2021年7月28日水曜日

2021.07.28 弘兼憲史 『50歳すぎたら,「まあ,いいか」「それがどうした」「人それぞれ」でいこう』

書名 50歳すぎたら,「まあ,いいか」「それがどうした」「人それぞれ」でいこう
著者 弘兼憲史
発行所 幻冬舎
発行年月日 2018.08.25
価格(税別) 1,100円

● この著者の “老後の生き方” 本はすでにいくつか読んでいるんだけれども,見つけると読んでしまう。
 はるかな昔,受験生だった頃は合格体験記をよく読んでいた。合格者の軌跡を辿っていると,自分も勉強して合格したような気分になれたからだ。
 もちろん,合格体験記を読んで合格できれば極楽中の極楽なわけで,たいていは論語読みの論語知らずに堕ちるだけのことだ。参考書や問題集は何がいいかとか,そうした情報には詳しくなるが(ただし,それが自分に合うかどうかは考えもしない),参考書や問題集を開くことはないのだから,結果において合格することはない。

● 長じてからも同じようなことを繰り返している。高齢期になって “老後の生き方” 本を読むのは,典型的にそうだろう。
 こういうのを読んだからといって,合格できるとは限らない。実際に自分が老後をどう生きられるかは,こういうものを読むかどうかとは別のところで決まるだろう。

● ので,“老後の生き方” 本を読むのがあまりいいことだとも思っていないのだが,17歳の魂は65歳になっても続いているということですなぁ。
 まぁ,本はすべからく,ビジネス書や自己啓発本もそうだが,読み物として面白ければそれでいいのだ。数時間を面白く過ごせればそれでいいのであって,その上に読書を何かの役に立てようとするのは,欲が深すぎるようにも思う。

