2018年7月29日日曜日

2018.07.29 松浦弥太郎 『ご機嫌な習慣』

書名 ご機嫌な習慣
著者 松浦弥太郎
発行所 中央公論新社
発行年月日 2018.02.25
価格(税別) 1,300円

● 松浦弥太郎さんのエッセイ集。自分の「あるくみるきく」を集めてみたとのこと。
 『暮しの手帖』から新天地に移って,めまぐるしい変化を体験し,それも一段落したあたりのものだろうか。落ち着きというか安定を感じさせる。書くことによって自分を支えるというような,切羽詰まった感はないようだ。 

● 以下にいくつか転載。
 一日が終わり,ふうと一息つき,ベッドに入ったとき,自然としていることがある。あらゆるものやこと,人,家族,社会など,そういう自分に関わるすべてのことに,手を合わせ,感謝をすることだ。「今日も一日ありがとうございました」と必ず言葉にする。(p20)
 彼と一緒にいると,一分間に一〇回を超えているのではと思うほど頻繁に「すげー!」と言われるので,なんだか自身が湧いてきて元気にもなる。だから,彼のまわりはいつもたくさんの人が集まっていて,わいわいがやがやと笑顔でいっぱいなのだ。(p27)
 ふたつめの習慣は,「はじめてのこころ」。これも僕にとってのスタンダードでありベーシックだ。とにかく大事なのは,毎日,何事に対しても,うきうき,わくわく,どきどき,一生懸命な,初心者でいることです。(p37)
 成長とは,当たり前のことの精度を高めることであり,当たり前のことができた上での,新しい気づきや,新しいチャレンジなのだろう。(p45)
 おおよその人は,失敗の本質を見極めようとしないから,失敗した段階で,あきらめるか,否定するかで中絶させてしまう。せっかく物事を動かしたのに,ひとつやふたつの結果だけで止めてしまうという,これこそ,もったいないこと,をしている場合が多い。(p50)
 僕の知るところ,何かしらで成功という結果を出している人ほど,話を聞くと,その失敗の数は尋常ではなくて驚かされる。(p52)
 そんなふうに,壊れたら直すことを繰り返していくうちに,ものとの関係がだんだんと深まっていく。絆という,しあわせがある。(中略)壊れたら捨てるとか,壊れたらそのままにするとかは,もってのほか。自分自身も含めて,あらゆるものすべてが壊れるのは当然だから,その都度しっかり修復に励むというのが,大げさなようだが,僕らの人生そのものではなかろうか。(p56)
 最近になって僕は,本が好きということは,人が好きということ。そして,読書というのは,人の話に耳を傾けることであるとわかった。(中略)友だちと呼べる本があるということは,なんてすてきなことだろうと思っている。(p59)
 ある種の仕事の給料の額は,感動の量と比例するのではないかと思いついた。たとえば,お笑い芸人がテレビ番組を通じて,笑いという感動をたくさんの人に与えた場合,テレビの特性として,その数の多さは尋常ではないだろう。だからこそ,人気のお笑い芸人の給料が多いのは納得できる。(p62)
 文章を書くときにいつも意識しているのは,読んだ人が,その文章を読みながら,いかに書かれたものをビジュアル化できるかである。要するに,言葉と文章を使って,どれだけ具体的に映像を浮かばせられるかである。(p70)
 自分が言葉で伝えたいことがあるなら,A4サイズの紙でよいので紙芝居を作ってみて,それをまずは自分で眺めてみる。そして本当に面白いかどうかをよく考える。(p71)
 言葉とは,そして文章とは。いかに賢くならず,いかに上手にならないようにと心掛けることが,僕にとって最も大切なことである。文章を書いた後に,必ず確認することがある。それは文章を声に出して読んでみることだ。(p72)
 僕が書いているものも,すべて僕だけのものではない。僕が誰かの真似をしたり,それによって経験したり,何かから影響を受け,学んだことばかりだ。一言だけ言えるとしたら,決してどこかから盗んできたものではないということだ。自分のちからで見つけ,誰かに与えられたものなのだ。(p77)
 味とは与えられるものではなく,自分から探して見つけるもの。だから,おいしくないのは自分のせい,他人のせいにはしない,と,よく言われて僕は育った。(p112)
 よい道具とは,人が人を助けようという精いっぱいの真心と工夫によって作られたもの。それはすなわち手仕事の美しさを放ち,使えば使うほどに,深いきずなが生まれ,日々の暮らしを支えてくれるもの。よって,大切にし感謝し,よき使い手になるべし。(p120)
 日々の暮らしに,しあわせを増やすことは,そう簡単ではありません。でもそれは,料理をすることで手に入れることができるのです。健康もそうですし,いろいろなことへの意思決定や,対応力,観察力,ものを選ぶちからなど,たくさんの知恵と工夫が,料理という学びによって,しあわせを生む小さな種になるのです。(p127)
 髪は伸びる前に切る。理容店は,一番客になれというのは父の教えだ。(中略)おいしいものに出合ったら,とことん食べ続けるというのも父の流儀だ。食べ続けると,その味のおいしい理由が必ずわかる。理由がわかると,もっとおいしくなると父は言った。(p136)
 父は僕に「ここ(「ウエスト」)で働いている人たちの言葉遣いをよく聞いておきなさい。姿勢と歩き方をよく見ておきなさい」と言った。「どうして?」と僕が聞くと,「きれいなんだ」と父は答えた。(p138)

2018年7月28日土曜日

2018.07.28 森 博嗣・佐久間真人 『失われた猫』

書名 失われた猫
著者 森 博嗣(作)
   佐久間真人(画)
発行所 光文社
発行年月日 2011.12.20
価格(税別) 2,000円

● 何か教訓を読み取ろうとしてしまうのは,凡人の愚というものか。キーワードは“問い続けなさい”というものなのだが,キーワードという発想がすでにダメなのかもしれない。

● 佐久間真人さんの絵は半世紀前の人が描いた未来図のようでもあり,舞台はイギリスでもあり東京の下町でもある。

2018.07.28 松浦弥太郎・ワタナベケンイチ 『まいにちをよくする500の言葉』

書名 まいにちをよくする500の言葉
著者 松浦弥太郎(文)
   ワタナベケンイチ(絵)
発行所 PHP
発行年月日 2018.01.05
価格(税別) 1,500円

● 暮らしは学びであり,したがって感謝の対象である,という松浦さんが,アフォリズムよりもっと短い言葉を500個出して1冊に編んだもの。松浦さんにしてもさすがに500個はきつかったのではないか。

● 「問題を表現してみよう そうすれば半分は解決する」というのに付箋を貼った。

2018年7月25日水曜日

2018.07.25 嶋 浩一郎 『このツイートは覚えておかなくちゃ』

書名 このツイートは覚えておかなくちゃ
著者 嶋 浩一郎
発行所 講談社
発行年月日 2010.09.07
価格(税別) 1,000円

● 8年前の出版。雑学の宝庫。知らなくても困らないし,知っていてもあまり役には立たない。が,そういうものが企画マンには生命線だったりする?

