書名 おとなのきほん
著者 松浦弥太郎
発行所 PHP
発行年月日 2017.09.04
価格(税別) 1,300円
● 50歳になった著者が,「おとな」の仕事の仕方,生活のあり方について,自身の考えを述べたもの。
といっても,基本はこれまでの松浦さんの著書と変わるところはないように思う。50歳になったら変節したのか,と感じるところはないはずだ。
● たしか邱永漢さんだったと思うが,50歳だろうと60歳だろうと70歳だろうと,誰もが初めてなる50歳,60歳,70歳なのであって,50歳としては新人なのだと語っていた。60歳もしかり,70歳もしかり。なるほどと思ったことを思いだした。
だから,50歳になればそれが初めての50歳なのだから,誰もが戸惑うものなのだろう。
● 孔子の『論語』以来,年代論が賑々しく語られてきた。だけども,あんまり区切らない方がいいのかもしれないんだよね。50歳になったからといって,特に何をどうするというのは,あえて考えないという行き方もあるだろう。
考えなくても,身体は正直だから,近くのものが見えなくなるし,階段を登るのは億劫になるし,ITの動きについていくのはしんどくなる。それに任せるか抵抗するかは人によるが(世間的には抵抗する方が推奨されているだろう),そうしたひとつひとつに自分なりに対処していけば(あるいは,諦めれていけば)それでいいのではないか,とも思う。
● 以下にいくつか転載。
商品として考えた場合,おとなの多くは“新しさの全盛期”を過ぎています。もしもみずみずしい赤いりんごのような商品であれば,“新しさの全盛期”を過ぎたら価値はありません。(中略)しかしそれがりんご酒のような商品であれば“新しさの全盛期”を過ぎても価値は失われません。時を経て熟成され,おいしさを増すこともできる。(p19)
りんご酒になるための準備は,しかし,50歳になってから始めようと思っても遅いのかもしれない。というか,自分をりんご酒にするにはこうすればいいという,万人に共通の方法論などないのだろう。
そこは人それぞれとしても,りんご酒になるための発酵過程は,じつはかなり若い頃から始まっているのかもしれないよね。
面白さに知識を付け加える。これもおとなのコミュニケーションです。ただし,これが逆になると,すべてが台無しになります。(p22)
僕らはコンテンツを見てもらうとき,ユーザーから時間をいただいています。時間とお金というのはとても似ていて,人は何に時間とお金を使うのかを考えると,「自分を助けてくれるものに使う)という答が浮かんできます。(p27)
いつでも,どんな状況でも,人を笑わせることができる人は素晴らしいし,僕もそうなりたいと憧れています。笑わせるセンスをみにつけること。これはおとなの教養といってもいいでしょう。(p30)
「また会いたい」という気持ちになる相手。それは面白くて楽しい人です。「もう一度会いたい」と別れてすぐ思う相手。それは自分の話をすごく大切に聞いてくれる人です。(p37)
自分にもしもまだ伸びしろがあるなら,新しい人とつきあったほうがいい。まだ伸びしろがあると気づかせてくれる人,その伸びしろが伸びるように支えてくれる人は,新しい友だちです。自分では,自分の伸びしろを伸ばすことはできません。ずっと仲良くしてきた親友な仲間も,伸びしろを教えてはくれません。(p42)
「この人と会ってよかった,友だちになりたい」と感じる人には共通点があります。みな,仕事が好きな人たちです。どんな仕事でもいいのです。(p46)
今でも守っているお金とのつきあい方が,いくつかあります。まずは,「お金が好きだ」と思うこと。はっきりそう口にすること。それだけお金を大切に考えるということです。そしてもう一つは,矛盾しているようですが,「お金を追いかけない」ということ。(p83)
頼まれた以上の仕事をする。それがお金をたくさん稼ぐ一番の方法です。(p86)
お金の使い方についても,僕は基本を守っています。それは,お金を友だちと見なし,お金が喜ぶような使い方をするということ。「えっ,僕をそんなことのために使うの?」と“お金さん”という友だちががっかりしたりすることには,お金を使わない。(p90)
無限だと思っていた時間が有限だという現実が突きつけられる年齢になったら,やりたいことだけに絞らないと,チャンスが来たときにトライできなくなります。(p97)
僕なら,本当に迷った時は時の流れに任せます。激流に巻き込まれてしまったら,体の力を抜いて泳ぐのをやめます。自分の中の思考をとめる。それでも自分のまわりはどんどん動いていくので,それにゆだねてみるのです。(p98)
五十歳を過ぎた僕が,おとなのおしゃれを考えたときに大切と思うこと,それは,品質とか,組み合わせとかではなく,体を鍛えることなのです。(中略)だらしない体では,着こなせない。むしろ,服に対して失礼なのではないかとすら感じています。(p107)
去年夢中でやっていたことを,今年はさっぱりやっていない。それも大いに結構だと思うのです。新しいことを次々とやる秘訣は,「やる・やらない」の境界線を作らないことだと思います。(p117)