● 以下に転載。
 面白く生きる。それが後半人生の基本だと僕は考えています。(中略)面白いことを見つけて,それをやることが,面白く生きることではないのです。どんなことも,何だって,面白がってやる。そこに面白く生きる人生があるのです。(p3)
 面白そうに,楽しげに,人生を送っている人もいるし,しかつめらしい顔が定番で,「人生苦悩だ」みたいな風情の人もいます。しかし,抱えている状況はたいしてちがいがなかったりする。(p13)
 自分で目標や課題をいっぱいつくって,それを達成するためにがんばる,というのも,案外,人生をつまらなくするのだ,と思います。(p14)
 状況にのめり込むからつらさが増すばかりとなるのです。状況から距離を置いて,客観的に眺めてみると,いろいろな方策が思い浮かんできたりするものです。(p15)
 どうせ楽しみなんかない,と塞ぎ込んでいたり,人生楽しくなくたっていい,と投げやりになっていたりしたら,ほんとうにその通りの人生になってしまうのだ,と思います。(p24)
 躊躇したり,迷ったりなんかしていないで,やりたいことはやったほうがいい。失敗したっていいじゃないですか。人生は片道切符です。行った道を戻ってくることはないのです。戻ってくるのであれば,失敗の苦さを,飲んだ煮え湯を,折り返してきて,また味わわなければならなくなりますが,片道切符にその心配はありません。(p27)
 美しさの源泉は,人への気遣い,そして何より感謝の思いでしょう。最後に感謝を思う人生,感謝しながら死んでいく人生は,美しいのです。感謝の思いと繋がっているのが納得感だという気がします。「あれもやった。これもできた。やり残したことはない」 そんな納得感があったら,感謝の思いが湧いてきます。(p39)
 「笑顔」は人生を楽しむうえで,人生を面白くするうえで,重要な要素だと思います。笑顔がチャーミングな人のまわりには,たくさん人が集まってきますし,その場の雰囲気も和やかなものになります。(中略)あえて僕はいいたいのです。「つらいときこそ,無理して笑顔をつくろう」(中略)もちろん,無理やりのつくり笑顔です。しかし,それでその場は剣呑な空気になることから,かろうじて救われる。(p48)
 何ごともこだわると面倒くさいし,しんどい。(中略)馴染みの店を一軒くらいもってこそ,大人といえる,なんて考えもあるようですが,僕には面倒くさいとしか思えません。(p53)
 人生面白くない,いいことなんか何もないじゃないか・・・・・・。そんなふうに感じている人には,ある共通項があるように思います。人と自分を比べているというのがそれです。(p64)
 本来人は孤独なのです。その本来の姿を愉しめばいい。独りぼっちは寂しいというのは,思い込みでしかありません。(p71)
 ある分野で傑出した才能を発揮するのがオタクなのです。とくにものをつくり出すクリエーティブな分野では,それが顕著のように思います。(p82)
 けっして絵がうまいわけじゃない。(中略)しかし,漫画としての “力” がある。その力の源泉は,おそらく,オタクとしての「熱」なのだ,と僕は思っています。(p83)
 クヨクヨするのも,落ち込むのも,時間の無駄です。「まあ,いいか」と諦めて(現実を受け容れて),次なる一歩を踏み出したほうがいい。(中略)気持ちを切り替えて,明日に踏み出したら,そこには別の風が吹いています。(p89)
 若い世代には,「何がやりたいか,わからない」という人が少なくありませんが,結局,頭で考えているだけで何もやっていないのじゃないかと思います。やりたいことがわかってからやる,という姿勢ではいつまでたっても動けない。(p94)
 どの瞬間も,目の前にあることを全力でこなしていく。刹那主義とはそういうことなのだと思いますし,その意味ではぼくは刹那主義者です。人生が一〇〇年に延びようと,それが刹那の積み重ねである,という基本は変わりません。(中略)常に目の前のことに本気を出して取り組む。それ以外に本気の出しようなんかないのです。(中略)じつはそのことが,人生を楽しむことに,人生を面白く生きることに繋がっている。(p104)
 肝心なのは笑顔です。もの怖じせず,はっきりものをいうのはいいですが,そのとき仏頂面だったら,ただの “小生意気な若造” になってしまいます。笑顔が加わってはじめて,「爺殺し」の三種の神器が出そろうことになる。(p142)
 いわゆる,費用対効果ですが,たとえば,遊びでもこれを考えないと,中身が薄いものになるのです。(p164)
 夢をもつのは美しいこと,もたないのはロマンに欠ける,といった風潮があるようですが,これにも僕は反対です。(中略)夢をもっていないということは,現実に立脚しているということでしょう。(p170)
 遊ぶ子どもの声に感動を覚えるのは,子どもたちが無邪気に,心底,遊びに打ち込んでいるからでしょう。これが遊びの真髄。余計なことは考えず,とことん打ち込んでこその遊びです。(p197)
 文豪たちが原稿を書いている写真を見ると,太い万年筆の真ん中あたりをおもっている人が多い。ペン先に近い根元をもつよりかっこいいのです。なんともサマになっているあの執筆姿は,やはり,万年筆ならではでしょう。(p207)
 心配事や悩みのほとんどは,どうでもいいことか,どうしようもないことではありませんか。(中略)そのとき問題がなければ,健康の心配などどうでもいいことだ,と僕は思っています。(中略)どうでもいいこと,どうしようもないことは考えない。というより放っておくのです。そして,今日(いま)を楽しむことに全力を傾ける。くよくよするのは考えることで,それに縛られるからです。(p221)
 僕がいっている楽しく生きるということの意味は,楽しいことをするということではありません。することを楽しむということなのです。(p223)

2021年7月26日月曜日

2021.07.26 宮田珠己 『ニッポン47都道府県 正直観光案内』

書名 ニッポン47都道府県 正直観光案内
著者 宮田珠己
発行所 本の雑誌社
発行年月日 2019.01.30
価格(税別) 1,650円

● 現代の代表劇な紀行作家をひとり挙げよと言われれば,宮田珠己さんを挙げる人が多いのではないか。取りあげる対象の独特さ。その対象を見る目の独特さ。それを表現する文章の独特さ。
 若いときは太宰治の文章を真似しがちだったという人がいると思うのだが(生まれてすみません,とか言いたくなるでしょう),宮田さんの口吻にもそういうところがある。

