書名 この自伝・評伝がすごい!
著者 成毛 眞
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2017.04.20
価格(税別) 1,400円
アシュリー・バンス『イーロン・マスク』(講談社)
小倉昌男『小倉昌男 経営学』(日経BP社)
安藤百福発明記念館『転んでもたたでは起きるな!』(中公文庫)
出町 譲『清貧と復興 土光敏夫100の言葉』(文春文庫)
梶谷通稔『成功者の地頭力パズル』(日経BP社)
藤原正彦『転載の栄光と挫折』(文春文庫)
山中伸弥『山中伸弥先生に,人生とiPS細胞について聞いてみた』(講談社+α文庫)
中村修二『負けてたまるか!』(朝日新聞出版)
岡崎慎司『鈍足バンザイ!』(幻冬舎文庫)
桂 米朝『桂 米朝 w他シオン履歴書』(日経ビジネス人文庫)
小松茂美『勘三郎,荒ぶる』(幻冬舎文庫)
樋口毅宏『タモリ論』(新潮新書)
石原慎太郎『天才』(幻冬舎文庫)
常井健一『小泉純一郎独白』(文藝春秋)
山口敬之『総理』(幻冬舎)
冨田浩司『危機の指導者チャーチル』(新潮選書)
明石和康『大統領でたどるアメリカの歴史』(岩波ジュニア新書)
中村彰彦『名君の碑』(文春文庫)
福田千鶴『徳川綱吉』(山川出版社)
徳永 洋『横井小楠』(新潮新書)
● 以下に多すぎる転載。
ポイントはここである。マスクは大金持ちではないのだ。それはなぜかといえば,そこを目指していないからである。(p13)
クリーンエネルギー技術の改良や人類の活動領域を拡大するための宇宙船開発を,幼い頃から自分の責任にようにとらえていたのだ。40代になった彼はこの2つを実現している。こんなことを実現してしまった源泉は,やはり空想うと現実の区別がついていなかった,というところにあるのではないか。(p14)
マスクの少年時代の特徴としては,白昼夢と異常な読書欲と書いてある。(中略)学校の図書館で読む本がなくなると百科事典を読破したという。(p15)
あり得もしないことを実現するのには当然,困難がつきまとう。この困難というのは「それは無理だ」という人間の存在だ。これがいちばんの障壁になるが,マスクはこういった声を押さえ込んできた。つまり関係者の「できない」を許さないのだ。(p18)
商品やサービスをひとつに絞るのは大きな危険を伴う。まず,そのひとつがダメだったらどうなるのか,リスクの分散ができないということがある。また,既存の商品やサービスを捨てるというのは,そこに関わっていた取引先や顧客との関係を絶つことにもなる。(p23)
「私はラーメンを売っているのではない,お客さまに時間を提供しているのだ」これがインスタントラーメンの成功の理由である。安藤は闇市でラーメンの魅力を感じたが,決してラーメン屋はやらなかった。安藤は高度成長期,生活が便利になるにつれて更新されていく需要を的確に把握していた。(p36)
自分が上手くいかない現状を社会や環境や人のせいにする風潮があるが,うまくいかないのは自分が悪いのだ。不遇の理由を自分以外にあると考えた段階で,その人間に未来はない。(p36)
私はいわゆる名言本はお薦めしない。偉人の至言・名言を読んでも「だからどうした」と感じる他ない。(中略)何故なら,気づきを与えてくれるような言葉には,必ず前後の文脈があって,そこが重要になるからだ。(p39)
政治家たるもの我欲を挟むものではない,というようなことを本気で信じている。土光はあくまでそのあたりが純粋なのだ。政治家に倫理を求めるときも,本気だ。政治家は倫理に反することをすると騒ぎ立てられるから,気をつけろ,なのではない。(p43)
土光はイメージを良くしようということで,メザシを食べていたわけではない。食べたかったから食べていたのだ。これが証拠に土光は質素に暮らしていたが,他者に質素であれ,と押し付けていない。(p44)
もちろん休んで生産性が上がる人間はいる。それは一流の人たちのことだ。(中略)一流でない人間は休んでいる場合ではないのだ。(p45)
私が何よりもすぐに思いつくビルの特異な能力は「一挙に3万人ぐらいの名前を軽く覚えられる」ということである。(中略)ようするに桁外れの記憶力があるということなのだ。(p49)
まず,念頭においてほしいのは,数学者がこの世に存在する,いわゆる「頭の良い人たち」の中で最高レベルである,ということである。(p60)
私たちはとかく理解不能な人や事を低く見る性質がある。(p65)
科学者を怒らせる質問として「これが何の役に立つんですか」というのがある。なぜ怒るのか,その理由は何の役にも立たないから,である。(p69)
