2018年12月31日月曜日

2018.12.31 岩城宏之 『オーケストラの職人たち』

書名 オーケストラの職人たち
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 2002.02.25
価格(税別) 1,524円

● 指揮者と演奏者がいるだけでは,コンサートを催行することはできない。裏方の人間がいなければ。
 その裏方の仕事を,というより傑出した裏方人のエピソードを,著書ならではの視点でご紹介。

● 以下にいくつか転載。
 世界一のステージマネージャーがいるオーケストラは,必ず世界一流である。逆もまた真だ。(p24)
 弦楽器の名器は,死蔵しておいたらダメになってしまうのである。ヨーロッパやアメリカの音楽好きな金持ちは,手に入れた名器を,これはと目をつけた優秀な若い奏者に,タダで貸し与えている。よい楽器は,上手い奏者が引き続けていると,ますますよくなるのだ。下手なのが弾くと,楽器もダメになる。でも金庫にしまっておくよりは,まだましかもしれない。日本中に,成金の名器コレクターたちが,何人もいる。企業として買いあさったところも多い。世界中の数少ないクレモナの名器の多くを,殺しているようなものだ。文化への犯罪だといいたい。(p72)
 準備万端整うのを待っていたら何事もできないから,まず決行するのが,ぼくの主義である。(p101)
 日本も含めて世界中,お医者さんには音楽好きが多い。ひと頃,NHK交響楽団の定期会員には,聖路加国際病院の医師や看護婦さんが,実にたくさんいた。ひとつの企業(?)の中の,オーケストラ定期会員率というデータがあれば,おそらくこの病院がナンバーワンだったろう。現在でも,多分そうだろうと思う。(p112)
 写譜のミスよりも,むしろアレンジャー--作曲家のスコアのまちがいの方が多いものである。(p122)
 勘がよく,能力のある楽員は,最初に目を通す,つまり初見で弾くときに,写譜の間違いの音を,直観で正しい音に直して,演奏するものである。(p145)
 聴衆の耳は常に保守的であり,聴き慣れた音楽を好む。(p152)
 元を正せばすべて親類関係なのだ。区別するために仕方なくクラシックとかジャズ,演歌などと言っていることから,差別や逆差別,得体の知れない優越感やコンプレックスが生まれたのではないか。(p159)
 彼らは当然,仕事の安全な利益を考える。ひと月に一度は音楽会に足を運ぶと予測するクラシック愛好者を,人口の二パーセントと計算しているそうである。(中略)毎月一度というのは,ちょっと希望的すぎると思う。(p160)
 本当のことをいうと,自分で外国のオーケストラを指揮するのは,仕事であるというより,ぼくの最高の嬉しい趣味なのだ。とんでもないことを書くが,ほかの日本人の音楽家の演奏を観るのは,どうも好きじゃない。(p165)
 ピアノ技術研究所に入ってまずショックだったのは,あれだけ親しんできたピアノの音がわからないことでした。(中略)ピアノの調律の音としての響きが聞こえなくて,ピアノの音楽しかきくことができないわけです。(瀬川宏 p200)
 あるレベルまでは機械調律でもっていくことはできます。でも,曲を弾くとなると,塩加減というのかな。スープは飲み始めにちょっと薄いと思うくらいのが,最後まで飲んだとき,本当においしいですよね。ぼくらの仕事にもそれがあるようなんです。断言はできませんが。でもそうじゃないかな,と思うんです。(瀬川 p206)
 本来オーケストラというガクタイ集団は,演奏が終わるやいなや,一刻も早くステージから出ていきたい本能の持ち主なのだ。(p212)
 驚いたことに,大勢の客が,他の人の邪魔にならないように,静かに立ち上がり,足音をしのばせて,そーっと会場を出て行ったのだ。『ドナウ』が終わるころは,お客は三分の一くらいになっていた。ぼくはこの聴衆のあり方に,すごく感動した。彼らはもちろんウィーン・フィルの『ドナウ』が好きなのだ。だが,ベートーヴェンの「運命」の白熱した演奏の興奮のあとに,この美しいワルツを聴きたくなかったのだ。ベートーヴェンの感動だけを胸にしまって,その日をおしまいにしたかったわけである。なんでもかんでも拍手して「タダのおみやげ」を,何曲も聴こうというレベルではないのだった。(p228)
 先の音楽会の宣伝も今日の音楽会が終わってからでなく,開始の前に配るのが重要だと思います。つまり,食べ物のことは,これから食べる食事とは関係なく,食事前に考えたほうがいいと思うんです。終わったばかりでは,次の食事のことは考えませんからね。(佐藤修悦 p247)

2018年12月27日木曜日

2018.12.27 岩城宏之 『指揮のおけいこ』

書名 指揮のおけいこ
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1999.05.30
価格(税別) 1,524円

● 達意の文章。達意というか,しなやかな文章。音楽家の多くは本を読まないらしい。何となく納得する。活字がかったるくなるのではないか。一流の音楽は一流の文学を超えるし。
 最も面白かったのは,暗譜で振って失敗した話。なるほど,こういうことが起こり得るのかと。