● 以下にいくつか転載。
 だいたい半島というのはおしなべて変なのです。煮詰まっているというべきでしょうか。煮詰まっているから文化が濃い。濃縮されている。つまりいろいろやりすぎということです。(和歌山 p11)
 それはあくまでオフィシャルな答え。そんな杓子定規な態度では現場で起きている状況に対応できません。私に言わせれば,リアス式海岸とは穴を味わう海岸のことです。(岩手 p17)
 なぜ関東平野はダサいのか。答えは簡単。山がないから。これに尽きます。山,ないったらない。東京を出て京浜東北線や宇都宮線で北を目指すとき,車窓に広がる茫漠とした風景の絶望感といったらありません。(埼玉 p23)
 長野県は全国にチェーン展開している神様とは違うタイプの神様があふれている気がします。(長野 p116)
 京都が陰陽道だの魔界だのオカルト的な側面をたまに打ち出してくることがありますが,それはただ人間の心の闇を表現したものにすぎません。妖怪だの鬼だの幽霊だの名前のついた怪異は,結局は人間が作り出したもの。(奈良 p118)
 お寺も神社も,京都に比べて人間くささが薄い気がします。(奈良 p119)
 飛鳥ほど正々堂々とわけがわからない場所はありません。(奈良 p122)
 不思議なもので,水のきれいな場所は何度行っても飽きません。滝だの湖だの鍾乳洞だのリアス式海岸だのはすぐに飽きるのに,透明な水は飽きないのです。(高知 p138)
 食いだおれ,なんて言葉がありますが,いまやおいしいものは日本中にあるので,わざわざ大阪まで行かなくてもいいかも。(大阪 p160)
 旅の醍醐味はつまり意表を突かれること。これまでの思い込みが否定され,新しい世界が開けるとき,旅は最大限に盛り上がります。(中略)それまで基本的に海は左側に見えていたのが,関門トンネルを抜けた途端,級に海が右側に現れるのです。その瞬間,世界がねじ曲がったかのような錯覚に襲われます。(山口 p169)
 どこであれ神宮と名のつくところは案外見るものが少ないというのが定説です。ほとんど森になっているからです。(三重 p250)
 そもそも歴史に興味のない人間にとっては古代ほどどーでもいい時代はありません。(宮城 p275)
 何びとも京都を懐柔することはできません。人はついつい京都に選ばれたがります。自分だけに秘密の京都が扉を開いてくれないかと期待しますが,いちげんの観光客にそんなことは起こりません。いや,いちげんでなくても起こりません。(京都 p290)

2021年7月24日土曜日

2021.07.24 堀江貴文 『あり金は全部使え』

書名 あり金は全部使え
著者 堀江貴文
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2019.06.20
価格(税別) 1,300円

● たくさん付箋を貼って読了した。で,その後に,一度読んでいたことを知った。しかも,昨年の9月だ。まだ1年もたっていないのだ。
 忘却力だけは人並みはずれてあるということかねぇ。

● 前回の読書もこのブログに記録している。付箋を貼ったところを抜書きしてもいる。
 で,今回はそれよりもずっと多く付箋を貼っているんだよね。ということはつまり,まるで進歩していないということだよね。前回の読書は百パーセント無駄だったってことですよ。

● 付箋をたくさん貼るというのは決していい状況ではないしね。ギリギリ20枚以内にしたいところだ。今回は80枚近かったのではないか。
 そんなに付箋を貼ってるようでは本に負けすぎだし,ちゃんと読んでるのかどうかも疑わしいよなぁ。全部に赤線を引いてるようなものだからさ。

2021.07.24 八木牧夫 『五街道ウォークのすすめ』

書名 五街道ウォークのすすめ
著者 八木牧夫
発行所 山と渓谷社
発行年月日 2018.02.01
価格(税別) 1,300円

● 副題は「健康が歩いてやってくる!」。たまたま,川崎のホテルに長逗留することがあった。暇なので,東海道かわさき宿交流館を訪ねた。その数日後,では旧東海道を歩いてみるかと思い立ち,何日かに分けて神奈川宿の外れまで歩いた。
 このとき,途中からどの道が東海道なのかわからなくなった。ので,ラゾーナの丸善で『新版 ちゃんと歩ける東海道五十三次 東』を買った。これが著者の名前を知ったきっかけ。

