書名 俺たちの老いじたく 50代で始めて70代でわかったこと
著者 弘兼憲史
発行所 祥伝社
発行年月日 2019.12.10
価格(税別) 1,300円
● 20年前に刊行したもののリメイク版。まえがきと序章を読めば本書を読んだことになりそうだ。 が,一切の外的条件から自由になれだとか,主観を強めることで客観(現実の事象)を抑え込むとか,悟りを啓いた高僧でもできないだろうと思えることが説かれる。
間違ってはいないのだろうが,そこに至るための具体的方法論(もしあれば)も併せて提唱しないと,何も言っていないに等しいのではないか。
● あるいは,生きがいを持てば,免疫系が強まり,病気をも克服しやすくなるとかね。生きがい万能論。
これも正しいのだと思う。今日できることは明日に延ばすな,というのと同じ程度には。つまり,誰でも知っているのだ。
が,生きがいを持てている人はさほどに多くはない。知らないから持てないのではなくて,知っていても持てないのだ。正論を述べて終わりでは,やはり何も言っていないに等しい。要するに,何の情報も付け加えていないわけだから。
● 以下に多すぎる転載。
自立とはなにものにも頼らず,自分の居場所を楽しめる精神の快活さのことだ。(p7)
運命が過酷になるのは,希望を持たなくなったときあkらだろう。希望さえ抱き続ければ,人生で起こる大多数の出来事はちょっとだけ憂鬱な事柄にすぎない。(中略)現実がどうあろうとそれに左右されにですっきり立ち続けることができるかどうかだ。言い換えれば,一切の外的条件から自由になることだろう。(p7)
二〇歳が人生に感じる豊かな可能性への予感は,五〇代にも当然あっていい。ないというなら,五〇年分の垢をため込んで身も心もズッシリ重くなっているんじゃないかと心配する。(p16)
幸せとは何だろう。金銭も地位も客観的現実にすぎない。それを幸せと感じるのは主観だから,幸せの正体は「幸せだと感じる心」があることだろう。(p23)
値段とか地位とか,比較され得るものから得られる幸福感は,つねに不幸感と隣合わせだ。自分より上が現れれば,途端に幸福ではなくなる。
比較しないというのはどういうことか。他人があらゆる意味できにならないということだ。自分だけのくつろげる空気に浸っていられることだ。(p26)
生きていくのに大切なのは,世間が押しつけてくるモノサシを蹴っ飛ばして,生きたいように生きようと思う,そんな主観の強さだろう。言い換えれば,自分の内部に自分だけのモノサシを持つ。(中略)誤解されやすい言葉だけど,「地球は自分中心に回っている」と思ってもいい。(中略)自分があるから,周りの世界があるんだということだ。世界は自分の脳内に生まれた幻影だと思っても差し支えない。(p34)
世の中のモノサシは全部川に流してしまうのだから,慚愧にたえない過去はもう忘れていい。モノサシがなくなればそこにいるのは別の人間だ。一度死に,そして生き返ることと同じなのだ。新しい人間としてこれからを生きる。少なくともその覚悟だけは旺盛に持つ。(p35)
気力も主観だから,主観を強めることで客観を抑え込む。(中略)楽しいことを探す姿勢,生きがいを持とうとする姿勢が,「気」の高まりとなる。(p44)
ぼくは典型的なB型のマイペース人間だ。ゴルフのアプローチのときでも,絶対に成功するいいイメージだけを考える。(中略)ぼくのようなタイプは,失敗したときのことを不必要に考えて悩まない。たぶん重病にかかっても,「なんとかなるさ」と,見舞いに来てくれた友人と,バカ話をする口だ。こういう気持ちが最大の治療法なのだそうだ。(p50)
生きがいを持てない人の多くは,生きがいを探す以前に,自分に自信を持てない人が多い。自分を好きになれる人なら,生きがいを探すのにそう苦労しない。(中略)自分を好きになったり,自信を持つとはどういうことか、「我を忘れる自分」を知っていることだ。(p56)
自分が肯定できれば,他人も肯定できるようになる。(中略)他人のアラばかり探すような生き方は,自己治癒力の低下にもつながる。損じゃないか。(p58)
髪の毛が薄くなったり少なくなるのはやむを得ない。でも腹がせり出してくるのは,それと同列に語れない。それは(中略)「自己をコントロールする能力の欠如」なのだ。(中略)気にならないというのは単なる試合放棄,自分をコントロールする気持ちの張りすらなくなってしまっているということじゃないか。(p62)
上昇志向はポキンと折れやすい。それは生きることの本質ではないからだ。(p78)
