書名 だから僕は,ググらない。
著者 浅生 鴨
発行所 大和出版
発行年月日 2020.01.31
価格(税別) 1,400円
● 企画術,発想術ということになるんだろうけれども,一芸を突き詰めて突き抜けると,広いところに出るんだなという,そういうことを思わせてくれる本。
四方八方に話が飛ばないエッセイだ,と思えばいいような。面白い。一夕の歓を尽くすことができる。
● 以下に転載。
検索で手に入る情報よりも,もっと広がりや奥行きのある情報を簡単に手に入れる方法があるのだ。それが妄想だ。妄想で手に入るイメージは,検索では見つけられない。だから僕は検索の前にさんざん妄想する。それが癖になっている。(p6)
数学の問題では,たった一本の補助線を引くことで,急に解き方が見えてくることがある。僕にとってのアイデアとは,ちょうどそんなイメージのものだ。(p17)
アウトプットをしない限り,それはまだ何ものでもない。デタラメでもいいから,ラフでもいいから,まずは文字や音や絵にすることで,ようやく足りないものがわかってくるのだと思う。 だからまずは書いてみる。何も思いつかない,何も浮かばないのなら,「何も思いつかない」と書いてみる。(中略)なぜ思いつかないのかを書いてみる。(p20)
これまでこの世になかった完全に新しいものは僕たちには作ることができないし,もし作れたとしても,それは誰にも理解できないから,たぶん相手にしてもらえない。(p22)
同じ時代に生きて,同じ課題を前にしたときに,本気で考え抜けば,似たようなアイデアが出てくるのは当たり前のことで,あまり愚痴ってもしかたがない。それよりも,そのアイデアをよりよくする方法を考えて提案するほうがいい。課題が解決できればそれでいいのだ。(中略)僕たちは,自分のアイデアにオリジナリティがあることを重要だと思いがちだ。でも,本当は課題の解決だけが重要で,そのアイデアを誰が考えたかなどたいしたことじゃない。(中略)オリジナルであるべきは,アイデアではなく「自分で考える」という行為だけだ。それだけが自分一人のものであればいい。(p23)
妄想は妄想であり続けるから面白いのであって,どこまで妄想を続けられるか,大きく膨らませていけるかがポイントなのだ。(中略)だから,常識は無視してかまわない。常識は一つの考え方にすぎないのだから。ただし知識は必要だ。(中略)本気で妄想したいのなら,時にはその分野の専門家と向かい合って,きちんと会話ができるぐらいのレベルになることだって求められるだろう。(p30)
僕たちはともすれば何かの役に立つものを探そうとしてしまう。でも,本当は目的を持って探すよりも,自然と頭の中に溜まったもののほうが,あとあとの妄想を広げてくれるのだ。(p44)
もしも何かを面白いと感じたら,もう少し知りたいと感じたら,それが役に立つかどうかは気にせず,その場でどんどん近づいて見聞きするといい。(中略)ネットの中をさまよっているときも同じで,ブックマークをしておいて,あとから読もうなんて思っていても,ほとんどの場合,たぶん読まないだろう。その場で読む。読んで感じたことをメモにする。少なくとも僕はそうしている。(p45)
妄想の材料を頭にたくさん溜めるために一番いいのは,なんでも好奇心を持つことだ。ぼんやりとした好奇心を押さえ込まないことだ。(中略9それには,調べるのがいい。好奇心は,ものごとを知れば知るほど,より強くなるものなのだ(p46)
どんどん妄想を広げていくには,自分だけの世界に夢中になることが大切なのだ。だから他人の評価を求めてはいけない。(中略)みんなが万遍なく受け入れるようなものは,みんなからも出てくる。(p54)
何か問題を与えられたときに,僕は本当にそれが問題なのだろうかと考えることがある。解決すべき問題は他にあって,その結果として目の前の問題が起こっていると考えてみるのだ。(中略)問題に対して,ただ回答をを持って行くなんてつまらない。どうせなら自分で問題を見つけ出すほうが楽しいと思う。「こっちのほうが本当の問題ではありませんか?」(p58)
問題に対して新しい質問を持って行くのと同じように,正解もまた探すものではなく,きっと自分で作るものなのだ。(p60)
この九マス連想は三分なら三分,五分なら五分と,時間を決めてやるほうがいい。時間に追われて無理やりひねり出した言葉には,自分でも驚くくらいバカバカしいものが紛れ込んでいるし,きっとそれが面白い妄想を生み出してくれる。(p75)
僕たちはものごとには因果関係があるという考えに縛られているから,良いことが起きたときにも,悪いことが起きたときにも何か原因があると考えて,その原因を探そうとする。でも,ほとんどの場合は偶然で,そこに因果関係などない。無関係なものを結びつけてしまうのは,人間の思考の癖なのだ。この癖をうまく使うとアイデアの種を探すことができる。(p77)
アイデアの種を集めるのにも擬人化はけっこう便利なのだ。擬人化するときには,一人だけにしないことが大事なポイントだ。なんでもいいから最低でも二つのものを擬人化してみるといいだろう。おうやて登場した二人に会話をさせるといろいろなことが浮かんでくるのだ。(p94)
言葉の連想は頭に浮かんだイメージを次々につなぐものだから,頭に浮かばないものは連想することができない。逆に考えると,何かがない状態,何かが欠けている状態を連想することは難しい。そこで,僕がアイデアの種を探すときに意識してやっていることの一つが「もしそれがなかったら」だ。あえて,何かが「ない」状態を考えるのだ。(p114)
かつて広告プランナーの大先輩が「炎と水滴は形が似ている。でも性質はまるで反対だろう?」と言ったことが頭にずっと残っていて,いつも僕はそういうものを探している気がする。(p127)
映像はただあるものを写しているだけなのに,音が加わるだけで,そこに感情が生まれるのだ。音は強い。(中略)曲によって,公園のベンチに座っている子供が楽しそうに見えたり,寂しそうに見えたりするし,季節まで違って見えることもある。(p134)
音は記憶や感情に直結しているから,イメージを膨らませるのにはうってつけの道具だ。(p134)
面白かった,すごかったと好意的なことを言いながら,必ずそのあとにちょっぴり否定的な言葉が付け加わる。こういう感想よく聞きますよね。映画の感想に限らず,僕たちはこうしたものの言い方をしがちだ。なぜか僕たちは,目の前にあるものを手放しで褒めず,どこか粗探しをしてしまう。(p140)
アイデアの種を探すのであれば,悪い面だけを見ていてはもったいない。悪いところと同じように,いいところも積極的に見ようとするだけで,なかなかおもしろい妄想が生まれるのだ。(p141)
人間には不思議な性質があるようで,僕たちは点が三つ存在しているだけで,そこに顔を思い描くことができるらしい。これは妄想するのにとても便利だ。(中略)顔が見えてきたら,今度はその顔に何か言葉を喋らせてみよう。(中略)もちろん実際にはその顔が話しているわけじゃない。話しているのは自分自身だ。(中略)自分一人では,なかなか気づくことのできない無意識の言葉を引っ張り出す道具として,点が三つの顔はなかなか面白い存在だ。(p145)
そもそも,言葉は音なのである。だから言葉の音で遊ぶことは,言葉そのものを自由自在に楽しむことなのだと思う。ダジャレとは音による言葉の連想,音の妄想なのだ。(p149)
僕たちは日々いろんなところで少しずつ別人になっている。それをもっと拡大して,今の自分とはまったく違う存在になったと妄想すると,不思議なことに,ものの考え方が今までとはどこか変わってくる。(p157)
