2021年4月18日日曜日

2021.04.18 三浦 展・麗澤大学 清水千弘研究室 『日本の地価が3分の1になる!』

書名 日本の地価が3分の1になる!
著者 三浦 展
   麗澤大学 清水千弘研究室
発行所 光文社新書
発行年月日 2014.09.20
価格(税別) 880円

● 「2020年 東京オリンピック後の危機」という副題があるのだが,そんなものよりよほど大きな激震が日本(のみならず世界)を襲った。本書で語られていることがこのあとどこまで通用するか。大都市圏を中心に土地需要のあり方が大きく変わることになると思われる。
 たとえば,空港やターミナル駅に近いことのアドバンテージはこの後も続くのか。いずれは国際便も再開されるだろうけれども,旅行やビジネスの出張で移動する人がコロナ以前まで戻るだろうか。しょっちゅう,空港やターミナル駅を利用するのなら,その近くに住まいがあることに効用はあるが,そうでないなら効用は下がる。

● 巻末の鼎談(三浦,清水,島原)は正直,自称知恵者が脳内の浅いところだけ使ってオダをあげているような印象を受けた。
 彼らが言うようにはならないだろうと思う。知に基づいただけの提言など,現実に歯型すら残すことはできないものだ。

● 以下に転載。
 地価に影響するのが(中略)現役世代負担率である。現役世代負担率が上がるほど地価を押し下げるのである。(p51)
 いちはやく人口が減り,高齢化も進む地域もあれば,高齢化が比較的遅く始まる地域もある。しかし高齢化が遅く始まる地域ほど,いちど高齢化が始まると,その速度が速い傾向がある。(p52)
 第三次産業が発展してくると,生産性が上がる。金融業や不動産業,情報産業といったサービス業は,第二次産業よりも利益率が高く儲かる(p79)
 エンプロイヤビリティ(雇われる能力)が低い日本人は,エンプロイヤビリティが高い外国人に職を奪われるのである。いや,奪われるという言い方はよくない。これはまったく正当な競争の結果である。(p102)
 杉並区は,区の人口規模が大きいわりには外国人が少ない。これは,家賃が高いわりに都心から遠く,羽田空港から遠いなど,外国人にとって魅力が欠けるからではないかと思われる。(p106)
 江戸川区でインド人が増えた背景には,ブルーカラーではなくホワイトカラーの増加が貢献していることがある。(p115)
 インド人は移民先でも同一宗教,カーストに基づく緊密なネットワークを持ち,「自分たちの居場所」を形成する特徴があり,みずからのアイデンティティの維持のために宗教儀礼や景観づくりを行うという。西葛西でも近くを流れる荒川がガンジス川を思い出させるというのも,インド人が集まり住む理由の一つだという。(p118)
 東京のような世界都市で,これほど純血主義的な都市はない。(中略)だが今後,東京の生産年齢人口が減ることで都市の活力が低下するのだとしたら,東京にもっと多くの外国人が働くようにならざるを得ないであろう。(p130)
 吉祥寺は激しく変動している。飲食店も全国チェーン店が増え,まるで新宿みたいになっていく吉祥寺に失望している人も多い。(中略)ジャージ姿の客が増えたし,サイゼリヤやしまむらを探し歩いている客がいるなど,普通の郊外駅前のようになってきた。こういう客層は,吉祥寺に愛着もロイヤリティもない。(p144)
 1985年くらいから,それまで以上に多くの人々が渋谷に押し寄せるようになって以降,渋谷があまりに大衆化し,人の数は多いがお金の落ちない街になり,さらにその後は風俗店ばかりが増えて,結局ファッションも文化も衰退していくプロセスを見てきた。(p146)
 吉祥寺が大衆化することの悲惨を渋谷に重ねているわけだが,金のない大衆は入ってくるなということかね。
 自由が丘の特徴は,女性好みであること。女性であることの幸せの空気が街全体に漂っている。(中略)時代の雰囲気,若者の価値観が次第にユニセックスになり,女性が80年代より女性らしい格好をしなくなった現代でも,自由が丘の客層は,あくまで女性的な女性が主流であり,きちんときれいな格好をした人たちが多い。年配の女性もとてもおしゃれだ。雨の日にはビニール傘の女性はほどんどおらず,かわいい傘が花のように開く。(p162)
 都市とは,アメニティの集合体,いわばエンタテイメントマシンといえます。(清水千弘 p194)
 彼ら(外国人のバックパッカー)はたいてい東京から入って,京都を観光し,大阪に泊まるのですが,大阪に来るとほっとするらしいですよ。(島原万丈 p196)
 地価が下がって広いところに住もうという人が増えてきたら不動産の価値は下がりません。そのためには,建物の価値をもっと認める社会にしていく必要はありますね。だいたい,日本の土地はタカすぎるんですよ。(清水千弘 p200)
 何だよ。日本の地価が3分の1になる!と脅しておいて,最後の結論はこれかよ。