● 以下に転載。
 テンポの違いとか解釈の相違も重大だが,音色に関しては曲の最初から最後まで,無限の組み合わせが連続するのだ。つまり指揮者は,オーケストラにピタリと合奏させるために存在するのだけれど,物理的にピタリとは絶対にいかないからこそ,存在理由があるわけだ。(p9)
 ほとんどの楽譜は演奏したあとで捨てる。なまじっか持っていると,継ぐに指揮するときに,自分の書き込みとかメモに頼って,勉強しないでやってしまう。だからいちいち新しいのを買う。(p14)
 奏者たちは指揮棒の先など見ていない。指揮者の目を見ているのだ。(p19)
 指揮者なしだと,オーケストラはいわば安全運転をするので,テンポの動きや表情の幅が希薄になる。このことのために,指揮者の存在理由があるのだ。(p26)
 大抵の「ガクタイ」は長いリハーサルが嫌いだ。(p52)
 指揮者はリハーサルでしゃべりすぎてはいけないのだ。楽員たちは,解説やおしゃべりの多い指揮者を,最も嫌う。つべこべ言わずに,自分のやりたい解釈を指揮棒で表現しろ,というのだ。(中略)不自由な外国語だと,余計なことを言う余裕がない。(中略)ところが母国語だと(中略)延々としゃべってしまう。(p56)
 ヨーロッパ語には音楽上のニュアンスを一言で表す単語が豊富だ。(中略)ぼくの英独仏語はイイカゲンなものだ。本当はデタラメをやっているに違いない。だが,このデタラメでイイカゲンで嬉々として仕事をする,ということが,肝心なところなのである。どの国の指揮者にとっても,自分の国のオーケストラとの仕事が一番難しい,と書いた。お互いわかり過ぎている関係には,チンプンカンプンが起こり難いからである。「アバタもエクボ」は,とても大切なのである。(p63)
 新聞の音楽会広告を眺めていると,みんなダラダラと絶え間なく仕事をしているように見える。余計なお世話かもしれないが,心配してしまう。(p69)
 指揮者に限らず,一,二パーセントの例外を除いて,音楽家は活字というものを読まない種族である。(p69)
 指揮という仕事は,オーケストラの真ん中でカッコよく両手を振っている商売と思われているが,あの動作は,水面に出ている氷山の一角なのである。(中略)水面下の圧倒的な大部分は,スコアの分析である。(中略)その上で,自分が再現したい理想の演奏を,ひたすら「思う」のである。指揮とは,この「思い」だけだと言っていいのだろう。(p88)
 巨匠たちは「枯れた美」そのものだった。九十歳の女性指揮者の「枯れた美」はいかがなものか。(p97)
 その場の雰囲気のための潤滑油としての罪のないウソを,女はつけないのである。だから指揮者には向かない。(p98)
 事故に直面したとき,ガチャーンの前に,キャッと叫んでハンドルから手を離してしまう女性ドライバーが,かなり多いそうだ。(中略)指揮者は,練習と本番のどの瞬間でも,絶え間なく事故の防止に神経を遣わなければならない。(p99)
 そして最初のミスっぽいのは,指揮がどこかでヘンだったことからくる。事故のほとんどの原因,遠因は指揮者からと思っていれば間違いない。(p99)
 『春の祭典』の演奏の難しさは,身も心も疲れ果てているときに,最大の難所がくることにある。(p122)
 大事故の原因は,頭の中にフォトコピーした架空のスコアをめくっていたとき,いつものくせで,うっかり二ページ一緒にめくってしまったからだった。というより,そのうっかりの映像が,目の前に出てしまったのだ。(p126)
 「巨匠」となるのは,冥王星に旅行するより難しい。「巨匠」は多くの「名指揮者」の中で,特別に巨大なエネルギーを持ったバケモノなのである。(p133)
 大物指揮者になるための一番の近道は,ユダヤ人になることだ。指揮者に限らず,世界的な演奏家の九〇パーセント以上は,ユダヤ人である。(p137)
 もう一つ,世界的な大物の音楽家であるための,強力な資格があるのだ。ホモセクシュアルである。この割合も,過半数をはるかに越える。(p138)
 指揮者はオーケストラにどんな瞬間も採点されている。(p139)
 目を瞑りっぱなしなら,自宅でCDを聴いているのと,同じではありませんか。(中略)せっかくナマの現場にいるのなら,素晴らしい演奏をしている音楽家の動作の美しさを,時々は目を開けて見てほしい。(p145)
 問題は,やたらに大仰な身振りの,何もかもダメな指揮者がいることである。しかも(中略)聴きわける力のない,多くの聴衆は,カッコいいと思われてしまうヤカラがたくさんいるから,困るのだ。(p146)
 ウィーン・フィルの定期演奏会は,日曜日の朝十一時である。定期会員は座席を親子代々受け継いでいるから,旅行者がこの定期演奏会を聴くのは,まず不可能だ。(p162)
 最近聞いた話だが,東京近辺だけでも「指揮で食っている」人間が,少なくとも千五百人はいるのだそうだ。(p186)
 どんな楽器と比較しても,指揮棒は恥ずかしいほど安いのだ。せいぜい二,三千円のものを,絶対に折れないから得だと思って買っていくような根性で,相手がアマチュアのオーケストラでもコーラスでも,指揮をしようというのが間違っている。(p193)
 指揮は,頭の中で自分の理想の演奏状態を架空に作り上げ,それを両腕と顔を使って,オーケストラに伝える。(p199)
 あらゆるスポーツにとって最も大切なことは,「力を抜く」である。スポーツに限らない。人間の動作や行動のすべてにあてはまる。だが,「力を抜く」とはどういうことなのだろうか。(中略)力を抜くためには,まず,あり余る力が必要なのだ。(中略)あれは要するに,合理的な力の出し方を言っているのだと思う。(p210)

2018年12月23日日曜日

2018.12.23 岩城宏之 『棒ふりのカフェテラス』

書名 棒ふりのカフェテラス
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1981.05.01
価格(税別) 980円

● 40年前に出たものだけれども,古さは感じない。どの分野でも文才のある人はいるもので,音楽界では故岩城宏之さんがその代表だろう(探検家では角幡唯介さん)。こうした人たちの文章を読めることは,幸せのひとつに数えていいと思う。
 これは交友録なのだが,つまりは書き手が自分を語ることになる。

● その交友の相手は次のとおり。
 マルタ・アルゲリッチ
 レナード・バーンスタイン
 千葉馨(N響ホルン奏者)
 ディーン・ディクソン

 延命千之助(N響事務職員)
 ジャン・フルネ
 ジョージ・ゲイバー(NBC交響楽団のティンパニー奏者)
 ヤシャ・ハイフェッツ

 オイゲン・ヨッフム
 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 ウィルヘルム・ロイブナー
 黛敏郎

 中村紘子
 長田暁二(レコードディレクター)
 ペンデレツキー(作曲家)
 邱捷春(作曲家)

 スヴァトスラフ・リヒテル
 アイザック・スターン
 武満徹
 ハンス・ウルリッヒ(バンベルク交響楽団バイオリン奏者)

