2018年10月29日月曜日

2018.10.29 堀江貴文・井川意高 『東大から刑務所へ』

書名 東大から刑務所へ
著者 堀江貴文
   井川意高
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2017.09.30
価格(税別) 820円

● エンタテイメントとして読んだ。刑務官を含めての刑務所の人間関係や,刑務所の食事の話,作業の話,面会や手紙が文句なしに嬉しいことなど,経験者でなければ語れない話が面白い。何度か笑ってしまった。

● 以下にいくつか転載。
 獄中でたくさんの本を読めたことも意味があった。思い返せば私がもつ知識の量は,東大時代が人生のピークだったと思う。社会に出てからは,アウトプットするばかりでインプットする時間があまりにも乏しかった。(井川 p7)
 佐藤優さんからこういうアドバイスを受けたこともあったな。「井川さん,裁判官にとっては,自分の年収よりも大きいカネに関わった人間は全員悪人ですから」(井川 p101)
 刑務所で一番ウマいのは何かといったら,そりゃなんといってもレトルト食品ですよね。(堀江 p109)
 運動後の麦茶が,あんなにおいしいものだとも思わなかった。運動したあとにゴクッとやる刑務所の麦茶は,ドン・ペリニヨンやクリュッグにも勝るかもしれない。(堀江 p115)
 だけど悲しいかな,シャバに出てきたらそいういう感覚はすぐに消えちゃうんだよね。刑務所という特殊な環境だからこそ,味覚や感覚が普通じゃなくなるのかもしれない。(井川 p115)
 受刑者って芸能人がどうのこうのというミーハーな話題が大好きですからね。(堀江 p125)
 月日の流れ方について言うと,前方を向いちゃいけないんだよね。なるべく後ろばかり見たほうがいい。「刑期はまだあと2年もあるな」と思うと気が遠くなるけど,「もう3カ月過ぎた」「もう半年も過ぎた」「1年が過ぎたぞ」と後ろを見ると,精神的にグッとラクになる。(井川 p155)
 生半可でも全然かまわないから,メール感覚でポンポンポンポン気軽に送ってくれれば良かった。手紙をもらいすぎてウザいなんてことはありえない。(堀江 p157)
 経営者から失脚してかえって良かったよ。会議室でエグゼクティブとしてバリバリ働いているよりも,ヤクザな生き方,傾奇者として歌舞うてる生き方のほうが,本来の井川意高だったのかもしれない。(井川 p201)
 シャバの悩みの90%は仕事と女だね。こっちには仕事の悩みも女の悩みもない。だから本当にストレスフリーだよ。男の悩みなんて,実際のところそんなものだよね。(井川 p212)
 本気でビジネスをやるためには,外でいろいろな人と直接意見交換しながら刺激を得ないと。紙の上から得た情報と空想を組み合わせてビジネスを思いつくなんて,天才はできるのかもしれないけど私には無理ですわ。(井川 p219)
 ウィキペディアすら調べようとしない横着者が世の中にはあまりにも多い。ということは,負の歴史なんてあっという間に忘れ去られるんです。(堀江 p224)
 私も女の子の前でいつ水着になっても恥ずかしくないように,がんばって週3はジムに通おうと思うよ。何事も動機は不純であるほうが,あとで出る効果は大きい。(井川 p227)
 ムショに入るかどうかは別にして,人間誰しも,シャバでついた余計なアカは人生のどこかのタイミングで1回きれいに落としたほうがいいよね。(井川 p228)

2018年10月25日木曜日

2018.10.25 出口治明 『仕事に効く教養としての「世界史」』

書名 仕事に効く教養としての「世界史」
著者 出口治明
発行所 祥伝社
発行年月日 2014.02.25
価格(税別) 1,750円

● 通史ではなく,いくつかのトピックを立てて,それらにつき歴史から説明していく。面白かったのは,アメリカとフランスは特異な国だというところ。
 理念で国を作った例外的な事例だと。学校で習う世界史では,そのあたりが逆に輝いて見えるわけだが。