2021年4月16日金曜日

2021.04.16 和氣正幸 『続 日本の小さな本屋さん』

書名 続 日本の小さな本屋さん
著者 和氣正幸
発行所 エクスナレッジ
発行年月日 2020.10.28
価格(税別) 1,800円

● 続編は正編で取りあげなかったものを集めて出すのだから,正編よりも薄まった内容になる。と思いがちなのだが,この「日本の小さな本屋さん」に限っては続編の方が面白かった。
 第一には,堀部篤史さんが恵文社一乗寺店を辞めて新たに始めた「誠光社」が入っているからだ。著者の取材にも熱が入っている。

● 続編では次の24の本屋が紹介される。
 Pono books & time(岩手県盛岡市)
 BOOK NERD(岩手県盛岡市)
 八戸ブックセンター(青森県八戸市)

 Title(東京都杉並区)
 本とコーヒー tegamisya(東京都調布市)
 museum syop T(東京都国立市)
 本屋イトマイ(東京都板橋区)
 コクテイル書房(東京都杉並区)
 フリッツ・アートセンター(群馬県前橋市)

 石引パブリック(石川県金沢市)
 オヨヨ書林(石川県金沢市)
 ひらすま書房(富山県射水市)
 古本いるふ(富山県滑川市)

 誠光社(京都市上京区)
 ホホホ座 浄土寺店(京都市左京区)
 マヤルカ古書店(京都市左京区)
 FOLK old book store(大阪市中央区)
 居留守文庫(大阪市阿倍野区)
 Calo Booksyop & Cafe(大阪市西区)

 うずまき舎(高知県香美市)
 solow(香川県高松市)
 へちま文庫(香川県高松市)
 BOOK MARÜTE(香川県高松市)
 な夕書(香川県高松市)

● これらの書店は今回のコロナでどうなっているだろうか。カフェを併設しているところが多いので,そのあたりでどうなのか,と。
 家で本を読む人が増えたからかえって追い風になった,とは思いにくい。

● 以下にいくつか転載。
 本屋は旅する人にとっての止まり木だ。観光で疲れた心を身体を少しだけいつもの調子に戻してくれる。(p3)
 なりたいものではなく,なれるものを探していくのが人生なのだと思い込んでいた。それがあの瞬間変わった。「なりたかったものになろう。そう思ったんです」(Pono p7)
 ニューヨークにはカルチャーを中心にしたコミュニティーがあって,それに影響を受けました。言葉にしにくいですが,何かが生まれようとしている感覚というか。そういう場所を盛岡でも再現したいなと思ったんです。(BOOK NERD p13)
 本屋は他業種と比べて “集まりやすい” と言われている。それぞれの得意分野を持ち寄って神保町のような街となるのだ。(p19)
 生命の細胞が入れ替わるように本屋でもいつも本が入れ替わっていくことが大切です。(Title p25)
 江戸時代の本屋になりたいんです。当時の本屋は古本も新刊も扱って出版もする。場所によっては寺子屋も開いていた。(中略)色々な寄合に使ってもらいたいんです。(コクテイル書房 p49)
 ジャンルレスで後半な知識のつながりを眺めていると,目の前の景色が啓いたような不思議な感覚になってくる。(p91)
 テンポやコード感,アレンジに共通点があれば,ジャンルを超えた音楽を無理なくつなげることができる。その意外性やスムーズさこそがDJ的センスです。既存の分類をばらしていかに違うジャンルから編集して自然に並べるかなんです。それには自分がどれだけたくさん聴いているか,感心の幅がどれだけあるかってことが重要なんです。(誠光社 p91)
 ときにはお客さんからわかりにくいと言われることもあるがブレない。「誰を相手にするかをはっきり自覚するっていうのは商売の鉄則だと思うんです」。だからこそ守れるお客さんがいる。(誠光社 p91)
 中高生のころに通っていた京都の名店・三月書房にその原点があるという。コミックから始まり,周辺の漫画家や小説家,美術家など,少しずつ本を買って自らの知識の地図を広げていった。それらが音楽とも,映画ともつながっていき,実はすべてがどこかでつながっていることに気が付く。(誠光社 p92)
 人類学のコーナーにはフィールド録音のCDを並べる。決してここにしか置いていないわけではないのに,ここにしか置いていないように思える。(誠光社 p95)
 この物件に出会ったときに演劇をしていたときの感覚が戻ってきたんです。演劇は空間づくり。この場所で本屋をすることにそれまでの自分の活動との連続性を感じました。(居留守文庫 p115)
 開業に踏み切らせたのはオーナーや上の世代への怒りだった。(中略)負の感情は爆発力があるが長くは続かない。それでも続けたのは人との出会いがあるからだ。(Calo p121)
 面白い人がいるから面白い場所になるんだと,ぶっ飛ばされたように気が付いて,それだったら地方の方が面白いかなと思って。(solow p135)
 こういった本屋で写真集や美術書がメインでないというのは珍しい。(p141)
 物として愛でることのできる本はそれ自体に力がある。それらが集まって形成する空気のようなものが心地良さにつながっていく。本を売るための場所としてではなく,本のある空間として「どんな場所であるべきか」質にこだわっているのだ。(中略)「売る」のではなく「見せる」ことに重きを置く。(へちま文庫 p141)