人の性格は一つだけではない。一人の中にたくさんの性格があって,そのときどきでバランスが変わっているだけなのだ。(中略)ときどき僕は自分の中から,そうした性格を引っ張り出してきて,別人のように振る舞ってみることがある。(中略)自分がけっして知ることのできない他人の感覚に,ほんの少し近づけるような気がしている。(p158)
僕の手帳には記号やら言葉の断片がたくさん残されているけれども,そのほとんどは意味のわからないことばかりだ。読み返しても何が書いてあるのか,さっぱりわからない。でも,それで構わない。(中略)自分の書いたものを自分の目で見ることで,さらに妄想が広がっていくような気がするのだ。(p172)
落書きをするときに一番いいのは,何かを考えながら,手はまるで違うことをやっているという状態で,これは電話をしながらへんてこなメモを残しているあの感じに近い。ちょうど半分夢を見ているような状態で,僕は「手に任せる」と呼んでいる。(p173)
発想癖をつけるのには,まず落書き癖をつけることだ。何を書くかは決めないまま,とりあえず紙を広げてペンを持ち,何も思いつかなくてもまずは1本線を引いてみる。(中略)ぐちゃぐちゃのまま,手に任せてみる。そこから始めるといい。(p174)
僕は自分の考えを声に出して,自分に向かって説明することをよくやっている。(中略)ちゃんと声に出すことが重要だ。声に出して説明することで,それまであやふやだった考えがはっきりしたり,いい例えが浮かんだり,まるで予想もしていなかった言い方を思いついたりする。自分の声を聞くことで自分自身が刺激されて,さらに連想が広がっていくのだ。(p175)
人間,自分一人で考えられることなんて,たかが知れているのだから,できるだけ早く人に伝えたり,雑談をしたりして,他の人の意見を取り入れていくほうがいい。(p177)
たいていの場合,複雑なものより,シンプルなアイデアのほうが,問題をストレートに解決してくれるように思う。ただ,そのアイデアがあまりにも鮮やかな場合には,僕は少しだけ疑ってかかることにしている。(中略)あまりにもキレのいいアイデアは,作り手が自分に酔っていて,思ったほどには相手に伝わらない(中略)鮮やかすぎるアイデアには,どこかに「褒められたい」という気持ちが紛れ込んでいることが多いし,ひねった表現には嘘が入りやすい。(p182)
制約条件があるほうが発想は簡単になる(中略)制約条件が多ければ多いほど,妄想は苦し紛れになっていくのだから,おかしなものごとを考えつきやすくなる。(p191)
僕はパソコンに向かってものを考えることをあまりやらない。(中略)パソコンの画面上に映し出されたものは,なんとなく完成したものに見えるから,うっかりそこでひと息つきそうになってしまう,ということもある。(p198)
それがどんなに面白くても,次から次へと新しいことを考えていたら,(脳の奥に)しまわれたものを探し出すのに時間がかかるから,メモしておいたほうがいいのだ。(p199)
僕の持ち歩くメモには一枚ずつバラバラにできるメモ用紙と,ノートのように綴じられているものがある。(中略)厳密に決めているわけじゃないものの,次々に妄想を広げていくときにはバラバラのメモ用紙に,今すぐ何かに結びつきそうではないものの,「これは忘れずにいよう」と思ったものはノート型のメモに記録することが多い。(p199)
小説の取材で人に会うときには一切メモを取らない。(中略)執筆するときに,その人の言葉に引っ張られたくないからだ。(p202)
僕は,余計なものや無駄こそが,新しい妄想を生むための材料だと考えているから,入力したものと出力されるものの間に少しでいいからずれがあってほしいし,そこに存在したはずのノイズが失われることを寂しく感じてしまう。(p206)
僕が考えようとしているのは,問題を解決するための新しい方法や新しい組み合わせだ。正解のないものだ。正解がないのだから,検察で見つかることはない。正解は自分で作るのだ。妄想の中からひねり出すのだ。(p207)
楽器の練習や語学の勉強は,時間よりも回数が重要だ。同じ量を練習するにしても,月に三回,朝から夜まで十時間の練習をするよりも,毎日一時間の練習をひと月続けるほうが,あきらかに演奏は上手くなるのだ。考えることもたぶん同じで,ずっと同じことを集中して長く考え続けるよりも,ある程度の間隔をあけて,何度も何度も繰り返し考えるほうがいいと僕は思っている。(p208)
ライブで大音量の音楽を浴びていると,だんだんぼうっとしてくることがあって,気がつくと目の前のライブとはまるで関係のないことを考えている。だからといって,ライブを聴いていないわけではなく,ちゃんと演奏は聴きながら,別のことを考えている。白昼夢を見ているような感覚なのだ。僕にはその状態がけっこう重要で,そうなったときに,それまで考えていたことから,次のステップに進めるようなものを考えつくことが多い。(p212)
映画で言えば,昔の「007シリーズ」はまったくなんの説明もないまま,とんでもない展開がいくらでも起きていた。あれが僕の理想だ。辻褄が合いすぎていると,それはもう飽きへの第一歩だ。(p215)
たとえ,目や耳から信号が入って来なくても,入っているのと同じ状態を作ってやれば,きっとものは見え,音は聞こえる。僕たちは頭の中だけで,実際にものを見聞きしているのと同じ状態を生み出すことができる。現実と同じような経験はできる。それが妄想なのだ。(p221)
目の前に課題が用意される前から妄想を繰り返し,思いついた断片を頭の中に溜めておく。溜まったあとも,さらにしつこく妄想を繰り返す。きっと,それが考えるということなのだ。(p222)
書名 老いてこそデジタルを。
著者 若宮正子
発行所 1万年堂出版
発行年月日 2019.12.04
価格(税別) 1,100円
● 読者対象も内容も,タイトルから連想されるとおり。
● たぶん70歳以下の人は,会社でパソコンを使っていたろうし,インターネットにも抵抗はないのではないか。スマホも普通に使っている人が多いのではないかと思う。
年齢層に関係なく,デジタルがあたりまえの世の中がすぐそこまで来ている。
● が,ネットもパソコンもスマホも,個人間の能力格差を怖ろしいまでに拡大する器械だな。凡百の者はこんなことをTweetすることに使っているけどね。
しかし,能力格差というものには鈍感すぎるくらいでちょうどいいのだとも思う。下の方でも,別に死ぬわけじゃないからさ。
● 以下にいくつか転載。
私たちが子どもの頃は「人に働いてもらうのにお金がかかる」という意識があまりありませんでした。「食べさせてやれば十分」という考えです。(中略)でも,今は違います。(中略)高齢者が「人手不足時代」という現状を理解することです。そのために,われわれシニアが,今,若い人たちのためにしてあげられることの一つが,「ITリテラシーを高めること」だと思うのです。粗大ごみの回収依頼も,図書館の本の予約も,ネットでやれば,それだけ「人手不足対策」に貢献できます。(p38)
これからは,汎用性の高い,多くの人たちに使ってもらえるソフトやアプリではなく,現場を知っている人が,「自分の身近な人の役に立つ」「自分にとって使いやすいアプリ」を,自分で開発する時代になるでしょう。(p169)
どんな単純なプログラミングでも,たとえ「六角形」が一つ描けただけだって,自分がやってほしかったとおりにプログラムが動いたときは感動します。(中略)高齢者は,失うものが多いです。髪の毛が抜ける,歯が抜ける,友達が亡くなるなど,いつも「喪失体験」ばかり味わわされます。「何かを作ること」は,あなたに獲得体験を与えてくれます。ぜひ,やってみてください。(p170)