どんなに偉くて権力を持っていても,すべてを手にれているように見える賢くて美しい人でも,人間はみんな弱いと僕は思っています。(中略)みんな弱くて困っていて,いつも何かに助けてもらいたいと思っているし,自分を救ってくれるものを探しています。(p134)
正直に打ち明けてしまうなら,僕が朝四時半に起きるのは,べつに夜十時に寝ているからではなく,あらゆる不安が大きくて目が覚めてしまうという部分も少なからずあります。(p136)
みんなが「こんな感じ」とか「こういうふう」と思っているのにもかかわらず,まだ誰も言語化してないような大切なことを,仕事を通じて言語化したい。(中略)自分の言葉によってみんなの気持ちに役に立つことが,僕のいろんな仕事の目的です。喜んでもらう,気づいてもらう,役立ててもらう。(p137)
やっぱり僕は偉い人にはなりたくありません。僕はプレイヤーをやめた評論家にはなりたくありません。(p144)
とても幸せで,恵まれているからこそ,お返しをしなければいけない。だから僕は,もっと成長しなければいけないのだと。(p155)
書名 考えるとはどういうことか
著者 外山滋比古
発行所 集英社インターナショナル
発行年月日 2012.01.31
価格(税別) 1,000円
● 本書に述べられているのは,すでに著者が別の著書で語っていることではある。
知識と思考は排斥しあうところがある。教育は知識を詰めこむものだから,思考力を阻害する側面があることに注意せよ。憶えること以上に忘れることが重要だ。
要約すれば,そういうことが述べられている。
● 以下に転載。
知識がふえればふえるほど思考は弱体化し,知識の乏しいものは,思考力をつよく発揮できる。(中略)不用意に知識をふやしていけば,知識メタボリック症候群の病状を呈するおそれもあります。これまでの知識万能思想はそのことを故意に見落としていたのです。ふえすぎた知識は捨てなくてはならない。(p6)
よく忘れ,よく考えるのが,これからの頭です。余計なもののない,整理された頭を自由に働かせるのが,思考です。(p8)
知識は基本的に過去のものですから,情報としては半ば死んでいます。したがって,いくら多くの知識を集めてみても,そこから新しいものを生み出すのは難しい。(p37)
知識だけに頼って経験を軽んじているからでしょう。別のいい方をすると,生活をバカにしています。(p37)
一般企業で学校で学んだ知識が求められる仕事はそう多くありません。ほとんどの仕事は,経験や生活力が物をいいます。それを無視した学校教育の優等生に,いきなり仕事で結果を出すことを期待するほうが間違っているのです。(p41)
知識はうまく使えば大きな力になりますが,その使い方を身につける上でも生活による経験が必要です。生活から遠く離れたところでまとめた知識は,いくらたくさんあってもあまり価値がありません。(p42)
昔の社会は「経験人間」が大多数でした。「知識派」は少数派だったからこそエリートとしての価値があったのです。(p43)
創造的な思考とは,無から有を生み出すものではなく,新しいものを考え出すには,何らかのタネが必要です。もちろん知識もタネにはなりますが,これは多くに人々が共有しているので,それだけでは独創的なアイデアにはなりません。そこに自分ならではの経験というタネを加えることで,オリジナルな化合物としての思考が生まれます。(p55)
日本人は,良くいえば謙虚,悪くいえば自虐的なところがあって,身近なものをみなダメだと考えがちです。(中略)日本人自身が欠点だと思い込んでいる物事の中に,実は高い価値をもっているものがあります。(p84)
連句や俳句のような詩だけでなく,ふつうの散文の場合も,論理だけで構成すると平面的で退屈なものになりがちです。起伏のある表現で読者の興味を惹きつけるには,いくらか論理が飛躍したとしても,飛躍の空白を作ったほうがいいのです。(p97)
言語と論理は,きわめて深い関係にあります。言語が違えば論理が変わり,論理が違えば言語が変わる。これは切り離すことができません。同じ日本でも関東と関西せは言葉が違い,したがって論理も異なります。(p104)
富永仲基は合理主義の立場から儒教・仏教・神道を批判したことで知られていますが,その批判も加上の説に基づくものでした。簡単にいうと,加上の説とは,ある話が時間をかけて人づてに伝わっていくうちに雪だるまのように大きくなっていき,元の話は大きく変わってしまうというものです。あまり広くは知られていない学者ですが,この理論をひとりで考え出したのは実に天才的だといえるでしょう。(p109)
一般に文章の区切りがはっきりしないため,日本語の文章は長ければ長いほど論理構成が不明確になりがちです。(中略)しかもその理論は,ヨーロッパの言語のように線でつながるものではありません。日本人は点を並べるように論理を構成します。(p115)