気後れは,「人生の土俵は二〇代から定年までの四〇年間にある」と思うからだ。その時間を無為に過ごしたという思いから来る。そして,この歳でうまくやっていけるだろうかと臆してしまう。
でもこれは間違っている。人生の勝負は常に「今」しかない。(p85)
今やっていることが必ずその人らしさを作っていく。「あの人は昔,銀行の支店長だったんだよ」といくら近所の子どもに言っても,フーンで終わりだ。今が漁師ならその人は漁師なのだ。(p87)
定年までの舞台が会社なら,定年後の舞台は家庭だろう。家庭でどれだけダンディでいられるか。(中略)舞台が変わってもダンディであろうとすれば,自分のことは自分でやれる男にならなければならない。(p95)
妻にかっこいいと思わせるしかない。(中略)むずかしいことではない。身の回りのことは自分でやればいい。それだけだろう。(p97)
素人料理のコツは手を抜くことだ。(中略)料理は手を抜けば抜くほどオリジナルになる。(p106)
性の不一致というが,男と女の関係は性だけではない。一緒にいることが自然で,ホッとする空気がある。それが情緒だ。情緒の不一致は性の不一致以上にたがいを引き裂く。(中略)セックスレスでもうまくいっている夫婦は,情緒が合っている、(p118)
定年をすぎると男は気弱で小さくなる。仕事とか会社とか地位とか,二回りも三回りも自分を大きく見せていた装置がなくなって,元の姿に戻ったということだろう。(p121)
ならば今,何をすべきか。はしゃぎたい気持ちを抑えないことだ。(中略)いい歳してバカなことをやっていると思うなら,あなたの中の「少年」はすでに窒息してしまっている。(p123)
買うのなら,可能な範囲で一番気に入ったモノを一個だけ買い,わが子のように大切にしたい。(p130)
モノを修理して使う感覚を忘れてしまっていないか。(中略)何回も修理しているうちに,気のきいた趣味のひとつになるはずだ。(p132)
贅を語れる人は,粗も語れなければならない。(中略)粗とはシンプルであるがゆに,その本質を堂々と表してしまっているものだ。(p134)
若さの力は凄いもので,見ばえで言えば,特にオシャレをしなくても,溌剌さ,初々しさは伝わってくる。後半生になるとそうはいかない。だからこそ後半生でのオシャレが必要になる。(p137)
外面が決まっていれば,きっといい人生を送ってきたんだと無条件に納得する。(p138)
背広を着ている男を周囲の人が見て,「この人はサラリーマンだな」と思うなら,それは仕事着にすぎない。そうではなく,何をやっているか分からないが背広が似合うと思われたい。そういう男でありたいのだ。(p139)
ひとり遊びができることが,自立している証拠だ。(p156)
意外なものに出会って面白いと思えるのは,そろばんが得意とか字がきれいに書けるのと同じレベルの能力だと思う。(p166)
たとえバス停で五〇分待たされても焦ることはない。(中略)五〇分間,停留所の周辺をウロウロできるほど自由なのだと思いたい。(p168)
なぜ彼女たち(四〇代,五〇代の女性たち)は元気がいいのか。まず,周囲との年齢差を気にしない。一〇代向けの店にもどんどん入って,彼らと同じものを頼んで嬉々としている。(中略)もうひとつ彼女たちの元気の元には,人の気持ちをあまり忖度しないというのもあるだろう。(中略)自らの行動範囲を限定しない女性たちのなりふり構わなさは,十分に男たちのテキストになる。(p169)
どんな趣味も,テーマを絞り込んだほうが面白い。(p180)
一生懸命時間を作って,ヨシこれで明日はゴルフだ,そうおもうからわくわくする。(中略)いつでもできるなら何も今日やらなくてもと思うはずだ。(p183)
プロを目指すのでないかぎり,早く始めたかどうかは関係ないはずだ。(p184)
土に触るのは気持ちがいい。「気持ち悪い」という女性もいるが,生命力が弱くなっているんじゃないか。(p186)
人生は死ぬまで未完なのだ。明日,何が起こるかすら分からない。(中略)人生を完成させることができるのは死だけだ。死をどう考え,どう対応するか。もともと,「生き様」なんて言葉はなかった。あったのは「死に様」という言葉だけだ。それほど死に方,人生のピリオドの打ち方は重要なのだ。(中略)散らかしっぱなし,迷惑のかけっぱなしでも,腹の据わった死に様ならば,周囲は納得してくれる。タレ流しのような人生でも,去るときの清々しさが,すべてを帳消しにしてくれる。(p202)
最終的には「死んでみせる」ことを自らの存在理由にする。(p210)
心を支配するものが欲望やモノだけだったら,心は何の仕事もしていないことになる。心の仕事とは,心自体を楽しませることだ。(p211)