書名 何のために「学ぶ」のか 中学生からの大学講義Ⅰ
著者 外山滋比古
前田英樹
今福龍太
茂木健一郎
本川達雄
小林康夫
鷲田清一
発行所 ちくまプリマー新書
発行年月日 2015.01.10
価格(税別) 820円
● 中学生に向けた学び方,生き方指南。自分が中学生の頃,これがあったとして,果たして読み解くことができたろうか。
特に,最後の鷲田清一さんの話は,折にふれて何度も読み返すべきものだと思った。簡単に“わかる”ことの危険を説く。
● 以下に多すぎる転載。鷲田清一さんからの転載が多い。
日本では一九世紀からつい最近まで,満点のほうが七〇点や六〇点よりいいと,学校も世の中も考えていた。その結果,いつしか社会は活力を失ってしまった。(外山 p11)
いったい,「満点をとる」とはどういうことだろう? 私に言わせれば,それは「頭が機械的に優秀である」ということだ。(外山 p12)
知識が増えると,どうしてもその知識をそのまま使用して物事を処理しようとしがちになる。自分自身で考えることが,ついついおっくうになりがちだ。(外山 p15)
人間は非常に保守的な生き物だ。いったん始めたことはなかなか変えない。(外山 p18)
勉強は体を動かすことと組み合わせないといけない。(中略)体をうごかして集中力を高める必要がある。(中略)文武両道でなければダメなのである。(外山 p31)
人間が自分の頭で考えるようになるためには何が必要か。(中略)不幸とか,貧困とか,失敗とか,そういう辛い境遇から逃げないことだ。困難な状況の中にいないと,頭は必死になって考えることをしない。(外山 p34)
文章にかけて,百閒の右に出るものはない。ドイツ文学を専攻し,ドイツ語の先生をしていたのに,百閒の文章には外国語のにおいがまったくないのにおどろく。(外山 p38)
対象への愛情がないところに学問というものは育たないと私は思う。(前田 p55)
君たちが教員から学ぶべきなのは専門知識ではなく,彼らがものを考えるときの身ぶりや型なのだ。そこにその人のほんとうの力が現れている。(前田 p58)
自分を発見すること。世界と出会うこと。この二つは表裏一体の出来事だ。世界と出会うことによって改めて自分を発見しなおす,と言ってもよい。(今福 p67)
「わかりやすいこと」は,すでにある,誰もが知っている情報のパッケージとして組み立てられているから「わかりやすい」のだ。(中略)だから新しいものには,はじめ必ずわかりにくさがつきまとう。「わからない」のは,ネガティブでつまらないことではなく,ポジティブでおもしろい未知がかくれているということなのだ。(今福 p84)
「頭がいい」とはどういうことか。それは「努力の仕方を知っている」ことだ。(中略)勉強というのは情熱を注ぎ込めばすごいところまで行ける。(茂木 p105)
脳をうまく使うには,ドーパミンをよく出してあげることが必要だ。それでこのドーパミンは,少し自分には無理かな,と思うくらいのことに挑戦して,それをクリアできたときに,いちばんよく出る。(茂木 p108)
いつも他人と比較して劣等感を抱いていると,そのことをだんだん見ようとしなくなる。避けるようになる。(茂木 p113)
余計なことを省略して,やるとなったら一秒後から実質に入る。(中略)「九時になったら勉強しよう」「あと三〇分ゲームをやったら勉強しよう」-そんな「自分への花束贈呈」みたいな儀式は即刻中止して,思い立ったらすぐ机に向かおう。(茂木 p117)
一生,勉強し続けなければ,先はないと思ったほうがいい。もちろん,がんばって志望校に合格することは大切だ。でも,それがゴールだとはくれぐれも思わないでほしい。クリアすべき第一関門でしかない。だから逆にいえば,その程度のことはとりあえずクリアしてほしい。(茂木 p121)
感覚を研ぎ澄まし,いわば野生動物のように,あの本,この本と渡り歩くようでないといけない。だから,「どんな本がオススメですか」と他人に聞く癖がある人は,ぜひともそういうことはやめて,自分自身の原始感覚を磨くようにして欲しいと思う。(茂木 p125)
七〇年生きるゾウも,二年くらいで死ぬハツカネズミも,心臓の打つ回数は一五億回,呼吸の回数も三億回で同じ。同じことを二年で凝縮してやるか,七〇年かけるかで生き方はだいぶ違うはずだ。(本川 p139)
子どもは私である,孫は私である。そう考えると,子どもを産める条件を備えていながら子どもをつくらないという選択は,生物学的には自殺に当たる。生物としての基本は次世代の私をつくること。それがすなわち大人になるということだ。ところが,最近はみんな大人にならない,なりたがらない。(本川 p145)
実は新発見というものは,発見者が一五~一六歳の頃からその種を自分の中に宿していることが多い。(中略)これは分野によらない。このことが端的に示しているのは,世界を変えるのは知識ではなく「若い力」だということだ。若い力とは「知らない」力であり,「知っている」ということよりも「知らない」ということのほうが重要なのである。(中略)新発見は,それまでの常識からすればエラー,あるいはアクシデントと呼ばれる事態の中でなされることが多い。(小林 p163)
数学の勉強が嫌いなら,どこが好きでどこが嫌いなのかを考えてみてほしい。考えることが,単なる好きや嫌いの感覚から距離を置くことを教えてくれるから。それが学ぶことの第一歩。(小林 p165)