● 知ってるのもあったけど,知らなかったのがずっと多い。っていうか,ほとんど知らなかった。
 特に,「日本の首相のほうがアメリカの大統領より暗殺された人が多い」ってのは意外だったよ。

2018年7月22日日曜日

2018.07.22 森 博嗣 『道なき未知』

書名 道なき未知
著者 森 博嗣
発行所 KKベストセラーズ
発行年月日 2017.11.25
価格(税別) 1,400円

● 自分に自信を持つな。楽観は馬鹿でもできる。自分の相撲を取るしかないと言ったところで,それで負けたら,自分の相撲を考え直さなければならない(が,そうする人は少ない)。
 といったことがみっしりと詰まっている。明晰であり,したがって説得力に富む。何より,読んでいて面白い。

● 以下に多すぎるであろう転載。
 なにをしても上手くいかない,と悩んでいる人は,ほとんどの場合「道」を探している。上手くいく方法はないか,成功した人が知っていて自分は知らない方法があるに違いない,と。しかし,そうではないと思う。(中略)どこに問題があるのかといえば,それは「道を探そうという姿勢」にある。積極性は立派だが,自分の道というのは,探すのではなく,自分で築くものだからだ。(p15)
 たとえば「どんな仕事がしたいのか」と尋ねると,ほとんどの人は既に存在する職種を具体的に答える。(中略)世の中で大成功をして大金持ちになった人というのは,たいてい,それまでなかった仕事を始めた人である。誰もやっていなかったことを発想して実行したのだ。(p16)
 根本的に間違っている点がある。それは,(中略)「やり甲斐」や「生き甲斐」を誰かからもらおうとしていることだ。「見つけよう」としていることだ。そういうものが,どこかにあると信じている。(中略)その言葉の本来の意味が示すとおり,抵抗に遭いながらも,それを成し遂げたとき,本当の「価値」があなたの内から生まれる。したがって,やってこそ,生きてこそ,本人だけが感じるものなのである。(p205)
 情報というのは,生きものである。自分から採りにいったものは,生きた情報だが,誰かからもたらされた場合は,ほとんど死んでいる情報だと考えて良い。(中略)情報も自分の中に取り込まれた瞬間,あるいはその直前に殺される。情報は死んだもの,固定されたものになって認識される。その後は変化しない。他者を介した情報が死んでいるのはこのためだ。(p19)
 多くの情報は死んでいるものであって,それはそのままでは活かせない。単なるヒントでしかない。それを生き返らせるには,「想像力」という人間だけが使える魔法が必要なのである。(p23)
 馬鹿に大袈裟に(しかも必要以上に繰り返し)伝えられる情報は,実は大したものではない。大騒ぎさせて,誰かが儲けようと仕掛ているだけのことで,慌てるような事態ではない。(中略)真に受けると,高いものを買わされるだけだ。(p20)
 四十代になるまではシンプルなものを求めて,無駄なものを極力排除して生きてきた。でも,それは間違いだった。生きているうちは,どうしたって単純にはならない。決まりきった形にはならないのである。(p22)
 死ぬときになって初めて,自分が歩いてきた道の全貌が見える。もうその先がないから,道が定まるというわけだ。(p22)
 やる気を出すことよりも,実際にやることの方が簡便な場合があるからだ。それなのに,素直な若者は,やる気を出そうと無理をする。たとえば,「仕事を好きになろう」と努力するのも同じだ。でも,仕事を好きにならなくても仕事はできるし,やる気がなくても,やることはできることに気づいてほしい。(p25)
 馬鹿な者は皆を馬鹿にして終わり,賢い者は馬鹿を見て学ぶから,さらに賢くなる。(p26)
 本当に自分を救えるのは自分だけである。そして,どんな場合にも,どんな悩みにも,あるいは,誰にでも通用するアドバイスはたった一つだけだ。それは「やれば」である。(中略)今直面していること,やりたくないこと,それをやれば良い。やる気なんか出す必要はない。いやいややれば良い。泣く泣くやれば良い。ただそれだけのこと。(p26)
 ものを作る人は知っていることである。どんなに難しく,どんなに面倒なものであっても,少しずつやれば,必ず完成する。(p27)
 もし,人によって能力に差があるとしたら,それはスピードの差だ。百メートルを九秒台で走れる人はざらにいない。(中略)しかし,凡人でも数秒長くかければ百メートルくらい到達できる。さらに言えば,その時間をかけようとせず,自分には才能がないから,と走らないのが大多数の凡人である。たまたま走ってみた凡人が成功者となる,というだけのこと。(p28)
 どんな偉業も,緻密な計画のもと,こつこつと日々積み重ねて,ときには大勢が力を合わせ達成されたものである。たとえば,ピラミッドを思い浮かべてほしい。〆切間際にえいやっと作ったものなど歴史に残るはずがない。(p29)
 本当の達人とは,けっして一発勝負のようなやり方をしない。偶然良いものができることなど期待していない。回り道と思えるほど面倒であっても,誰にもできそうな簡単な方法を採用する。面倒くさい道が最も失敗が少ないと知っているからだ。神業とは,手間をかける方法のことである。(p32)
 大事な約束の時間に遅れてくる人がいる。「電車が遅れまして」と言い訳をするのだ。「おや,この人は電車が絶対に遅れないものだと認識しているのか。そんな現状把握力では,なにをやっても成功しないだろうな」と僕は思うのである。(p33)
 一言でいえば,自分の意志に反している時間が「無駄」である。(p35)
 楽しさとはそういうもので,楽しんでいるほど,もっと楽しいことを発想してしまう。だから,雪だるま式に楽しくなるのである。(p38)
 できないことはない。少しずつ進めれば,ほどんどのことは誰にでも可能になる。ようするに,できないと予測した主原因は,能力不足ではなく,「面倒だな」と感じた自分の感情にある。(p40)
 自分は人と同じだと思いたがる。それは違う。似ているかもしれないけれど,絶対に同じではない。また,この違っていることこそが,人間の優れた点でもある。(p45)
 同じ趣味の人とつき合いたい,と言う人がいるけれど,どうせなら違う人間の方が面白いし,チームとしても有利だ。(中略)違う資質の者が集まってこそ協力し合える。(p46)
 カメラで写真を撮るとき,何を写すか,どういう構図にするのか,という決断が最大の仕事である。「さぁ,撮るぞ」と決まったら,シャッタを押すだけだ。あとは機械がやってくれる。写真を撮るという仕事は,実は写真を撮る動作を起こす以前にすべて終わっているのである。世間で観察される仕事の多くは,このカメラがやる段階の作業でしかない。(中略)ほとんどの道は,道を歩きだしたときには,その大半は終っていると考えても良い。どの道をいつ歩きだすのか,というところに最大の人間的決断がある,ということ。(p52)
 柔道とか華道とか書道とか,古来,さまざまな分野で日本人は「道」を築いてきたけれど,いずれも,技を極めるだけではなく,なんらかの礼節を重んじる。そして,人間の品を磨こうとしている。そういう文化が,西洋に比べて強いのは,たぶん,コミュニケーションを充分に取らない民族性が根本にあって,その反動として生まれてきたものではないだろうか。(p55)