書名 新しい地図の見つけ方
著者 宇野常寛
吉田尚記
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2016.09.13
価格(税別) 1,200円
● 4章構成。分量的には前半の2章で3分の2を占める。その3分の2だけ読めばいいんじゃないか。
ライフスタイルについて語る第3章は既視感に溢れる内容。第4章はない方がよかったのじゃないか。急にイデオロギーの話になる。それを非とするのだが,非とするほど御大層なものでもあるまいと思う。
● と言いながら,以下に多すぎる転載。
90年代のインターネットというのは,要するに新聞とテレビが作り上げた画一的な社会に対してのアンチテーゼだったと思うんです。(中略)それは人間関係についても同じことが言えて,現実社会には身内で固まってだらだらと酒を飲みながら仕事の愚痴をこぼすような人間関係しかないけど,インターネットでは世界中の一面識もない人とも一瞬で出会える,というのが魅力だった。だけどソーシャルメディアの台頭によって,いつの間にかインターネットは現実社会の人間関係を反映するだけのものになってしまったと思うんです。(宇野 p11)
だとすれば,それは必然だったのではないか。90年代のインターネットが黎明期特有の例外で。もうひとつ,インターネットがそうなってしまったのは,ユーザーが(特に,ブログとSNSによって)爆発的に増えて大衆化してしまったからだ。大衆化すればレベルが落ちるのは仕方のないことだ。それが嫌だというなら,ネット内ネットを作るしかない。が,その方策は今のところ,見あたらない。
本来中央と地方の情報格差がなくなるのがインターネットの理想だったはずなのに,食べログも『Pokémon GO』もアーリーアダプターの多い都心じゃないと便利さや面白さが発揮されない。インターネットの使い方を僕らは根本的に間違えているんだと思います。(宇野 p14)
なんで食べログや『Pokémon GO』を引き合いに出すかねぇ。食べログに頼るって訳がわからない。そういう手合がネットをつまらなくしているんじゃないか。Amazonは中央と地方の情報格差を縮めるのに貢献していないか。ためにする議論をしているような気がするよ。
せっかくインターネットっていう最強の武器を手にして,50年前の人たちが想像もできなかったような世界が広がっているんだから,他人の揚げ足をとっている暇があるなら自分の人生を楽しくするほうに舵を切ればいいのに。(吉田 p17)
インターネットが使えるパソコンが町に1台しかないような環境にある学校の子に「遺伝子について調べなさい」と言うと,ものすごく高い確率で正解が返ってくるんですって。(吉田 p17)
基本的に僕はインターネットで話題の何かに反応すること自体をもう,やめたほうがいいと思う。すでに発生している文脈に乗っかってパフォーマンスを始めた瞬間,人はインターネットの正しい使い方を見失う。(宇野 p19)
インターネットの登場はテキスト,音声,映像とあらゆる情報を供給過剰にしたのは間違いないですね。そして,その結果として供給過剰な「情報」の価値は暴落してしまった。人間は希少なものにしか価値を感じないですから。(宇野 p23)
「現場」でできること,たとえば「世間」的な「社交」とかをね,わざわざ「在宅」でやって喜んでいるのが今の日本の「残念な」インターネットだとも言えると思う。(p27)
民主主義というのは,どんな意見や批判があってもいいけど,「批判をするなという批判だけはタブー」というのが最低限守られるべき基本ルールなのに,そのたがが外れてしまっている。(宇野 p30)
この5~6年の間に何が変わったのかというと,じつは質じゃなくて量だと思う。つまりTwitterやFacebookの普及で,インターネットのユーザーの数が増えたせいで,インターネットの文化自体が変わってしまった。(中略)考えないために情報に接する人たちがどかっとインターネットに参加してきた。(宇野 p31)
引きこもりの人がニコ生をやることで外に出られるようになることがあるんですって。それはどうしてかと考えたんですけど,ニコ生って発信する側が“開き直れる”んですよ。(中略)いちばん傷つくのは過疎ってしまうことで,批判されるのはそれほど恐くない。(中略)どこかの段階で「多少批判されてもいいから言いたいこと言っちゃえ」って開き直るフェーズがくるんです。(吉田 p33)
必死にリツイートを繰り返している人というのは,まさに「考えないために情報に接している人」だよね。(中略)あとは何かに駄目出しするようなツイートをしている人とも関わりたくないですね。(宇野 p36)
僕が総じて言いたいのは「共感するな」ということ。共感するということは,すでに自分が考えていることをよりクリアに言語化してくれているとか,もしくは甘やかしてくれる言説ということなので,じつはなんの役にも立っていないと思う。(宇野 p40)
年間200冊も300冊も読んで丁寧に書評を書いている人がいるけど,はっきり言ってこれは現代においてものすごく効率の悪い知の吸収方法だと思う。(宇野 p45)
知識を自分のものにするためには読んだ後に話すか書くかしないと駄目なんですよね。(中略)アウトプットとつながっていないインプットにはあまり意味がない。(吉田 p56)
自分自身,今ほどソーシャル化してなかった時期にネットを活用して活動していたからこそ世に出られたんだと思っているから。今は仮に当時の僕と同じだけの能力や意志を持っていても,同じやり方では出てこられないんじゃないかと思います。(宇野 p68)
会社をセーフティネットとして使うというのが,サラリーマンののいちばん正しい在り方なんだと思います。(吉田 p71)
事務の遅延というのはだいたい連絡がおっくうだというところから起こっている。とくに日本人の場合は,ただ連絡するというだけのことに異様な精神力,ゲーム的に言うとMPを使用する。(宇野 p76)
コネクションがなければ仕事を受けてくれないというのは,じつは業界が作った嘘のひとつ。大げさかもしれませんが,誰かが既得権益で食っていくために,まことしやかに流している言葉だという気がするんですよ。(中略)意外と人間というのは個人的なマインドで動いてくれるものなんじゃないかなと。(吉田 p77)
建前を建前とわかった上できっちり演じられる人間が大人なんですよというメッセージを出すのをやめたほうがいいと思う。(宇野 p80)
現場がすごく変わっているのに,メディアや批評の側の人間が90年代までに培われた文脈でものを考えすぎていて,新しく広がっている世界を吸収できていないんですよね。(宇野 p83)
会社員って意外と働いていないってことなんですよね。(中略)ほとんどの人間は,打ち合わせという名の愚痴の言い合いとか,調べものという名のネットサーフィンとか,あとは雑談みたいなことをしながら勤務時間の大半を過ごしているという限りなく給料泥棒に近い何かである。これが世界の身も蓋もない真実なのだと思う。それで世の中は回っていて,この法則はどこの会社でも絶対に崩れていないと思う。(宇野 p87)
欲望が薄くて真面目でかつ意識は高いという人が,てんぱりやすい気がする。(中略)今の社会は「人生でやりたいことや目標を持っていないのは駄目なやつだ」という風潮が強すぎる。(宇野 p89)
消去法でものを選ぶというのは,自分を狭いところへと追い込んでいることに等しいと思うんです。(中略)やりたいことがないのなら,人の足を引っ張らない範囲でどんどん楽な方向に流れればいいんじゃないかっていうこと。(宇野 p90)