● ちなみに,そのすぐ後に,今度は東京のホテルに逗留したので,日本橋から川崎宿まで歩くこともできた。ので,東海道は神奈川宿までは踏破していることになる。
 しかし,住んでいるところが栃木県だから『ちゃんと歩ける日光街道・奥州街道』も買った。やはり日本橋から歩いてみたいものだと思っている。淡い思いだが。

● 以下に転載。
 街道には見どころがたくさんありますが,それらを見てばかりいると前に進まないのでほどほどに,まずはビューっと歩きましょう。いずれ復路を歩くとき,その景色は往路とはガラリと変わり,また体も慣れてしなやかに歩きやすくなっているでしょう。(p14)
 特別なルールはありません。気軽に自由に歩くことこそが大切なのです。(中略)歩き方ひとつとっても,人それぞれに最適な歩き方があり「この姿勢で歩け!」ということはできません。(p26)
 「街道ウォーク」は往復でワンセットというのが私の考え方です。(中継)風景は180度変わります。(中略)往路で道に迷って歩き損ねた街道をトレースしなおしたり,時間がなく通過してしまった旧所名跡をフォローしたりと,往復を歩くメリットははかりしれません。(p29)
 装備は少ないほどよい,なにより目指すべきは「軽量化」というのが,長年,街道を歩いてきた私の結論です。(p34)
 少々濡れても冷えない季節なら,傘1本で勝負しましょう。(p50)
 (春・秋,冬は)本格的な雨になったら,雨対策の優れたアイテム「ポンチョ」の登場です。(中略)ここでもまた,防水透湿素材でなければいけません。透湿性のないビニール製のポンチョでは,外に放出されない汗で,雨で濡れる以上に,ポンチョ内部がびっしょり濡れて不快な思いをすることになってしまいます。(p50)
 このキャップをかぶり,その上にフードをかぶります。そしてあご紐を締めてみると,これだけで左右の視界が確保され,ツバがひさしとなって顔が濡れません。(中略)もう一工夫。クリップか小さめの洗濯バサミを2個で,キャップのツバにフードを固定します,これで完璧です。(p52)
 首筋を保温すると,ウェアを1枚着たのと同じ効果が得られるといいます。寒冷なときは「ネックウォーマー」を着用しましょう。(p56)
 足を前方に詰めたときに,かかと部分に指1本半分の幅くらいの余裕があるのが理想です。次にかかと側に足を押し付けた状態で,靴の中で足の指が「パー」の形に開くかどうか確認します。(p67)
 ウォーキングはスポーツです。通勤や買い物のときのような歩き方とは,ちょっと気持ちを変え,スピード感を持って歩いてください。(p78)
 「歩きで傷めた膝は歩きで直せ」と私は思っています。これもまた,あくまで経験による持論です。(p83)
 階段では,上りも下りも足の裏全体で着地する「べた足」が基本です。(p87)
 私はズバリ一人で歩く派です。(中略)一人で歩いたときの自由度は捨てがたいものです。(p104)
 街道筋の「鄙びた食堂」が街道旅には似合います。(中略)食事もまた旅の一部ですから,どこにでもあるファミレスには寄りません。ちなみに「鄙びた食堂」ではずれたことはありません。(p143)
 宿に迷惑をかけないためにも,到着の見込みが立ってから予約することにしています。直前の予約となり,翌朝の出発も早いので,必ず素泊まりです。(p146)
 私の場合「街道マップ」の作成にデジタルカメラが欠かせません。メモをとらなければならないもの,すべてをデジタルカメラに納めて持ちかえります。(中略)いちいちメモをとっていたのでは進行が遅くなってしまいます。(p155)