最初から最後まで線でつなぐ論理では,書かれていることが表現のすべてです。しかし与えられた点を線に仕立てるだけの読解力を読み手が持っていれば,こうした奥深い論理が可能になる。日本人は,これが得意です。逆に,きっちりと引かれた線ですと,日本人は退屈な気分になってしまいます。(p116)
日本人は大事なことを先に言いません。「後方重点」の論理を持っています。これが,「前方重点」の欧米人とのコミュニケーション・ギャップを生む最大の要因といってもいいでしょう。(p121)
昔は火口がひとつだったから,仕上げの時間を合わせるのは,一般家庭などでは困難でしたが,いまはガステーブルに火口がいくつもある。(中略)それだけことは複雑になってきましたが,頭にものをいわせることが容易になりました。つまり,かつてより料理は面白くなっています。(p126)
食べるほうではグルメが現れて文化的にも向上しましたが,作る側の二次的創造に心を向ける人が少ないのは,食文化の未熟さを表すものでしょう。(p127)
文化的なモノを作る喜びを感じれば,衣服を作るのは単純労働にない創造的欲求を満たす点で,本などをワケもなく読んでいるのに較べて,ずっと手ごたえがあったでしょう。(p130)
話すのと書くのでは,鮮度が違います。生きが違うのです。話を軽んじるのは間違いです。近代文化は声を失っていて,そのために文化全体が大きく歪んでいるように思います。(p156)
書名 ものの見方 思考の実技
著者 外山滋比古
編者 栗原 裕
発行所 PHP
発行年月日 2010.09.01
価格(税別) 1,000円
● 外山さんのこれまでの著書の中から代表的な論考を集めたもの。外山さんの考えの概要を知りたかったら,本書を読めばいい。
が,小さな本であるにもかかわらず,読み通すのにけっこうな日数を要してしまった。平明な文章で決して読みづらくはないんだけども,目下のぼくの頭の具合では,ま,やむを得ないかな。
● 若い人なら,勉強論,学習の方法論としても読むことができるだろう。なるほどこうすればいいのか,と示唆を受けるところも多いのではないか。
年寄りにとっては,こうすればよかったのかという遅すぎるかもしれない発見に満ちている。
● 以下に,多すぎるかもしれない転載。
眼の走る方向に交叉する線が多ければ多いほど,文字を読みとるのに要するエネルギーは少なくてすむ。(p14)
俳句は横組みを嫌う。逆に,横組みの日本語の中からは,おそらく俳句のような詩は生れないであろう。(p17)
印刷文化は“読者”を生み出した。つまり,かならずしも書き手を個人的に知っているとは限らない人間に印刷物を読ませるのである。当然,野暮な人間がいる。(p28)
日本的表現法の特色のひとつは,相手を尊重する心である。そのためあえて曖昧な表現様式をとって,相手に下駄をあずけるのが好まれたりする。何から何まではっきり言ったのでは,はしたない,含みの乏しい表現になる。(p29)
どうして翻訳の多くが悪文になるのか。それを考えているうちに,文順墨守がいけないのだと思うようになった。つまり,原文のセンテンスの並んでいる順序をバカ正直に守って,それを“原文忠実”なりとする考えに責任がある。(p39)
絶えずものを読んでいる人は,いつか音読から黙読へと移って行くと想像される一方,たとえ理解力に秀れていても,読むことに馴れていなければ,音読によらなければ読めない。(p43)
イギリスの中世において,本が読まれるのは,音読であり,朗読であり,ときには,職業的読書技術ををもった吟遊詩人の「演技」ですらあった。そこにはつねに聞き手が予想されている。声を出して読まれるのは,読者ひとりのためでなくて,小コミュニティのためであった。(p43)
人が共同社会に属しながら,その共同社会の中に生れた表現を読むときには,音読ということが必然であった。人々の群から独りはなれて,自分のためにのみ読むという意図を読者が抱くようになったとのときから,リーディングの性格は変る。(p44)
たいていの黙読に際して,われわれは声こそ出さないが,声の出る一歩手前の声帯の小さな運動を行っているらしく,それを心声と感ずるもののようである。黙読でも長時間本を読むと,声帯が疲れてくる。今日のいわゆる黙読も音から完全に絶縁した読み方ではないことは認めてよい。(p47)
その詩歌でも,声を出さずに読まれることが次第に普通になりつつある。それが現代詩の性格を関係するように思われる。(p49)
ただ対象のありのままを自然に写した写真を芸術とは言わず,そういう写真を撮ることを創作活動とは言わないのに対して,画家が風景を絵にするのは創作であり,絵は芸術になるのである。かりに,正常な「読む」活動が,この比喩における画家の活動に通ずるものであるとすれば,読書もまたクリエイティブな機能をもつと言ってもよいはずである。「読む」と言うと,とかく,受動一方のように考えるのは正しくない。(中略)解釈の加わる積極的な精神の活動だからである。(p61)
