書名 沖縄の離島 路線バスの旅
著者 下川裕治
中田浩資(写真)
発行所 双葉社
発行年月日 2022.09.18
価格(税別) 1,750円
半世紀前なら本を出して,その中から文庫本になるのが10冊あれば,どうにか印税で喰えると言われていたらしいのだが,今はそんなわけにいかない。文庫も絶版になるし,賞味期限が短くなった。それ以前に文庫が売れなくなった。
● だから,新刊を出し続けなければいけない。コロナで身動きが取れなければ,新刊の出しようもない。けっこう以上に辛い状況だったのではなかろうか。
現在,日本を代表する旅行作家といえば,沢木耕太郎さんのような大御所もいるけれども,下川さんが代表格ということになるのではなかろうか。その下川さんにしても,お座敷はだいぶ減ったのではなかろうか。
● “お家時間” が増えた分,本を読む人が増えたとは思えない。読む人は状況のいかんに関わらず読むし,読まない人は読まないからだ。
コロナ禍は事実上過ぎ去ったといえる状況になったが,従来の延長線上に仕事があるのかどうか。何を書けばいいのか,どう書けばいいのか,を模索しなければいけなくなっているのではないか。今までだって模索はあったに決まっているのだが,深刻さの度合いが深まっているだろう。
と,勝手な想像を巡らせている。大きなお世話だろうな。
● 以下に転載。
僕は長く沖縄とつきあってきた。その間に目にしてきたことは,猛烈な早さで進む本土化だった。沖縄らしさが次々に失われ,日本の一地方に変貌しつつある。(中略)しかし沖縄の離島の路線バスに乗って,なにかが吹っ切れた。沖縄の路線バスは,とことん沖縄だったのだ。(p3)
沖縄の本土化を促進した最大要因はいわゆるIT革命でしょうね。常なるパンクチュアリティーを,ITが人間に要求する。これはもう地域の特性だの何だのお構いなしで,あらゆる地域,あらゆる業種を忙しくした。
「このくらいなら歩けよ」という気分になる。沖縄の人たちは歩くことを嫌うが,ゆっくり歩いても二分なのだ。(p15)
沖縄ではヨモギをよく食べる。本土でもヨモギは食べるが,(中略)火を通す。しかし沖縄では生でそばに載せてしまう。この食べ方を目にしたとき,日とナムのフォーとつながった。ベトナムでも麺に生のハーブを載せる。(中略)沖縄料理は生のハーブを通してアジアにつながっていた。(p20)
沖縄生まれの若い女性の,「沖縄そばはおじさんの食べ物というイメージ」という声を聞いたときは,僕自身,少々うろたえた。(p34)
沖縄の人は皆,泡盛ばかり飲んでいた。(中略)沖縄はそいういう土地だと思っていた。それがブームというものの怖さだと知ったのは後のことである。(中略)いま沖縄の人たちは,沖縄そばから離れ,ハイボールのグラスを手にする。それは無理などせず,好きなものを口にするようになっただけのことではないのだろうか。(p35)
宮古島の路線バスは,始発と終点を単純往復するのではなく,途中からぐるりと一周する周回路線が多かった。(中略)つまり,終点という発想ではなく,目的地によっては,かなり遠回りをして到着するという乗車法になる。(p39)
宮古島のバスの乗りつぶしを面倒にさせている理由のひとつが,バスターミナルがないことだった。ターミナルがあれば,そこを軸にして乗り尽くしていく順を組み立てていくことができる。しかしそんな拠りどころがないと,どんな組み合わせもできるようで,いざ実際のルートを考えるとすぐに行き詰まってしまう。(p40)
端数もちゃんとあるから,「まあ,九百円ぐらいにしておくか」といった金額ではない。沖縄の人は,こういう面では本土以上に律儀な面がある。いい加減に映るのは,元の構造が杜撰ということが多い。(p70)
どうしてそういうことを考えるわけ? 宮古の人は誰もそんなことは考えんよー。運転手が口にした運賃が運賃さ。(p72)
カレー粉と合成酢。これは昔ながらの食堂であることを示すアイテムだと思う。(中略)料理人はこの味変を素直に受け入れられるのだろうか。(中略)料理人は完成品としてひとつの料理を出すはずだ。麺料理なら,麺とスープの微妙なバランスが味を左右する。それを客が勝手に変えてしまうというのは,料理人には失礼な行為に映ってしまう。(中略)ところが沖縄では,味変はあたりまえのように行われていた。(p74)
これは本土でもあたりまえのように行われていたし,今も行われているのでは。高級レストランは別にして,B級グルメ的な食堂では最後の味はお客が作るのが普通だ。沖縄に限ったことではない。