科学者が好きな言葉には「分からない」というのがある。(中略)常に何か分かろうとする姿勢でいたら,科学者は5分と持たないのだ。当然,日々,成果を迫られている市井の人間は,こういった事情を理解しえない。よって「何の役にたつんですか」という質問をしてしまうのだ。(p69)
山中の理念を分析すれば「研究をするためには金が必要で,金を集めるためには誰もが納得する目的が必要」という順番になる。(中略)表面的には「人の命を救うため」としながら,山中の動力はあくまで表面的な目的ではないのだ。(中略)つまり義憤が動機ではない。(p72)
よく戦場カメラマンが正義の味方のように報じられるが,彼らの中には「戦争が好き」という動機で専従しているケースが少なくない。つまりその多くは「戦争がなくなったら困る」と思っている連中だ。(p73)
「負けてたまるか!」。これが中村の原動力であり,(中略)中村の才能だ。(中略)「青色LED」を発明したことが,中村の特別さではない,ということを認識していただきたい。中村の特別なところは「『研究のためには喧嘩も辞さず』ではなく『喧嘩のためには緊急も辞さず』」という基本姿勢にある。あくまで「喧嘩」が先なのだ。(p77)
中村は「つぶれそうな会社を救うため,全く勉強してこなかった研究分野に挑み,それを発明してしまった」のだ。(p80)
この笑いは自己顕示欲(=自分はかっこいい)がある人間には絶対できない。(p87)
「僕はいつもネガティブなイメージを持っている。メンタルトレーニングのほとんどが,成功する自分をイメージして,というポジティブなものなので,いつもお断りしている」とある。(中略)ガッツポーズで喜ぶ完全無敵のヒーローよりも,悩み多き達成者のほうがたくさんの発想とたくさんの言葉を持つはずだ(p91)
イチローに代表されるように,アスリートはr-ティンを守るものだという先入観があるが,岡崎はゲン担ぎもしないし,こだわりも全くないという。積極的にルーティンを壊すと,新しいことに出合える確率が増えるというのである。(p94)
少し,持ち上げられると専門家ヅラになる面々はどこの分野にでもいるが,芸人がここに参入しつつあるように感じるのだ。米朝は自伝で私の意見に少し,賛成してくれている。「落語は,笑われてなんぼ」と書いているのだ。「笑わせる」ではなく「笑われる」。(p102)
米朝はパイオニアなのだ。瀕死の落語を復活させたのではない,違うステージで生まれ変わらせたのである。(p103)
私はビジネスマンの研鑽を考えたときに,普段使わない英語を習うぐらいなら,歌舞伎を観たほうがいいと思っているのだ。(p105)
勘三郎の他者に対する評価の仕方が心地いい。勘三郎は人を評価する際に同じ言葉を使っていない。そこには,人はそれぞれに優秀さが違う,替えがきかない才能を持っているのだ,という敬意があふれており,むやみやたらな褒め方になっていないのである。(p111)
私は近年の「テレビを観ていない」という主張が散見される状況に疑問を感じ,やたらとテレビを観るようになった。驚かれるかもしれないが,週に視聴する番組は30本をくだらない。その中には,ドラマも4,5本入っている。(p113)
タモリはあれだけテレビで身をさらしながら,ほとんど身の切り売りはしてこなかった。つまり,視聴者はタモリがどんな人だか,分からないのだ。テレビというメディアは,画面に映る人間のパーソナルを赤裸々に暴く特徴があるが,タモリはその特性の範疇に入ってこないのである。(p115)
悲しみは笑いを邪魔する要素になりうるが,タモリは悲しみをまとった珍しいコメディアンなのである。(中略)近年は自虐が笑いのひとつのトレンドになっている。(中略)これは悲しみを逆転の発想で,笑いに変えるといった構造になっている。(中略)タモリは悲しみを道具にしていないし,逆転させてもいない。悲しみを笑うのではなく,悲しみを悲しみとしてまとっているのだ。(p117)
笑いというものは,そもそも悲しみを宿した人間でないと提供できないのではないか。果たして,毎日が楽しくて楽しくて仕方がない人間が笑いを届けることができるだろうか。(p118)
タモリは決して専門家にならないということだ。えてして,彼ほどのキャリアを持つ有名人であれば,コメンテーターといった役割を求められることが多い。事実,北野武や松本人志など,こういった求めに喜んで応じている有名人は少なくない。だが,タモリはコメンテーターなどやらないし,そんなコメントを求められても,(中略)「もう忘れました」と答えるだろう。(p119)
「俺は無類の人間好き。人間の生き様にしきりに興味がある」。(p125)