 ニノ・ヴェルキ(オペラ指揮者)
 渡辺暁雄
 ヤニス・クセナキス(作曲家)
 山本直純

 ニカルノ・ザバレタ(ハーピスト)
 ルービンシュタイン

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 言葉では言えない音楽家同士の戦いがあって,特に指揮者と独奏者の場合,その最初の一発でコンチェルトの主導権が決まってしまう。(p9)
 この日の彼(バーンスタイン)は朝十時からニューヨーク・フィルと新日本フィルの野球の試合で大騒ぎをし,午後は東京見物をし,その後は朝の五時までここに書いたとおりだったのだ。スーパースターの狂気のエネルギーとしか言いようがない。(p23)
 アメリカのオーケストラは,市民達の援助で成り立っている。国や州には助けを求めず,したがって介入もさせず,自分達の文化は自分達の手で育てる,と流石はデモクラシイの本場の国だ。(中略)が,問題も大いにある。(中略)膨大な数のスポンサー達の大半が,おばあちゃんたちなのである。要するに金持ちの未亡人,有閑マダムのスノビズムが,その街の音楽を支配することになる。(p34)
 芸事とは所詮,人に夢を売ることだろう。芸人自身に夢はなくとも,人さまが夢を感じれば,その芸事は成功といえるだろう。(p53)
 ぼくは音楽ファンと音楽の話をするのが苦手で,こういう人達は大抵すごい物知りであり,嘗ての自分の姿を見てしまうのに苦痛があるのだろうか。専門になると深く狭くならざるを得ない必然が,広く浅い知識を持つことの出来る暇のないことへの嫉妬を感ずるのかもしれない。(p62)
 目下,山口百恵さんがぼくの神様だから,世界中彼女のテープを持って歩いているが,たまに日本に帰った時にテレビでお顔を拝めれば,十分に満足で,というよりは,そうでなければならないのだ。好きだ,ファンだと称して週刊誌で対談している作家の方々は,ファンとしてはニセモノに違いない。(p68)
 ヘルベルト・フォン・カラヤンという名前,つまりフォンという字が入っているから貴族のような名前なのだけれど,ぼくは一度彼のパスポートを覗いたことがあるのだが,ヘリベルト・カラジャンとあった。(中略)だから,大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンという名は,もしかしたら芸名だと言うことができるかもしれない。(p87)
 ヨーロッパの中央文化地帯は,長い歴史を,侵略,被侵略のくり返しで過ごしてきて,そもそもが何人だ,ヤレ何人でないなっていうことを神経質に考える必要がないのかもしれない。(p88)
 突然,カラヤンが指揮を中断して,こっちを向いてどなった。「うるさい! こんなにうるさくて,練習ができるか。あの電車を止めてくれ。イワキ,電話をかけて止めさせろ」(中略)カラヤンは,電車の騒音に楽員たちがイライラし始めたのに,先手を打ったに違いない。(p94)
 この人(カラヤン)は,世界中のありとあらゆる知り合いが何語で話すのが得意かを,コンピューターのように記憶していて,何年ぶりで会っても,ヤア,しばらくからして,その人用の言葉をしゃべるので有名だ。(p96)
 もしかしたら世界の音楽ファンのうちの半分が,アンチカラヤンかもしれない。真の偉大なスターにはこういうことはつきものであって,アンチが強烈であればある程,実はやはりカラヤンファンなのだと思うのだ。(p100)
 人気がありすぎることからくる,カラヤンへの世界中の誤解という,不幸も実に膨大ではないのか。彼の指揮者としての恐ろしいまでの才能と能力については,世界中のカラヤンファンの,いったい,何分の一が知っているだろうか。(p100)
 カラヤンは有馬(大五郎)さんに,しみじみと言ったそうだ。「世界中の人間は,自分のことをこれだけの地位,人気を保っているのだから,さぞや自分が政治的にも,実務的にも,権謀術策的にも,あらゆる手を使っているだろうと思っているだろう。そういわれていることはよく承知している」といいながら,カラヤンは右の腕をさすって,「だがなあ,アリマ,本当はこの右手一本だけなんだぜ。この歳になっても音楽の勉強をし続けて,この右手で表すことだけをやっているだけなんだ」と少し寂し気に笑ったそうだ。(p101)
 それにしても,日本のオーケストラは,どうしてその時の指揮者の国籍によって,こうも違ってしまうのだろう。その抵抗のなさ加減に,時には寂しさを思うことがある(p110)
 ドシロウトの二人がやっても,日本人が日本の楽器を持つと,どちらかがかける「イヤーーアッ」のあとの「ポン」が絶妙にピッタリ合って,西洋風に三,四と指揮をされたって,こうは合わないね,とぼくが感心すると,だから「阿吽」というんだと,作曲者(黛敏郎)は威張るのだった。(p117)
 どうもこの人は,何の音も分かっちゃいないらしい。もしかしたらオンチらしいのだ。だが,演奏が上手く行った時に,長田さんが出すOKは,実に,実に的確なのだった。(p136)
 原爆のことなど,全然イメージになくて書いた「作品何番」は,ただの「作品何番」としてもすばらしい曲なのだ。だが,「広島の犠牲者のための哀歌」としてこの曲が世に出なかったとしたら,あんなに早く,世界の,いわばスーパー・ヒットになっただろうか。(p141)
 所詮,ソリストたちは名人芸的に勝手に弾きまくり,指揮者たちはそれにヒョイヒョイとテンポを合わせてやり,合わせ方のうまいのがコンチェルトの上手な指揮者であって,しかも合わせてやったぞ,ザマアミロ,というのがコンチェルトだと思っていた。(p154)
 昨日あなたはパリで音楽会をやったそうだが何をやったか。ムソグルスキー=ラヴェルの「展覧会の絵」でした。ああ,あれはすばらしい。だけど私はやっぱりラヴェルのオーケストレーションの方ではなく,ムソグルスキーのピアノ曲の原曲の方が好きだ,と言って彼(リヒテル)は弾きだした。もうそうなったら曲を愛するあまり止まらないのだ。(p155)
 「今年は,音楽界を二百九十回やってしまった。いくらなんでも,これは多すぎる。来年からは数を減らして,もっとじっくり音楽にとりくもうと思うんだ」,と十年程前,アイザック・スターンに言われて,仰天したことがある。(p159)
 ある一人の指揮者が,そのオーケストラの一年中のスケジュールをやったと仮定すると,これは体力と気力の問題で,全く不可能だ。なにしろこの商売,やはり神経と体力をベラボウに使うから,なんとか,人様よりはたくさんの休みを,つくらなければならない。それに,何日にいっぺんずつの休日も大切だけれど,夏の頃に,一ヶ月か二ヶ月の休暇をドカンととらなければ,次のシーズンがだめになってしまう。(p162)
 スターンだけではない。世界中の超一流の演奏家の九〇パーセント以上が,ユダヤ人だと言える。彼らのほとんどがこんな調子なのを見ていると,ユダヤ人の体力,気力その他もろもろのすべてのエネルギーが,全世界の民族の中で飛び抜けていることに,改めて驚嘆するのだ。(p162)
 日本の音楽ファンには,きびしい面というか,まあ,本当のことを言うと,後進的な面があって,例えば,カラヤン,ベルリン・フィルが演奏中にミスをやると,ああ,彼等もやはり人間なのだ,と感激するくせに,ちょっと名を知らない音楽家や団体がミスをすると,すぐに三流だと決めつけてしまうところがある。(p182)
 世界中のほとんどのオーケストラでは,二人ずつ並んでいる絃楽器奏者の席順は,前から後に,収入の順を表すのだ。技術の順でもある。きびしいことである。(p183)
 オーケストラというのは,ハッキリ言ってしまえば軍隊である。(中略)軍隊というのは,将校と兵隊とだけで成り立っているわけではない,と思うのだ。古参の下士官というのがいて,両方をつなぐわけだ。(p183)
 今現在の文化活動的レベルがそう高くなくても,歴史の中のある時期に,一時世界を制覇した国の末裔がやっている芸術には,時々,途方もない個性や大きさが出てきて,非常におもしろい。(p205)
 早くから社会保障がゆきとどき,国民全体の生活レベルが世界一高い国にも,魅力のある芸術は育たないようだ。(p206)
 こういうパーティーでは,ひとしきりグラスで歓談のあと,メインゲストは別室に招き入れられ,当家の主人と少人数で正式なディナーが始まるものだ。(中略)このメインの部屋でわれわれといっしょにディナーを食べる人は,それこそ特権階級的な人というわけで,だから,相当なジイサン,バアサンばっかりである。(p226)
 自分は練習が嫌いなたちなので,部屋で一人でさらっていると全然一生懸命やらないものだからなんにもならないから,お客の前でやる時が,その曲の次の時のための練習だと思っている。お客がいっぱいいると一生懸命に練習ができる,など恐ろしいことを言って笑うのだ。(p231)