2021年4月13日火曜日

2021.04.13 和氣正幸 『日本の小さな本屋さん』

書名 日本の小さな本屋さん
著者 和氣正幸
発行所 エクスナレッジ
発行年月日 2018.07.23
価格(税別) 1,800円

● 紹介されているのは,次の23の本屋。
 SNOW SHOVELING(東京都世田谷区)
 ハナメガネ商会(栃木県益子町)
 ROUTE BOOKS(東京都台東区)
 Readin'Writin'(東京都台東区)
 Cat's Meow Books(東京都世田谷区)

 栞日(長野県松本市)
 NABO(長野県上田市)
 コトバヤ(長野県上田市)
 遊歴書房(長野県長野市)

 恵文社一乗寺店(京都市左京区)
 LVDB BOOKS(大阪市東住吉区)
 1003(神戸市中央区)
 books+kotobanoie(兵庫県川西市)

 蟲文庫(岡山県倉敷市)
 451BOOKS(岡山県玉野市)
 紙片(広島県尾道市)
 弐拾dB(広島県尾道市)
 READAN DEAT(広島市中区)

 ブックスキューブリック箱崎店(福岡市東区)
 MINOU(福岡県うきは市)
 カモシカ書店(大分県大分市)
 長崎次郎書店(熊本県熊本市)
 ひなた文庫(熊本県南阿蘇村)

● インスタ映えするというか絵になるところが多い。古民家を改造していたり。いきおい,古本屋が多くなる。
 あと,本を売るだけではなくて,コーヒーやカレーを出していたり,ギャラリーを併設していたり,雑貨も売っていたり。実際問題として本を売るだけで生き残るのは難しい時代になった。
 そうまでしても,今の時点で,この23の本屋がすべて生き残っているとは思えない。

● ここに登場する人たちは,多数派が乗っかるレールに乗らなかった人たちだ。それを潔しとしなかったのか馴染めなかったのかはわからないが,とにかくレールのないところを進んできた人たちだ。
 そういう人たちはリベラルに行く傾向があるっぽい。自民党を支持するとか安倍政権はよくやったと言う人はいないのではないかと思える。
 現状がどうでもそれに批判的になる。それはなぜなのだろうと,少し引っかかる。

● 以下にいくつか転載。
 あまりこだわりを持たず,自分自身が硬くならないようにしています。計画を建てたり,こだわりを持ったりするよりも,やってくる出来事に対して,正面から受け止めて考えたほうが自分には向いていると思うんです。(ハナメガネ商会 p15)
 人が集まるためにはReadin'Writin'に行ったら何か面白いことが起こると思ってもらわなければいけません。そのためにはこちらからたくさんのことを仕掛けているんです。(中略)止まらずに動き続けているからこそ次に進める。(Readin'Writin' p31)
 旅をテーマにした本屋は日本にいくつかあるが,遊歴書房はそのどれとも違う。それは店の目的が,旅をしてほしいということではないからだろう。旅は遊歴書房のなかにいればできるのだ。(遊歴書房 p63)
 選書の基準は,いつか自分が読みたい本だ。「壮大な積読本の集まりみたいなものですね。どこかの本棚で見かけてずっと気になっていた本が自然と集まってきた。そんな棚になっています」(1003 p85)
 本当は個性をもって豊かな生活を探求しなければいけないのに,誰もそのことに気づいていない。(中略)そういった大事なことを問いかける場,立ち止まって考える場に本屋はなれると思うんです。(ブックスキューブリック p131)
 息苦しい社会を冷静に捉えなおすための余裕を持てる場所を,カモシカ書店は目指している。「本屋というものは,そういう批評的な態度がなければいけないと思っています」(カモシカ書店 p143)

2021年4月11日日曜日

2021.04.11 芦田愛菜 『まなの本棚』

書名 まなの本棚
著者 芦田愛菜
発行所 小学館
発行年月日 2019.07.23
価格(税別) 1,400円

● 少女から大人の女になるそのあわいにいる女性というのは,それだけで何か神々しいものだ。現在の芦田愛菜はまさにそういう存在。
 子役の彼女をテレビの画面で何度も見ているが,その彼女に本について教えてもらうことになるとは思ってもいなかった。