エリートというのは何とかして相手を見下そうとする癖があるが,田中が来てその構造がなくなった。(中略)人間というのは得てして微差に反応するものだ。つまり,官僚にとって田中は見下す対象ではなかった。結果,ここでも田中は自分の出自を最大限利用したことになったのである。(p126)
田中に驚愕するのは選挙を人と出会う場と考えているところだ。(中略)つまり選挙を勝ち負けで考えていない。勝っても負けても本気で「ありがとう」と握手をする。(中略)この感覚は日本人の情に訴えるにはかなりのインパクトがあるだろう。(p127)
「大事な頼みごとに金を持参するのは当たり前」という部分が出てくるが,田中が金だけ持っていって,お茶を濁していたわけではないことは明白だ。田中には土方の経験が深く刻まれていたが,田中が肝に銘じていたのは体を動かすことではなかったのか。(p129)
往時は田中に反旗を翻していた,この本の著者である石原慎太郎が「長い後書き」と称して,田中にゴルフ場で声をかけられたことを何とも嬉しそうに書いている。(p130)
田中は決して反知性主義ではない。田中はエリートの向こうをはって,対立していたのではないのである。あくまで誰に対してもリベラルなのが田中の特徴だ。出身大学や肌の色で人を判別しないというところも田中の人脈力の源泉と言えよう。(p131)
「角福戦争など実際にはなかった。圧倒的に出自が違った。だが,あれは水泳の試合みたいなもので,あの試合で俺は役人天下にひと泡吹かせてやったと思う」。(中略)ここで我々が注目しなければならないのは「ひと泡吹かせてやった」の部分ではない。水泳の試合なのだから,負けたってどうということはない,というところに田中の重要な感覚がある。(p131)
小泉は既存の権力に抵抗し続けた政治家なのだ。(中略)小泉は人づきあいよりも公憤を取った。決して調整型ではなかったのが小泉なのである。(p135)
あのときは郵政民営化の中身を国民が理解していたわけではないが,国民は政治家に抵抗する政治家がまぶしく見えたのだ。調整型でなくても人がついてきた。これも小泉の特別なところだ。(p136)
小泉の特徴である「ネチネチしていない」がここにも表れている。とにかく終始一貫明るいのだ。そして発言の全てにおいて,何かに対して抗っている構造がある。(p137)
小泉の言葉には真剣さを感じたが,これは選んでいる言葉ではなく,発言している姿や決して長ったらしくないという要素からもたらされている。加えて小泉の言葉はひとつも難しくない。内容よりインパクト重視なのだ。プロンプターや図表を使うのは最悪,という言及も出てくるが,これらに傾注すると伝えたいことが伝わらないことを小泉はよく知っている。(p138)
抵抗する力と言っても,ただただ反抗するというのでは,話にならない。常識人が抵抗するから話になるのだ。(p139)
元々こうなっているから,こういう決まりだから,ということについて小泉は寄り添おうとせず,おかしいと思ったら一直線に抵抗し続ける。その愚直な姿に国民は胸を打たれたのではないだろうか。(p140)
安倍の幸運力でいえば,1回目の辞任の理由が病気だったことだ。これが病気でなかったら2回目はなかったろう。(p143)
100万部のベストセラーを読んで,100万人と感覚が同じであれば,それは読んで得た知見の価値が100万分の1になっていることになる。これからは知見の差別化が物を言う時代だ。(p145)
推薦本(山口敬之『総理』)には組閣案など緊張感のあるやりとりの現場に著者がいたことが明かされているが,政治家は国家の大事を左右するような話をするときに記者など呼ぶはずもない。著者が聞いたのは「政治家が記者に聞かれても困らない話」ということだ。私がここで読者に注意喚起したいのは,推薦本に書いてあるようなことを鵜呑みにして「安倍さんはこんな人なんだ」と思ってはいけない,ということである。(p147)
とかく,評伝の類は「この人物はすごいことをした」といった美化をしていることが多い。悪いところには目をつぶり,何とかして良いイメージにしようという強制力が働くのだ。ここには注意が必要である。(p151)
私がチャーチルにおいて特別だと感じる能力は「貴族力」である。まず出生地が広大な宮殿,しかも世界遺産だというのだから尋常ではない。(p152)
チャーチルは戦時において名声を得たが,この原動力になった才能が庶民の気持ちがわからない貴族力である。例えばチャーチルは,ドイツに暗号解読が成功したことを勘づかれないために,その作戦内容を知りながらロンドンの空襲を眺めていた。逃げ惑う国民を見殺しにしたのである。つまりチャーチルは,国民を勝たせるために戦争をしたのではなく,国を勝たせるためにその才能を発揮したのだ。(中略)チャーチルは何か決断するときに,いろいろ人間の顔が浮かぶタイプではない。国が勝つためなら,国民が死ぬのはかまわないのである。(p153)
