者が,バリ島に対して思い描く好ましいイメージであり,(中略)いわば再構成された “バリ文化” であり,“バリらしさ” なのである。(p13)
 (日本の)クラシックホテルは,ベッドに眠り,ドレスアップして集まったダイニングで洋食のディナーをとるという様式のライフスタイルには,徹底してこだわった。その上で,建物やデザインに和風を採り入れたのである。だから和洋折衷といっても,それはあくまでスタイルとしての洋とデザインとしての和の折衷である。バリ島のアマンと同じく,外国人を満足させる快適さのスタンダードは守った上で,そのものズバリではない,ゲストが夢に描くイメージにふさわしい,再構成された日本文化を展開したのだ。(p13)
 しかし,欧米人に最終的に選ばれるのは欧米のスタイルを模倣したホテルではなく,和を洗練させた旅館ではないかとも思う。たとえば,京都の俵屋旅館のごとき。
 ホテルというのは,外国人との接点の場である性格上,とかく国の運命に左右され翻弄される。歴史が大きくうねっていく時,いつもその矢面に立たされて,しかも国がどんな運命になっても地面に建っている以上,逃げ出すわけにはいかない。(p16)
 私は,何度か戦後の接収時代を知る老ホテルマンに話を聞いたことがあるが,不思議とこの時代のことを悪く言う人は少なかった。(中略)接収のおかげで戦後の混乱期にあっても曲りなりにホテルの運営ができた,ということらしい。(p17)
 ホテルの数や規模が拡大するということは,かつてのような限られた層の顧客だけではホテルの経営が回っていかないことを意味していた。日本のホテルが最も変化を強いられ,苦悩したのが,実はこの時期(高度経済成長期)だったのではないだろうか。そして,私は今,日本には本物のホテルがないと揶揄される原因が,この時期の模索にあるような気がしてならないのである。(p18)
 ヨーロッパの一流ホテルが,今なお,ある種のクラス(階級)というものを意識していて,良くも悪くもサービスがゲストによって差別的であるのに対して,北米系の高級チェーンは,とりあえず一泊分の宿泊料を払うゲストには,等しくシンデレラ気分を味わわせてくれる(中略)。これらのホテルに大衆化という言葉は一見似合わないが,彼らがなし得たのは,贅沢なホテル体験の均質化と大衆化であ(る)。(p18)
 日本には,欧米のホテルにはない,特有の不利な条件があった。それは,欧米では大衆といっても,基本的にはベッドで眠り,ナイフ・フォークで食事をするライフスタイルだったのに対し,日本ではそうした西洋式のライフスタイルを受け入れていたのは,戦前のホテルを支えた一部の階級の人たちだけだったことだ。そうしたなか,都市ホテルは,婚礼や企業宴会に目を向けるようになった。(p19)
 日本の大衆がホテルというスタイルを本当に受け入れたのは,バブル経済の頃だったと私は思っている。(p20)
 たしかにそうだ。というより,バブル以前の日本の大衆にとって,ホテルとはビジネスホテルのことであって,都市ホテルは高嶺の花でしかなかった。ぼくが本書に登場するホテルのうちの8つに泊まったのも,すべてバブル期以後のことだ。
 皇族が泊まる時には,宮内庁と打ち合わせながらメニューを決めていくのだが,ホテル側に裁量が一切任されるのがデザートなのだそうだ。(p61)
 丸の内ホテルのエントランスの雰囲気は,ニューヨークの小規模な一流ホテルを思わせる。(p71)
 一九三〇年代に流行したというアールデコでまとめられた(蒲郡プリンスホテルの)内部のインテリアは,きらびやかな豪華さというよりは,清楚で知的な美しさを感じさせる。(p86)
 一九二三年,二月に長崎丸,三月に姉妹船の上海丸が,相次いで長崎上海航路に就航した。長崎から上海まで,一泊二十六時間の船旅は当時,その所要時間において東京に行くよりも近かったという。(中略)(雲仙は)西日本を代表する避暑地である以上に,上海に暮らす外国人にとっての避暑地だったのかもしれない。(p98)
