2019年10月20日日曜日

2019.10.20 出口治明 『0から学ぶ「日本史講義」中世篇』

書名 0から学ぶ「日本史講義」中世篇
著者 出口治明
発行所 文藝春秋
発行年月日 2019.06.15
価格(税別) 1,400円

● 「週刊文春」の連載をまとめたもの。これだけのものを連載してるんだから,週刊誌を侮ってはいけないんですよね。「週刊現代」には伊集院さんのエッセイが連載されているし,その昔は田辺聖子さんも「週刊文春」に長く“カモカのおっちゃん”を連載していたし,かつての「週刊新潮」には山口瞳さんの「男性自身」があった。
 この本で啓蒙されるところはまず,平清盛。鎌倉幕府は清盛が作ったグランドデザインをなぞったようなものという。宋銭を大量に輸入して日本経済をテイクオフさせた功績も。
 足利幕府では義教,義政の再評価。ぼくらが教科書で習ったのとはだいぶ違っているようだ。

● 以下に転載。
 こういうしっかりした,絶対的な体制をつくってしまったら,頼通の兄弟たちはもう争う余地がなくなるのです。お父さんが兄貴に位を譲って後見しているわけですからね。そうすると,これまで親族同士でバトルロワイヤルを行ない勝者が地位を得てきたという,藤原氏の野生のエネルギーが消えてしまう。(p18)
 中世を通じて朝廷の行政機構は整理・縮小が進みましたが,それは大国,中国を真似た律令制をわが国の身の丈に合わせていくプロセスでもありました。(p24)
 お金は大量に供給されないと,お金の意味がみんなにはわからない。そこへ,平清盛の英断によって宋銭が大量に輸入,供給され始めます。(p33)
 地方の在地の人間が武士となり,その後に京都に上ってきたのではなく,京都の有力な権門が用心棒を雇ったのが武士の始まりだ,というわけです。(中略)都の支配階級の古い体制を突き崩していこうとするダイナミックな民衆の尖兵というよりは,武士は権力者側の一員であり,軍事貴族と呼ばれるのにふさわしい存在だったようです。(p36)
 その繁栄を支えた財力は,砂金と十三湊を拠点とする大陸との北方交易によるものでした。平泉は人口で京都に次ぐ大都市だったといわれており(p45)
 後ろ盾の鳥羽院を失った信西が自分の権力を維持するために,この際,邪魔者を全部潰してしまおうと挑発したのが保元の乱だと理解したほうがいいと思います。(p56)
 熊野は障害者を排除せず,むしろ障害を取り除く効能が期待されたところでした。また女性にも門を開き,女院から一般の女性まで貴賤を問わず参詣していました。(p67)
 清盛の強みは何かといえば,まず経済力が圧倒的だったことです。(中略)その富を築くうえで何よりも重要だったのが,日宋貿易を押さえていたことでしょう。貿易はすごく儲かります。(p75)
 鎌倉幕府の骨格といわれるものは,全部清盛が作っているんですね。それが,日本最初の武家政権は平氏政権であるといわれる所以です。(p82)
 源頼朝の配下を見ると,実はほとんどが板東八平氏。あの平将門の乱で出てきた平氏の末裔の有力氏族です。つまり源氏ではないのですね。(p84)
 頼朝は,甲斐源氏を倒し,従兄弟の木曾義仲を殺し,叔父の行家や弟の義経,範頼を殺して権力を握ったわけで,単なる「源平の争い」ではない。(p101)
 白拍子が異性の恰好をして踊るというのは,面白かったでしょうね。異性による女装や男装はアメノウズメから始まって,白拍子で一つのピークを迎え,今の歌舞伎の女形とか宝塚の男装に脈々と生きていると思うのです。(p106)
 注目すべきはこの十三人の中に源氏は一人も入っていないということです。板東平氏や藤原秀郷流,京都から下向した官人の集合体ですから,鎌倉幕府の実態は第二平氏政権といってもいいですね。(p109)
 鎌倉幕府は安定しているどころか,十三人衆など,頼朝時代からの重臣を北条氏が次々と葬っていく歴史ですよね。(p110)
 荘園公領制がもたなくなって貨幣経済が行き渡ったのに,幕府はあくまで土地本位制にしがみついていたのでミスマッチが生じて統治がうまくいかなくなったというのが,北条氏が滅んだ一番の原因じゃないかと思います。(p133)
 鎌倉時代の主流が旧仏教であったことを物語るもっとも分かりやすい例は,モンゴル戦争の時に異国降伏祈禱を行った主体が旧仏教であったことや東大寺の再建でしょう。(p161)
 朱子学は,北の遊牧民に追われて江南に移った,劣等意識を背負ったエリートがつくり上げた悲憤慷慨の理論体系です。軍事的,外交的に負けているからこそ,自分たちの民族的,文化的な優越性と正統性を唱える漢民族のナショナリズムが生まれてきたのです。(p179)
 朱子学んはモンゴルのグローバル政策に乗り遅れた人々のうっぷん晴らしという一面がありました。(p180)
 尊氏は迷いの多い人でした。(p197)