 近頃の報道というのは,ただ発信源が用意した情報をもらいにいき,それを広めているだけであって,広告に限りなく近い機能になってしまった。(p56)
 インターネットも初期の頃は,みんな自分で調べ,自分で考え,自分で作り出したものを公開していた。だから価値があった。(p58)
 ときどき,ちょっと高価なものを求めるのも良いと思う。素晴らしい道具は,帰納的な満足度だけではなく,使う人間の背筋を正す効果があるものだ。(p66)
 僕はパソコンに出合わなかったら,文章を書く仕事をしていなかったと思う。(p66)
 世の中には,計算では辿り着けない問題が多い。(中略)それは道が見えない状況であり,こんな状況からの思考は,遠くをぼんやり眺めて,「あそこは何だろう?」と思った瞬間にワープして新しい発見をする,というような体験になる。(p72)
 小説の執筆は,発想で夢を見るような行為なのである。「理系なのに小説が書けるの?」と言われるのだが,僕には,小説と数学は「同じ頭」を使う対象に思えるのだ。(p73)
 大事なことは,「自分は今道草をしている」という自覚だろう。その自覚の下,多少なりとも後ろめたさを持っていれば,大きな無駄にはならない。そうまでして道草をするのは,なんらかのメリットがあると感じているからであって,その予感を信じた方がよろしいでのではないか。(p75)
 「他者からのおすすめ」は,自分の「予感」よりもだいぶ当りの確率が低い,ということは確かなように観察できる。(p75)
 自分を見つけたかったら,なんでも良いから,自分以外のものに没頭することである。(中略)自分を見つけるには,「我を忘れる」ことが大事なのだ。(p78)
 よく「自給自足」なんて呼ばれる田舎暮らしがあるけれど,あれは,ただ食料を自分で作っているというだけの話だ。自給自足だったら,衣料品も電気も水道も治安もすべて自給自足しなければならないのではないか。病気になったからといって薬を飲んだり,医者にかかるようでは,自給自足とはいえない。(p85)
 社会において,絆よりももっとずっと大切なのは,他者の自由をお互いに尊重することだ。(p88)
 それでも人間は長生きをするのだから,その人生の中で,自分の道を見つけ,そこへ挑む姿こそ尊い,ということ。他者の顔色を窺ってばかりいては,道は見つからない。また,人が歩かなければ,道は草木に覆われ,たちまち消えてしまうのである。(p90)
 健康というのは,大事なことではあるけれど,それが生きる目的になるのだろうか?(中略)車や道具は,それを使って何をするのか,が目的なのである。人間も,健康に支えられて何を成すのか,が人生である。(p92)
 人生の道を進むうえで,自分の気持をコントロールすることは大事だ。それができることが「自由」という概念でもある。(中略)「では,具体的にどうすれば実現できるのか?」という疑問を,大勢の人たちが抱いているはずである。(中略)皆が欲しがっているノウハウは,この世に存在しないのだ。(p95)
 ダイエット法だって,つぎつぎ開発される。実は,食べないで運動する,という究極のノウハウがあるにもかかわらず,ああでもないこうでもない,と方々で謳われ,沢山の本が出る。何故なら,みんな,食べたいし運動もしたくないけれど,痩せたいからだ。生き方や仕事のし方についても,これと同じで,みんな,そんなに頑張りたくないのに,楽しく生きたい,楽しく仕事がしたいと望んでいるのである。(p97)
 多くの人は,「考える」を,本を読んだりして勉強することだ,とイメージしているが,これは間違い。学ぶことは,頭に情報を入れる行為であり,つまり食べることと同じだけれど,考えるのは,頭を動かすことで,これは運動すること,アウトプットする行為なのだ。したがって,頭を使って考えると,お腹が減るように,頭の空腹感を覚え,知識や情報が欲しくなる。(p99)
 まず,何を考えれば良いのか,を考える。これが大切であって,この思考をいつも持っているかどうかが,その後の人生を決めるだろう。(p102)
 楽しいことは,「発想」から生まれるものだ。他者が持ってくる面白そうなものに飛びつくだけの人生では,真の楽しさを知らずに終わることになる。そういう人は,誘われることでしか楽しめない。誘われるようになるにはどうすれば良いのか,と悩んでばかりいる。(p102)
 学んだり,誘われることは出費になるけれど,発想は生産的で,収入につながる可能性が高い,という違いだ。アウトプットするから,仕事になり,対価が得られる,という側面である。(p103)
 「発想」ごいうものは,そんな一分や一時間で頭から出てくるものではない。それこそ,じっくりと考える,頭を使う行為なのだ。(p104)
 現代人は,情報を食べすぎて頭が肥満気味のはずだ。肥満になると,頭が動きにくくなってしまい,深く考えなくなり,どうでも良くなり,カッとしやすくなったりするように観察される。(中略)もし自覚があったら,気をつけてもらいたい。特に,自分だけのことならばそれでも良いが,その決断を人に押しつけようとする人がわりと多いのだ。(p109)
 考えたことを言葉で述べる。これは,述べるために考える,という行為を促す。最近は,ツイッタなど,短くしがちだけれど,本来は,言葉を尽くして,丁寧に論じることが大事だ。したがって,ツイッタよりはブログの方が少しましである。(p110)
 感情的な表現を排除して,理屈で述べることも重要であり,また,自分の立場や自分の利益を基盤とした理屈でないことが,説得力を増す。そういったことを考えることが,いわゆる「思想」というもので,ぼくは行動よりもこちらの方がずっとレベルが高く,品があり,人間的だとイメージしている。(p112)
 丁寧な言葉で自分の考えを述べ,また反対意見にも耳を傾ける。もし自分の考えが間違っていると気づいたら,素直に謝って,意見を変える。議論とは,こうして自分を修正するためのものだ。自分だけでは行き着けないところまで考えを巡らすための有力な手法の一つである。この試論をするためには,自分の意見を言葉で述べることが第一歩だ。(p112)
 「考えを言葉で述べる」とはいっても,「言葉で考えろ」という意味ではない。たとえば,僕自身,考えることの九割は言葉ではない。映像で考えている。(p112)
 いろいろな場合を想定して考えておくことで,予定や計画どおりに実行できる。結局この確率の高さが,その人を成功へと導くのである。この,自分が思ったとおりになることを「自由」という。自由に必要なものは「想定」だといっても良い。(p115)
 それは「ああ,よくここでこれを思いつきましたね」と感心する部分である。すると,この成功者はにんまりとして答えるのだ。「そうなんですよ。これを思いついたときには,絶対に上手くいくとかんじましたね」と。これが「発想」である。(p115)
 プログラミングをしていた頃には,目を瞑ってもアルゴリズムやコードが見えた。寝ているときには天井にリストが現れた。それくらい「没頭」していると,ふとした切っ掛けで生まれてくる発想がある。(p116)