学ぶためのもう一つのポイントは,全体を見ること。それと同時にどこか一点を見なければならない。全体だけを見ていても絶対に自分のものにはならない。(中略)これは思考の基本でもある。人間がものを考えるとき,公理から出発することはありえない。全体のコンテクストをぼんやりと視野に入れながら,その中で手がかりを見つけて,考えを進める。(小林 p165)
人間は,決して完成しない存在なのだ。しかし,それでも完成してしまったらどうすべきだろう。実は,完成は壊さなくてはならない。(小林 p167)
高校生たちは「何もかも見えちゃってる」などと言っている。だから元気が出るはずないよ,という顔をする。(中略)が,「見えちゃってる」のはいいことしか見ていないからだ。(鷲田 p180)
ほんとうにつらいときの人間は,ただ生きていること,それすらできない。つまり,人間はただ生きるだけのためにも,自分がここにいる理由が欲しい。(鷲田 p182)
一つだけてっとりばやい逃げ道がある。それは恋愛だ。恋愛は相手から,自分の存在の理由を与えてもらえる。(中略)こんなに楽な状態はない。(鷲田 p183)
近代社会は「生まれ」,つまり階層,地域,言葉,性別,といった本人が選びようのない条件はすべて無視しようという考えを基本に成り立っている。(中略)その代わりあとは自分で選びなさい,と放り出される社会だ。そうするとどうなるか。今ある自分は自らが選択した結果なのだからすべて自分の責任だ,ということになる。(鷲田 p186)
そんな大きい責任を課せられている今の時代であるにもかかわらず,若い人に限らず,すべての世代が,どんどん無力になっていると私は感じている。大げさな言い方だと思うかもしれないが,では,この中にお産のときに赤ちゃんを取り上げることができる人はいるだろうか。(中略)昔は,こういったことは女性であれば全部できたのだ。(中略)人にものを教えることも,うまくできなくなっている。教育は学校の責任になった。(中略)最低なのは,隣近所とのもめ事が起こったとき,それを解決する能力すらない。すぐに役所に電話したり,何かというと弁護士に頼んだりする。(鷲田 p187)
近代社会は,全員が責任を持った「一」である市民社会をつくろうとしていたはずなのに,結局私たちは「市民」ではなく「顧客」になってしまった。(鷲田 p190)
最近カウンセラーたちが,「トラウマ」や「アダルトチルドレン」「うつ」などといった言葉を使う。これらは本来慎重に扱うべき言葉なのだが,安易に使われている。人生は,そのようなひと言で言い当てられるほとシンプルではないはずだ。(鷲田 p191)
「あなたはうつ的な状態です」と診断しても,今の患者さんは受け入れず,「違います。私はうつ病なんです」と,言い張るそうだ。つまり病気にしてもらわないと困る,というわけだ。理由は簡単だ。病気であれば,「私のせいではない」からだ。(中略)ふさぎやしんどいことには,自分で真正面から格闘しなければどうしようもない。(中略)これは単に逃げているだけ。一番してはいけないことだ。そういう思考回路に陥ると,次第にものの考え方が短絡的になっていってしまうのだ。(鷲田 p191)
だから,私たちは「ちっとは賢く」ならなければいけない。「賢い」というのはつまり「簡単な思考法に逃げない」ということだ。物事の理由は簡単にはわからない。それを知り,受け入れようとすることが賢くなる第一歩なのだ。(鷲田 p192)
例えばここに一枚の絵がある。素人は,ここのピンク色は隣とのバランスで黄緑色にしてもいいんじゃないか,などと偉そうなことを言うかもしれない。しかし描いた側にとって,すべての色は必然なのだ。そのピンク色を黄緑色にすれば,絵全体がだいなしになる。ただ,その理由は,画家には説明できない。しかし必然だということだけはわかる。(鷲田 p193)
政治,ケア,表現活動といった人生に非常にたいせつな局面ではほんとうに必要とされるのは,一つの正解を求めることではなく,あるいは正解などそもそも存在しないところで最善の方法で対処する,という思考法や判断力なのだ。(鷲田 p194)
世の中には問いと答えが一対一の問題は,めったにない。「光は波動であるか粒子であるか」という大論争があったが,これは正解が二つある例だ。(中略)無力な状態から脱し,自分の問題を自分で考えて,責任を負うことができるようになるために,私たちは,「一つの問いに一つの答えがある」という考え方をやめなければならない。物事は,こちらからはこう見えるが,後ろから見ればこんなふうだ,といろいろな補助線を引きながら考えよう。(鷲田 p195)
投げ出さずに考え続ける,いわば知的な肺活量も持ってほしい。理解はあるとき一瞬でできることでは決してなく,じっと考え続けて到達できるものだ。(鷲田 p197)
自分の持っている狭い枠組みの中で無理やり解釈して,わかった気になっても何も解決しないし,とても危ない。必要なのは,わからないことでもこれは大事,としっかり自分で受けとめて,わからないままにずっと持ち続けることなのだ。(鷲田 p199)
この世界を見るわたしたちの視野というのはけっして広くありません。いつもここから,自分の立っている場所からしか,見られないという限界がまずあります。次に,自分が習ってきた知識や習慣の枠の中でしか見られないという限界があります。加えてさらに,自分がなじんでいる言語のなかでしか考えられないという限界もあります。(鷲田 p200)
世界の襞を広げるとは,すでに知っている知識を量的に拡大するということなく,これまでそんなものがあることさえ知らなかったものの見方,問い方にふれるということです。(鷲田 p200)