われわれ自身が昔に立ち返ることができない限り,歴史的過去はつねに距離をもった対象である。それを完全に理解することは不可能である。どうしても,そこへわれわれ自身の考え方を補充することが必要になる。その補充が,実は,しらずしらずのうちに行われているアナクロニズムになるのである。(p69)
身近なものは,われわれにとって鮮明である。強い印象を与える。よくわかりそうなものであるが,その強い印象に圧迫,圧倒されて,かえって,よい理解にはならないことが多い。(中略)ものごとはある程度,時が経ち,古くなってはじめておもしろく感じられるもののようである。(p70)
もの自体の美しさとは別に,それを見る人との間の関係が生む美のあることに注意しなくてはならない。(中略)はるけきものをあこがれる心--これがロマンティシズムの中核的特質であることは,いまことあたらしく言うまでもないが,これは,距離の美を求めていることにほかならない。(p74)
絶対にして普遍的な美は少ないと見なければならない。美は多く見者の感情移入によって支えられているのである。(p78)
文化的概念が科学的概念と根本的に違うのは,科学上の概念は,時間と空間の中を移動し得るのに対して,文化や文化的概念は移動し得ないという点である。(p80)
シェイクスピアの戯曲は今日の基準からすれば剽窃的要素をかなりふくんでいるけれども,彼の天才はそういうことではすこしも損なわれることがない。借り物を自家薬籠中のものとして絶妙なとり合わせにもっていったところに天才の天才たるところがあった。こういう作者はいわば編集者的であるといってよい。(p87)
一般に,ひろく人々の心を惹く表現のおもしろさにはエディターシップによることろがすくなくないように思われる。ものごとは単独に存在するのではなく,ほかのものと並べられて,あるいは,より大きな全体へ入れられたときの,とり合わせの妙からおもしろさが感じられるのである。(p88)
明治以来のわが国の文化,思想がなんとなく生気に乏しく,創造性に欠けるのは,エディターシップがながい間,文筆志望の青年の腰掛け仕事みたいに考えられてきたことと無関係ではなかろう。(p93)
新しいものを認識する。これは,新しいものごとが独立して頭に入るのではない。既存のものと関係づけられて,はじめて認識になるのである。(中略)創造も精神のエディターシップによって可能になる。自然,事件,情緒などがなまのままに表出されても芸術的創造にはならないのである。(p94)
エディターシップはニュートラルである。ことさら創造的であろうとするのは本ものではない。ただ,触媒に徹することにおいておのずから創造的になるのである。(p96)
オーサーシップ(執筆)の絶対性からいえば,推敲はともかく,添削や編集が作品,表現に改修を加えるのは許しがたいことのように考えられるであろうが,実際には,そいういう改変がよい結果を生んでいることがすくなくない。(中略)作者だけにしかわからないようなものは,伝達を目的とする言語表現の資格を放棄しているとすらいえる。(p98)
人間的記憶には,その裏の亡失が不可欠である。忘れることが不活発になると,新しいものを吸収する能力も低下するのである。(p104)
歴史的事実そのものは太古から存在するが,歴史に対する意識は近世の産物である。この二者の区別ははっきりしておく必要がある。(p120)
自己中心的な考え方は,近世のヨーロッパに限らず,どこの社会にも見られる人間にとって基本的認識態度である。(p121)
ルネッサンスがギリシア,ローマの古典的世界の復古思想によっておこったことはよく知られているが,一方では,当時,毎年のように,新しい国土がつぎつぎ発見されて,たえず地図が書きかえられなくてはならなかったということも忘れてはならない。歴史的展開とともに空間の地理的発見があったことが,ルネッサンス人のわき立つような想像力の一つの秘密であった。(p125)
異質な文化を混ぜ合わせると,公約数的なものに収斂されるから,元来具わっていた個性的ニュアンスが削りとられて,原始的単純へ向かう。文化交流は,本質においては,一見,プリミティヴィズムと思われる簡素化の傾向を有している。(p128)
姿,かっこうは変装することができても,言葉づかいを隠すことは難しい。しかし,現代人は案外こういうことに無頓着に生きているのではあるまいか。そうだとすれば,われわれがいつの間にか視覚人間になっているからで,根は文化の深部にあるということになる。(p134)
声は地域的制限をもつのに対して,活字は自由にどこへでも広がって行く。それで活字文化は,地方性のプラスの面,伝統の破壊に手を貸すことになる一方,マイナスの面,固陋と閉鎖を開放するという両刃の剣となるのである。いずれにしても,社会の体制を大きくゆさぶらずにはすまないもので,活字文化と切り離した近代というものを考えることはできない。(p140)
活字による個性的表現は,よほどの名文家でもない限り,肉声による味わいには及ばないのが普通である。(p141)
われわれがもち合わせている既成の認識のパターンは人間関係,はっきり言うならば,ゴシップ的人間関係に大きく傾いているから,ゴシップ的表現ならおもしろがるが,すこし抽象的になればハナもひっかけない読者ばかり多くなる。(p144)