2021年7月4日日曜日

2021.07.04 中田 考・田中真知・矢内東紀 『70歳からの世界征服』

書名 70歳からの世界征服
著者 中田 考
   田中真知
   矢内東紀
発行所 百万年書房
発行年月日 2020.08.08
価格(税別) 1,500円

● 著者のひとり,矢内東紀さんはネットでは有名な「えらいてんちょう」。本書出版時で29歳。ずいぶんと大人びているというか,見極めに至っている人だねぇ。

● 老人なんて死ぬだけの存在だということを明らめろ,生きがいなんか求めるな,自分磨きなんてつまらないことはやめろ,という内容。
 身も蓋もないけれども,ひたすら真実だと認めざるを得ない。

● 以下に転載。
 人は必ず死に,この宇宙の中には善悪も,意味も,目的も,ありません。私たちが習う自然科学の中には,善も悪もなければ意味も目的もありません。(p3)
 この世界の中で,人が生きることにも,死ぬことにも,意味はありません。(中略)世界の中で良いと言われていることも,悪いと言われていることも,すべてそう言っている人の好き嫌いの話でしかありません。(p4)
 すでに老化してガタガタなのに,そんな自分を磨いてどうするんですか。(p18)
 いまは大学に金がないので,「生涯学習」などという名目で定年退職した人を受け入れて授業したりしていますが,本当にナンセンスです。はっきりいって迷惑。教える側にしても,若いからこそ「今はバカだけど伸びるかもしれない」と思えるから教えようという気になる。でも,老人なんて衰えていく一方だし,死ぬだけです。(中略)だいたい老人は他人の話を聞かない。聞かないというか聞けない。逆に自分の話を聞いてほしくて大学に来る。(中略)迷惑きわまりありません。(p19)
 基本的に大学院なんかに行ってる学生はコミュ障なので,よけいなことは話す必要もありません。(p22)
 老人にできる社会貢献は,煎じ詰めれば若い人にお金を落とすことだけです。(p27)
 頼まれもしないのに高い山に登ったり,海にヨットで乗り出して遭難する人もいます。はた迷惑なバカどもだと思いますが,人の価値観はいろいろです。(p41)
 それなのに,みんなにうつしてやると言って暴れる年寄りがいたりする。マスクを買うために列に並んだり,騒ぎ立てているのも老人が多い。長い間生きてきてそんな歳の取り方しかできなかったクズどもはさっさと死ね,と思いますね。(p47)
 退職した老人なんか外に出る必要はほどんどないわけだから,若い人の楽しみまで奪うなってことですよね。(p49)
 老人医療は人手が必要なので,どうしても人を雇わなくてはならない。つまり雇用を生み出すんです。その雇用発生のために,老人が必要とされる。(中略)長生きする老人が増えると儲かる人間がいっぱいいるわけです。医者もそうですね。いまの国家というのは福祉がないと成り立たないんです。(p64)
 「アラブの春」あたりから,世代交代を背景とした対立が表面化してきた。それまでは革命が起きるのは貧富の差ということで説明されることが多かったんですが,「アラブの春」では年寄りの支配はもう嫌だ,ということになったんですね。だいたい30年40年やってる独裁者たちだらけでしたから。(p71)
 これまでできなかった人間が,今から何かできるわけない。(中略)若いときに活躍しなかったら老人になってから何かできるわけない。(中略)もう今さら変わりませんよ。(p81)