2018年12月18日火曜日

2018.12.18 嶋 浩一郎・森永真弓 『グルメサイトで☆☆☆の店は,本当に美味しいのか?』

書名 グルメサイトで☆☆☆の店は,本当に美味しいのか?
著者 嶋 浩一郎
   森永真弓
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2014.09.19
価格(税別) 1,400円

● ベルリン・フィルもユーチューバーであるとか,グーグルやFBを立ち上げたときに「あなたの携帯電話の番号を入れてください」というポップアップ画面が出るときがあるが,迷わず入れるべしとか,モヤモヤのいくつかが解消された。
 高校生がLINEとTwitterをどう使っているかの解説も勉強になる。

● 以下にいくつか転載。
 映画をチェックする場合です。じつは,注目すべきは★の数よりも,口コミの件数なんですよ。過去に映画のレビューに関してデータ解析をしてみたところ,興行収入と連動していたのは,★の数よりも口コミの件数のほうだったんです。(p23)
 「・・・・・・まずは自分で行ってこい,話はそこからだ」と。一回も行ったことのないお店をセッティングできてしまうなんて,重度の集合知依存症ですよ。(p25)
 「損しない,失敗しないものを選ぶ」ということを,重要に思いすぎているんじゃないかな。本当は,失敗や想定外のことからこそ,新しい発想や,偶然の発見が得られるんだけどね。(中略)あんまり,効果効能を事前に求めすぎるのは,逆にもったいないよ。(p26)
 読み方のコツとしては,低い点数をつけているレビューから読むことです。(中略)低い点数のレビューを確認して,その内容が自分にとって許容できるレベルの悪いことかどうかを判断すればいいんです。(p46)
 “ユーチューバー”として有名なのは,レディー・ガガ。一説にはCDの売り上げよりも,YouTubeのほうが大きな収入源になっているともいわれます。(p98)
 ベルリンフィルも“ユーチューバー”なんですよ。すごく質のいい音源をYouTubeに上げてるんです。(p99)
 “ユーチューバー”として評価されるには,コンスタントに出し続けなくちゃならないところが大変なんですけどね。一発屋はダメなんです。(p102)
 自分のアバターが適当な格好をしているのを「恥ずかしい」と思う。それは「アバターに,自軍を表現するような人格を持たせたくなった」ということだよね。アバターが持つものは,デジタルで架空のものであっても,自分の欲しいものになる。(p127)
 何か自分が好きな領域がある人だったら,ブログを試してみるチャンスかもしれない。でも,ちゃんとそこで稼ぐつもりなら,その業界の中でトップ数パーセントに入らないと難しい。(p170)
 LINEのトーク機能がリアルを凌駕していったのはわかる。リアルだと更新をかけないと情報が新しくならないけど,LINEなら勝手に情報が飛んできて,いつでもタイムリーな状態で便利だから。(p205)
 若い人たちにとっては,LINEのトーク機能はリアルが高速化したチャットで,タイムライン機能がリアルとブログの間ぐらいのポジションと理解するといいと思います。大人が理解するとしたら,完全に友達限定のフェイスブックぐらいの存在って感じですかね。(p206)
 大人はあまり使ってないので実感がないかもしれませんが,タイムラインに流れてくる企業のアカウントについている「いいね」の数を見ると,じつはフェイスブックよりも(LINEの方が)ユーザーがずっと多いことがわかります。(p206)
 LINEが学校や部活などの人間関係中心のコミュニケーションツールなのに対して,ツイッターは趣味を軸にしています。会ったことがない人同士でも,趣味が合えば,ツイッターで友達になっているという感じ。(p208)
 デジタルツールの進化に合わせてコミュニケーションを拡張する方向にひたすら活用されるばかりで,ずっと使っているわりに,意外と(高校生の)デジタルリテラシーは上がってないんですよね。(p210)
 昔から,コミュニケーションのスピードを急ぐ欲求の強い人って,常にある割合で存在していましたが,LINEというツールでその人たちの欲求が強く出てきたのかな,と。(中略)そういうことを言い出す人が1人でもいると,村社会っぽくなってきてしまう。(p213)
 フランス語やドイツ語や中国語など,英語以外の外国語を翻訳する場合は,いったん英語に翻訳するのがお薦めなんです。(中略)このひと手間で,翻訳の精度が上がりますよ。(p226)
 ネットニュースはちょっとB級なものというイメージもあるよね。だけどこの5年くらいで,そのトレンドが変わってきているんだ。それは,出版社がネットニュースに参入し始めたから。(p244)