● 大変に聡明な印象を受ける。如実にそれを感じるのが,辻村深月さんとの対談だ。稀代の作家とサシで話しているのに,ほとんど臆していないし,押されてもいない。土俵の中央に踏みとどまっている。
 これだけの聡明さがあって,しかも育ちの良さも備えているとなると,芸能界では疎まれることもあるかもしれないねぇ。

● あるいは,芸能界も昔とはずいぶん変わっているんだろうか。土屋太鳳も大学を卒業できたし,二階堂ふみも慶応を卒業するかもしれない。
 いや,卒業はしなくても,そういうところに出没する女優が増えたということが,芸能界も変わってきたのかなと思わせるのだが。

● 以下に転載。
 読みたい本を見つけるのは宝物を発見するのと同じで,自分で探し出したりめぐり会ったりするからおもしろいんだと思うんです。(p14)
 ちょっとした空き時間があれば,いつも「あぁ,その本の続きが読みたいなぁ~」と思ってしまいます。(p26)
 本を読む時だけは別世界。誰かに話しかけられても,声が全然耳に入っていなくて,気がつかないみたいなんです。(p27)
 「早く先を知りたい!」という気持ちが強いせいか,本を読むスピードは,けっこう速い方みたいです。それほど厚くない文庫本だったら,だいたい2~3時間で1冊読み終わってしまいます。(p28)
 友達と一緒にいて楽しいのは,みんなで団結して何かすること! 学校の行事も,せっかくやるなら,どことん一生懸命に楽しみたいほうです。(p43)
 私は小さい頃から「なりきり遊び」が大好きで,友達に「私はこの役をやるから,あなたはお母さん役をやってね」「あなたはお姉ちゃん役ね」なんて役を割り振って,みんなと一緒におままごとをしていました。(p45)
 最近はドラマの語りのお仕事をさせていただくことがありましたが,その場合は,視聴者の方と共に登場人物たちを応援する気持ちになっていました。(p69)
 声優やドラマ,映画のお仕事では,「素の芦田愛菜」をちらりとでも感じさせてしまうと,見ている方が違和感を抱いてしまうと思うので,極力,「素の芦田愛菜」が出ないように心がけています。(p69)
 人見知りは小さい頃から全然しなかったほうなので,初めて会う人でもすぐに自分から話しかけて,誰とでも仲よくなってしまうタイプだったようです。(p75)
 僕たちは自分たちが知っている範囲のことでしか,物事を判断できないじゃないですか。だから,自分の予想とうのは,あくまで自分の知識の範囲内にとどまってしまうんです。水面から氷山が顔を出している小さなところだけを学んでわかった気になって予想を立てるので,実験で違う結果が出てしまうのは,ある意味当然なんですね。でも,その失敗が,これまで知られていなかった新しい事実を発見するきっかけになるかもしれないんです。(山中伸弥 p114)
 研究者は基本的に失敗をするもので,そもそも失敗を「よくないことだ」と考えると研究はうまくいきません。(山中伸弥 p115)
 僕たちはこの世に生をいただいたわけで選択肢はないんです。生が尽きるまで生きるしかなくて,それだったら楽しく生きようということだと思うんです。でも,この楽しいというのが難しくて決して楽ではない。(山中伸弥 p116)
 自分の人生が楽しいと感じるために大切なのは「どこかで誰かのためになっている」という気持ちが持てるものであること。この気持ちは,すごく大切だと思います。(山中伸弥 p117)
 私はほとんど何も考えないで書き始めるタイプなんですよ。(中略)謎の答えはほんとうにまったく決めていないんですよ。でも,どの話でも途中で急に,「わかった!」って思う瞬間があるんです。「ひらめいた」とか「思いついたというよりも,「気づいた」という感覚が近い。(中略)書きながら,登場人物たちが教えてくれているような気がします。のちのち伏線になるようなエピソードも,登場人物たちが私のためにヒントを落としていってくれた,という感覚なんです。「今回はこれをテーマにしよう」って最初から決めている場合もほとんどないです。テーマもやっぱり,登場人物たちが私に教えてくれます。(辻村深月 p162)
