著者 百田尚樹
発行所 PHP新書
発行年月日 2016.01.05
価格(税別) 780円
● 自分の無知が次々と暴かれていく快感ある。演奏を聴いて曲を聴いていない,というくだりがあって,ハッとした。
ぼくはライヴをメインにしているんだけど,それだとたしかに演奏は聴いても,曲を聴いていなかったかもしれない。曲を聴くにはCDが向いているかもなぁ。
● 以下に多すぎる転載。
ジャズの巨匠デューク・エリントンが語った「世の中の音楽には二つのジャンルしかない。良い音楽と悪い音楽だ」という有名な言葉がありますが,私は十八世紀から十九世紀にかけてのヨーロッパの音楽--とくにドイツの音楽こそ世界最高レベルの音楽だと確信しています。(p6)
その昔,レコード屋で一時間も迷って買った同じ録音が一〇〇円ショップで売られているのを見ると,何とも言えない複雑な気持ちになる。(p14)
その時は不意に訪れた。それまで幾度聴いても何も感じなかった私の心に,当然,すさまじい感動が舞い降りてきたのだ。(中略)それまで霧の中に隠れていて何も見えなかった巨人が目の前に立っていた。私はその偉大な姿をただただ呆然と見つめているだけだった。これが,私がクラシック音楽に目覚めた瞬間だった。(中略)それからは狂ったように家にあるベートーヴェンのレコードを聴きまくった。最初の一回はほとんど感動しない。しかし繰り返し聴くうちに,「エロイカ」の時と同じように,徐々に霧が晴れていき,ある瞬間,目の前に素晴らしい世界が広がるのだ。(p17)
現代を代表するピアニストである,マウリツィオ・ポリーニもヴラディーミル・アシュケナージもダニエル・バレンボイムも,いずれも五十歳を超えるまで,この曲(バッハ:平均律クラヴィーア曲集)をレコーディングしなかった。三百年も前の作曲家が幼い息子の練習曲として書いた曲が,二十世紀最高のピアニストたちをひれ伏させるのだ。何という作曲家であろうか!(p28)
この旋律は厳密にはロ短調だが,凄まじいばかりに半音階が使われていて,ほとんど無調性のように聴こえる。(中略)これは私の想像にすぎないが,おそらくバッハはドデカフォニーの原理を知っていたのだと思う。しかしドデカフォニーだけでは美しい音楽にならないことも同時に知っていた。だからこそ,その一歩手前で踏みとどまったのだ。(p30)
モーツァルトが短調をほとんど書かなかった理由は,当時の聴衆は短調の曲を喜ばなかったからだ。(中略)ベートーヴェンのように自分の理想とする曲を追い求める挙句,しばしば当時の聴衆の好みを無視するような曲作りは,モーツァルトは基本的にはやらなかった。(p36)
私も若い頃は理想的な演奏を求めて何枚も聴き比べた。しかし年を経て「名曲は誰が演奏しても名曲」という境地に達した。少なくともレコード会社がCDに録音しようというだけの演奏家なら,何を聴いてもそれほど大きな違いがあるわけではない。 しかしショパンの「練習曲集」だけは,ちょっと様子が違う。(p55)
ポリーニのあまりの完璧ぶりに,一部の音楽評論家たちは「機械のようだ」「冷たい」「音楽性が感じられない」という避難をしたが,笑止と言わざるを得ない。日本の評論家は,巨匠と呼ばれる大家が,音が揃わなかったり,和音が乱れたり,テンポが揺れたりする演奏を,「芸」とか「味わい」とか言って尊ぶ癖があるが,おそらく「わび,さび」と勘違いしているのだろう。(p58)
モーツァルトは最晩年になると,音楽がどんどん澄みわたってきて,悲しみを突き抜けたような不思議な音の世界を描くようになるが,「魔笛」はまさしくそんな音楽である。(p70)
モーツァルトは後のベートーヴェンとは違い,基本的に演奏者の技術を考慮して作曲した。曲を依頼してきたプレーヤーや楽団のテクニックが高ければ高度な音楽を書き,そうでない場合は,その人が演奏できる音楽を書いた。(中略)それくらいモーツァルトは職人技に徹した作曲家だった。(p72)
(第九の)第一楽章の神秘的な導入部分は,これまでどの作曲家も紡ぎ出したことのない不思議な響きである。二十世紀最高の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは,この冒頭を「宇宙の創世」に喩えた。(p77)