 よく「メモをしない」ということを書いていて,周囲に驚かれるのだが,そもそも文字で考えていないので,メモをしてもしかたがない。できないのである。(p120)
 たとえば,キャラクタの「目」で見たシーンであれば,そのキャラクタの視力によって見え方が違う。近視の人ならば,同じシーンでもぼんやり見える。そういったそれぞれのカメラで映像を考えている。そうすることで,そのキャラクタ本人の「体験」を作り出すことができ,それがそのまま自分の体験となる。小説で書いたことか,それとも実際に体験したことか,が時間が経つとわからなくなる,といったことは,僕の場合は日常茶飯事だ。(p121)
 なにごともそうだが,未来を悲観的に考えることが基本だ,と僕は思っている。自分がやろうとしていることに対しては特にそうだ。(中略)ものごとを成功させたかったら,とにかく徹底的に心配することが大事なのである。多くの失敗は,楽観的な予測から生じている。(p129)
 悪いことを考えると,それに取り憑かれてしまい,ろくなことはない,などとおっしゃる方も多いのだが,これこそが失敗する人の精神論と呼ぶべきものだ。もう少し強い言葉であえて表現すると,「楽観は馬鹿でもできる」となる。(p130)
 しかし,理論は正しい。理論を理解することは,たとえるなら,神を信じるのと似ている。必ずできるという自信を生み,だからこそ,諦めずに実験を続けられる。(p135)
 誰にでもできるのが「努力」である。一歩一歩進むだけ。ゴールを信じることの難しさに比べれば,努力はむしろ楽しいほど易しい,といえるだろう。努力が苦しいのではない,上手くいかない場面になって,どうすれば良いかと迷うことが苦しい。わからないことが苦しいのだ。ここで,また理屈を編み出す。やることが決まる。するとあとはそれを試してみるだけだ。(p136)
 努力が苦しいと感じるのは,その道が正しいことを疑っている状態だからである。(中略)「道に迷った」と思うだけで,ハイキングは遭難になってしまう。そうなると,一歩一歩が苦しみになる。(中略)このような場合,まず考えるしかない。(中略)暫定的な対策を練る。このようにして,生まれるのが「仮説」である。仮説であっても,なんらかの道理が必ずある。正しそうだ,という雰囲気がある。それをとりあえず信じて,つまり,仮説が正しいと信じ込んで,またあるき始めるのだ。(中略)このようなことを繰り返して,人間は物事を進める。人生もまったくこれと同じだ,と僕は思う。(p139)
 人生も,あなたが生まれて,あなたが生きているのは,世界で唯一の条件であって,過去にあなたが生きた例はない。誰も研究していないし,どこにも発表されていない。人生とは,フロンティアなのだ。あなたの生き方は,あなた自身が研究し,あなたの仮説をあなたが試してみるしかない。(p142)
 結果は,方針よりも常に具体的であり,直接的に人の心を揺さぶる。これこそが,「現実」という落とし穴である。この落とし穴に嵌らずに生きるためには,どうしたら良いだろうか。(中略)結局,眼の前のケーキに手を出してしまう人たちから搾取する構造が,今の社会の基本的仕組みなのだ。(中略)まずは,搾取されないこと,あるいは,搾取されていることに気づく自覚が大切で,それだけでも,道はずいぶん歩きやすくなるだろう。(中略)大事なのは,他者の理屈ではなく,自分の理屈によって進むことである。誰にでも通用する理屈というのは,数学や物理学だけだと思ってまちがいない。(p152)
 人間社会は,空気よりもずっと密度も粘性も高い。(中略)そんな中で人よりも違った動きをしようものなら,たちまち大きな抵抗に遭う。その抵抗は,速度に比例している。目立ったことをするほど,いろいろな邪魔が入るのだ。こういったときに,日頃から自分のフォルムを整え,洗練させ,表面を滑らかに磨いておくと,すっと抜け出すことができる。そういう人は,動いても周りが乱れないからだ。(p156)
 周囲の理解とは,ねっとりとつながっている状態であって,結局は,その理解が抵抗になっていることに気づいていない人が多い。(p158)
 ここでいう矛盾とは,両立しない選択肢を抱えている状態のことだ。なんとか両立させよう,と考えるのは甘い。両立させられるようなキャッチを謳って,商売をする人がいるけれど,両立しない道理があれば,それは無駄な考えといえる。両立とは,ほとんどの場合,どちらにつかず,中途半端になるだけである。(中略)ただ,ここでいう選択とは,思考の選択ではない。行動の選択である。(中略)思考は矛盾を矛盾のまま取り扱うことができる。人間の頭脳はそれだけの要領を有している。(p160)
 生きている状態というのは,例外なく「死ぬ途中」である。どんなに成功していても,どんなどん底にあっても,それがその人の最終的な結果ではない。(p164)
 僕自身は,人間も動物であって,野垂れ死にするのが本来である,と考えているから,死ぬときの状況はさほど気にならない。(p165)
 生というものは,死と切り離すことはできない。有るか無いかではなく,表裏だと思う。どちらかが,たまたま上になっているだけだ。(p168)
 研究論文には,最初に「既往の研究」なる章がある。そのテーマの研究の動向を取りまとめた内容だ。(中略)だが,この部分は研究ではない。(中略)つまり,まとめるだけの行為は,なにも「考えていない」のだ。(p170)
 そういった集会が好きな人は,出席しない人を仲間外れだと思い,「あいつは寂しい奴だ」と非難するかもしれない。逆に,集会が嫌いな人は,「馬鹿が集まっている」くらいにしか思っていない。(中略)大事なことは,反対派のことを意識しすぎないことだろう。相手を非難しないと自分たちのアイデンティティが確保できないというのは,それこそ非常に危うい状況といえる。(p172)
 プログラミングをした経験のある人は誰もが知っていることだが,入念にプログラムを作っても,走らせてみると必ずエラーが出るものだ。(中略)ここで学ぶことは,「人間は絶対にミスをする」という現実である。どんなに確信があって,いかに慎重に熟慮したうえであっても,絶対に間違いがある。(p175)
 世間では,「自分を信じていけ」という言葉がよく聞かれるみたいだが,自分を信じて失敗することは数多い。これを「過信」という。(中略)自分の能力を信じないからこそ,対策が打てるのだ。(p176)
 自分が良いと思うことを貫け,という教えは,趣味の道ならば正しい。しかし,相手があるビジネスでは,自分が正しいかどうかではなく,相手が何を求めているのか,を知る必要があるだろう。自分が信じるものに価値があるのではなく,他者が求めるものに価値が生じる,というのが商売の原則だからである。(p176)
 日本の大寒波がニュースになっていた。フランスもロシアもそうだ。温暖化するほど,気象は荒れる。それなのに,誰も火力発電所に反対しないのはどうしてなのだろう?(p178)
 「絶対に私は勝つ」とか,「俺は絶対に失敗しない」とか,そういう台詞を,ドラマ以外でもし本気で言う人間がいたら,あまり近づかない方がよろしいだろう。そんな人は信頼がおけない。信頼とは,そういった強気の発言によって成立するものではない。(p179)