 人間はいつかは結局死ぬわけです。何をやったって無駄なんです。だから死ぬまで生きているだけのことで,その意味では今生はすべて暇つぶしでしかないんです。(p90)
 みんな自分が例外だと思いたいんだけど,本当はみんなダメなんだよね。(p95)
 即身成仏はまさに自分でコントロールする自殺ですね。(p98)
 施設としての老人ホームは,かえってボケを進行させる環境です。(p108)
 あとを継ぐ若い世代としては,後世の人がその姿を見て「かっこいいなあ」と思えるものを残してほしい,それこそが人生なんじゃないかと思うわけです。(中略)でも,今は医療が発達して,80歳,90歳で何の社会的役割もない人が死にましたっていう話ばかり。悲しいどころか,周りにさんざん老害さらして迷惑していたのが,やっと死んでくれてホッとしたという方が多い。(p109)
 カラカルパク語とかマリ語とか,マイナー言語が狙い目です。ちょっと勉強しただけで第一人者になれますからね。カルチャーセンター的に受け身で学ぶのではなくて,世の中に介入するための武器として学ぶ。(p111)
 自分の欲望を満たそうとか,自分の身体をより快適にしようという方向にいくと,結果的にはあまり快適にならないことが多いんです。自分の外側,つまり世界を快適にするほうが,結果的に自分が快適になりやすい。それなのに,たいていの老人は,小金使って自分磨きしながら死んでいく。(p112)
 自分史なんて残したって誰も読みません。(p137)
 電車で席を譲られて,素直に座らない老人がいますよね。あれはかっこ悪い。(中略)老人のフリをすることでしか,老人にはなれません。(中略)「自分が老人? まじ?」みたいな感覚があっても,頑張って老人をやる。(中略)若々しく見えても,老人であることを受け入れていない人は,ただひたすらにかっこ悪い。(中略)それは若いのではなくて,たんに成熟していないだけです。(p141)
 施設に入るのも嫌,孤独死も嫌。要するにわがままなんです。(p145)
 断捨離というと,一般には自分の思い出の写真とか,本とか,服とか,日記とかを処分することと思われています。でも,そんなものは本人以外にとってはゴミです。ゴミだから全部捨ててしまえばいいし,べつに残しておいても捨てるだけですから,子どもにも迷惑はかかりません。(p149)
 本人が消そうとしても,価値のあるものは残る。本人が消さなくても価値のないものは消える。たいていのものは価値がないのでどうせ消えます。SNSもまずほとんど価値がないので消えます。だから安心してください。(p155)
 会社をやめたら人間関係がなくなった。そういう人は,最初から人間関係なんてなかったんです。人間関係は,人から「可愛い」と思われることで作られます。会社をやめたら,人間関係がなくなったというのは,(中略)「可愛い」と思われていなかったというだけのことです。(p169)
 中高年ともなると,もう先が見えています。その歳になって,あいかわらず世間的な価値観にとらわれているとしたら,もう見込みはありません。(p174)
 「老人生きがい本」は自己啓発本の延長線上にあるものだと言っていいと思います。(中略)老人になってなお何かを手に入れようと執着し,ますます多くの荷物を背負い込むことがよしとされています。それは老いることをかえって苦しいものにし,結果的に経済至上主義をますます煽ることになりかねないのではないでしょうか。(p176)