チャーチルは政治感なんかではなく,根っからの文筆家であったことである。何せ,チャーチルの従軍は,義憤や軍に所属していたからといった理由ではなく,戦記を書くためだったというのだ。(中略)チャーチルは記者として,自らを新聞社に売り込み,従軍したインド,スーダン,南アフリカ,どこででも戦記を書き,それを発表して稼いでいたという。こうしてチャーチルは,20代で既にベストセラー作家になっていたそうだ。(p154)
私が本書で強調したいことのひとつに「古典を読む必要はない」ということがある。とかく,教養の分野では「古典にあたれ」ということが喧伝され,読者に配慮のない専門書のような本が薦められることが多い。しかし,こういった風潮には「古典をすすめると見識が高くみられる」という強制力が働いている。(中略)せめて夏目漱石や森鴎外ぐらいを読んでいなくては,という強迫観念があるが,全く読む必要はない。(p171)
問題解決にあたっては,あくまで現代に起点をおいて学び,考えるべきなのだ。現代を学びつくしてから,歴史にあたるのはいいが,現代を学びきっていないのに,歴史を学ぶのは見当違いという他ない。(p172)
AIの時代である。よって,さらに古典には意味がなくなる。人工知能はこれまでの情報の蓄積であるから,古典などすべてお見通しだ。(中略)古典を知っているという素養で特化される分野は,これから全てAIに置き換わる。よって,私たちに求められるのは,蓄積がない今を起点として考えることだ。(p172)
よく今はリーダー不在と言われれが,リーダーよりも重要なのが社会のビジョンを時代に合わせて描ける人間だ。(p173)
バブルが崩壊し,低成長時代に入った日本をみると,日本はつくづく個人主義が合わない,と思うのだ。(中略)私は若い人と話しているとつくづく「江戸だな」と思うのだ。シェアハウスなどはその典型かもしれないが,議論するより,ぐっとこらえて仲良くする。こういった姿勢は欧米にはない。(p178)
なんといっても大化の改新の頃から武士の時代を経て,日本は「人を殺すこと」が問題解決の方法だった。(中略)当然であるが,1000年続いた社会通念を変えるのは一筋縄ではいかない。よほどインパクトのある方法をとらなければ,「命を大切に」という意識改革はできない。(p181)
「殺してしまえ」ができなくなると,人と理解し合うためにはどうすればいいか,ということを必然的に考えなければならなくなる。ここで助けとなるのが学問である。どんな学問でも効用としてあるのが,視野を広げてくれることだ。(p183)
変革というのは,変えた後が大変である。(中略)既存勢力を倒すことよりも,その後の社会構築のほうが何杯も労力を要する。(p188)
小楠は,勝(海舟)にアメリカの事情を必死に聞いたというのだが,一を聞くと一〇を知るといったふうに,勝が話し終える頃には,すっかり米国通になったそうなのだ。体験せずともそれを理解する力,これが小楠の特徴的な才能といえよう。とかく日本は「現場主義」などといって,体験至上主義のようなところがある。「行ってみなければ分からない」「やってみた人が偉い」というような感覚だ。(中略)特にアメリカでは,「現場主義」というような考えはない。体験しないと理解できない,といったことでは話にならない,と考えられている。(p190)
ここまで開明的だった小楠がなぜ歴史的に扱いが軽いのか。その理由は,小楠が革命家ではなかったからである。(中略)人にはどん欲に会ったが,行動派というには程遠かった。(中略)日本人は「隗より始めよ」といった姿勢が大好きである。言うことと行動が伴わないことを嫌うのだ。(p194)
事ここに至るまでには多くの人命が失われているがゆえ,変革には細心の注意が必要なのである。ここで小楠のような存在が必要になる。災厄を最小限に抑えながら,変革を起こす。そしてその後,どうしたいのかというビジョンを明確にする。ただ,行動すればいいというものではない。(p195)
私はこの脈絡のなさが大事だと思っている。何の脈絡もないのが人生ではないだろうか。(中略)我々は想定外に対しての免疫をつけておかなければならないのである。(p197)
それはとかく人が,ひいては世の中が美談を急ぐからだ。美談を急げば本質を見失う。今回,私はその本質をついただけなのである。(p198)

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