2018年12月15日土曜日

2018.12.15 石原壮一郎 『SNS地獄を生き抜く オトナ女子の文章作法』

書名 SNS地獄を生き抜く オトナ女子の文章作法
著者 石原壮一郎
発行所 方丈社
発行年月日 2017.10.03
価格(税別) 1,200円

● まず,いくつか転載。
 LINEは用件を伝えたりやり取りを楽しんだりするのは向いていますが,深く語り合うことには向いていません。つい長文を書いてしまう癖がある人は,あえて「そっけないメッセージ」を心がけるぐらいでちょうどいいでしょう。(p106)
 世の中には,怒りをぶつけられないと,自分が悪いことをしたと気づけない人がたくさんいます。(p110)
 SNSが広まったことで,世の中にはいかに「かまってちゃん」が多いかが浮き彫りになりました。自分の中の「かまってちゃん要素」にも気づかされます。(p146)
 正論を堂々と書くだけでも恥ずかしいのに,さらに「自戒を込めて」の連発。そもそも「自戒を込めて」には,俺っていいこと言うなあと勝手にドヤ顔している傲慢さと,ちゃんと我が身も振り返っているので突っ込まないでと予防線を張っている姑息さと,そういう印象を与えることに気づかない愚鈍さが込められています。(p154)
 エアリプのつもりじゃなくて,単なる独り言に対しても,「自分のこと?」と思う人が現れがち。それはTwitterの宿命と言っていいでしょう。(中略)この手の誤解に耐えられない人は,Twitterには向いていないと言えるでしょう。(中略)気をつけたいのが,自分が誰かのtweetにギクッとして,「それ,私のことですか?」と聞いたり思ったりすること。勘違いだったとしても実際に自分のことだったとしても,聞いたとたんに「すごくめんどくさい人」になってしまいます。(p159)
 予想外のクソリプ攻撃を受けると,「自分の書き方が悪かったのかな・・・・・・」などと反省したくなります。あえて煽ろうとしたならともかく,反省する必要はまったくありません。何を書こうが,どういう書き方をしようが,クソリプは湧くときは湧きます。(p165)
 カチンと来る事態が起きたときに,いちいち気にせずスルーする勇気を持つことは,Twitterに振り回されないための必須条件です。(p166)
 クソリプ気味のtweetに抱く感情は,ある種のリトマス試験紙です。「あなたがクソリプに舌打ちするとき,クソリプもまたあなたをせせら笑っている」という一面があることも,頭の片隅に置いておきましょう。
● こんなに面倒なら,LINEもFBもやめてしまった方がいいんじゃないか。FBやLINEなど,ネットで文字のみのやりとりが簡単にできるようになったのは,いいようで悪い。ハードルが低いから,みんな飛びつく。飛びついて疲れてしまっているのではないか。
 いつでも“友だち”が侵入してくるということでもある。外界を遮断して一人の世界を作ることができない。内と外の区別がない。いつでも外になってしまう。

● スルーできればいいのだが,それもしづらいだろう。FBはそれでも友だちの数だけの広がりを持つが(実際には友だちの数分の1程度の広がりか),LINEだと結構な閉塞感を味わうことになりそうだ。
 遠慮なく既読スルーができる人しか使ってはいけないものかもしれない。が,そういう人からは逆に友だちが離れていくだろうから,彼(彼女)はLINEには残れないだろう。要するに,LINE耐性のある人はLINEからはじかれる。何だかなぁ。

● FBやLINEは告知や指示や依頼には向いているが,雑談的なコミュニケーションには向かない。というより,雑談的コミュニケーションをネットで文字だけでやろうとするのが間違っている。ネットでリアルのコミュニケーションを代替,補充できるとは思わない方がよい。
 ネット上のつながりをつながりと思ってはいけないというのは,ネットリテラシーのイロハのイだろう。

● 君子の交わりは水のごとし,ではないけれど,雑談的コミュニケーションにも適正濃度があると思う。LINEはその濃度を上げすぎてしまう結果をもたらすことが多いのでは。
 とはいっても,ママ友だと,LINEでつながっているいないで,仲間はずれ的な位置におかれてしまうことがあるんだろうか。厄介ではあるけれども,基本的に友だちにすり寄る必要はないと思う。

● ぼくはネットでの個人対個人のコミュニケーションは煩わしいだけだと思っているので,FBはやめたし,LINEも相方としかやっていない。ネットで個対個のコミュニケーションはやらない。向いていない場でそういうことをするのは愚というものだ。
 ネットは基本,告知の場だ。Twitterやブログで自分が何をしているのかといえば,自分はこんなことを考えてますよ,こんなことを思いつきましたよ,という告知なのだ。

● だからネットは告知で溢れることになる。告知する(書く)人ばかりになる。その告知を受ける(読む)人がいない。
 が,それでもネットは告知に向いているのであって,個対個の関係を新たに築いたり,それを維持するための手段としては向いていない。

● 場に相応しい使い方をしていくのがよい。あとは告知の内容(コンテンツ)の勝負になる。面白いコンテンツ,読むに耐える文章を書くことだ(と言い聞かせねば)。
 PVのために書くのではないが,告知した以上は反応があった方がよい。自分は反応しないくせにそう思う。
 だから,告知のあとは競争なのかもしれない。限られた市場の中で自社製品を売りこんでいくのと同じ。それなりの工夫が必要なのだろうが,その工夫の前に,自社製品の品質を高めていくベーシックな努力が必要だ。勉強しなくちゃ。

● リアルでも文字は個対個のやりとりには向いていない。文字ってのは記録のために使うもので,雑談やコミュニケーションのためにあるものではない。
 ネットは告知に向いていると言ったけれど,ぼくはリアルでも個対個のコミュニケーションをあまりしたくない人間だ。リアルでも告知だけしていたいのだ。リアルよりネット向きの人間なのだと思っている。
 それゆえ,文字でのやりとりの方がいいというのは,リアルの世界で生きていくのがヘタなタイプに属すると考えていいと思う。

● これからはネットの比重が高くなるから,文字でのコミュニケーションが重要になると言われることがあるが,逆にいうと,それは人間本来のあり方からすればイビツな形なのかもしれない。
 音声から文字に比重が移っていくのは,たぶん間違いないのだろう。ネットが文字を光の速さで遠くまで届くようにしたから。
 ぼく一個にとってはそれは福音なのだけども,いったん発したら消えることのない文字がやりとりに使われることになると,世の中にある“曖昧”や“逃げ場”が脅かされることになるかも。

● やりとりに使われる文字は,いつまでも残しておいてはいけないような気がする。保存期間をかなり短めに設定する必要があるのではないか。
 すでに発言が最長24時間で消えるSNSがあるようだけれど,アーカイブにして残すものと短期間で自動的に消えるものの両方が必要になる。

● ぼくにとってはネットは味方だ。ネットを味方につけて生きていけるのはありがたい。そこに安住してしまえる気安さがある。苦手なリアルからはますます遠ざかることになるかもしれないけれども,ネットのおかげで老後は安泰だと思っている。
 他者に向けての表現行為を行える場があるっていうのは,とてもありがたい。

2018年12月8日土曜日

2018.12.08 百田尚樹 『至高の音楽』

書名 至高の音楽
著者 百田尚樹
発行所 PHP新書
発行年月日 2016.01.05
価格(税別) 780円

● 自分の無知が次々と暴かれていく快感ある。演奏を聴いて曲を聴いていない,というくだりがあって,ハッとした。
 ぼくはライヴをメインにしているんだけど,それだとたしかに演奏は聴いても,曲を聴いていなかったかもしれない。曲を聴くにはCDが向いているかもなぁ。