目に見てからでないとわかったような気がしない視覚タイプの人間が多くなった。文章を読んでもそこからすぐ情景を心に描くのではなく,既往の体験,パターンをまず連想し,それをもとにして表現に向う,具体先行の認識である。小説や旅行記ならこれでもいいが,言論思想についても同じやり方でわかろうとする読者があるのは問題である。(p145)
古来,すぐれたアイディアを散歩中に得たという例がはなはだ多い。ことにヨーロッパの学者には散歩型が多いように思われる。(中略)散歩が日常性からの離脱を意味しているのは注目してよかろう。(中略)問題は,やはり日常性の止揚である。(p159)
知的環境としては,住めば都,はもっともまずい状態なのである。行きずりの旅人として見た場合には,おもしろい発見ができても,住みつくと,ものが見えなくなる。(p160)
ここで注意しなくてはならないのは,トラヴェラーにとって,旅さきのことを,そこの土地の人と同じように知る必要はないという点である。むしろ,新しい土地が触発するものを楽しめばよい。(p161)
いくら研鑽をつんでも初心を忘れず,何でもないことに日々おどろくような精神をもっていれば,語学はいつまでも創造的思考の母体たり得るであろうが,人情として,一日も早く安心立命の境に達したいと願う。その気持自体が不毛の道につながっている。(p163)
発見や創造に心を砕いた人たちは申し合わせたように,アイディアが浮かんだらすぐ記録できるように小さな紙片を持ち歩いている。(p172)
書名 ホリエモン×ひろゆき 「なんかヘンだよね」
著者 堀江貴文・ひろゆき
発行所 集英社
発行年月日 2009.09.09
価格(税別) 952円
● 少し古いけれども,この2人の対談なら面白くないわけがない。読書に求めるものは何か。ぼくは一夕の歓を尽くすこと以外にない。本を読んで賢くなれるとは思わない。
先人の知恵を数時間で知ることができて,しかもそれに要する費用は千数百円。こんな安いものはない。とは,出版業界とその業界で生きている著者の多くが言うところだけれども,安く知ることができたものは,なかなか自分の身にはならないものだ。
● 要は,本なんてものは面白ければそれでいい。役に立つかどうかなど,どうだっていい。したがって,ジャンルを問わず,面白い本を読みたい。
で,本書は読む前から面白いことが予想できる。もちろん,著者2人に何の興味もないという人がいてもいいのだが。
● 以下にいくつか転載。
一般庶民の手に入る情報で,一般庶民の払える額の不動産で,他者より有利になる商品なんてあるわけない。(西村 p15)
嫉妬を煽ると,共感を得やすいですからね。メディアって共感を得ることでお金を払ってもらえるシステムじゃないですか。そうすると知識欲のある人に訴えかけるよりも,バカに対して共感を覚えさせるほうが楽ということになる。(西村 p40)
自分が苦労している姿を人に晒すのが,俺は一番嫌なんだよね。(堀江 p42)
まぁ,やる気を出して別にいいことって,そんなにないからね。なんか,いろいろな経験をして,適当に遊んでいるのが一番いいってことはわかった。でも,俺は,そういう世の中が嫌いだったから一生懸命働いたんだよね。(堀江 p67)
自分の裁判とか見ていても,裁判官とかは理由なんてどうだっていいわけ。「こいつは有罪だ」って思ったら有罪にしちゃう。(堀江 p79)
それはバカなんじゃなくて,人は興味がないことに対して調べることをしないからなんですよ。(西村 p94)
分相応という考えができてないんじゃないですかね。「本来のあなたの商品価値という部分では月給18万円の仕事しかありません」と言われているのに,「俺はもっとできるから25万円もらえるはずなんだ」と思っちゃって,仕事がないという話になる。(西村 p102)
生物学上でも雑種が一番強いわけさ。だから,近親相姦がタブーになっているの。(中略)文化も異文化がどんどん融合することによって,新しいすばらしい文化が生まれて,文化がどんどん発展していくわけじゃない。だから,いいことのほうが多いはずなんだよ。(堀江 p110)
メディアにしてみれば,ネットを使わないで『ジャパネットたかた』とかで買い物をして「得した」とおもっているようなバカなお客さんを囲んでおいたほうが,利益率は高いじゃないですか。(西村 p117)
自分の気が弱いことや,知識がないことを棚に上げて「高いモノ買わされた」だとか言うほうが,俺はバカだと思うわけ。(中略)ルイ・ヴィトンのバッグも同じで,確かにいいものだけど「この値段はないでしょう」って思わない? それでも買っちゃう人は,もう放っておくしかないって話なわけじゃん。(堀江 p129)
健康って,我慢と引き替えに手に入れるものである,というふうに思っている節はあるよね。(中略)常識なんてそんなもん。だから,誰しも迷信の世界で生きているなって感じるのよ,自分は違うと思いたいけどね。(堀江 p134)