2021年7月1日木曜日

2021.07.01 松尾 豊 『超AI入門』

書名 超AI入門
編著者 松尾 豊
発行所 NHK出版
発行年月日 2019.02.25
価格(税別) 1,200円

● 副題は「ディープラーニングはどこまで進化するのか」。巻末に,ジェフリー・ヒントンとヤン・ルカンのインタビュー記事がある。

● 著者はカーツワイルやハラリが言っていることを正しいとする。「私もほぼ同じ結論にたどり着いています」と。
 とすると,人類は地球を離れて生存していくことができるようになるんだろうか。10数億年後には太陽が膨張し,地球は太陽に呑み込まれる。そのときに,人類も完全に宇宙から消えるのだと思っているのだが,そうではなく,その運命を免れるということなのだろうか。

● 以下に転載。
 学習という好意の根幹は「分ける」という処理にあります。(中略)この「分ける」という処理は,あるものごとを「イエス」か「ノー」で答えることでもあります。(中略)その精度,正解率を上げることが,学習することと言っていいでしょう。(p24)
 言葉を使っているときに,人間は,実は情報を落としています。情報を落として,抽象化して要約して,その代わり保存性を良くしているのです。(p36)
 学習率は大きくしすぎても,小さくしすぎてもいけません。大きすぎると最初は急速に学習が進みますが,途中で効率が悪くなるなどして,結局,うまく学習できません。小さすぎると時間がかかります。ですから,最初は学習率を大きく取って,学習が進むにつれてだんだん小さく絞っていけば,良い値に収束する,つまり,うまく学習できます。(p52)
 脳の神経回路は,それぞれのニューロンが発火することで情報を伝達します。「発火した状態」と「発火していない状態」の二つがあるので,一見「0」「1」のように見えます。しかし,この「0」「1」の状態もきれいに二つに分かれるわけではありません。たとえば,「ダダダダ」と発火する場合と,「ダ・ダ・ダ・ダ」と発火する場合があって,要するに頻度が違うのです。(p57)
 感情や本能が,自己保存という生命の目的に由来するものだと考えると,そもそも生命でないAIが本質的な意味での感情を持つことはないはずです。(p66)
 私たちが「心」と呼んでいるものや,人間の本能や感情といったもののかなりの部分が,進化に由来するのではないかという結論に行き当たります。(中略)本当の意味で「心」を持つことは,進化の過程を経ないとできないはずです。(p68)
 学習には生物的なコストがかかります。脳や神経回路を作り込まなければいけません。したがって,環境が変わらない状況では,進化のほうが促進され(つまり遺伝子に書き込まれて実装され),一方,環境が変わる状況では,対応するために学習する必要が出てきます。(p69)
 自分たち人間のことを考えてみると,生まれてこのかた,ずっと真似して生きてきたとも言えるのではないでしょうか。(中略)そう考えると,「真似できるんだったら,いいじゃないか」という考え方もあるかもしれません。(p83)
 芸術は,人間性を構成する複雑な “目的関数” に基づくものです。人間と同じ “目的関数” をAIが持てない以上,本当の意味で芸術作品を創造するのは困難だと言わざるをえません。(p91)
 そもそも,「身体を持たない知能」がありうるのか。(p100)
 世界は,「もしこれがこうだったら,こうなる」という仮説の空間でもあります。この空間は膨大で,自分がしようと思っていることと,どの事柄が関係しているのかという可能性が無限に存在します。その可能性を減らす方法はいくつかあって,その一つが自分で問題を作ることです。(p113)
 私たちは蓄積した経験から学習して,脳の中でさまざまなプロセスを経て思考した結果,行動していますが,実はそこに自由意志が入る余地はないのです。(中略)それでも,なぜか私たちは自分の意志があるように思っている。(p115)
 環境を知覚する仕組みの上に,記号の操作が実現されるということではないか,つまり,人間の知能は,「身体性のシステム」の上に「記号のシステム」を載せているのではないか。(中略)高度な推論などの記号系処理よりも,知覚運動系処理のほうが,AIで実現するのは難しいとなります。(p119)
 画像認識でAIが人間の精度を上回ったことの意義は,いくら強調してもしすぎることはありません。なぜなら,人間の仕事の中で,“眼” を使って認識・判断している仕事はたくさんあり,それらのすべてが自動化・機械化できる可能性が出てきたからです。(p134)
 食品産業界ではビールメーカーの規模が圧倒的で,それ以外では,売上規模が一兆円を超える会社は数社しかありません。(中略)ビールや缶コーヒーなどの飲料の加工は自動で行えるので,大量生産をしやすい。一方で,素材を生かす加工食品などは,とたんに扱いが難しくなります。食肉や魚介類,果物,野菜を扱う作業には “眼” を必要とするからです。(p137)
 私は,知能には鳥が飛ぶことと同じように原理があり,それを工学的に利用することもできるはずだと思っています。すでにディープラーニングで最大の難所が突破されていま,あとは身体性や記号操作の仕組みを獲得できれば,知能の原理の大方は説明がつくのではないか--それが私の考えです。(p152)
 いまの生産能力からすると,かなりの人は働かなくてもいいはずですし,仮に一〇〇年前の生活レベルでいいのなら,ほとんどの人は働かなくていいはずなのです。(p154)
 AIと「共存する」というより,「融合する」未来のほうが,私にはリアリティがあるように思えます。(p160)
 人間というハードウェア自体に非常に大きな制約がある。特に「情報の保存」と「通信」において大きな制約がありました。ところが,もし脳の機能を拡張してデータをいくらでもやりとりできるようになれば,人間が全体として知識を共有して,全体として学習し,進化していくことも可能になるはずです。(p162)