 連歌会とは,集まって歌を詠んではその歌の出来具合に金銭を賭ける遊びです。お茶の寄合いというのも,いまの茶道とはまったく別の,闘茶,茶勝負が中心です。お茶を持ち寄って,どこのお茶か味見をして当てることにお金を賭ける遊びです。(p200)
 義満の特徴は自分の権力の大きさを「見える化」したことです。(p217)
 先生(二条良基)が超一流なら,義満もまたメチャ優秀な生徒でした。貴族社会は儀式の世界であり礼儀作法の世界です。鎌倉幕府が自分たちは軍事警察権に特化して,政治については朝廷でどうぞといっていたのは,煩雑な儀式を覚えて朝廷を取り仕切るのが面倒だったからでしたよね。でも,義満はその煩雑なことを軽々とやってしまうのです。だから公家の世界にも君臨できたんですね。(p220)
 明使引見の席の配置や服装,詔書の開き方などの記録が残っていますが,それを見ると義満は全くペコペコせずに中国の使節を迎えている。まるで朝貢してきた異国の使節を謁見するような感じでした。(中略)国内政治では「中国皇帝を後ろ盾とする権威」として「日本国王」の称号を使った形跡がまるでないのです。ここからも「義満は皇位簒奪を意図していた」という説は否定されるわけですね。(p226)
 猿楽は当時の庶民にとって親しみのある大人気の大衆芸能でした。それを世阿弥たちは貴人や教養人にも受容されるよう,積極的に洗練させていったのです。(p231)
 足利義満ですら富士の遊覧までしか行けなかったのは,その先は俺の管轄やないという意識があったわけです。足利幕府は,日本を東西に分けて統治する政権構造でした。じゃあなぜこれほど大きな権限を鎌倉公方に与えたのかといえば,南朝とのごたごたのせいです。(中略)守護の権限が肥大化していったのと同じ現象ですね。(p242)
 六代将軍足利義教は,業績からいえば僕は義満や信長に並ぶ存在じゃないかと思っています。義教のニックネームは「悪御所」でした。悪には善悪のワルという意味だけではなく,強い,魅力的であるという意味もあります。(p247)
 鎌倉公方足利持氏は,「くじ引きで選ばれた将軍だ」と侮っていたのですが,選ばれた義教自身は「神様が俺を選んでくれた」と思っていました。(p247)
 義政は政治を疎かにして文化事業ばかりやっていたといわれていましたが,実はそうではありません。(中略)たとえば勘合貿易にも積極的でした。(p254)
 ズバリ言えば,山名宗全がこの先これほどの大戦争になるとは思わずに,畠山義蹴に加勢したことが応仁の乱の一番の原因です。ただ,ひとり宗全だけではなく,この戦いに参戦してきた武将たちは皆大乱の結末を考えていなかったのです。そういう意味では,これは第一次世界大戦に似ています。(p257)
 室町時代は,南北朝の戦いにはじまり,観応の擾乱,享徳の乱,応仁・文明の乱など戦争ばかりしていたように見えなくもありません。しかし実はこの時代に,今日の日本文化のほとんどが生まれたのです。(p260)
 両者(北山と東山)を比べると東山文化のほうが圧倒的に豊かだといわれています。政治権力と文化のピークには何故かタイムラグが生じるのです。(p261)
 茶の湯や連歌の会は,「会所」と呼ばれる,集会所で行われました。「会所」に入ったら社会で差別されている人々も一切身分の差はないという約束事ができていました。(p263)
 この一揆の構成員になる条件は,「家」の主人であることでした。主人持ちの小作人ではなく,自分の田畑を耕す小農民や,小領主など,社会各層で生まれた「家」の代表者たちによって様々な一揆が結成されたのです。(p270)
 実際には王直という後期倭寇の統領で平戸や五島列島を拠点にしていた中国人が「鉄砲は内乱中の日本でめちゃ需要があるで」と日本に持ち込んできたのでした。そこで劇的に演出するために,自分の船にポルトガル人を乗せてやってきた。(p290)
 奈良時代にかけて幼くか弱い天皇を元明や元正といった優秀な女性上皇が後見する体制が続きました。かつては奈良時代の女性天皇は「男性天皇の間の繋ぎ」という視点で説かれていましたが,実際には上皇として長い期間,強い権力を握り続けていたのです。この「天皇より強い上皇」というポジションを放棄したのが,嵯峨天皇でした。そのきっかけになったのが,八一〇年の「平城太上天皇の変(薬子の変)」です。(中略)嵯峨天皇は自身が譲位するときには,太上天皇の大権を自ら放棄しました。ここから「上皇は政治に関わらない」という先例が生まれ,代わりに外戚が力を振るうようになったのです。(p300)
 朱印船でタイへ渡った山田長政は,日本では別に有名な家の出でもないけれど,タイに行って陸軍の次官ぐらいの地位を得ましたね。普通の人でもそれだけの活力があったのだから,この時代にどんどん海外に進出していれば,今の東南アジアの華僑のように,和僑の世界ができていたとも考えられますね。(p324)

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