 一番難しいのは,エラーがでなくなってからだ。つまり,プログラムとして間違いがなく,コンピュータはちゃんと計算するのに,出てくる結果が明らかに間違っている,という場合である。(中略)何を考えれば良いかわからないときというのは,なんでも良いから問題を見つけたい。(p185)
 ものごとを探求する楽しみは,誰かが手にすれば自分の分がなくなる,というものではない。探求する対象はいくらでもあるし,探求している自分の中から,楽しみが無限に湧き出てくるからだ。(p190)
 かように皆さん感情的だということ。言葉が言葉の意味のまま通じるなんて本当に奇跡だ,と文章を書く仕事をしているとしみじみと感じる。(p195)
 周囲の人の声に流されない,という姿勢は非常に重要である。無視できないほどに大量に声は押し寄せるけれど,その大部分を遮断しないと,自分の考えが前面に出てこないし,流されていると,そのうちに「考えない人間」になってしまうだろう。(p199)
 個々の人が何を言っているかではなく,何人がものを言っているかの方がはるかに大事であり,その人数をきちんと把握すること。(中略)発表した作品に対しては,みんなが評価点をつけるし,いろいろな感想も届くけれど,最も確かなデータは,何人が読んだか,何部売れたか,という数字なのである。(中略)僕は,純粋にそう考えているので,良い評価も悪い評価も同じと見る。(p199)
 世の中でよく聞かれる台詞は,「量より質」だろう。この言葉が強調されるのは,現実には,その逆だからである。(p202)
 自分たちが良いと信じるものが良い商品ではない。相手が求めるものが良い商品になる。そして,良い商品とは,量が売れるものだ。質を上げれば売れるという幻想を,まず捨てる必要がある。何故なら,質は,人によってまちまちだからだ。作家が仕事ならば,ファンの声ではなく,読者にならない人が,どれくらいいて,何故手に取らないのかを観察しなければならないはずだ。(p203)
 掃除という行為は,エントロピィ増大への抵抗という意味で,実に生命的というのか,人間らしい行動である。(中略)落葉を掃き集めたり,雑草を取り除いたり,手入れをすることで実現されるのは,明らかに不自然な光景なのだ。放っておくのが一番自然保護になりはしないか。しかし,人間の感覚として,掃除をして異物を排除すると,そこが「綺麗」になったと感じるのだ。この環状は,人間にとっては自然である。(p209)
 日本人が,浮世絵とかアニメなどの平面的な絵で世界観を膨らませられるのは,思考が映像的でないことに起因している,と僕は考えている。つまり,映像イメージがそもそも頭にないから,二次元で満足できる。(p215)
 日本語というのは,論理性に乏しい。非常に曖昧な表現しかできない。必然的に,この日本語で思考をする日本人の多くは,論理が苦手で,しかも言葉に拘る。議論をすると,相手の言葉尻を捉え,揚げ足の取合いになってしまう。(中略)英語教育がいろいろ試行されて久しいのに,ちっとも日本人は英会話ができない。しかし,そもそも日本語会話でも不自由なのである。(中略)つまり,英会話が不得意なのではなく,そもそも聞取りや発言が不得意なのである(p216)
 多数はというのは,たまたま意見が一致した大勢のことではない。意見を一致させようとした大勢なのだ。(中略)これは,民主主義だからではない。それ以前から人間社会にあった「群れ」への羨望という本能的な指向といえる。(p219)
 少数派というのは,群れることに嫌悪を感じる人たちである。自分の意見を変えてまで仲間になりたくはない,という価値観であり,したがって,少数派どうしで結びつくこともない。(p220)
 僕は,群れるのが嫌いで,「会」がつくものには近づかないことにしている。遊ぶときも一人が良い。「なんか寂しくないですか?」とおっしゃるかもしれないが,寂しいのが大好きなのである。(p223)
 こういう思考をする人は,けっして自信家にはならないだろう。発想というものは,それくらい偶然に湧いてくるものであり,自分の能力によって作られたとは到底思えないからだ。(p226)
 人間の行動の原理は,自分が好きなことの実現だ,それがすべてだ,という価値観に留まっているうちは,社会情勢も人間関係も,真相を見抜くことは難しい。何故なら,人間はそんな単純な原理で行動しているのではないからだ。(p230)
 勉強でも,好きでやるわけではない。嫌いでもやった方が良い,将来のためになる,という理屈があるためだ。なのに,勉強している有人に対しては,「あいつは勉強がすきなんだ」とやっかんだりする。囚われているのは,どちらだろう? 教育する側の人も,大多数が勘違いしている。子供になにかをやらせるときに,それを好きになってもらおうとする。(p232)
 自然界は熾烈な過当競争なのだ,と思い知らされる。自然は,基本的に残酷だ。野生には人情など微塵も働かない。(p233)
 つきあいのある友人や仕事関係の人たちを,なんとなく歳上だと認識する傾向が,僕にはある。二十歳は若いだろうという相手であっても,「先輩だ」と感じてしまう。(p239)
 一人で遊べない大人の方が,人間関係では難しくなる。子供は一人で遊べるし,誰とでも遊べる。馬が合うとか,合わないとか,そんなことは考えてもいない。大人は,例外なく,かつては子供だった。学んで,苦労をして,大人になったはずなのに,本当に子供より賢くなったのだろうか?(p243)
 過去のどの状態よりも今が一番良い。昔に戻りたいなんてまったく思わない。それは,僕だけではない。日本も,社会も,かつてよりも今の方が良い状態に,僕には見える。きっと,これからも,まだまだ良くなっていくだろう。(p243)
 世間の人の発言を,最近はネットでいろいろ覗き見ることができるのだが,わりと大勢が真剣に後悔しているようなのだ。(中略)そんな様子をみて,僕は,「この人たちは全然ダメージを受けていないな」と感じる。(中略)彼らに比べると,僕は判断ミスがあればダメージを受ける。だから,考えに考え抜いて,これだけ考えたのだから,もう後悔する事態になっても自分を許せる,というレベルに持っていくのだ。(p245)
 本当に後悔しているなら,内に秘め,今後は後悔しないように生き方を改めるべきだ。そして,それが取り戻せたと思ったとき,実はこんなことがあった,と初めて語れば良い。失敗しました,これからやり直します,では信用できない。すっかりやり直してから語ってほしいのである。(p248)
 知識を沢山持っていることが教養だと信じている人がいるが,それは間違いである。(中略)自分がいかに知らないかを知っていることこそが教養といえる。知っているから思い上がり,油断をし,そして考えなくなる。(p249)
 道の先にあるものは未知だ。なにかがありそうな気がする。この予感が,人を心を温める。温かいことが,すなわち生きている証拠だ。したがって,行き着くことよりも,今歩いている状態にこそ価値がある。知識を得たことに価値があるのではなく,知ろうとする運動が,その人の価値を作っている。(p250)