さすがに本土ではカレー粉と合成酢ではないだろうけど,味変を許さない食堂はないのでは。
沖縄のウィルスへの怖がり方というか警戒の温度は,日本のほかの地方とは違っていた。沖縄本島と離島の間にも温度差があった。動きが遅い沖縄本島に比べ,離島の人たちは敏感だった。(p77)
島の外から入ってくるものへの警戒心。それと同時に,外来文化を積極的にとり込んでいく顔。沖縄は常に,そのバランスの中で生きてきた。(p79)
長崎に代表される出島という発想は,江戸時代の鎖国体制を下敷きにして語られることが多い。しかしウイルスや細菌が引き起こす感染という視点を当てると,ある種の水際対策という解釈もなりたってくる。(p80)
深く考えないこと・・・・・・。これは沖縄ではよくあることだった。彼らには悪気はまったくない。むしろその逆で,利用者へのサービスとしてはじめたのだろうが,その先の詰めが甘いから,矛盾が生まれてしまう。いや,そう思うのは本土からやってきた人たちだけで,島では,そよそよと暖かい風が吹いているだけなのだが。(p93)
こういう生き物(イリオモテヤマネコ)がいる島の人たちは愚痴っぽくなる。(中略)「この島じゃ,人間より,イリオモテヤマネコのほうが大事さ!」泡盛の酔いがまわると,そんな冗談をよく耳にする。(p114)
本土では,アメリカ軍の基地や施設に忍び込み,食料や薬などの物資を盗みだしたという話はあまり聞かない。しかし,沖縄では,アメリカ軍基地から物資を盗むという状況が起きる。それは危険な行為だったが,彼らはそうやってアメリカと戦ったのである。(p136)
大変なことを先にすませるか,簡単なものから攻めていって最後にあたふたするか・・・・・・。僕はやはり後者なのだろう。こういう性格だから旅をつづけてきた気もする。旅というものは計画通りにはいかない。しっかり計画を立て,それをこなしていくことに快感を得るようなタイプはストレスが溜まる。厄介なことは先送り・・・・・・その精神だと思う。(p144)
石垣島は沖縄本島や宮古島などから移住した人が多い。沖縄のなかの合衆国のような島である。その気風は沖縄本島に通じるところがある。石垣市はミニ那覇の雰囲気すらある。(p145)
沖縄の人たちにとっておでん屋は,完全に飲み屋である。(中略)が,最近,少し様子が違う。若い女性ふたりの観光客やカップルを,かなりの確率で目にするのだ。(中略)常連客は,「俺たちの世界にずけずけ入ってくるなよ」といいたい空気を背中で発信している。しかし若い女性やカップルは,そういう雰囲気に無頓着だから,ガイドブックに書かれていた「絶品おでん」といった見出しを頼りに,繁華街の路地に分け入ってくるわけだ。(中略)流れはもう止められないことも知っている。(p178)
沖縄本島と離島の距離感を,本土にあてはめたら,隣の県への距離以上あるんです。(中略)それが離島の距離感なんです。新型コロナウイルスへの対応を考えたら,本土の各県が独自の宣言を出すのと同じなんです(p180)
台風が去った沖縄の海は穏やかだった。沖縄の海はたまに,海の神様が休養をとっているのではと思うほど静かになることがある。(p183)
沖縄でのんびりしたいといっても,日程をたてるのは自宅である。その時点では本土の空気や仕事といったものの時間間隔に支配されているから,伊平屋島まで,バスとフェリーで片道四時間半と耳にすると,どうしても敬遠してしまう。(p206)
この離島度がコロナ禍では,渡航規制に影響する。渡航規制は主に観光客に向けて出されるものだから,離島度が高い島ほど,規制の解除が遅れることになる。観光客の渡航を止めても,島の経済にそれほど影響はない。それよりも島民の感染を防ぐことにシフトしていく。(p207)
本土からやってきた人は,アジアの屋台文化が沖縄にもあるようなイメージをもつ傾向がある。そのなかで生まれたスペースが『国際通り屋台村』という気がする。そう,本土の発想で演出された沖縄・・・・・・。沖縄の人たちは,冷房のない野外での飲み会があまり好きではない。(p265)
沖縄料理のひとつの特徴。それは揚げることだと思う。(中略)焼くという料理法が省略されてしまっている気がする。(p267)

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