みんな,『発掘!あるある大事典』を信じていたわけじゃない。そういうレベルの人たちですよ。『オーラの泉』なんて,あれをファンタジーと言わずして何をファンタジーと言うんだってね。(堀江 p135)
僕は,人を天才って言うときには,ちょっとバカにした感じがあるんですよ。で,変人なんだけど,社会的に評価されるモノを作ってしまったタイプの人が天才で,作れなかったらそのまま変人。(西村 p144)
イチローは天才かな。だって,毎日昼飯にカレーなんて食えないもん。そういうヘンな生活習慣は天才のひとつの要件じゃないかな?(堀江 p145)
人一倍努力する人って,なんかしら問題を抱えていると思うんですよね。(西村 p148)
小中高のときって,社会に出たら出会えないようなバカが結構いたりするんですよ。あの出会いって僕,結構,重要だと思うんですよ。(中略)実際の社会って,ろくに仕事もできないヤツのほうが多い。なのに僕は仕事のできない人たちに会う機会が極端に少ない。だから,僕が味わっている社会には,本当の社会が存在してない。もし,僕が塾しか通っていなかったら,「社会はこんなもんだ」ということがわからなかったと思うんですよね。(西村 P156)
特殊な人が特殊であることを認められない社会ですからねぇ。(西村 p159)
だって,6年間,週3日だよ。往復と練習時間も含めると1日4時間,年間100日弱ぐらい道場に通っていたら,友達とだって遊べなくなるじゃん。(中略)基本的に嫌いだったからね。「無気力相撲だ!」みたいな感じなわけ。(堀江 p168)
面白い人って何かしら発信をしているんだよ。(中略)インターネットで面白い人と知り合えるようになったのは,いいことだと思うんだ。(p177)
バカは「周りのみんながやっているから正しい」と考えるんだけど,実はみんなバカだから,騙されて集団で間違った方向に走っちゃう。多数決で決まったモノが正しいと信じちゃう。(西村 p191)
(『ウェブ進化論』は)何となく読んだ。でも,なに言ってるのか,わからないんだよね。俺,そもそも梅田さんが何者なのかもよくわかんないの。(堀江 p192)
ガラパゴスの意味の取り方で,驚異的に進化しすぎた携帯だってことだよ。このパフォーマンスでこの値段だし。俺,日本の携帯に較べたら,iPhoneとかは全然すごいとは思わない。(堀江 p197)
これは2009年での発言。今の堀江さんはiPhoneの超ヘビーユーザーであることは,周知の事実。
やっぱり,日本はレベルが高いんだよ。食べ物のレベルもおかしいぐらい高いもん。牛角とか奇跡だよ,あり得ないよ!? アメリカで牛角なんていったらハリウッドセレブの食べ物なのさ。日本じゃあり得ないでしょ? それだけレベルが違うの。(堀江 p198)
日本のITは,海外のITに進出するのが難しいだけなんだよね。ぶちゃけ,行く必要もない気がするし。(堀江 p201)
「日本のITはダメ」なんじゃなくて,「もったいない」なんですよね。それは,ビジネスモデルまで落とし込まなくても何とか食べていけちゃうから。(西村 p204)
西村 安くてうまい店ってなんで値上げしないんですかね。 堀江 水商売だからね。ずっと行列ができていることが大事なんじゃ?(p228)
信用って嘘つかないとか,そういうレベルの話だと思うんですけどね。(中略)だから,普通に基本的な生活をしていたら増えていくものであって,減るものではないと思いますよ。(西村 p240)
金持ちを見たことのアリ・ナシは,重要な要素だと思うんですよ。金持ちを見たことがあれば,「金持ちでも,この程度なんだ」と理解できるじゃないですか。それで「あ,俺はここまで行く必要ないわ」って思える。(西村 p245)
僕,お金持ちの人がお金で手に入れた幸せって,まだ見たことがなくて。(西村 p245)
僕卵かけご飯満足派なんで。「食べ物が美味しい」というジャンルで,すごく美味しいと,結構美味しいの差があまりない。(西村 p246)
でも,コストパフォーマンスの問題じゃないんだよね。(中略)お金を持っていれば,その差は気にしなくてもいいんだよね。コストパフォーマンスなんて別に考える必要ないから,そこに関しては,お金があることはいいことだよね。(堀江 p247)
信用をお金に換えるのは結構簡単だったりしますけど,お金で信用を買うのは結構大変ですよね。(西村 p248)
書名 五十歳からの成熟した生き方
著者 天外伺朗
発行所 海竜社
発行年月日 2006.11.14
価格(税別) 1,429円
● 副題は「スピリチュアルな成長へのいざない」。天外さんの本を読むのは久しぶり。
若い頃から読者だった。それがいいことだったかどうかは,少し以上に微妙だと思っている。それはつまり,葉を茂らせるべき時期に,葉を落とすことをやっていたようなものかもしれないから。
もともと,生存競争に不向きだったのだろう。彼の読者でなかったとしても,結果は同じだったはずだ。