私は「巨匠」と呼ばれる過去の名指揮者が好きなのである。これは単なる懐古趣味とは違う。古い指揮者の演奏はその多くが強烈な個性を放っているのだ。それに比べて現代の指揮者は誰の演奏を聴いても同じに聴こえる。(中略)彼らが育った時代はレコードもなければラジオもない。つまり音楽を日常普通に聴くことはできなかった。(中略)だから彼らがコンサートにおいて,これまで一度も聴いたことがない交響曲や協奏曲を演奏するのは普通のことだった。そのため当時の指揮者は曲のイメージを掴むためにスコアを徹底して読んだ。(p85)
なぜ昔の指揮者に個性的な演奏が多かったかと言えば,その曲に「規範」となるべき「模範的演奏」というものがなかったからだ。(中略)また「古い巨匠」たちの多くは楽譜というものは完全なものとは見做していなかったふしがある。彼らは作曲家が楽譜に書ききれない音とニュアンスを演奏で表現しようとした。(中略)もう一つ,過去の指揮者と現代の指揮者の大きな違いがある。それは過去の巨匠たちにとってクラシック音楽は同時代の音楽であったことだ。(p88)
リヒャルト・ヴァーグナーはクラシック音楽界の「突然変異」とでも呼びたいような不思議な作曲家である。若い時の習作は除いて,主要作品のすべてはオペラという特異さもさることながら,驚くのは,その台本も彼自身が書いていることだ。(p99)
初めてヴァーグナーのオペラを聴いて,どれが何のモティーフかわかる人など誰もいない。彼自身は,どの旋律が何のモティーフであるかなど,まったく説明していないからだ。(中略)これを一度聴いて好きになる人はいないと断言できる。ところが何度も聴くうちにモティーフがだんだんわかるようになり,やがてそれらの組み合わせも聴きとれるようになった頃には,「ヴァーグナーの魅力」にとことん取り憑かれていることになるのだ。(p103)
実は楽器演奏の技術もスポーツの技術と同様,時代が下れば下るほど進歩する。つまりいかにパガニーニが凄いとはいえ,彼の技術は二百年前のものであり,当然,現代のヴァイオリニストの方がテクニックは上である。(p110)
それでもその曲にはやはり作曲家の性格や人間性が顔を出すものである。ところが面白いことに,人間性が想像もつかないような音楽を書いた作曲家が何人かいる。その代表的な人物がアントン・ブルックナーだ。(p125)
ブルックナーは生涯にわたって自信の無さを臆面もなくさらけだし,批評家や友人たちに作品を酷評されるたびに,彼らの忠告を無批判に受け入れ,生涯にわたってせっせと自作の書き直しに励んだ男なのだ。(中略)七十二歳で死ぬまで他人の評価に振り回された。(p128)
ブルックナーの自作解説を読むと,彼自身が自分の作品を理解していないのではないかと思うほどだ。(p129)
「クラシック通」という存在は始末に負えないところがある。彼らは多くの人々が愛する通俗名曲を馬鹿にして,(自分だけが理解していると思い込んでいる)マイナーな曲を愛する(ことを吹聴する)傾向がある。しかしこの本を読んでいただいているクラシック初心者の皆さんは,そんな「通」の言葉に惑わされる必要はない。クラシック音楽の本当の傑作は,実は有名曲の中に圧倒的に多いのだ。(p134)
チャイコフスキーは交響曲や協奏曲を作曲する時は,形式に合わせて厳格なスタイルで書くことが多かったが(それでも,彼はしばしば羽目をはずしているのだが),バレエ音楽ではそうした制約から逃れ,やりたいことをすべてやっている感じがする。(p139)
この曲は「運命」と呼ばれることが多いが,これは作曲者が名付けたものではなく,実は日本だけの名称である。しかしこの名称は素晴らしいタイトルであると思う。なぜなら,まさに「運命」と格闘するドラマが描かれているからだ。(p143)
本来,歌詞のない純粋器楽の音楽は聴く者の感情に強く訴えかけることができても,文学的なメッセージを与えることは非常に難しい。しかしベートーヴェンは音楽の力でそれを可能ならしめることを証明した。(p144)
芸術はスポーツではない。優劣を競うものではないし,数値化できるものではない。これ(聴き比べ)が行き過ぎると,曲を聴いていても演奏ばかりに耳を奪われ,肝心の曲を聴くということを忘れる。(p159)
彼(ブラームス)は本来非常に美しいメロディーを書く作曲家であるが,その美しいメロディーを敢えて封印して作曲している気がしてならない。何のためか--古典形式にもっていくためである。(p162)
ブラームスは理想とするベートーヴェン的なものを描くために,本来の自分を抑えながら,懸命にもがいたような気がしてならない。だからこそ二十一年もの長きにわたって,産みの苦しみを味わったのだ。本来ブラームスの音楽はもっとナイーブで,迷いに満ち,内省的なものだと思っている。しかしこの「第一交響曲」では,そんな自分の「弱さ」をかなぐり捨てて必死で戦っている。それだけに私はこの第一楽章を聴くと,胸が詰まりそうになる。(p164)