● 以下に多すぎる転載。
 ジャズの巨匠デューク・エリントンが語った「世の中の音楽には二つのジャンルしかない。良い音楽と悪い音楽だ」という有名な言葉がありますが,私は十八世紀から十九世紀にかけてのヨーロッパの音楽--とくにドイツの音楽こそ世界最高レベルの音楽だと確信しています。(p6)
 その昔,レコード屋で一時間も迷って買った同じ録音が一〇〇円ショップで売られているのを見ると,何とも言えない複雑な気持ちになる。(p14)
 その時は不意に訪れた。それまで幾度聴いても何も感じなかった私の心に,当然,すさまじい感動が舞い降りてきたのだ。(中略)それまで霧の中に隠れていて何も見えなかった巨人が目の前に立っていた。私はその偉大な姿をただただ呆然と見つめているだけだった。これが,私がクラシック音楽に目覚めた瞬間だった。(中略)それからは狂ったように家にあるベートーヴェンのレコードを聴きまくった。最初の一回はほとんど感動しない。しかし繰り返し聴くうちに,「エロイカ」の時と同じように,徐々に霧が晴れていき,ある瞬間,目の前に素晴らしい世界が広がるのだ。(p17)
 現代を代表するピアニストである,マウリツィオ・ポリーニもヴラディーミル・アシュケナージもダニエル・バレンボイムも,いずれも五十歳を超えるまで,この曲(バッハ:平均律クラヴィーア曲集)をレコーディングしなかった。三百年も前の作曲家が幼い息子の練習曲として書いた曲が,二十世紀最高のピアニストたちをひれ伏させるのだ。何という作曲家であろうか!(p28)
 この旋律は厳密にはロ短調だが,凄まじいばかりに半音階が使われていて,ほとんど無調性のように聴こえる。(中略)これは私の想像にすぎないが,おそらくバッハはドデカフォニーの原理を知っていたのだと思う。しかしドデカフォニーだけでは美しい音楽にならないことも同時に知っていた。だからこそ,その一歩手前で踏みとどまったのだ。(p30)
 モーツァルトが短調をほとんど書かなかった理由は,当時の聴衆は短調の曲を喜ばなかったからだ。(中略)ベートーヴェンのように自分の理想とする曲を追い求める挙句,しばしば当時の聴衆の好みを無視するような曲作りは,モーツァルトは基本的にはやらなかった。(p36)
 私も若い頃は理想的な演奏を求めて何枚も聴き比べた。しかし年を経て「名曲は誰が演奏しても名曲」という境地に達した。少なくともレコード会社がCDに録音しようというだけの演奏家なら,何を聴いてもそれほど大きな違いがあるわけではない。 しかしショパンの「練習曲集」だけは,ちょっと様子が違う。(p55)
 ポリーニのあまりの完璧ぶりに,一部の音楽評論家たちは「機械のようだ」「冷たい」「音楽性が感じられない」という避難をしたが,笑止と言わざるを得ない。日本の評論家は,巨匠と呼ばれる大家が,音が揃わなかったり,和音が乱れたり,テンポが揺れたりする演奏を,「芸」とか「味わい」とか言って尊ぶ癖があるが,おそらく「わび,さび」と勘違いしているのだろう。(p58)
 モーツァルトは最晩年になると,音楽がどんどん澄みわたってきて,悲しみを突き抜けたような不思議な音の世界を描くようになるが,「魔笛」はまさしくそんな音楽である。(p70)
 モーツァルトは後のベートーヴェンとは違い,基本的に演奏者の技術を考慮して作曲した。曲を依頼してきたプレーヤーや楽団のテクニックが高ければ高度な音楽を書き,そうでない場合は,その人が演奏できる音楽を書いた。(中略)それくらいモーツァルトは職人技に徹した作曲家だった。(p72)
 (第九の)第一楽章の神秘的な導入部分は,これまでどの作曲家も紡ぎ出したことのない不思議な響きである。二十世紀最高の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは,この冒頭を「宇宙の創世」に喩えた。(p77)
 私は「巨匠」と呼ばれる過去の名指揮者が好きなのである。これは単なる懐古趣味とは違う。古い指揮者の演奏はその多くが強烈な個性を放っているのだ。それに比べて現代の指揮者は誰の演奏を聴いても同じに聴こえる。(中略)彼らが育った時代はレコードもなければラジオもない。つまり音楽を日常普通に聴くことはできなかった。(中略)だから彼らがコンサートにおいて,これまで一度も聴いたことがない交響曲や協奏曲を演奏するのは普通のことだった。そのため当時の指揮者は曲のイメージを掴むためにスコアを徹底して読んだ。(p85)
 なぜ昔の指揮者に個性的な演奏が多かったかと言えば,その曲に「規範」となるべき「模範的演奏」というものがなかったからだ。(中略)また「古い巨匠」たちの多くは楽譜というものは完全なものとは見做していなかったふしがある。彼らは作曲家が楽譜に書ききれない音とニュアンスを演奏で表現しようとした。(中略)もう一つ,過去の指揮者と現代の指揮者の大きな違いがある。それは過去の巨匠たちにとってクラシック音楽は同時代の音楽であったことだ。(p88)
 リヒャルト・ヴァーグナーはクラシック音楽界の「突然変異」とでも呼びたいような不思議な作曲家である。若い時の習作は除いて,主要作品のすべてはオペラという特異さもさることながら,驚くのは,その台本も彼自身が書いていることだ。(p99)
 初めてヴァーグナーのオペラを聴いて,どれが何のモティーフかわかる人など誰もいない。彼自身は,どの旋律が何のモティーフであるかなど,まったく説明していないからだ。(中略)これを一度聴いて好きになる人はいないと断言できる。ところが何度も聴くうちにモティーフがだんだんわかるようになり,やがてそれらの組み合わせも聴きとれるようになった頃には,「ヴァーグナーの魅力」にとことん取り憑かれていることになるのだ。(p103)
 実は楽器演奏の技術もスポーツの技術と同様,時代が下れば下るほど進歩する。つまりいかにパガニーニが凄いとはいえ,彼の技術は二百年前のものであり,当然,現代のヴァイオリニストの方がテクニックは上である。(p110)
 それでもその曲にはやはり作曲家の性格や人間性が顔を出すものである。ところが面白いことに,人間性が想像もつかないような音楽を書いた作曲家が何人かいる。その代表的な人物がアントン・ブルックナーだ。(p125)
 ブルックナーは生涯にわたって自信の無さを臆面もなくさらけだし,批評家や友人たちに作品を酷評されるたびに,彼らの忠告を無批判に受け入れ,生涯にわたってせっせと自作の書き直しに励んだ男なのだ。(中略)七十二歳で死ぬまで他人の評価に振り回された。(p128)