ホワイトカラーがやっていることの大半は,物事の最適化や再配分ですよね。実は価値そのものは生んでいないのだけど,さも,それ自体に価値があるかのような錯覚をここ100年くらいの社会は共有していて,(中略)何かを最適化しているだけでやりがいを感じること自体が根本的な間違いだと思うんだよね。(宇野 p93)
やりたいことと仕事が結びつくというのは,勝手にやっていた人間が,そうとしか生きられない状態にまで追い込まれた結果にたどりつく状態であって,自分探しの結果に行き着く場所ではない(宇野 p95)
新入社員とかアルバイトにも共通して,何ができないかって第一撃目の連絡ができない。(宇野 p99)
ちょっとマニアックな出版社とか学校の先生に事務処理が駄目な人が多いのは,普段,特殊な世間の中にある内輪のコードでコミュニケーションしているからだと思う。(宇野 p100)
働くことを取材だと思うようにするというのはどうでしょう? たとえば僕が何かの職業について詳しくなろうと思ったら,そこで働いてみるのがいちばん早いし,詳しくなれると思うんですよよね。(吉田 p100)
僕は断固として,世界を「物語」(イデオロギー)として見るのではなく,「情報」の集まりとして見る態度を貫くのが正解だと思っている。(宇野 p141)
正義を考えるということは,究極的には「自分と相手が入れ替わっても耐えられるか」を問われるということ。(宇野 p143)
多分,知識の本質って「人は間違うものだ」という事実を知ることなんですよ。(吉田 p153)
少なくとも僕が40歳まで生きてきて,一番役に立っているなと思うのはやはり雑食性です。(中略)雑食性というのもやはりイデオロギーの逆なんですよね。偏った理想に当てはまるものだけを追うのではなく,なんでも好き,なんでも面白がるっていう。(吉田 p161)
未来が明るくなるか暗くなるかなんて,我々の知性なんかでは決まらない。頭の良さ,知性という資源があるならば,自ら明るく機嫌よくいるためだけ,つまりは臆面もなく未来は明るい!と信じ込むためだけにつぎ込むべきだと思うのです。(吉田 p167)
書名 僕が2ちゃんねるを捨てた理由
著者 ひろゆき
発行所 扶桑社新書
発行年月日 2009.06.01
価格(税別) 740円
● 著者も言っていることだが,タイトルは内容を表していない。11年前の発行でネット事情を扱っているとなると,内容が古くなっていると思うかもしれない。が,いくつかのディテールはそうであっても,骨格の古さは感じない。著者は主に事象に対する自分の見方を語っているからだ。
● 以下に多すぎる転載。
日本という国は,同じ土壌やエリアの中にいると,外から客観的に見て明らかにおかしな状況が起こっているのに,客観的に「おかしい」と言えなくなる空気になりやすいのですね。(p21)
日本だけが先に進みすぎ世界のマーケットがi-modeについてこられなかったという話なのです。(p41)
大手であろうと小さなところであろうと,やっていることはそんなに変わらない。にもかかわらず給料格差があるというのは,何かしらおかしなことをやっているからこそ,他社より高い給料が払えるわけです。(p83)
ネット企業というのは,何も六本木ヒルズやミッドタウンにオフィスを構える必要はありません。(p84)
言語別で見た場合,今ネット上で一番多いコンテンツというのは,ブログなどすべてを含めると日本語のコンテンツです。それは,日本語で作られたサイトにおける広告単価が世界で一番高いからなのです。(p92)
同じ情報を与えられて論理的に導いた結果というのは,僕でなくても誰でも同じことだと考えているわけです。しかし,ほかの人がやってくれないので,ぼくが書いているだけ。(p102)
2009年1月8日,韓国でミネルバというハンドルネームの人が逮捕されました。彼は,韓国では“ネットの経済大統領”と呼ばれるほどの論客で,(中略)ウォンが下落するなどの経済予測を書き,その多くを的中させていました。(中略)ミネルバさんが捕まる前,「ミネルバは,もともとどこかの投資銀行にいた人物で,経済に詳しい人ではないか?」と韓国では言われていたのですが,蓋を開けてみると単なるニートだったのです。(中略)ニートという状況で一生懸命に調べものをして論理的に考えた結論を経済分野で発言している。そして,その結論のとおりに実際経済が動いた。それだけなのです。(p104)
熱くないおでんを熱いふりをして食べてみせたり,熱くないお湯に熱いふりをして入ってみせたりするのは,エンターテインメントとしては問題ないのと同じこと。結局のところ「おもしろければいい」と,視聴者が思えるかどうかにあると思うのです。(中略)それ以前に,メディアに出ている情報だからと,すべてを信じてしまうことのほうが問題です。(p121)
こういったウソの情報を確信犯的にメディアが出してしまうのは,ネタがないということもあるのでしょうけど,もっと大きいのは「今の形態だと努力が報われない」ということがあるのではないでしょうか。(p124)
やらせは昔から存在しているわけですし,これは構造上,仕方がないのではないかと考えています。なせなら,テレビを観る人にバカな人の割合が多いことが原因なのではないかと思うからです。(p128)
天下の新聞社が「首相が何か言い間違えましたから馬鹿です」とか,「お酒を飲んで会見に出てはいけません」といった,一般市民でも判断ができるような情報をひたすら流していては,その存在に意味がありません。マスコミの情報というのは,組織だって油剤をし,そこに一般市民が思いつかないぐらいの見解が入っていたり,一般市民が知り得ることのない情報が入っているからこそ,初めてお金を払ってもいいだけの価値のある記事になるわけです。(p134)
ロシアや中国の企業というのは,自国民だけを相手にしているだけでは食べていけないので,世界で製品を売らないといけない。だから(中略)世界で売れるような製品や技術を作る方向に動いています。それに比べて,多くの日本の企業というのは,国内向けを中心に考えるので,携帯電あの例を見てもわかるように,世界のマーケットで太刀打ちできなくなってしまったわけです。(p145)
そういった世界にモノを売る手段として便利なのが,実はネットなのです。(p147)
投票っていう多数決のシステムが一番つまんないと思うんだよね。(中略)999対1の999ばかりを採用してしまうと,ずっと変わらない。テレビとかいろいろなものが変わらないのは,それが理由。(土屋敏男 p183)
本質ってのは,やっぱり作り手の執着心,狂気だったりするんですよ。(土屋敏男 p184)
映画の全盛期にテレビが始まったとき,いきなり100万人が視聴したわけではなくて,ごく少数のお金持ちが観ることから広がっていった。それと同じように,ネットコンテンツの視聴者数が増えて,いつか100万人になるという感覚を,テレビ局が持てるかどうかだと思うんですよね。(p190)
でもね,厳然たる事実として誰にも文句を言われないおもしろいものなんて,ないよ。(土屋敏男 p200)
昔からある,「飲む,打つ,買う」が今でも残っているように,人がおもしろいと思うことなんて変わってなくて,その本質をいかに隠蔽して新鮮に感じさせるかですから。(p221)
日本って,同調圧力があるから紙一重の人が生きていくのが難しい国なんです。(p234)
書名 本をどう読むか
著者 岸見一郎
発行所 ポプラ新書
発行年月日 2019.02.07
価格(税別) 800円
● 私はこう読んでいるという具体的な回答を示しているというよりも,自身の読書歴を語っているようであり,さらには自叙伝のようでもあり。
