2019年11月30日土曜日

2019.11.30 出口治明 『0から学ぶ「日本史講義」古代篇』

書名 0から学ぶ「日本史講義」古代篇
著者 出口治明
発行所 文藝春秋
発行年月日 2018.02.25
価格(税別) 1,400円

● 先に中世篇を読んでからの古代篇。著者は日本史では中世が最も面白いと言うけれども,ぼくは中世篇より古代篇の方が面白かった。
 “日本”を整えたのは持統天皇と藤原不比等であること。整えさせた理由は唐との関係にあること。「腹落ち」した。大化の改新,壬申の乱,という言葉でぼくらは習ったけれども,それがなぜ起きたのか理解しかねるところがあった。その疑問も氷解した。
 さらに白村江の戦。当時の日本列島に住む人は500万人。でもって3万とも4万とも言われる艦隊(?)を派遣して木っ端微塵にされる。何という愚策。なぜそんなことをする必要があったのか。それはまだ腹落ちまではしていないんだけども,なるほどそういうことだったのね,というところまでは了解した。
 というわけで,面白かった。古代史,中世史より面白いんじゃないですか。

● 以下に転載。
 人間が歴史を学ぶ意味は,人間はどうしようもない愚かな動物で,同じ失敗を繰り返しているからです。積み重ねられた歴史を学んで初めて,僕らは立派な時代をつくることができる。歴史に対するこのスタンスは,本書でも変わりません。(p8)
 今の鳥類は実は恐竜の子孫です。恐竜は鳥類に進化して現代に生き残っているのです。(p18)
 十億年後には太陽が膨張し始めて地表の温度が上がり,地球上の水がすべて蒸発することで,生命は死滅します。生みから始まった生命は,水がなくなれば消滅せざるをえません。(p19)
 仏教には,様々なものが付随してきます。教えを目に見えるかたちにして,文字の読めないような人にも説明(見える化)するために,仏像やお寺,お経,法具,お香など一連の装置が必要なのです。(p60)
 実のところ,解明的なポジションの方が,経済が成長します。廃仏では今のままですから,仕事も増えないし,成長のチャンスもありません。(p61)
 中国でも日本でも有能な女帝と切れ者官僚がペアで政治を動かしていたのが,この時代だったのです。持統天皇は,史書に「深沈で大度」と人間としてのスケールの大きさや深謀遠慮振りを最大級の讃辞をもって語られています。まさに「日本」という国を生み落とした国母にふさわしい形容です。(p99)
 日本はかなり背伸びをしましたので,『日本書』しかり,藤原京や平城京,平安京しかりで,大事業を始めたものの,いずれも完成しませんでした。最後までやり遂げる能力も財力もなかったのです。(p110)
 『日本書紀』は天皇の歴史を神武天皇から始めているわけですが,はじめのほうは記述も簡単で,天皇名もかなりシンプルです。これは歴史書の常で,「古いものほど新しい」のです。(p110)
 唐の長安をモデルにした平城京では,日本人より外国人の方が多かったという話もあります。当時の日本には,インド人,中国人,ペルシャ人,イラン系のソグド人,ベトナム人,崑崙人(東南アジアの黒人),それから朝鮮半島からの多勢の移民など,外国人がたくさん入ってきていました。(p131)
 日本では,中国のような能力主義が十分には発達しませんでした。もともと古代の豪族たちの連合政権であったために,生まれがいいほど出世するシステムが組み込まれていたのです。(p149)
 平安京の造営は,桓武天皇の出自が低く,自分の権威を欲したことが動機のひとつでもありました。(p152)
 嵯峨天皇が平城太上天皇の変にビビったときに,タイミングよく空海が現れて「絶対に勝ちます。祈祷してあげまっせ」とすり寄ってきたことで,瞬く間に朝廷に取り入ります。(p160)
 数千倍ともいわれるとんでもない倍率の試験をくぐり抜けて,皇帝に直接採用された優秀な人たちですから,皇帝とは強い紐帯で結ばれ,めちゃ仕事をするわけです。(p199)
 科挙が全国規模で実施できたということは,活版印刷と製紙技術が全国に普及し,どこででも参考書が手に入ることが大前提になります。その頃の日本には紙を大量につくる技術も活版印刷の技術もありませんでした。(p200)
 昔は,平安中期というと「唐と国交が途絶え,日本的な感覚に基づく国風文化が栄えた時代」だと教えられていました。現代の歴史研究によると,この理解にはかなり問題がありそうです。(中略)この時代には,遣唐使など国の施設を派遣しなくとも,情報を集められるだけの民間交流が盛んになっていたのです。それを担ったのは海をまたいで活躍する商人(海商)たちでした。(p210)
 天皇のおキサキ方には,多くの女官が仕えていました。貴族が挨拶に伺えば,キサキのまわりには若い女官が並んでいるわけですから,貴族は女官たちに目配せをしたり,恋文を渡したりして,恋人関係になります。こういった関係から,貴族の情報が後宮に集まるのです。(中略)狭い内裏で女官群を抱えているキサキのちからが強くなるのも当然です。情報の力は,けっこう強いのです。(p217)
 貴族たちの日記は,現代の私たちが記すようなプライベートな日々の感想を記すことが目的ではありません。当時の政府がつくって官人たちに配布していたカレンダー(具注暦)の余白に儀式や年中行事,そして政務の活動記録などを覚書のように記していました。(p226)
 当時,大陸からは日本に多くの人々が流れてきていました。唐につくか,自立して戦うか。朝鮮半島の三国が,ほぼ同時に内部で争っているのを見て,日本の支配層も二つに割れました。その結果が,乙巳の変(大化の改新)だったと思うのです。(p235)
 いかに持統,不比等のグランドデザインがしっかりしていたかということです。(中略)逆に,国をもう一度作り直すほどの外からのショックが日本にはこなかった,ともいえるのですね。これはめちゃハッピーなことでもありました。どうして外国に攻め込まれることがなかったのか。それは,日本が後世の銀のような世界商品を持たない遠い島国だったからなんですね。(中略)お米や肴がとれるので生活はできるけれど,外国からはこれといって欲しいものがないので,積極的にこの地と交易しようという意欲を持たれることがなかった。(p241)
 「大国と小国では見えている世界が違う」ということです。周辺地域全体の歴史の中ではものすごく小さいポーションでも,小国にとっては大きいポーションになることがよくあるのです。(p242)
 古代の日本は同じく当時の後進国であったヨーロッパなどに比べても,内乱も少なくその規模も小さかったのですが,これは内乱をするほどの国力がなかったからだ,ともいえます。(p244)

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