 ブルックナーの自作解説を読むと,彼自身が自分の作品を理解していないのではないかと思うほどだ。(p129)
 「クラシック通」という存在は始末に負えないところがある。彼らは多くの人々が愛する通俗名曲を馬鹿にして,(自分だけが理解していると思い込んでいる)マイナーな曲を愛する(ことを吹聴する)傾向がある。しかしこの本を読んでいただいているクラシック初心者の皆さんは,そんな「通」の言葉に惑わされる必要はない。クラシック音楽の本当の傑作は,実は有名曲の中に圧倒的に多いのだ。(p134)
 チャイコフスキーは交響曲や協奏曲を作曲する時は,形式に合わせて厳格なスタイルで書くことが多かったが(それでも,彼はしばしば羽目をはずしているのだが),バレエ音楽ではそうした制約から逃れ,やりたいことをすべてやっている感じがする。(p139)
 この曲は「運命」と呼ばれることが多いが,これは作曲者が名付けたものではなく,実は日本だけの名称である。しかしこの名称は素晴らしいタイトルであると思う。なぜなら,まさに「運命」と格闘するドラマが描かれているからだ。(p143)
 本来,歌詞のない純粋器楽の音楽は聴く者の感情に強く訴えかけることができても,文学的なメッセージを与えることは非常に難しい。しかしベートーヴェンは音楽の力でそれを可能ならしめることを証明した。(p144)
 芸術はスポーツではない。優劣を競うものではないし,数値化できるものではない。これ(聴き比べ)が行き過ぎると,曲を聴いていても演奏ばかりに耳を奪われ,肝心の曲を聴くということを忘れる。(p159)
 彼(ブラームス)は本来非常に美しいメロディーを書く作曲家であるが,その美しいメロディーを敢えて封印して作曲している気がしてならない。何のためか--古典形式にもっていくためである。(p162)
 ブラームスは理想とするベートーヴェン的なものを描くために,本来の自分を抑えながら,懸命にもがいたような気がしてならない。だからこそ二十一年もの長きにわたって,産みの苦しみを味わったのだ。本来ブラームスの音楽はもっとナイーブで,迷いに満ち,内省的なものだと思っている。しかしこの「第一交響曲」では,そんな自分の「弱さ」をかなぐり捨てて必死で戦っている。それだけに私はこの第一楽章を聴くと,胸が詰まりそうになる。(p164)
 バッハの慈愛のオリジナル楽器に合わせることも意味のあることではあるが,それでなければバッハは再現できないという考え方はむしろバッハへの侮辱とも思う。バッハの音楽はそんな狭い音楽ではない。むしろ進化した現代楽器で演奏すれば,よりバッハの意図を大きく表現できる。(p175)
 今日の研究によれば,ベートーヴェンはむしろ多くの貴族令嬢や夫人と情熱的な恋愛をしたことが明らかになっている。彼は耳が聞こえず,貧しい平民の出身で,背は低く,顔には疱瘡の痕があり,ハンサムとはとても言えなかった。にもかかわらず,多くの貴族令嬢や夫人が彼に夢中になったのだ。(中略)高い音楽教養を身につけた貴族令嬢たちがベートーヴェンの演奏を目の当たりにすればどうなるか--考えるまでもないだろう。(p182)
 女流文学者としても名高く,文豪ゲーテとも親交があった才媛ベッティーナ・フォン・アルニムはゲーテへの手紙でこう書いている。 「初めてベートーヴェンに遭った時,私は全世界が残らず消え失せたように思いました。ベートーヴェンが私に世界の一切を忘れさせたのです。ゲーテよ,あなたさえも--」 私はこの手紙を書いたアルニムの恐ろしいまでの慧眼に感服する。(p183)
 シューベルトは「死」というものに魅入られていた男だったと思っている。もしかしたら若い時から,自分は長く生きられないという予感があったのかもしれない。(p199)
 才能に任せて書きなぐったように見える曲が多いのだ。彼(ロッシーニ)のもっとも有名なオペラ「セヴィリアの理髪師」は何と三週間で書きあげられた。(p203)
 (ロッシーニには)実はただ一つないものがある。それは「深刻さ」である。切ない部分はあるが決して悲しくはなく,悲劇的に見えても本当の「暗さ」や「怖さ」はない。(中略)だからといって彼を低く評価するのは間違いだと思う。クラシックは何も「深刻」で「真面目」で「陰翳」がなければならない理由はない。(p203)
 わずか数分の中に,いくつもの名曲が詰め込まれているような贅沢さがある。並の作曲家なら一つの動機(モティーフ)を徹底的に使いたおすところを,ロッシーニはメロディーを惜しげもなくつぎ込むのだ。小説で喩えるなら,いくつも長編を書けるだけの材料を短編の中に放り込んでしまう感じだ。(p205)
 「初心者のための小クラヴィーア・ソナタ」という副題が付けられているピアノソナタ・ハ長調K545は,おそらく弟子のレッスン用に書かれたもので,テクニック的には極めて易しく書かれている。にもかかわらず晩年を代表する傑作となっているところにモーツァルトの凄味がある。(p212)
 彼(モーツァルト)のピアノ協奏曲にはピアノパートの部分も即興に委ねられているところが少なくない。というのはもともと彼自身が弾くために書かれたものだから,細かい楽譜や指定は必要なかったのだ。(中略)だから,これは私の個人的な考えだが,現代でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾く場合,ピアニストは自由にアドリブを加えるべきだと思う。(中略)それこそモーツァルトが望んだ演奏だと思う。(p214)
 変奏曲というのは,簡単に言えば「主題をアレンジ(編曲)した曲」で,実はこの編曲能力こそが作曲家の真の力を測れるものと言っても過言ではない。(中略)「ゴルトベルク変奏曲」は主題と三〇の変奏曲からなるが,バッハの変奏はかなり大胆なもので,初めて聴くと,主題のメロディーは第一変奏からほとんど聴き取れない。実はバスの主題(低音部)を残して,あとは自由闊達と言っていいほどに大胆な変奏を繰り広げているからだ。(p219)
 当時は狭い学生下宿で安物のプレーヤーによる貧弱な音で聴いていました。その頃の夢は理想的なリスニングルームで高級なオーディオで音楽を聴くことでした。そんな環境で聴くレコードの感動はどれほど素晴らしいだろうかと夢想しました。四十年後の現在,その夢を叶えました。しかし時々ふと思います。本当はあの頃のほうが今よりもずっと「いい音」で音楽を聴いていたのではないかと。そう,音楽は耳ではなく心で聴くものなのです。オーディオ的な音の良しあしなんて音楽にとってはささいなことなのです。(p239)