外書購読の指南でもあり,たくさん読めばいいと考えることや速読に対する戒めでもある。
● 以下に転載。
私は本を読むことは他の何かの目的のためにされることではなく,ただ楽しいから読むというのでいいと考えています。生きるということも本来楽しいものです。人は何かのために生きるのではありません。何かのためにでなく生きられることが幸せです。(p7)
対人関係はこのように悩みの源泉であるかもしれませんが,他方,生きる喜びや幸福もまた対人関係の中でしか得ることはできません。そこで,幸せになろうと思うのであれば,対人関係の中に入っていく勇気が必要です。(p10)
ただ黙って話を聞いていればカウンセリングになるわけではありません。(中略)絶えずなぜ今この人はこの話をしたのだろう,次はどんな話になるだろうかと推測しながら話を聞くのでなければ話を聞くことにはならないのです。(p26)
相手を理解するためには,「もし自分だったら」と考えるのではなく,「もしも自分がこの人だったら」と可能な限り相手の立場に身を置いて考えることが必要です。(p27)
本を読むのは,ちょうどグライダーが他の飛行機や車に引っ張られ,飛び立った後にロープを切り離して滑空するように,考える最初のきっかけとして必要なことはあります。しかし,いつまでもロープを切り離さないようでは駄目なのです。(p37)
未来はまだきていないというより,ただ「ない」のです。(中略)私はこれからどんな人生を送るかを神が知るような形では何も決まっていないと考えていますし,何も決まっていないからこそ,この人生は面白いと考えています。(p63)
自分が賛成し納得できることばかりが書いてある本を読んでいると,日常の生活においても異論に対して不寛容になります。(p68)
読み始めて面白くなければ本を閉じる勇気を持たなければならないと思います。面白くないというのはその本がよくないほんだからというわけではなく,多くの場合,今の自分には必要ないからです。(p124)
大学院を終えると,奈良女子大学でギリシア語を教えることになりました。四月にα,β,γから学び始める学生が秋には『ソクラテスの弁明』を読めるようになりました。(p160)
外国語で読むということはゆっくりしか読めないものです。(中略)ゆっくり読まないと力はつきませんし,著者が時間をかけて書いたものを速く読んでもあまり意味がないように思います。(p160)
私の場合は絶えず複数の本を読んでいます。多い時には同時に十冊ぐらいは読んでいます。(p172)
家にいると意外に本を読むことはできません。なぜ通勤や通学の時には本が読めるかというと,本を読むこと以外のことはできないからです。(p184)
批判以前にこの本で著者が何をいいたいのかを理解するのが先決です。そのために,私は「まえがき」と「あとがき」を丁寧に読むようにしています。(p195)
トロイアの遺跡を発掘したハインリヒ・シュリーマンは,多くの言語を習得しました。彼の学習法は声に出して読むことで,そのために近所の人から苦情が出て何度も引っ越しをいなければなりませんでした。(p206)
語学には終わりはありませんが,これだけのことができたらある言語を学んだという最低限の目安は,辞書を引けば本を読めるということです。辞書を引けるためには,文法を知っていなければなりません。(中略)後は,たくさん読んでいくしかありません。(p209)
一人で外国語を勉強するとどこまで覚えなければならないかわからず,細かいところまですべて覚えようとして途中で挫折することがあります。(中略)独学では何を覚えるべきか,覚えなくてもいいかという判断をすることができないのですが,エクスプレスシリーズ(白水社)は初学者に必要なことが最小限に書いてあるので,それだけをまず覚えることができます。(p219)
どんな言語を学ぶ時にも自分が読みたい本を選ぶと,やがて外国語を読んでいるというよりは,読書していると思えます。(p220)
原書を読むおはフルカラーの世界を垣間見るようです。それに対して,翻訳はモノクロ写真のようです。(中略)翻訳で読んでこれを原語で読みたいと思う本があるなら,そのためにだけその本が書かれた言葉を学んでもいいくらいです。(p220)
自分で考えられるようになるためには,読むよりも書くことが必要になってきます。(p238)
最近は本を読みながら書いてあることや思いついたことを書き留める時,音声入力をすることがあります。私はキーボードを打つのはかなり速いのですが,音声入力はそれよりも速いです。原稿を書く時も音声入力をすることがあります。(中略)とにかく話してみると内容はともかくたちまちたくさん書くことができます。(中略)最近はかなり正確に変換するようになってきたので使わない手はありません。(p242)
本を読むことで現実を超えることができました。これは現実から逃げるということではなく,本を読む時に感じる喜びの感情,生命感の高揚が現実を超える力になるということです。(p248)
ゆっくり本を読めば,慌ただしく駆け抜けるように本を読む時には見えなかったものが見えるようになります。生きる時も,急がず,後どれだけ生きられるかというようなことを考えなくなると人生が違ったふうに見えてくるでしょう。生き方と直ちに変えることは容易なことではありませんが,本の読み方を変えることならできます。(p250)
書名 面白いとは何か? 面白く生きるには?
著者 森 博嗣
発行所 ワニブックスPLUS新書
発行年月日 2019.09.25
価格(税別) 830円
● 哲学書だと思って読んだ。哲学とはいかに生きるかという問いに解答するものだと思っているので。
自分ひとりで作る,味わう,楽しむ面白さ,が究極の面白さであって,友人や仲間と一緒でなければ面白くないというのは寂しい人だ。しいて本書の結論めいたものを示せば,そういうこと。
● 以下に多すぎる転載。
自分が「面白い」と思うものを作れば良い,というほどシンプルではない。大勢の人たちが,商品を買ってくれるのだから,大勢が何を求めているのか,大勢に注目されるにはどうすれば良いのか,と考える必要がある。(p11)
作家になれないのは,技術的な問題ではない。理由は明らかで,作品が「面白くない」からである。「才能がない」というのは,「面白いものが作れない」とほぼ同義である。(p13)
そんなカリスマ編集者と話をしたことが何度もある。たしかに彼らは目利きができる。面白い作品が出てきたら,ぴんとくるものがあるそうだ。(中略)けれども,そうでない作品に対して,何がいけないのか,どう直せば良いのかは,的確に説明ができないという。(p14)
人間は,いろいろいるし,また個人の中にもさまざまな価値観が混在し,非常に複雑に絡み合った反応をする。それなのに,大勢が同じものを「面白い」という現象が観察されるのは,とても不思議なことだ。この「共感」も人間の凄さの一つかもしれない。(p35)
面白いかどうかは,読んだ人の感性に支配された判断なのだから,一般的なものとはなりえない。ただし,それが多数になって,どういう意見が多いのか,という傾向は,一つの事実として受け止める必要がある。個々の意見に左右されず,全体像を把握することが重要だ。このような観察において,最も重視すべきなのは反応の数,すなわち数字である。(p40)
Amazonの評価点と本が売れた部数の相関を調べたことがある。(中略)驚いたことに,「負の相関」が顕著だった。つまり,Amazonで評価が低いものほど,売れているのである。(中略)売れていない本ほど,熱心なファンが割合として多く買っているから,評価が高くなる。売れる本は,好意的でない人にまで広く知られる結果になるので,マイナスの評価をする人の割合が増える,ということだ。理屈がわかれば,当たり前のことだが,評判の良いものは売れている,つまり「面白い」ものだ,と勘違いする人が多数いるはずである。(p42)