 赤い屋根のシャレースタイル,堂々として威厳ある建物は,十ヶ月の短い機関で作られたという逸話を感じさせない。むしろ丁寧に時間をかけて丹精込めて建てられた,そんな印象がある。(p99)
 これは雲仙観光ホテルについての記述だけれども,赤い屋根だのシャレースタイルだのは,万平ホテルや上高地帝国ホテル,白馬東急ホテルなどいくつかのホテルに共通するもののようだ。設計者が同じなのか,その形と色が流行した時期が続いたのか。イメージとしては避暑地や雪深いところに建てるなら,そのスタイルが最も抵抗がないように感じるけれど。
 アメリカの大富豪ローレンス・ロックフェラーは,川奈ホテルを訪れて,すっかりここに惚れ込んでしまったという。(中略)彼は後にハワイで,川奈ホテルをモデルにしたリゾートホテルを作っている。(中略)そうした幾多のゴルフリゾートの原点がマウナケア,いや,そのさらにモデルであった川奈ホテルだったのである。(p106)
 赤倉観光ホテルのスキー場には,にぎやかなBGMがない。ナイターがなく,ディスコやカラオケもないから,日が暮れて夜の帳が降りれば,後は静寂な夜が訪れる。その雰囲気は,以前に訪れたスイスのツェルマットにどこか似ていた。(中略)ヨーロッパのスキーリゾートに漂う,本物のゆとりと品格を感じさせるのは赤倉観光ホテルしかないおうな気がする。(p112)
 大衆ホテルという概念を説いたのは,当時,東京電燈(後の東京電力)の社長をしていた,阪急の創始者としても知られる小林一三だった。曰く,日本の一流ホテルは,どこも経営的に立ちゆかないホテルが多い。それは,一部の富豪や特権階級だけを相手にした商売をしているからである。(p113)
 かつて志摩観光ホテルを訪れたフランス人シェフは,その料理をこう表現したという。ブルゴーニュやプロバンスなどと同じように,フランスに「志摩」という地方がある,そう考えると一番しっくりくると。(p123)
 少年の日に人一倍外国に憧れながら,結局,外国へ修行に飛び出すことなく志摩にとどまり,地元ならではの料理を極めることになったその理由を高橋に尋ねると「計算し尽くせない賭けはしたくなかった」という答えが返ってきた。(p125)
 「料理の九十九パーセントは計算できるものですよ。フランス料理の技術なんていうものは三年もあれば習得できる。料理にとって作るという行為は十パーセントくらいの意味しかないんです」(p125)
 高輪プリンスホテルが開業したのは,戦後まもない一九五三年のことである。西武鉄道の創業者である堤康次郎が,手がけた初期のホテルだった。(中略)プリンスホテルの現存する中では最古のホテルになる。(p134)
 そうだったのか。客室の調度,風呂場や水回りの施設から,これでは現代では通用しないだろうなと思ったのだが,むしろ貴重だと考えるべきだったのか。
 山の上ホテルというのは,不思議なホテルである。客室数わずか七十五室の小さなホテルでありながら独特の存在感があり,他のどんなホテルとも比較することが憚られるような感じがある。(p139)
 “光のボウシ” は,まさに山の上ホテルを特徴づけるシンボルである。この建物なくしては,山の上ホテルは山の上ホテルたりえない気がする。(p140)
 山の上ホテルは,偉大なるホテル学校でもあった。戦後,海外研修へ従業員を送り出したのも山の上ホテルが最初だった。(中略)ホテル業界で活躍するそうそうたる顔ぶれには,山の上ホテルのOBが意外に多いのである。(p142)
 こうした新しいスキーリゾートの原点は,すべて苗場にあった。冬山登山の延長のようなスポーツとしてのスキーではなく,都会生活の延長としてのレジャーとしてのスキー,スキーヤーの快適さを第一に考えたスキー。そうしたスキーを提案したからこそ,トレンドとしてのスキーは一大ブームとなったのだろう。(p166)