2018年12月4日火曜日

2018.12.04 伊藤まさこ 『おべんと帖 百』

書名 おべんと帖 百
著者 伊藤まさこ
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2016.03.10
価格(税別) 1,400円

● 高校生の娘の弁当を作るという想定。女子高校生っていうのはこんなに少食なのか。曲げわっぱに詰めるんだけど,これが小っちゃいもので,これでたりるのかなぁ。
 という,突拍子もない疑問で申しわけない。足りるんだろうな,たぶん。

2018年12月1日土曜日

2018.12.01 伊藤まさこ 『おいしいってなんだろ?』

書名 おいしいってなんだろ?
著者 伊藤まさこ
発行所 幻冬舎
発行年月日 2017.07.25
価格(税別) 1,400円

● 衣食住をきちんと考えている人の本を読むと,自分もそうしているような錯覚に陥ることがあって。それで安心してしまって,「出来合い&インスタント&レトルト&ファストフード」の道を邁進することをやめない。それこそ俺の生きる道,みたいな。
 困ったものだ。と本気で思っていないのが困ったものだ。

● 以下に転載。
 物をたくさん持っている人が幸せとか,持っていない人が不幸せとか,もはやそういう感覚はなくなりました。金持ちだろうが貧乏だろうが,楽しみや幸せはそう変わらない。(オオヤミノル p12)
 最高の店でも,場末の店でも,そこをどう使うかは本人次第。食べ手が,店のランクに合わせた礼儀とアイデアを知っておくべきだと思うんです。(オオヤミノル p12)
 生きていく達人の条件は,ランクにかかわらず“ていねい”かどうかだと思います。物はもちろん,人,時間,ひらめきに対して“ていねい”かどうか。(オオヤミノル p13)
 コーヒーを淹れる際,「ていねいに」と言うと,みんな時間をかける。でも時間をかけると,一滴と一滴の間が長くなるだけで結果おいしくならない。ていねいな人はおうおうにして早いもんです。早さには運動神経が要り,運動神経には経験と知恵が必要です。(オオヤミノル p14)
 赤い肉は血の味がしますね。いい血の味はいろいろな味がする。(オオヤミノル p20)
 高い材料で時間をかけて,勉強した人が作る最低を食べるか,あるいは安い材料でCPで鍛え上げられた人の最高を食べるか。ランクが低いものの最高と,ランクが高いものの最低は一緒ではない。ランクは実は上下関係ではなくて,世界が異なる。高いランクの最低を食べるくらいだったら,低い世界の高いところを食べたい。(オオヤミノル p25)
 コンソメ文化はまだまだ根強い。かつて家庭でお母さんが洋食的なものを作る時,何にでも固形コンソメを入れました。(中略)デザインの味はほんとうにはおいしくない。(オオヤミノル p30)
 写真を始めた頃,アラーキーが好きで荒木さんみたいな写真を撮りたくて同じペンタックス67というカメラに九十ミリのレンズを付けてポートレートを撮ってました。でも当然荒木さんの写真にはならない。でも同じ機材を使っているから,荒木さんの写真を見ると,どうやって撮っているのかある程度は想像できる。そうやって違いを知り,自分の写真について考えるわけです。(長野陽一 55)
 友人知人は皆,食べる速度が速い。料理の仕事に携わる人が多いということもあるけれど,やはり根が食いしん坊だからではないか。早く,速く。おいしい一時を逃してなるものか。そういう意気込みが感じられて頼もしい。(p103)
 カウンターは舞台で料理人は役者のようだなと感じる。料理人がかっこいいのは,観客である我々に常に観られているからではないだろうか。(p107)
 コトコト煮る,というより,ガーッと火を通すことによって,フルーツの味がぎゅっと詰まったおいしいジャムが出来上がる。(p112)
 料理の環境にいると太る傾向があるんですよ。中華料理のコックさんの多くは太り気味です。味見するという理由もありますが,食べなくても,油成分などを吸収している。(陳志清 p123)
 食欲は生きようとする本能なので,それを一回ストップすると,逆に生きたい,生きようとする意欲が出てくる。それから比べたら,将来の心配とか悩みは,今生きるのにそう困ることではない。(大沢剛 p148)
 人間は毛の生えてない猿なんですね。体毛も皮下脂肪もそう多くない人間は,本来暖かいところで暮らす生き物だと思うんです。だから運動して自力で温めるのが一番いいけれど,それが十分にできないのでせめて外から温めて巡りをよくしようと。(大沢剛 p154)
 食事の内容が糖に偏っていると,食べたあとに血糖値が上がって,その後下がりやすいんですね。下がるときに空腹を感じます。(中略)だから血糖値を下げないもの,例えば上質な油やタンパク質を摂るといい。(大沢剛 p155)
 使っているところに血液が上がってきますので,頭ばかりを使っていると上のほうに血液が集まりやすくなるんですね。(中略)そういう時は歩くと,上にのぼり過ぎていた血液が下がる。(大沢剛 p156)
 お腹が空いた時に,グーグーと鳴っているのが気持ちいいんですよ。お腹が空いてイヤじゃなくて,すごく気持ちのいいほうに向かっていることを実感しました。(p157)
 食べたいものを食べるということは,食べたくなくなったら食べるのをやめるということとセットなので。これくらい残すのもなとか,高かったからなっていうのは体の欲求以外のところで無理矢理詰め込むことになるのでそこは潔く食べない。(大沢剛 p159)
 私の周りの料理上手たちは,いつも台所をピカピカに磨き上げている。「料理のにおいが残っているのが気になる」これはみんなの共通感覚。(p168)
 要は手加減ですね。これがあるからこそ面白いのですが。手加減ってものがおいしさの表現なんです。(河田勝彦 p248)
 生地が出来上がることを「乳化した」と言いますが,この乳化が大事なんですよ。その時,ピカッとツヤが見える。それがタイミングなんです。これを見落とすと大変なことになる。(河田勝彦 p250)
 例えばクロワッサンも,火が幽霊のように動いていますので,全部を同じ形で仕上げるには,型に入れて焼くしかない。ところが型に入れると味も変わってしまう。好きなように,伸びたいように伸ばしてあげたほうが,味はだんぜんおいしい。(河田勝彦 p257)
 (おいしいってなんでしょうね)難しい問題だけど,自分のなかでは答えが出ているような気がしています。結局作る人の雰囲気とかも一緒に食べている。人柄と,あとイメージする力。(吉本ばなな p279)
 泡立てた生地に砂糖の半量を混ぜ,全体をさっくりとかき混ぜてよく馴染ませる。それから残りの半量の砂糖を入れ,軽く混ぜたら型に入れる。どうして一度に混ぜないのでしょう,入る分量は同じなのに。そう先生に尋ねるとこんな答えが返ってきた。「生地に砂糖がすべて混ざりこんでいるよりも,ところどころのほうが甘みが感じられるでしょう?」 この時の先生の言葉は,お菓子作りだけでなく,その後の料理作りに大いに役立つこととなった。(中略)ちょっと引き算して,最後に中心となる味をきりりと利かす。料理の味がぼやけなくなったのは,このおかげに他ならない。(p305)