 主人公が悩むと,そこで初めて私も悩み出す。(中略)物語を書きながら,主人公と一緒に悩んで考えていったことが,その作品で書くべきテーマだったんだと後から気がつくことが多いです。(辻村深月 p164)
 登場人物たちって,もちろんほんとうにはいない人たちですよね。でも,愛情を込めて書いていくと,私自身にとっても,きっと読み手にとっても,実際に周りにいる人以上の実在感が感じられるようになる。(辻村深月 p165)
 おおもとになる原稿を書いたのは,高校3年生の時なんです。おもに授業中,教科書で隠しながらルーズリーフに手書きで書いていました。(中略)大学に入ってからはパソコンで小説を書くようになったんですが,このルーズリーフの分厚い束を見ると,ただただ自分は書くことが好きだったんだなぁって初心に帰れる気がします。プロになりたいかどうかは,二の次だったんですよね。だから作家志望の方に「何かアドバイスが欲しい」と言われた時は,「書くことがほんとうに楽しいのか?」を自分に問いかけてみてくださいと言うようにしています。頭の中にどれだけ壮大なストーリーがあっても,目の前の一文一文をちゃんと重ねることが好きでなければ続かない仕事だと思うので。(辻村深月 p170)
 実は,私も恥ずかしながら,何回か小説を書こうとチャレンジしたことがあるんです。(中略)でも,主人公はなんとなく思い描けても,お話がどうしても「起承転結」の「転」がなくて,「起承承結」になってしまう。(中略)「おもしろい!」って思える瞬間をゼロから生み出すのはほんとうに難しいことなんだな,と自分で挑戦してみてよくわかりました。(p171)
 綾辻さんのミステリーを読んでいて犯人がわかりそうになると,「どうか違いますように・・・・・・」と祈るような気持ちになったりして,だけど,私ごときの想像力が綾辻さんに及ぶはずがない。いつも引っくり返されます。そして,確かにそこが気持ちいんですよね。「自分の想像を超えたもの」を見せてもらえるから夢中になる。(辻村深月 p172)
 役が入り込んでくる感じです。台本をいただいた時に,「この子だったらこの台詞をどんなふうに言うのかな?」とか「普段はどんなふうに歩くのかな?」と考えていくうちに,だんだんその子が自分の中に住み着いてくる。頭で考えなくても,自然とその子になれている感覚が出てくるんです。その時は,素の芦田愛菜がいなくなるような感じです。(p176)
 この小説(武者小路実篤『友情』)では最後の結末が登場人物たちの手紙という形式で展開されます。手紙ってやっぱり気落ちがきちんと伝わると思うのです。(p194)
 SNS(特にFacebook)が普及したけれども,最大の問題は文字だけで個対個のコミュニケーションは成立剃るかという点だ。ぼくは否定的なのだが,大昔は文通というのがあった。ペンパル募集なんて欄が雑誌にあった。見も知らない人と手紙だけでコミュニケーションを図る。これは可能か。やはり難しかったのではないか。したがって,文通というのも長く続くことは稀だったろう。
 手紙で気持ちが伝わるのは,すでに気心が知れている関係,リアルで個対個のコミュニケーションをずっと積み重ねてきた関係にある者どおしの場合に限られる。文字によるコミュニケーションはリアルの補助にはなっても,それに取って代わることはない。
 太宰の作品は色で例えると,青とか黒っぽい暗くてドロドロした世界観が浮かぶのですが,芥川の作品はすっきりとした白っぽい感じです。(p198)
 私はよく笑う人が好きなんですが,玄之助さん(宮部みゆき『あかんべえ』)は幽霊でも人を恨んだりしていなくて,ほがらか。生きていた時は女の人たちにもかなりモテたようです。(p222)
 本って「一人で黙々と読むもの」だと思われがちですが,実は,人と人をつないでくれるコミュニケーションツールだとも思うのです。(p237)