 淀橋浄水場跡地だったこの地で,最初の超高層ビルとして京王プラザホテルが建設を勧めていた頃,「新宿に国際級のホテルなんて無謀だ)という意見が支配的だったという。その頃の新宿のイメージといえば,「全学連」「フーテン」「暴力バー」といった言葉が象徴する歌舞伎町の混沌がそのすべてだった。(中略)誰が現在のような新宿の発展を予想しただろうか。(p176)
 日本ビューホテルズ(当時の社名は那須観光)が那須ビューホテルの開業でスタートしてから二十五年目の一九八五年,念願だった東京進出の舞台に選んだのが浅草だった。(p179)
 那須ビューホテルは,あらゆるところに新しい試みが採り入れられていた。(中略)食事はレストランシアターでショーを見ながら楽しんでもらう。後に,熱海など各地の温泉地に広まっていくレストランシアターという発想は,那須ビューホテルが最初だったのである。(p179)
 すでに開拓された市場は選ばない。既存の市場がないところにこそ,新しい需要を作り出していく。ビューホテルのそうした姿勢は,その後のシティホテル展開や海外進出にも如実に表れている。(p181)
 栃木県にこういう企業があったのか,なかなかやるじゃん,大したものじゃん,と嬉しくなった。が,バブル崩壊後の2001年に民事再生手続を申請している。名前は残っているが,経営者は変わっている。それはそうだ。金谷ホテルも同じ。創業家の家業であり続けられるほど,やわな変化じゃなかったはずだ。
 ホテルに華やぎを与えたのが,生き甲斐をもって働き,貪欲に遊ぶ,元気溢れる女性たちであった。(中略)『Hanako』を片手にグルメにショッピング,海外旅行を楽しむ女性たちは,ハナコ族などと呼ばれた(p184)
 バブルの徒花だった。『Hanako』を片手にって,バカを絵に描いたようなものだ。過度期の現象として仕方がなかったのかもしれないが,消えてくれてよかった。
 戦前に生まれたクラシックホテルに独特の空気感があるように,ホテルというものは,誕生した時代を背景にした雰囲気をどこか身につけるものであり,それがホテルの個性を育んでいく。(p185)
 華やかさの中にもどこか大人の落ち着きが感じられる。そんな雰囲気を作るのは,たぶんそのホテルが好きでたまらないリピーターや,もしくはホテルに住んでいるようなゲストの存在なのだと思うが,その意味では,九八年に亡くなった映画評論家の淀川長治は,まさに東京全日空ホテルの歩みとともにあったゲストと言えるのではないだろうか。(p185)
 都市の郊外(アーバン)で,手軽にリゾート気分を味わう「アーバンリゾート」というコンセプトは,ヒルトン東京ベイを始めとする舞浜エリアのホテルによって,初めて市民権を得た言葉だった。(p190)
 いつだったか,私が箱根プリンスホテルにいた時,ホテルの中がにわかに騒然として,従業員の注意が,明らかにお客に向かわなくなった瞬間があった。(中略)直感的に,ヘリで義明が到着したのだと理解したことを覚えている。(p202)
 西武グループでは,堤康次郎の墓を「墓守り」と称して,社員が当番制で泊りがけの墓参を行ったというが,小佐野賢治が亡くなった時も,納骨するまでの間,「お骨守り」と称して,グループ各社の幹部たちが,回り持ちで小佐野の遺骨を囲んで食事を共にしたという。闘病中は,小佐野と同じ血液型の若い社員が集められ,輸血のためにバスが仕立てられた。(中略)そうした昭和の経営者たちの狂気じみた権力の集中を,そのまま次世代に継承することに最も執念を燃やしたのが堤康次郎であった。(p203)
 戦後の日本のホテルのキーワードであった大衆化は,プリンスホテルを抜きには語れない。多くの日本人が,人生で最初のホテルとしてプリンスホテルに出会った。そして,プリンスホテルが提供したレジャーのスタイルに,日本人は少なからず魅了されたのである。そうでなければ,王国はもっと早くに破綻していたに違いない。(p204)

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