2018年7月14日土曜日

2018.07.14 竹村彰通 『データサイエンス入門』

書名 データサイエンス入門
著者 竹村彰通
発行所 岩波新書
発行年月日 2018.04.20
価格(税別) 760円

● 従来の統計学が想定してなかったのがビッグデータ。そのビッグデータを前にして,統計学は変容を迫られるだろうか。基本的にそれはないようだ。標本の無作為抽出などの技法は依然として効用を失わない。
 著者によれば,国勢調査の実施費用は安い。ポイントカードのポイントは個人情報の使用料。

● 以下にいくつか転載。
 大量観察による集団の安定性の概念は「大数法則」の概念につながっている。大数法則は,大量に観察することにより,平均がその理論値(期待値)に近づき安定することを意味する法則である。(p22)
 人々の集団内のばらつきの背後には,サイコロをなげるような確率的なメカニズムがある。(p26)
 (インターネットの)通信量の増加は,現状では主に動画のオンデマンド配信にともなうものであり,文字情報や静止画像情報の増加はそれほど大きくはない。(p33)
 背の非情に高い父親の息子はそれほど背が高くない傾向がある。(中略)これは「平均への回帰」と呼ばれる現象である。(中略)平均への回帰が何代も続くと,ばらつきが現象していき,やがて身長が平均値に収束してしまうようにも思える。しかしながら(中略)身長の分布自体は世代を通じて安定している。それは,例えば身長が中庸の父親からも,非情に背の高い息子や背の低い息子が育つという,ばらつきを大きくするような変化も同時に起きるからである。(p76)
 他の変数間の見かけの相関を生じさせる要因を「交絡因子」と呼ぶ。相関関数を因果的に解釈する際には,それが見かけの相関でないか,交絡因子としては何が考えられるかについて考える必要がある。(p78)
 学力調査で,ある地域の学力が低いというデータが得られたとしても,それだけではエビデンスとは言えない。学力が低くなる原因や背景と考えられるデータがなければ,学力向上のための意思決定にはつながらない。(p81)
 十分なデータがあれば唯一の合理的な判断ができるという考え方も正しくない。それはデータがあっても将来の不確実性が大きい場合があるからである。(中略)サイコロの目の出方はなげるごとに独立であるから,今までに何度もサイコロをなげたとしても,次の目のことはわからず,どの目も1/6の確率で出るとしか言いようがない。この場合過去のデータには意味がなく,データがあってもなくても不確実性には変化がない。(p90)
 不確実性を扱う理論が確率論である。しかしながら,確率論で扱える不確実性は不確実性の一部であると考えられている。確率論はサイコロの目の出方などのように①起こり得る結果(1から6の目)が最初に網羅されている,②それぞれの結果の確率が与えられている(あるいは十分正確に推定できる),という二つの条件が成り立てば有効である。(p91)
 後知恵に注意すべき理由として,人間はデータから何かのパターンを読んでしまう傾向がある。(p99)
 データに語らせることは重要であるが,データに語らせ過ぎることには注意が必要である。(p100)
 ビッグデータも時代では,個人情報は法律で当然守られる権利ではなく,個人が自身の責任で管理すべきものである。(p106)
 第2次までの人工知能ブームは人間の論理的な思考をコンピュータによって再現するという演繹的なアプローチが主であったが,第3次の人工知能ブームはビッグデータを用いて人間の判断を真似るという帰納的なアプローチが主であり,第2次までとは大きく異なっている。(p132)
 動物が獲物をとらえる際の俊敏な行動にしても,動作の速度などを数値的に計算していては間に合わないであろう。このように自然は計算によって動いているわけではない。人間の脳は神経組織からなる機械のようにも考えられるが,自然の一部でもあり,現在のコンピュータと同じ原理で動いているとは考えにくい。(p135)
 1985年のGray-2のメモリ(RAM)は2GB,2016年発売のiPhone7のメモリも2GBであり,同容量のメモリを搭載している。つまり現在では人々がスマートフォンの形で30年前のスーパーコンピュータをポケットやバッグに入れて持ち歩いているのである。(p150)

2018年7月12日木曜日

2018.07.12 松浦弥太郎 『孤独を生きる言葉』

書名 孤独を生きる言葉
著者 松浦弥太郎
発行所 河出書房新社
発行年月日 2017.12.30
価格(税別) 1,000円

● 過去のエッセイ集のアンソロジーかと思う。いずれも基本的な心構えなのだ(と思う)が,なかなかできないことばかりだ。はいわかりました,と実行できることであれば,わざわざ本にすることもないわけだが。
 多くの人が同じことを語っているのかもしれないが,松浦さんの文章で読みたいものだ。

● こういうものから転載するのも何なんだけど,以下にいくつかを。
 プライドから自由になったとき,「自分らしさ」を超えた自由が生まれます。(p55)
 いちばん大切なことは,「正しくないこと」を否定しないこと。「正しくないこと」を否定するのは,正しいことではないのです。(p57)
 まず自分から自分の価値観について語りましょう。(中略)心をひらかなければ,相手も心をひらいてはくれないものです。(p72)
 最後までやさしくできないのなら,やさしい言葉を口にしてはなりません。成長を見守る覚悟がないのなら,厳しい言葉を投げつけてはいけません。(p91)
 自分を満たす前に,相手を満たせば,たいていの人と良きつながりをもてます。(p97)
 勇気は頭からではなく,足からわいてくるものです。(p108)
 すべての大切なものは世界からの預かりものであり,自分のものなど,実は何ひとつありません。たとえばお金を持っているのなら,「お金を使うという役割」を世界から与えられているだけです。(p109)
 掘り続けた先に宝物が眠っていてもいなくても,掘り続けた一途さは,決して無意味ではありません。(p114)

2018年7月10日火曜日

2018.07.10 小山竜央 『スマホの5分で人生は変わる』

書名 スマホの5分で人生は変わる
著者 小山竜央
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2016.09.28
価格(税別) 1,300円

● スマホ依存に警鐘を鳴らすことから始まる。スマホをなぜ手放せないのか。その説明には非常に説得力を感じた。著者によれば,ゲームとSNSにハマるからだ,と。
 ぼくも同じ悩みを持っていた。何とかしなきゃと思っていた。ゲームはやらないので,ぼくの場合はSNSが時喰虫。

● それに対する最終的な本書のアドバイスは,「連絡・ソーシャル系のアプリは,時間を決めて使うのがコツです」(p220)というもの。それはわかってるんだけどねぇ。
 しかし,著者のすすめにしたがって,SNSの「お知らせ」のほぼすべてをOFFにした(が,それでもFBからは通知が届く)。
 おすすめのアプリもいくつかインストールしてみた。TED,NewsPicksLINEカメラは見た目が騒々しいので,すぐに削除したけれど。