● 生存競争云々とは別に,若さをもって良しとする若さ第一主義とでもいうべき文化が,社会全体を覆っているように思われる。老人もそのように考えていて,どうにか若さを保とうとする。自分はまだまだ若い,元気だ,と感じられると安心する。
もちろん,寝たきりになるよりならない方がいいに決まっているし,老人医療費が縮減されればそれに越したことはない。
● のだが,生涯現役を標榜し(若い世代からは老害の元凶だと言われる),社会への影響力を保持し続けようとするのは,健康なまま朽ちるという範囲を超えて,若さにしがみつこうとする無惨さを感じさせるところがある。
いつまで経っても自分は社会から必要とされていると思いたいのだろうか。やめておくがいい。そのことが社会にどれほどの負荷をかけることになるか。
● 社会の側も,若者が減少しているので,年寄りに頼るしかないところが,なくもないのかもしれない。年寄りをヨイショするしかないという。
一方で老害を嘆きつつ,他方で年寄りにも働いてもらわないと(そして,しっかり消費してもらわないと),経済が回っていかないのかもね。
● しかし,そうではあっても,慎んでいるのが年寄りの義務の第一に来るものだと思う。自分にそれができる自信はまったくないが,心構えとしてはそうあるべきだと思っている。
そのことと,本書で説かれていることが,直接にリンクするわけではない。が,本書を読んでみることは,若さにしがみついていてはいけないと反省するよすがにはなるかもしれない。
● 以下に転載。
一般的には,このような活動的な老後をよしとする風潮が強いが,じつはそれは本人の心の奥底にある不安が反映している。そのまま年老いるということは,植物でいえば「腐る」方向性だ。幸か不幸か,私自身はその病理性に気づいてしまった。(p3)
いくら理性で自分をコントロールしようとしても,がんばっても,努力しても無駄だ。より深いレベルからの,ごく自然なスピリチュアルな成長が必須なのだ。(p4)
もし老いを拒絶することなく,しっかりと受け入れられるようになると,一日一日はより愛しいものになり,人生の味わいはよりいっそう増していく。(p16)
老いを忌み嫌い,男性なら現役で働き続けることにこだわったり,女性ならアンチエイジングに憂き身をやつしたりする。(中略)そんな人たちが大好きなのが,サムエル・ウルマンの「青春」という詩だ。(中略)そういうとウルマンのファンは怒るかもしれないが,彼は,歳をとることの本当のすばらしさがわかっていないのではなかろうか。(p16)
人の老い方も,まさに三通りある。腐るか,枯れるか,干からびるのだ。現代の高齢者の悲劇は,老いのイメージとして「腐る」か「干からびる」しかないことだろう。(p19)
植物は栄養を与えすぎると腐ってしまうという。なるべく肥料をやらないでいると,植物は一生懸命根を伸ばして栄養を取ろうとする。そんなふうにして実った野菜や果物は美味しいだけでなく,腐らず,原形をとどめたまま,ただ枯れていくそうだ。(中略)人がきちんと枯れていくためには,「感動する心」という水分を取り入れつつ,表面的な欲望(仏教でいう「煩悩」)という養分を控える必要があるのだろう。(p21)
私が活動的なことは決して美徳ではなくて,私が枯れきっていない証拠にすぎない。そういうふうに活動的なのは,一歩間違えると「永遠の青春」を追い求める方向に行ってしまう危険をはらんでいるのだ。(中略)ちなみに,「上手に枯れているな」と思える先輩方は,社会的にはむしろ特に目立った活動はしていない。(p26)
私たちが生産性を重視しているかぎり,「経済発展のため,二十四時間戦いまくる」戦士が社会を担うという構造を変えることはできない。競争社会とは結局,「戦士の社会」であり,それ以外の生き方を軽んじる社会の別名なのだ。(p33)
おそらく未来のリーダーとは,社会的には目立たず,人々と競争することもないが,ひたすら存在することによって,周囲にゆっくりと深い影響力をおよぼすような人物だろう。(p35)
多くの人たちは若い頃から,あまりにも無自覚に,戦士としての人生を過ごしてきた。戦士として戦う生き方とは,結局はエゴの欲求にしたがって突っ走ることにほかならない。(中略)現代人が老いから目を背ける理由の一つは,もはや戦士として戦えなくなり,社会の厄介者となった自分を直視するのが怖いからだ。(p36)
残念ながら,ほとんどの場合,私たちがそれまでの人生で得たものは戦う知恵であり,いわばエゴを追求する知恵であって,この先の人生を生きるにはもはや役に立たないどころか,邪魔な荷物にすぎない。(p38)
宗教があるから宗教性が生じるのではなく,人間が本来もっている宗教性をかたちにしたのが宗教なのだ。スピリチュアリティとは,その宗教性のことである。(p46)
シャドーに起因する戦いの衝動は必ずしも人には向かわず,より抽象的な対象を選ぶこともある。たとえば,いまの社会の中でゆるされてる金銭・名誉・地位などを求める戦い,平和運動や環境運動などが絶好のターゲットになる。だから,平和運動家の心が平和であったためしはなく,平和運動団体は互いにいがみ合っている。(p58)