2021.04.11 三浦 展 『格差固定』

書名 格差固定
著者 三浦 展
発行所 光文社
発行年月日 2015.07.20
価格(税別) 1,500円

● 「下流社会10年後調査から見える実態」とある。こういうものは真面目に受け止めるべきなのか,面白半分に読むものなのか。ま,後者的な態度でよろしいのだと思うが。
 階層と支持政党を分析しているところは特にそうで,ここは絶滅危惧種になった週刊誌を読むような気分で読めばよいと思う。ちなみに,著者は安倍首相や自民党政権がお嫌いなようだ。
 あと,公務員の待遇が良すぎると叩いているのだが,著者の両親は小学校の教員だった。つまり,公務員だ。公務員が嫌いになった理由でもあるのだろうか。


● 以下に転載。
 人工の9%が,全員の金融資産総額の59%を保有しているということになるのだ。逆に,300万円未満の人の構成比は49%あるが,彼らの金融資産総額に占める割合はたった4%に過ぎないのである。(p30)
 そもそも社会全体で正社員の数はずっと増えていないのだから,学歴を上げても正社員になれるとは限らないのである。それでも高卒よりは良い就職ができるだろうと大学に進み,今や大学進学率は5割を超える。(中略)こうなると大学では,大学らしい教育をすることは不可能である(p52)
 そもそも大学進学率が上がったのは,少子化で学生が減るのを恐れた大学が,学力のない学生でも合格させたからである。それは,大学をつぶしたくない大学経営者と,失業を恐れる大学職員の都合に過ぎない。(p53)
 階層が低下するほと地理的移動は少ない。引っ越し貧乏という言葉があるが,本当に貧乏な人は引っ越すお金もないのである。(p71)
 階層の固定化は,雇用形態の固定,年収の固定,居住地の固定という幾重もの固定化と連動していると言える。(p72)
 下流層ほどテレビを見ていない。特に20-34歳の下流層は44%が見ていない。10年前よりずっと増えている。これはテレビ業界にはショッキングな数字ではないか。(p147)
 新聞を長時間読む人は,かつてのいわゆる「革新」系の人たちである。他方,若い人を動かすのはオールドメディアの新聞ではなく,もちろん雑誌でもなく,インターネットメディアなのだ。(p156)
 単なる消費ではなく,プレゼントという理由づけが消費に必要な時代なのであろう。(p166)
 物を新たに買わなくても所有者を移転するだけで消費者のニーズに応えられる時代が来ている。要するにすべての物のストックが増えたために中古品で間に合うのである。クルマも住宅も衣料品も日用品もそうなったのだ。(p167)
 これから10年ほどして,団塊世代の女性が次第に亡くなると,何百万個ものウェッジウッドやロイヤルコペンハーゲンやジノリの食器が日本中に溢れるだろうと私は予想している。娘や息子の趣味には合わない。希少価値もないから古道具屋も買わない。それがゴミとして大量に捨てられ,それを,お金のない人たちが拾って使う。(中略)そんな「拾う時代」が来るだろう。(中略)近年若い世代で人気の建築家に坂口恭平がいる。彼は(中略)ホームレスの人たちのライフスタイルに学んで,物を買わず,拾い集めて暮らすライフスタイルを提案している。そういう提案が,貧乏くさくなく,むしろエコロジカルでエシカル(倫理的)な行為として評価されている。(p167)
 もはや日本のクルマ市場は軽自動車中心であり,一部の富裕層が超高級外車を買っているという状況だ。(p182)
 若い人,特に上流層,大都市居住者にとってSNSは非常に重要な情報源となっている。そしてこのことが,若い世代が都心や繁華街に行かない理由になっていると私は考えている。(p201)
 昔ならば,休日の午後2時に,渋谷のどこかの商業施設に5万人の若い女性が集まったとする。それが今は,SNSで50人ずつ1000ヵ所にバラバラに集まっているのだ。(p202)
 主婦というのは,なぜだか将来展望が明るめな人たちである。(p219)
 面接法だと世間体,恥ずかしさなどの意識から階層を上めに答えがちである。(中略)他方,インターネット調査は実態よりも社会に対して否定的に回答する傾向があるのではないかと,かねてから調査専門家などの間で言われている。無職者,ひきこもり気味の人でも回答しやすいので,下流が増えやすいのである。(p249)

2021年4月7日水曜日

2021.04.07 渡邉哲也 『メデイアの敗北』

書名 メデイアの敗北
著者 渡邉哲也
発行所 WAC
発行年月日 2017.04.27
価格(税別) 900円

● マスメディアが凋落しつつあるのは,すでに誰の目にも明らかだ。自分自身が新聞を読まなくなっているし,テレビを見なくなっているし,雑誌を買わなくなっているからだ。
 古紙回収の日にゴミステーションに行くと,かつては山と積まれていた新聞紙とチラシがない。ダンボールだらけになっている。この光景を見ると,新聞社が発表している新聞の販売部数はウソだなと実感できる。だって,新聞紙がほとんどないんだから。

● そうなった理由と背景を詳細に本書が説いている。インターネットを抜きにしては現在の状況はないわけだが,Windows95が登場したときに,今の状況を描けた人はほとんどいないに違いない。
 本書の白眉は第4章ではないかNHKがどれだけわがままを許された特権組織であるかを,詳しく説いている。そして,とはいっても,そろそろ終わりが見えていることも。