● 本書の後半は,スマホを使って“夢を叶える”方法の指南。読み流していいと思う。ただし,トータルとしては読んで良かったと思っている。

● 以下にいくつか転載。
 確かにインターネットの世界でも感動を味わうことはできます。しかし,「本物の感動は五感をフルに使える現実にのみ存在する」のです。この事実を知っているからこそ,人はライブに足を運びます。(p24)
 コミュニケーションでもっとも重要とされるフェロモンは,実際に会わないと感じ取ることはできません。(p30)
 スマートフォン利用者実態調査でも,10代から50代までのすべての年代でよく利用しているアプリは,SNS・コミュニケーションがトップ,僅差でゲームが2位となっており,多くの人はSNSやゲームに時間を使っているはずです。この2つは,それぞれ依存に欠かせない快楽物質を人間にもたらしています。(p32)
 少しでも人生をより良いものにしたいと思うなら,「自分が成長できるものにこそハマった方がいい」ということです。(p47)
 たとえ痛みがあっても,その先に快楽=ドーパミンが得られるとわかっていれば,人は行動します。だからこそ,夢や目標を追って困難に立ち向かい,人は努力するのです。それが,常に快楽物質で満たされてしまう日常があれば,先に進む必要はなくなってしまいます。(p54)
 アプリの世界は,いかに顧客の時間を奪うかというのが最大の目的なのです。(p58)
 社会の中で多くの人から認められるような自分になることは難しい。でも,ゲームの世界では,自由にカスタマイズして自分の満足する姿になることができます。ちょっとしたお金を使うだけで,自己肯定感を得られるので,現実世界での満足感が乏しい人ほどハマるわけです。(p62)
 1回数分で遊べることは,どんなに忙しい人でも毎日続けられる,つまり非常に習慣化しやすいことを意味します。(中略)休日や夜に何時間もゲームをするような,いわゆるゲーマーともなると,「時間がもったいない」「いい社会人なのに恥ずかしい」と罪悪感を覚えるかもしれません。それに対して,隙間時間にちょっとやってる程度なら別に後ろめたさも感じません。(p67)
 運営側が意図していない,本来の使い方をしないユーザーが出てくるのは,ヒットコンテンツを作る上ではとても重要です。(p76)
 「学ぶ」ということ自体,ひとつのエネルギーです。熱力学の法則でいうと,エネルギーは常に高いところから低いところへ流れます。そのまま何もしないでいると,エネルギーは分散してチリとなっていくだけです。(中略)興味が分散すればするほど,人はゴールできなくなり,サービスを使い続けます。(p80)
 「いいね!」ボタンが人の本能的な欲求を満たすのは,他人からの反応がある,という絶妙な仕組みです。なぜなら,人は他人からの反応があることで存在意義を持つようにできているので,無意識に反応を求めて長時間アクセスしてしまう。(p82)
 世の中にはこういう「体重計に乗っていないデブ」が,実に多いのです。(中略)視覚化して「目で見て認識」しない限り,人は問題であっても,それを問題として捉えないのです。(p89)
 新しい活動や新しいチャレンジをしている人の方が,脳にとっても良い刺激となり,いつまでも若々しく過ごせるのに対し,スマホに時間を奪われている人は,同じ刺激に脳が慣れ,あっという間に時間が過ぎていき,気づけば歳を取っていた・・・・・・という事態になりかねません。(p96)
 要するに,(SNSの通知に)反応しないことが重要なのです。(中略)みずから意図的にブロックしていかないと,スマホは手軽ゆえにどんどんあなたの時間を思考をも奪っていきます。(p102)
 スマホは隙間時間にただ漫然と使っているだけだと,人からどんどんボールを投げられ,それをひたすらキャッチするだけになってしまうツールです。つまり,自分が決めたルールに従って使わなければ,他人に時間を奪われるだけで終わってしまう危険性があります。(p116)
 アプリに限らず最初から最高のものを選ぼうとするのはまったく時間のムダといえます。(p128)
 いまだに記録するといえば手帳を持出したり,従来のやり方を変えようとしないことも多いようです。しかし,はっきりいって今はアプリの質がかなり高いので,アプリを使った方がより早く良い結果が得られると思います。(p139)
 デッドラインを設定したにもかかわらず,それが守れないのはなぜか。それは,その人が「時間を認識していない」から。「時間を認識する」とはどういうことかというと,ズバリ「その時間が来るまでの道筋をイメージする」ということです。(p152)
 SNSは自分が発信者側でなかったら,やめた方がいいと思います。「ソーシャル」とは,人に影響を与えるということです。影響を与えるとは,人に行動させることですから,それができないような使い方は意味がないのです。(p219)
 私は,「Facebookはコミュニケーションが取れる雑誌である」と考えています。雑誌というのは必ずテーマがあるのです。だからテーマを決めて,毎回それに関するコラムを書くような感覚で投稿するのです。(p219)

2018年7月8日日曜日

2018.07.08 伊集院 静 『悩むなら,旅に出よ。 旅だから出逢えた言葉Ⅱ』

書名 悩むなら,旅に出よ。 旅だから出逢えた言葉Ⅱ
著者 伊集院 静
発行所 小学館
発行年月日 2017.07.31
価格(税別) 1,400円

● 『悩むなら,旅に出よ。』ながら,トラベルについて書いているわけではない。絵画や美術館の話だったり,ゴルフの話だったり,死に別れた友の話だったりする。人生という旅,を扱っているように見える。
 人生にはまさかという坂があることを体験した人ならば,共感を持って読み進めることができる。

● 以下にいくつか転載。
 同じ旅でも或る程度年齢を重ね,判断力が培われていると,それが邪魔をして,実はそこにかすかに見えている新鮮なものを見逃すことがある。(p29)
 画家という人々はすべからくそうらしいが,苦難を前にしても自身に情熱がたぎっていれば障害など何ともないらしい。(p32)
 上手くいかないのが私たちの暮らしですよ。なあに急ぐことはありません。悠々としていればいいんです。そういう仕事も世の中にはあるはずです。(p37)
 人生の経験(失敗でもいいが)を積まないと見えないものは世の中にたくさんある。そう考えると若い時に見過ごしているものがいかに多いかがわかる。しかし若い時にしか見えないものがあるのも事実である。(p57)
 若い人に学問(仕事,物事と言い換えてもいい)を教える行為と,それを教わろうとする若い人の向学心(探究心,志しでもいい)の間にあるものは,私たちが生涯で経験するものの中で,かなり上等なものだと私は思う。(p61)
 さまざまな五感の中で,旅人が意外と印象深く記憶しているものに飲食がある。私は美食家ではないし,個人的には,食にこだわることを卑しいと思っている。しかし美味しいものは,口惜しいが,よく覚えている。(p70)
 物事は何でもそうだが,最初に,それをはじめた人の勇気,精神力,忍耐強さに感心する。(p72)
 ゴッホが到着した翌日,アルルは雪の日となり,それでも生真面目なゴッホは画帳を手に写生に出かけ寒さに震えながら絵筆を握っている。(中略)ミストラルは私の想像を越えた寒さだった。--よくこんな環境で創作にむかえたものだ・・・・・・。(p84)
 私は同郷の出身であるが,種田山頭火は好まないので,そうなんだ,と返答だけをした。世間の人は,放浪,彷徨などと呼び,俳人がさまようことに憧れたり,時には讃える文章を目にするがその実体は決して美しくもなければ,そこに俗に言うロマンのような甘美なものはないと私は思っている。(p92)
 バーはバーテンダーの存在に尽きる。(中略)一流とそうでないバーテンダーは顔を,カウンターの中の所作をほんの少し見ればわかる。(中略)ほんの少しの所作でわかるのは,彼等が修行を積んでいるからである。顔でわかるのは仕事に誇りを持っているからであろう。(p98)
 人間には本当に必要なものがある。それを提供できる仕事を,本物の仕事というのではないか。(p107)
 私は自分が,或る時期,遊び放題の放埒な暮らしをして来て,なお今日,目覚めてほどなく仕事を始める習慣を続けてこられているのは,人のお陰もあるが,目覚めの茶にあると思っている。(p119)
 私たちの日々の暮らしの中で,その日ひとつだけでも新しい,瑞々しいものと出逢うことがあったら,それは素晴らしい一日ではないか,と常々思っていたからだ。(中略)新しいもの,瑞々しいものは,それがどこか劇的なものに思っていたのは私の先入観で,いつもと同じように時間が過ぎて行く中に,そういうものが常に私たちの周囲にあるのではないか,と思いはじめた。(p136)
 千年生きた木を使って,建物なり,木工品でもこしらえると,それは千年の間,きちんと役割を果たしてくれるらしい。それが千年もたない時は,その木を使って何かをこしらえた技術が未熟,または技術が悪いのだと言う。(p137)
 現代人は何もかも知ろうとして,日々の情報に目をむけるが,大切なものはそういうものの中にはないと語っているように思えた。(p139)
 美しいものは,その作品の前に立ち,ただ鑑賞すればいい。他には何も必要ない。そこであなたのこころが揺り動かされることがあったら,それが作品のすべてである。(p144)
 私たちは生涯を通じて素晴らしい仕事をした人を,絵画なら巨匠と呼んだりするが,その巨匠も,最初から本能や能力があったのではない。そこには必ず,大切な人との出逢いがある。これは百人の巨匠の内の九〇パーセント以上の人が出逢いによって新しい創造の標べを得ているということである。(p152)
 (熊谷)守一はこう述べている。「絵はそう難しく考えないで見たら,それで一番よくわかるんじゃないかと思います。絵は言葉と違いますから・・・・・・」(p159)
 ダリは女性の中に自分の創造のヒントと力を求めた。ダリの将来を決定づけたのは人妻,ガラとの出逢いだった。ダリは恋に落ち,それ以降,ガラはダリのすべてとなる。あらゆる制作物はガラのために生まれる。その徹底振りに驚くほどだ。(p165)
 子規という人物は,ともかく何か自分が魅了されたものがあると,他のものはすべて放って夢中になった。よく言えば情熱的な性格であろうが,子供っぽい,少年のような気性が生涯抜けなかった拙さもある。しかしその性格は私が子規を好きな理由でもある。(p189)
 “安物買いの銭失い”が一番あかんのや。人間がこしらえたもんには,それ相応の値が付くもんや。その人が,それを作れるようになった時間を買うのんが,大人の男の持つ道具やで。(p243)