成熟した自我のレベルは自分の欠点をあまり隠そうとせず,無邪気に裸で堂々と生きている。そのため,あまり仁徳者や聖人には見えないかもしれない。(p59)
現代人のほとんどは,社会生活を円滑にするために怒り,敵意など,ネガティブとされる情動を抑圧しているが,そのために喜びの情動も抑圧してしまい,人間本来の生きる喜びを感じられないでいる。したがって,ゴルフやレジャーや海外旅行に行ったりして,常に外側の喜びを追い求めるようになる。(p62)
テレビに出てくる霊能者やスピリチュアル・カウンセラーのたぐいは,全員間違いなく,私の定義では単なる病気に分類される。(p65)
わかりきったことだが,ただ漫然と生き延びてさえいれば,知恵がつくわけでもない。とはいえ,たとえそれまでどんな人生を送ってきたとしても,「思い立ったが吉日」というのも本当だ。(p69)
結局,意識の成長・進化を妨げているのは,究極的には死に対する恐怖だということになる。死から目を背けているかぎり,私たちは決して,成長という階段を上ることができない。(p72)
「良識的で立派な社会人」は,他人を受け入れるポーズはできても,枠が強ければ強いだけ,実際は誰かを,そして自分自身を,本当に受け入れることはできない。どうしても枠からはみ出した部分を否定しようとしてしまうのだ。本来の自然な人間の姿は,自分でも他人でも,そのような枠におさまりきれるものではない。(p78)
老境にさしかかってさえ「良識的で立派な人」を演じ続けようとする人は,はっきりいって傍迷惑だ。(p79)
「病気が治ってよかったね」と言うのは当然だ。だが一歩進んで,病気になったおかげでこんな気づきが得られたとか,それまでの人生が一変したといった,「病気になってよかったね」と言えるような,病へのアプローチが必要ではないか。(p81)
伊藤(慶二)さんは,医療の現場で,「食事」と「想いのあり方」の大切さを訴え,それを変えればほとんどの病気が治るということを実証してきた。なにより伊藤さんのすごいところは,病気を通じて人々の実存的変容を指導してきたことだ。(p85)
もし私たちが宇宙との一体感を感じられるとしたら,それはまさに,私たちの心の中に宇宙が存在するからにほかならない。私たちの心の中に宇宙があることがわかれば,完璧な人間を装う必要などないということになる。(p93)
そんな人間でも歳を重ね,経験を積むと,表面的な出来事の背後にとうとうと流れる大いなる宇宙の営みをほのかに感じ取れるようになっていく。それを私は「大河の流れ」と呼んでいる。(p99)
あらゆるものが溶け合った状態を,仏教では「空」といいます。「空」というと,何もないように思うかもしれませんが,そうではありません。すべてがあるのです。でも,すべてが溶け合った聖なる状態なので,一見すると何もないように見えるだけです。それはちょうど,すべての色を含んだ太陽光が無色であるのと同じことです。(p174)
自我が確立しない状態で自我を超えろといっても,ぜったいに無理だ。意識の成長・進化を遂げるには,まず非常に自分本位で,一見するとネガティブな印象をもつ自我を確立させ,独立したひとりの人間として立つことが大切だということを強調しておく。(p190)
道元は,著書『正法眼蔵』で「只管打坐」の大切さを説いた。これは「ただひたすら座禅をしなさい」という教えだ。道元は,意識の成長・進化を遂げるには,悟りを開きたいとか涅槃に入りたいとか,いい瞑想状態を体験したいとかいった目的意識をもつことは,かえって妨げになると指摘したのだ。(p202)
瞑想に親しんでいると実感できることだが,私たちの内側には,広大な世界が広がっている。そして,宇宙の根源ではあらゆる命がとけ合っていて,「個」は幻影にすぎないという世界像が見えてくる。すべてが一つにつらなっているとき,そこには愛,すなわり究極的な安らぎしか存在しない。それを知ったとき,私たちはもっと素直に,老いを受け入れられるようになるだろう。(p223)
老いることはすばらしい。そしておそらく---死ぬことも。(p226)
書名 人生の道標になる 座右の銘
編者 リベラル社
発行所 リベラル社
発行年月日 2014.07.20
価格(税別) 1,000円
● こういう箴言集を読んで,人生をわかったつもりになるのは,馬鹿を絵に描いたようなものだが,ぼくはしばしばこういうものを読む。
もちろん,記憶に残る箴言はあまりない。どこかで聞いたな,これ,と思って,それで終わる。
● 「金がないから何もできないという人間は,金があっても何もできない人間である」という章句が紹介されて,それを言ったのは小林一茶(俳人)だとある。
一茶がこんなことを言ったのか。阪急創始者の小林一三が言ったのならわかるんだが。
● 本書の中で最も気に入っているのは「たとえ明日,世界が滅びようとも,私は今日,リンゴの木を植える」というもの。ルターが語ったらしい。彼がどういう文脈でこれを言ったのかわからないけれども,問答無用の気概と皮相な頭での思考をはじき飛ばす強さがある。
開高健が何度か紹介していたのではなかったか。