● 以下に転載。
 今は既存のメディアが急速に力を失いつつある。焦ったメディアは裏付けに乏しい憶測を記事にし,真実とは違う「フェイクニュース」(虚偽の情報でつくられたニュース)を垂れ流す。これまでは,そうやって大衆を騙すことができたが,インターネットやソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が発達した現代では,真実を知りたい人々が怒りの声を上げ始めている。(p6)
 その間,トランプ氏はどうやって情報発信をしていたのか。周知のとおり,ツイッターをフル活用していた。(中略)メディアはそれを引用する形で記事にしていたわけだ。(中略)人々とすれば,メディアの情報を見るよりもトランプ氏のフォロワーになった方が早いわけだ。(中略)つまり,新聞やテレビと一般大衆との間で,情報におけるタイムラグがなくなってしまったのだ。(p18)
 メディア業界は基本的に新規参入が難しく,そのため既得権化が当たり前となっている。(p21)
 既存メディアとしては「ネットで見た」という行動を肯定することは自らの影響力の低下を認めることになるため,肯定するわけにはいかない。現存の空撮写真などの古い手法にこだわらざるを得ないわけだ。(p25)
 アメリカをつくったのは確かに移民だが,当時の移民と現代の移民を同列に論じることはできない。当時の開拓民は,身一つで干拓を行うなど国土を整備して,命がけで国家の土台をつくった人たちである。(中略)一方,現代の移民は,でき上がった枠組みの中に入って大国の恩恵を受けようとする人たちだ。国家をつくってきた人たちと,後から入ってきて “上前をはねる” 人たちというのは,本質的にまったく違う性質のものである。(p31)
 トランプ氏のさまざまな発言が意外なほど支持を集めたのは,ポリティカル・コレクトネスに対する反発がある。(中略)この流れは実質的に言葉狩りや言論弾圧と同じ状況をつくり出している。そのため,アメリカ人は「言いたいことを言えない」社会に苛立ち,そこに登場したのがトランプ氏というわけだ。(p33)
 先の選挙は「メディア対メディアを信じない大衆」という構図であったともいえるが,トランプ氏の勝利によってメディアの機能不全が露呈したと同時に,候補者が「広告費」としてメディアに大金を支払う価値を失わせたともいえる。(p39)
 既存メディアは,フェイスブックやツイッターなどを「偽情報が蔓延している」と叩くが,そもそも新聞やテレビも偽情報だらけであり,批判する立場にないのである。(p44)
 何をやっても,どこかで反対する人は存在するし,そもそも都合が悪いからデモを行うわけである。そのため,「誰にとって都合が悪いか」「なぜ都合が悪いか」ということを考える必要がある。(p46)
 民主主義とは「大きな声に従うこと」ではなく「大多数の決定に従うこと」である。(p46)
 本来,政治家の発言をメディアは素直に報じるべきで,いたずらに批判すればいいというものではない。(p58)
 メディア側は「事実」と「評論」を完全に分けて論じればいいのだが,事実でないものを評論したり,単なる評論を事実であるように報じたりしている現実がある。その根底には,これまで情報を独占できたという特権意識と情報を流すことで世論を誘導できるというおごりがあるように思われる。政治家も企業経営者もメディアに嫌われることを望んでいない。このため,単なる私企業の一社員でしかない記者を優遇してきた事実があるのだ。これが間違ったエリート意識を生み出しているように思うのである。(p63)
 これまで「権力の監視役」として大手を振って国や社会を批判する側に立っていたマスメディアが,今は大衆によって評価される側になってしまった。そのため,そうした事実を認識することができなければ,今後,メディアは生き残っていけないだろう。(p65)
 巨大化した広告代理店は,子会社などを通じてクライアント企業の広報業務はもちろん,不祥事やトラブル対応まで請け負っているのが実態だ。クライアント企業の方も,不祥事対応などをさせている手前,広告代理店に及び腰で言いなり同然になってしまっているという事情もある。(p68)
 新聞というのは偏ってしかるべき存在である。なぜなら,言論機関だからだ。言論機関というのは,自らの主義主張を展開するのが役割である。(中略)だから,新聞はそもそも不偏不党を謳っていること自体が間違いであり,お互いに批判し合うのが健全な構造といえるのだ。しかし,これまでは論調の異なる新聞社が護送船団方式で相互に守り合う構造になっていたことが問題である。(p85)
 『日経新聞』の報道には注意が必要なことも多い。(中略)日本随一の経済紙であるがゆえに大手スポンサーのためのちょうちん記事が多いのも事実なのである。(p87)
 このような新聞の飛ばし記事の背景には構造的な問題がある。基本的に,他紙を出し抜く形で特ダネをつかむということは,リークされた情報を元に記事にするということだ。本来であれば,当然ながら,その情報が信用に値するかどうかの裏づけを入念に取る必要がある。しかし,今の新聞にはその裏取りをしている余裕がない。(中略)当然ながら,新聞記者にネタを漏らす取材対象は,基本的に自分に都合のいい情報しか与えない。(中略)そんなリーク情報を裏取りせずに報じるということは,特定の人物にとって都合のいい話をそのまま書くということだ。結果的に,取材対象の思うツボであり,今の新聞はそうやって利用されてしまっている感が否めない。(p88)