子供のときからネット社会で育った世代は,「みんなで感じる」という意味で「共感」という言葉を使っている。穿った見方をすれば,自分で感じたいのではなく,感じることで他者とつながりたい欲求が優先されている。そうなると,みんなが笑うから可笑しい,みんなが泣くから感動できる,という価値観になる。その結果,ネットの評価に過敏になったり,「いいね」の数を気にして,日常生活にまでその影響が表れる。(p45)
人間は,そもそも「新しい」ものが好きだ。これは「好奇心」と呼ばれる性質でもある。(中略)多くの動物にも,好奇心はあるにはあるが,人間ほどではない。自然界の動物は,新しいものをむしろ避ける。危険なものかもしれない,と判断するためだ。(p51)
「意外性」というものが存在するのは,人間が未来を予測するからだ。(中略)この行為自体が,人間の特徴でもある。(中略)「意外性」とは,その人が思い描いていない未来が訪れることだ。これは,普通は「面白い」ことではない。(中略)ところが,その意外性が「面白さ」になる。(中略)「意外性」の「面白さ」を理解するには,ある程度の思考力や知性が要求される。(p54)
どちらかというと,自分の推理が当たっていた場合よりも,推理が外れて,意外な結末になった作品を「面白い」と評価する傾向にある。(中略)ここが不思議なところで,問題が解けたという快感よりも,解けなかった方が「面白い」と感じるのだ。(p57)
人間の脳は,頭に思い描いたことが現実になることを欲している。(中略)僕は,この状況を「自由」と定義している。自由とは,「思ったとおりになること」「希望したことが現実になること」なのだ。(中略)自由は,自分が計画したとおり,自分が予定したとおりに生きることであり,それが人間の満足の根源でもある。したがって,「面白い」というのは,この自由へ向かう方向性を感じている状況であり,いうなれば,いずれ自分は満足するぞ,という予感が,その人を笑顔にさせるのである。(p63)
人を笑わせることは,けっこう難しい。少なくとも泣かせたり,怒らせたりするよりは断然難しい,というのが小説を書いている僕の感覚である。人を笑わせることを仕事にしている人も沢山いる。簡単になれる職業ではない。特別な才能が必要だし,常に考えなければならない。かなり頭を使う,頭脳的な活動だと思われる。(p70)
お金を出して活字を読むというのは,非常にマイナな趣味になったので,その中でも読者を選ぶようでは,さらに消費者を少数に限定してしまう。一方で,エンタテインメントの中では,活字で出力されるものが一番生産性が高い。一人で制作でき,しかも短期間で作り上げることが可能なので,生産者側から見れば,非常にコストパフォーマンスに優れている。(p79)
珍しいもの,得体の知れないものには,まず注目し,緊張する。これは動物の本能だ。ところが,それが無意味なもの,無害なもの,自分に対して攻撃してこないものだとわかれば,そこで緊張感から解放されて,笑いが生じる。(p80)
動物は,動くものに注目する本能があるらしく,止まっているものではなく,動くものが目立つように視神経ができている。(中略)この本能的な性質が,「動き」が「面白い」と感じさせる一つの要因だ。(p89)
もともと,音楽もいわば「動き」の一種だった。人が演奏して音楽が作られるわけで,人も動き,音も変化している。音楽を,多くの人が聴きたがるのも,やはり「動き」に注目する本能によるものだと思われる。(p91)
人間はスピードというものを体感できない。(中略)体感できるのは,加速度であり,これ目を瞑っていても感じられる。加速度は,「力」として物体に作用するからだ。面白さが生まれるのは,つまりは「加速度」によるものだと考えても良い。ちなみに,音楽でも,スピードを変化させる。音の大きさにもメリハリをつける。こうした「変化」を人は「面白い」と感じるようだ。(p93)
この「面白い」ものが色褪せる現象は,非常に顕著で,面白さが大きかったほど,衰退のし方も際立つ。(中略)本当に一斉に消えてしまうように観察される。(p101)
知るために重要な条件は,それまで「知らない」状態であることだ。(中略)知ることによって,自分が「欠けた」存在だったとわかる。「知る」ことを体験するまで,知らないことを知らなかったのだ。(p103)
ただ知るだけではなく,知ることによって,なにかに「気づく」という体験があると,さらに劇的に「面白い」ものになるだろう。(中略)それを知ることで,自分の頭の中で,既存の知識とのつながりができる。(p106)
具体的かつ詳細になっていくほご,「面白さ」は強くなる。一方で,それを「面白い」と感じる人が減っていく。鋭く尖った「面白さ」は,それだけ人を選ぶ。(p108)
古来,多くのユーモアは,少なからず差別的であり,戦争や死を扱ったブラックなものだった。(中略)人が死ぬことをジョークにして,人間は笑えた。それで苦しんでいる人もいるじゃないか,という主張は正しいし,まちがいなく正義だ。でも,正義では笑えない。(p109)
それを得ることで,なんとなく自分が成長し,あるいは元気になれる。そして,結果的に自己の満足を導く。そういうものを摂取することが「面白い」と感じるように,人間の脳はできているようだ。(中略)結局,生きるとは,「面白さ」の追求でもある。「面白い」ことを見失ったら,生きていけないのではないか。(p111)
多くの人が,実行することが難しい,と考えているようですが,それはまったく正反対でしょう。実行することは,誰にだってできます。でも,思いつけない。何をしたら良いのかが,わからないのです。ですから,そこを考えることが第一です。(中略)「面白いことがない」という状況は,「面白いことが思いつけない」状況だ,ということです。そして,思いつかなくなってしまったのは,面白さを他者から与えられたり,売っている面白さを買ったりといった生活が続いたからでしょう。(p120)
人の上に立ちたい,人を蹴落としたい,それがお「面白い」と感じる人が多いうちは,世の中は豊かになりません。豊かになっても,豊かさに偏りが生じたままです。ただ,このような「さもしい」精神も,結局は余裕がないから生まれるのだと僕は考えています。(p125)
子供は,なにか面白そうなものを見れば,必ず自分でそれをやりたがります。何故なら,基本的に,享受するよりも作ること,インプットよりもアウトプットの方が何十倍も面白いからです。両方を経験すれば,この差がわかります。(p127)
世の中を変えたいと思ったことは一度もありません。自分の人生にしか興味がなくて,世の中をどうこうしたいとは,まったく発想しません。そういったことを考える暇があったら,今自分が楽しんでいることを考えます。(p130)
「つまらない」ときに「面白い」ことをすると,「つまらない」と「面白い」の両方が存在する状況になるだけのことです。「つまらない」を,早く処理することが,「つまらない」をなくす唯一の方法です。(p132)
少しの「面白さ」で生きられる人もいれば,沢山の「面白さ」がないと生きられない人もいます。前者は慎ましく生活ができるし,後者は,ばりばり働いて大儲けをしないと生きられません。どちらが良い悪いということもなく,そちらが得で損だということもありません。自分に合った生き方ができれば,けっこうなことだと思います。(p136)