バッハの慈愛のオリジナル楽器に合わせることも意味のあることではあるが,それでなければバッハは再現できないという考え方はむしろバッハへの侮辱とも思う。バッハの音楽はそんな狭い音楽ではない。むしろ進化した現代楽器で演奏すれば,よりバッハの意図を大きく表現できる。(p175)
今日の研究によれば,ベートーヴェンはむしろ多くの貴族令嬢や夫人と情熱的な恋愛をしたことが明らかになっている。彼は耳が聞こえず,貧しい平民の出身で,背は低く,顔には疱瘡の痕があり,ハンサムとはとても言えなかった。にもかかわらず,多くの貴族令嬢や夫人が彼に夢中になったのだ。(中略)高い音楽教養を身につけた貴族令嬢たちがベートーヴェンの演奏を目の当たりにすればどうなるか--考えるまでもないだろう。(p182)
女流文学者としても名高く,文豪ゲーテとも親交があった才媛ベッティーナ・フォン・アルニムはゲーテへの手紙でこう書いている。 「初めてベートーヴェンに遭った時,私は全世界が残らず消え失せたように思いました。ベートーヴェンが私に世界の一切を忘れさせたのです。ゲーテよ,あなたさえも--」 私はこの手紙を書いたアルニムの恐ろしいまでの慧眼に感服する。(p183)
シューベルトは「死」というものに魅入られていた男だったと思っている。もしかしたら若い時から,自分は長く生きられないという予感があったのかもしれない。(p199)
才能に任せて書きなぐったように見える曲が多いのだ。彼(ロッシーニ)のもっとも有名なオペラ「セヴィリアの理髪師」は何と三週間で書きあげられた。(p203)
(ロッシーニには)実はただ一つないものがある。それは「深刻さ」である。切ない部分はあるが決して悲しくはなく,悲劇的に見えても本当の「暗さ」や「怖さ」はない。(中略)だからといって彼を低く評価するのは間違いだと思う。クラシックは何も「深刻」で「真面目」で「陰翳」がなければならない理由はない。(p203)
わずか数分の中に,いくつもの名曲が詰め込まれているような贅沢さがある。並の作曲家なら一つの動機(モティーフ)を徹底的に使いたおすところを,ロッシーニはメロディーを惜しげもなくつぎ込むのだ。小説で喩えるなら,いくつも長編を書けるだけの材料を短編の中に放り込んでしまう感じだ。(p205)
「初心者のための小クラヴィーア・ソナタ」という副題が付けられているピアノソナタ・ハ長調K545は,おそらく弟子のレッスン用に書かれたもので,テクニック的には極めて易しく書かれている。にもかかわらず晩年を代表する傑作となっているところにモーツァルトの凄味がある。(p212)
彼(モーツァルト)のピアノ協奏曲にはピアノパートの部分も即興に委ねられているところが少なくない。というのはもともと彼自身が弾くために書かれたものだから,細かい楽譜や指定は必要なかったのだ。(中略)だから,これは私の個人的な考えだが,現代でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾く場合,ピアニストは自由にアドリブを加えるべきだと思う。(中略)それこそモーツァルトが望んだ演奏だと思う。(p214)
変奏曲というのは,簡単に言えば「主題をアレンジ(編曲)した曲」で,実はこの編曲能力こそが作曲家の真の力を測れるものと言っても過言ではない。(中略)「ゴルトベルク変奏曲」は主題と三〇の変奏曲からなるが,バッハの変奏はかなり大胆なもので,初めて聴くと,主題のメロディーは第一変奏からほとんど聴き取れない。実はバスの主題(低音部)を残して,あとは自由闊達と言っていいほどに大胆な変奏を繰り広げているからだ。(p219)
当時は狭い学生下宿で安物のプレーヤーによる貧弱な音で聴いていました。その頃の夢は理想的なリスニングルームで高級なオーディオで音楽を聴くことでした。そんな環境で聴くレコードの感動はどれほど素晴らしいだろうかと夢想しました。四十年後の現在,その夢を叶えました。しかし時々ふと思います。本当はあの頃のほうが今よりもずっと「いい音」で音楽を聴いていたのではないかと。そう,音楽は耳ではなく心で聴くものなのです。オーディオ的な音の良しあしなんて音楽にとってはささいなことなのです。(p239)
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