 今は誰でも一次ソースに当たれる時代になっており,いわば誰でも新聞記者的な動きができるようになった。そういう時代においては,新聞によほどの価値がなければ,わざわざ読もうという人はいなくなってしまう。(p95)
 必要な人にとって価値がある情報が買われるという構図は,これからも変わらないと同時に,反対に「必要がない」と思われれば見向きもされないことになるわけだ。ひと言でいえば,マス向けではなく特定の人たちに向けた特定の情報を提供し,その価値を競うという時代に変わっていくものと思われる。(p97)
 明治時代には新聞記者は「羽織ゴロ」「羽織ヤクザ」などと呼ばれていた。これは,良い身なりをしながら人や企業を恫喝するなどして,金を取っている者が多かったからだ。そのおこぼれを狙って「口利きで飯を食う広告代理店」と「規制で飯を食う政治家と官僚」が一体となった姿こそが,今のメディアの構図である。(p101)
 これまで,メディアが大きな力を持っていた最大の理由は,「報じることができる」からではなく,実は「報じないことができる」からであった。(中略)しかし,ネットによって隠蔽されていた情報が拡散するようになり,「報じない」というマスメディアの特権も失われることとなった。(p102)
 ネットの世界では「権威」というものがまったく役に立たない。既存メディアの常連ともいえる,頭に「御用」がつく学者や評論家ではなく,ネット上には各分野のプロフェッショナルや専門家が存在しており,即時に情報発信が可能だ。それゆえ,状況によっては,テレビで御用学者が話している内容より,ネット発の専門家のつぶやきのほうが信頼できる構図になっている。(p105)
 マスメデイアはその場その場で情報を提供するだけで,その分析や評価がなされたことは皆無だった。マスメディア側も,そうした構造にあぐらをかいてきたといえる。しかし,ネット上では,ある論説や言説が正しいのかどうか,またその人物が過去にどんな言動を見せてきたのか,などの事実関係を考察することができる。その結果,間違った情報を提供すれば批判の対象となり,大きく信頼性を損ねることにもつながるわけだ。(p109)
 今は娯楽をはじめさまざまなものが細分化されており,全国民の共通認識としての流行など存在しない。そんな時代においても,毎年「流行語」を発表するという体制自体が,もはや「レガシー」となりつつあるのではないだろうか。(p113)
 メディアには,オーナー企業でないにもかかわらず,社主や社長が長々と経営の座に居座っている会社が多い。(中略)その結果として,組織に新陳代謝が起きないという弊害が出てくる。権力や人脈の委譲が正常に行われず,属人化してしまうために,仮に渡邉氏や日枝氏がいなくなれば,それまで保たれていた各方面へのパイプが切れることになりかねない。(p122)
 さまざまなものが細分化するという流れは,メディア自身にも起きている。(中略)その結果,全体的に希薄化するために一つひとつの局や番組の力は小さくなる。それは,情報操作がきかなくなると同時に広告媒体としての価値が落ちることを意味するわけで,経営的にも大きなダメージだ。(p126)
 動画配信サービスが普及したことで,日本のコンテンツの貧弱さが目立つようになってきた。「日本のドラマは面白くないから,動画配信サービスで海外のドラマを見る」という人が増えているのだ。(p129)
 第二次大戦後に日本を占領したGHQは,日本人の怒りが再びアメリカに向かわないように新聞やラジオなどのメディアをコントロールすることで,徹底した情報操作を行った。(中略)そして,その洗脳工作は見事に成功した。世の中に「日本は悪い」という自虐史観を持つ人たちが増えることになったのだ。(p138)
 今,メディアの中核にいる人たちの多くは,こうした反安保闘争などの学生運動の生き残りの世代やその影響下にある人々であり,換言すれば,当時「政府が悪い」「アメリカが悪い」と常に批判だけを続けていた人たちだ。(中略)学生運動の参加者は大卒などの高学歴であっても就職することは難しかった。そして,就職できない高学歴学生の受け皿になったのが,「反政府」や「権力の監視」と唱えていたメディアやお役所(公務員)だったわけだ。(p144)
 テレビ局の利用料は携帯電話会社と比べて安すぎることが問題視されているのが実態だ。(中略)NHKの負担額はドコモの十三分の一である。(p150)
 ネットで購入する人が増えただけであれば,単純に考えて全体の販売数は変わらないが,ネットとリアル書店の消費行動には大きな違いがある。それは “目移り” の有無だ。(中略)ネットの場合はタイトルを検索して買うケースが多く,基本的には自由に立ち読みもできないため,目移りすることなく,本来の目当ての本を買った段階で消費行動が完結してしまう。(p194)
 これは絶対にレガシーメディアには勝てない戦いなのだ。なぜなら,日本にはネットユーザーがすでに一億人近く生まれてしまった。そして,一部メディアが特別なものとして扱いたがるインターネットユーザーこそが大衆であり,メディアにとっての顧客であるからなのだ。(p201)