「面白さ」は,発見するものというと,少し違っている気がします。発見できるのは,既に存在するものだからです。「面白さ」は,自分で作らないと生まれません。(中略)一番似合う言葉は「発明する」かな,と思います。「面白さ」とは,発明するものでしょう。(p137)
大勢で集まらないと楽しめない人たちというのは,「一人の面白さ」から落ちこぼれた集団だったのである。だから,抜け駆けして本当の「面白さ」に手を出そうとする仲間を牽制し合って,集団の結束を維持していたのだ。集団になるのは弱いからである。仲間外れにされた社会的弱者や,暴力団などの法律で禁止された弱者になる人たちは,グループを組まざるをえない。ブループを組むことでしか立場が保てないからだ。大勢で集まって酒を飲み,わいわいがやがやと騒ぐ人たちは,実のところは「面白さ」を知らない「寂しい」人たちである。(p152)
念頭におくべき大原則がある。人間は,死ぬときは一人だ,ということだ。一般に,若いときほど仲間が多い。若い人は,そもそも友好的であり,相手を毛嫌いせずに受け入れる性質がある。ほとんどの動物にこの傾向があるから,本能的なものといえるだろう。しかし,年齢を重ねるほど,自分は相手を受け入れなくなるし,相手も年寄りを避けるようになる。大雑把にいうと,死ぬまでに一人になれるようにできているといっても良いほど,少しずつ孤独へ向かうのである。(p155)
「孤独死」という言葉は,二つの間違いを含んでいる。一つは,孤独が悪いものであるという思い込み,もう一つは,一人で死んだら孤独だったという思い込みである。(p157)
ビジネスの多くは,「面白さ」を作って売るものになるだろう。そういう業種の割合がおkれからは増える。既に,衣食住も,生きるために必要なものを供給するレベルではなく,より快適なものへとシフトしている。(p158)
社会への貢献を漁で測るとしたら,それは納めた税金の額ではないだろうか。客観的に見て,これが一番直接的な指標である。つまり,仕事をして金を稼げば,それに応じて納税するわけで,それだけ社会貢献していることになる。(p163)
どうして,「自己満足」がいけないものになったのか。(中略)何故ここまで,自分を殺して社会に貢献することを重要視したのかといえば,集団の結束が「力」になった時代だったからだ。(中略)だが,今は明らかにそうではない。(中略)自己満足がいけない,という方向性は,今ではパワハラに近い意見と認識しなければならないだろう。(p164)
大勢が意見を交換できるような情報化社会になったことが,不正が行われにくい社会を作ったともいえる。(p167)
金額に比例して「面白さ」が増えるわけでもない。これは,どんな商品にもいえる法則だが,高くなるほど,価値の増分は小さくなる。(中略)高い商品に金を使うのは,その僅かな価値の差に満足できる精神の持ち主である。また,その僅かな差でも,他者と比較することで優位性に満足できる人だ。(p170)
コピィができるコンテンツ(音楽,映画,絵画,文学など)は,いずれは世の中に行き渡ることになる。今はまだ過度期だが,近い将来には必ずそうなる。しかも,地球上の人間はもう増えるわけにはいかない。これからは人口は減る方向である。(中略)ただし,無料でどこにでもある,いつでも手に入る,という環境になれば,おそらく大勢の人が,それらをそれほど「面白い」と感じなくなるのではないか(p172)
簡単に手が出せるものには,ありがたみが感じられない,という現象がある。苦労をして手に入れたものほど,自分にとって価値があると思える。(中略)これは,ペットでも観察される。(中略)飼い主から与えられたおもちゃにはすぐに厭きてしまうが,自分がイつけたものには相当愛着があるように観察される。(p177)
大勢に買わせよう,と考えるよりも,少数が絶対買ってくれるものを作った方が有効なビジネスになる,安定した商品になる可能性が高い,ということがわかってきた。(p183)
小説を読むことはインプットである。ただ文字を読むだけでは「面白く」はない。その物語の中に入る,いわゆる「感情移入」ができると,頭の中でイメージが作られる。これはアウトプットだ。感情が誘発されるのもアウトプットである。結局は,「面白さ」の本質はここにある。(p189)
ネットは,初期の頃にはインプットのためのメディアだった。世界中の情報が得られ,検索でき,非常に使いやすく,また有意義なツールだったのだ。しかし,ここ十年ほどは,ネットは個人がアウトプットするメディアになった。(中略)ネットが引き起こしたこの爆発的なアウトプット現象は,むしろインプット不足を招いている,ともいえる。みんなが発信し続けるあまり,明らかに受信者が不足だ。ただ,誰も聞いてなくても,発信するだけで「面白い」というのが,現在の状況ではないか,と分析できる。(p191)
今のところ,「いいね」などのサインを出し合って,お互いに「インプットしていますよ」という仮想を抱いているようだ。まるでお金のように「いいね」が世間を巡っているけれど,実際のところ,ほとんどの人は他者のことをしっかりと見ていない。インプットしている者はほとんどいない。(p195)
これまでは,たしかにネットでは誰だかわからなかった。それは監視していたのが人間だったからだ。(中略)これからは違う。監視をするのはAIだ。しかも,過去の膨大なデータも含めて関連したものを見つけ出すだろう。(中略)恐いのはこれからだ。(p196)
こうしてネット上で繰り広げられる「アウトプットの乱舞」は,今後どうなっていくだろうか? 僕が想像するのは,やはりいつまでも,この「面白さ」が維持できるはずはない,ということ。(中略)すべての流行はいずれ廃れる。どうして廃れるのかというと,それは「みんながやっているから面白い」というものが,「みんながやっているから面白くない」へシフトするためだ。(p197)
魅力的な伴侶や恋人もバーチャルで作り出せるし,家族も仕事も,それらしくネットで再現できるようになる。そういうアプリも登場することだろう。(中略)そうなると,ネット上での個人のアウトプットを誰も信じなくなるだろう。近い将来,必ずそうなる。(p198)
現代ほど個人主義の時代はかつてなかった。社会のあらゆるシステムが,一人暮らしをサポートするように機能している。ネット環境がそうだし,携帯電話がそうだし,ワンルームマンションも,コンビニも,すべて一人で生きていけるようにデザインされている。みんなが望んでいるから,こういう社会が実現したのだ。それなのに,何故かマスコミは,「反孤独」的なプロパガンダを続けている。(p206)
傍から見ると「寂しい」状況に見えても,外部に向けて「楽しさ」を発散しない方が,「面白さ」はむしろ大きく膨らむのである。(中略)外部に向けて発散しないと「面白い」ものではない,という価値観は,今のネットでは,よく見られる症状といえる。インスタ映えしないものは面白くない,という病んだ感覚がそれだ。(p210)
自分の楽しみは,各自の自由だが,一方的にアウトプットしてばかりでは,迷惑となる。他人の孫の写真など見せられても,面白くもなんともない。アウトプットするからには,他者にも価値があるものを選ぶ必要があり,客観的な評価ができることが条件である。それができないなら,しない方がよろしい。(p216)
こういった達人たちに共通するのは,家族の話をされないことだ。昔の話もされない。どんな仕事をしていたのかも聞いたことがない。奥様がいらっしゃるのかどうかもわからなかった。それくらい,自分が夢中になっている今の「面白い」話しかされなかったし,作られるものが,最高に素晴らしく「面白い」ものだった。(中略)僕も,そういう生き方がしたい。死に方などはどうだって良い,と思っている。(p218)