2018年7月3日火曜日

2018.07.03 井沢元彦 『「常識」の日本史』

書名 「常識」の日本史
著者 井沢元彦
発行所 PHP
発行年月日 2009.07.22
価格(税別) 1,500円

● 歴史学者の史料実証主義は,著者にとっては親の敵。怨霊信仰の重視も著者の特徴。
 邪馬台国を当時の中国語で読むと,ヤマドゥと聞こえる。大和のこと。卑弥呼は“日の巫女”で天照大神のモデルになった。となると,邪馬台国論争は無意味となる。なるほど。

● 以下にいくつか転載。
 専門家の描く歴史には,大きな問題点があるのです。というのは専門家ゆえに,ということになりますが,あまりにも細部,あるいは専門的な知識にとらわれすぎていて,“人間の常識”という観点から歴史を見ていない傾向があるのです。(p9)
 「知識」というのは学校の授業でも,図書館でも学べます。ところが「知恵」というのは,机上の知識に過ぎなかったものを,人間社会の中で上手く使われるように発酵し,熟成させたものであるというのが,私の考え方です。 ですから,その「知恵」というものは,人間社会に積極的に関与していく-具体的には市井で人に交わるとか,あるいはいろいろなサークル活動に参加するとか,そういうことをしないと身につかないものなのです。(p10)
 問題はその史料の内容ですが,史料というのは基本的に「正史」-官によってつくられた史料を優先し,個人が書いた,たとえば野史・外史は信頼に値するものではないとします。私に言わせれば,そこには差別や権威主義が根本にあると思います。(p16)
 私は以前,テレビ番組の企画で,台湾にいた中国の古音を研究している音韻学者に会いに行き,実際に「邪馬台国」という文字を発音してもらいました。(中略)私には「ヤマド」あるいは「やマドゥ」に近い音に聞こえたのです。これは,論より証拠ではありませんが,ヤマト朝廷のヤマト,大和国のヤマトとみて間違いないでしょう。(p30)
 太陽神が女神という民族は,実は世界でも珍しく,ギリシアでもローマでも,太陽神は普通,男です。(中略)卑弥呼が女王として邪馬台国=ヤマトに君臨していたという事実を反映したからこそ,大和朝廷は天照大神という女神を祖先神とするようになったと解釈するのが自然だと思います。(中略)この卑弥呼という女性,私は「ひのみこ(日の巫女)」を意味する名前で,つまり卑弥呼は太陽を祀る女性だったと思っています。(p31)
 特に近年,聖徳太子非実在説はマスコミで取り上げられたりして注目を集めています。しかし,実はこした非実在説はずいぶん昔からあるもので,それほど珍しいものではありません。それこそ波のようにある一定の周期で,忘れた頃にまた誰かが唱え始めるという説なのです。(p47)
 私は仏教以前に怨霊信仰というものが確固たるものとして日本人と日本社会の基礎にあり,音量をいかにして封じ込めるかという方法論の一つとして,仏教が取り入れられたと考えています。(p64)
 ただ平和を口にしさえすれば,本当に平和が訪れると思い込んでいる人が少なくありません。現代においては,あまりにも幼稚で無責任な態度と言わざるを得ませんが,実はこうした言霊信仰は,日本人が伝統的に持っていたものであり,その本質を歴史のなかで見通すという作業をしなければ,そう簡単には克服できない国民性でもあるのです。(p87)
 あまりに言葉に対する信用が強すぎて,その結果何が起こるかというと,実際の物事の処理をしなくなってしまうのです。(p88)
 当時(鎌倉時代)の言葉で「主上御謀反」という言い方が現実にありました。(中略)和でできた体制が何よりも大切であって,天皇の意思よりも優先されるという考え方と通じるものです。(p95)
 楽市楽座というのは要するに,物の製造販売に対する許認可の完全廃止ということです。(中略)庶民は大喝采ですが,怒るのはこれまで寡占企業としてさんざん儲けてきた連中で,特に寺社勢力です。(p167)
 当時の武士たちはみな,朝鮮出兵にやる気満々だったはずです。平和になりかかり,出世したり所領を増やしたりするチャンスがだんだんなくなってきた状況のなかで,千載一遇のチャンス到来と考えていたと思うのです。(p214)
 朝鮮出兵に関して,よく知られていることですが,徳川家康は参加していません。(中略)実は家康が賢明であったわけではありません。真相を言えば,家康は参加させてもらえなかったのだと,私は思っています。(p219)
 人を殺すのが当たり前の世の中というのは,人命軽視がはなはだしい世界であって,(中略)光圀が若い頃,実はホームレスの人斬りゲームをやっていたという,まことに殺伐とした話があります。(p231)
 綱吉は,自ら理想とする政治を実現するために,独自のシステムを開発します。そのシステムが「側用人」なのです。家綱の時代までの政治システムを振り返ると,だいたい老中は五人いて,その五人が合議で決めたことを将軍に上奏し,将軍はそれに対してイエスとしか言えません。(p240)