芸術作品は,少数の人の高い評価で価値が決定する。ところが,エンタテインメント作品は,大勢に向けた商品となることが前提だから,結果として,何人がそれを買うか,が作品の価値といえるだろう。(中略)芸術作品は,突出した長所が武器となり,エンタテインメント作品は,悪いところができるだけ少ない,つまりバランスが重視される傾向がある。(p223)
常に気をつけていることは,自分以外の人の「大白さ」を素直に受け取る感受性である。「面白いな」と思う積極的な気持ちが大切である。「面白くないな」と思うのは,はっきりいって損だ。隅々まで探して,「面白さ」を見つける姿勢を,いつも持っていること。それが,「面白い」生き方の基本だ,と思う。(p239)
不思議なもので,「面白さ」というのは,成し遂げるとそれで終わり,というものではなく,さらなる「面白そう」なことが目の前に現れる。本当にキリがない。(p249)
夢は夜に見るもの。現実ではない。「夢」も「希望」も,あっても良いが,べつになくても良いものだと思っている。必要なものは,ずばり「計画」であり,「作業」である。実物の,建築も都市も,ピラミッドも万里の長城も,すべて「夢」や「希望」でできているのではなく,人間の「計画」と「作業」で実現したものだ。(p252)
書名 四〇歳からはじめる最強の勉強法
著者 鷲田小彌太
発行所 海竜社
発行年月日 2017.11.15
価格(税別) 1,200円
● 勉強法というタイトルながら,具体的な方法論がどうのこうのではなく,勉強することそれ自体を熱烈推奨している。
方法論とすれば,できれば大学に入った方がいいとか,パソコンを使えとか,その程度のことしか書かれていない。あとは,勉強はいいぞ(特に,年を取ってからは)とアジっている。
● 以下に転載。
「安ければいい」より「センスがいい」が,消費だけでなく,人間の生きる価値の中心になる。(p16)
暇がないから,仕事に忙しいから,勉強をする必要があるのだ。大学生が勉強しないのは,暇がある,ありすぎるからなのだ。この逆ではない。(p17)
先生をまずは「本屋」で見つけよう。これが第一に勧める最良の勉強法だ。(p25)
受験勉強をきちんとした人でさえ,その過半は大学在学中に勉強する習慣を失う。(p44)
勉強なしにできる仕事,勉強なしにやってきた仕事は,トレーニングなぢに誰にでもできる,別な人と簡単に取り替え可能な証拠だ。(p46)
締め切りのない勉強などは,勉強の名に値しない。こう思って欲しい。(p53)
人生は「もし」の連続で成り立っている。「もし」とは不連続=偶然だ。偶然の連鎖から必然が結果する。日常の些事から人生の大事が生まれる。ひとつひとつの,それ自体は重大でもなんでもない「締め切り」の連鎖から,大きな仕事が生まれる。(p59)
成功(success)は継続(succession)だ。なだらかにいえば,小さな努力の継続が大きな成果=成功を生む。これが平凡だが重要な事実だ。(p59)
小さな努力なら誰でもができる。一日一時間の勉強なら,ほとんどの人に可能だろう。だが,それを三六五日続けると尋常ではない。一〇年続けるのはむしろ異常の部類にはいる。(p61)
注目して欲しいのは,勉強には細切れな時間が重要だということだ。まとまった時間がないから,まとまった勉強=仕事ができない。こう思ったら,すでに勉強をなかば放棄しているとみなしていい。逆に時間がありあまっていたら,勉強する必要も少しも感じなくなる。時間がないから,寸暇を惜しんで,勉強をせざるをえないのだ。(p64)
面白いもので,会社の仕事になれてくると,会社がよそよそしくなる。家庭サービスが可能になると,家庭がよそよそしい存在になる。これは矛盾だが,どこにでもある矛盾なのだ。(p70)
人は仕事(勉強)で充実感を得ることなしに,人生を楽しく送ることは難しい。仕事(勉強)の外で,充実感を満たしても,長続きしない。(p75)
起きたら,鈍いと感じようが,靄がかかった状態であろうが,ゆっくりと晴れるまで待つと,鈍さや靄が吹き飛ぶだろうか? 晴れない。人間の頭は,わずかの例外を除けば,とても頑強な器官,正確には,柔構造だ。かなり乱暴に扱っても壊れない。むしろガンガン使わないと強靭にならない。(p81)
筋肉は強化しすぎると,柔軟性を失う。切断しやすくなる。ところが脳はどんなに強化しようと限度がない。(p82)
基礎練習・反復に終始しては,面白くないだけでなく,上達しない。(p92)
近代学校教育は,かつて職場で徒弟制度でおこなわれていた教育・トレーニングの大部分を学校に委ねた。その費用も国と個人の負担にした。この点だけを特出すれば,企業は学校教育に尽力せず,費用も出さず,成果だけをただ取りしているのだ。(中略)たしかに企業研修はある。しかしそれは初・中・高等教育の成果の上に,ニスを塗る程度さえもない。(p121)
日本特有のアベレージ教育の基本は,国民全体に同じ質の教育サービスを提供することだ。アメリカもアベレージ教育をめざしたが,成功しなかった。(中略)国民のもっとも厚い層に,均質な教育を提供できなかったのだ。(中略)アメリカはエリート教育といわれるが,一割しか初・中・高等教育でまともな教育サービスを受けていないということだ。(p123)
一九七〇年代までは,ノートを取ることばかりに気を取られていないで,講義内容をよく聞け,と教師が中止した。八〇年以降は,ノートを取らない学生のほうが断然多くなった。たまには手も動かせ,手と頭は連動しているのだ,といわなければならなくなった。(p125)
四〇歳から勉強を必要と感じるようになった人に,最も簡便で効率のいい勉強法は,大学に行くことだ。勉強でいちばん重要なのは,勉強習慣をつけることだ。大学で勉強の強制に従うと,勉強習慣の基本スタイルが身につく。(p130)
勉強は面白い面白くなるためにはハードな勉強が必要だ。ハードさを要求しない,ただ面白いだけの勉強など,ない。(p159)
すべてのものは変化の中にある。すべてのものは,肯定的・保守的な側面と,否定的・変革敵な側面からできあがっている。(p163)
どんな理由があるにしろ,入ったところを早期に辞めると,仕事力がまったくつかなく終わる。否,かえって仕事に対する熱意,仕事にとって最も大切な持続力が減退し,仕事力が低下する。しかも,就職した職場をすぐ辞める人間に対する社会の評価が,下がる。(p169)
偏差値の高い有力大学の子は,総じて体力もある。運動神経も機敏だ。こういって間違いない。(p172)
重要なのは,仕事・勉強中,集中力を絶やさない必要とともに,集中力を使い切らない工夫だ。(p180)
パソコンで勉強・仕事をしていると,集中力の地蔵が無意識に可能になる。(p180)
私にとって,「締め切りがない」というこてゃ,どんなに早くてもいい,ということを意味する。(p200)
私は「朝飯前」にこだわる。起きてすぐに勉強だ。第一気分がいい。しかも短い時間だ。(中略)せいぜい一時間が限度で,疲労も感じない。(p218)
面白さはそこにごろんとした形で存在するのではない。発見されるものなのだ。(p220)
定年退職で仕事を離れると,否も応もなく,勉強は勉強のために存在する,そしてこれが,勉強の人生上の最大意味だ,とわかるようになる。どういうことか?(中略)人間は「あらゆるもの」に夢中になることができる。勉強は「あらゆるもの」を対象にできる。勉強するということは,夢中になる対象が無限大になり,夢中度が無際限になるということなのだ。ただし,夢中で勉強すればのことだが。(p227)