● 以下に多すぎる転載。
 日本が歩いてきた道や今日の日本について骨太に把握する鍵は,どこにあるかといえば,世界史の中にあります。四季と水に恵まれた日本列島で,人々は孤立して生きてきたわけではありません。世界の影響を受けながら,今日までの日本の歴史をつくってきたのです。世界史の中で日本を見る,そのことは関係する他国のことも同時に見ることになります。(p18)
 生態系は本来貧しいのです。北九州の生態系だけで農業をやっていたら,たとえば1万人ぐらいしかご飯が食べられないのに,鉄が入ってくることによって10万人を養うことができる。つまり,人間は交易によって豊かになるのです。(p34)
 四大文明の中で,歴史が一番よく残っているのは中国ですが,神の発明の次に,中国の歴史を発達させたものは天才始皇帝の独創によって完成されたシステム,文書行政です。このウェイトがかなり大きい。(p40)
 前の王朝の最期の王様は全部悪くなるのです。悪性を行なったから王朝が替わったのだというロジックですから,前の王様が立派だったら,この論理が成立しなくなるのです。(p49)
 なぜ科挙という全国統一テストができたかといえば紙と印刷です。(中略)技術が,いかに制度に影響を与えるかという好例です。(p56)
 アメリカに留学して帰ってきた日本人は,よく中国人は勉強してばかりだと言います。そのとおりで,彼らはみんな必死に勉強して成り上がろうと決意を込めてアメリカに行った人たちです。(中略)彼らがどこに就職するかと言えば,その多くは中国へ帰るのです。それはなぜか。アメリカの経済成長率は,2~3%です。中国は,7~8%あります。中国のほうが成長率が高いということは,アメリカで就職するよりも中国で働くほうが,一旗揚げて儲かる確率が高いということになるからです。つまり優秀な人が帰って来るのです。(p58)
 僕は人間の想像力は,じつに乏しいと思っています。人間の頭は,人間に似たものしか考えられないので,そこで神様の姿形が生まれたと思うのです。(中略)なぜそれが発展して今日まで長続きしているかと言えば,その存在が,本質的,歴史的には「貧者の阿片」だったからです。(p64)
 「長者の万燈より貧者の一燈」などという諺もあって,貧しい人の真心の一燈が集まったときの力は,とてつもなく大きいものです。(p66)
 神さまはオールマイティのジョーカーなのだから,最期のときには何かしてくれるにしても,現実の世界では大変なときにも全然出てこないじゃないか,なぜなんだ。こう問われたらどう説明するか,ということはかなり難しい問題です。この問題はセム一神教の一番の弱点かもしれません。(p76)
 ローマにやって来たキリスト教は,まだまだ教義も不完全ですし,儀式もありません。新興宗教としての呼び物がありません。そこで物まねが大好きというか,たいへん柔軟に考えました。信者を獲得しようとするのだから,世の中で流行っているものはなんでももらってくればいいじゃないかと。(中略)いろいろな宗教から美味しいところを取ってきた柔軟性が,キリスト教を大きく成長させていった一つの要因だろうと思います。(p88)
 中国を理解するためには,中華思想が最初の手掛かりになります。中華思想は,周という国に対して他の諸国が抱いてしまった過度な尊敬の念に端を発しています。(p94)
 中華思想は漢字の魔力を介して周とその周囲の小さな王国に起こったことが始まりでした。後世まったく同じ現象が東アジア全体に起こります。(中略)中国が自分から言い出したことではなく,周囲の人々が勝手に中華ってすごい,中国ってすごい,と思い込んでしまったことが始まりです。(p98)
 何もしないで自然にまかせろ,自我は捨て去って万物の絶対性に従えと,荘子は説いています。このような超然とした思想は,たぶん知識人の発想です。(p104)
 遊牧民が農耕民と対峙しているうちは,緊張感もあってまだいいのですが,自分たちが優位に立って支配しはじめるうちに,中国は文化も高く物資も豊かなので,いつのまにか気を許してしまう。そして尚武の気風を失って,一つの遊牧民が消えてゆくのです。侵略した側が,侵略された側に影響を受けて吸収されてしまうのが,中国史の大きな特徴だと思います。(p107)
 宦官は遊牧民の伝統です。(中略)宦官という発想自体が,遊牧民でなければ生まれないのです。(p108)
 2世紀から3世紀にかけて,地球は寒冷期を迎えます。天災や飢饉が相次ぎ,大規模な農民叛乱が起きて漢は滅びてしまいます。(中略)この時代の天変地異,寒冷期が,いかにすさまじかったかと言えば,漢の盛期には人口が5000万人ぐらいあったことが,戸籍調査でわかっているのですが,三国志の時代には1000万人を切ったのではないかと言われるほどでした。(p110)
 新しい思想や宗教が入ってきたとき,これを広めようとすれば当然反作用も生まれます。これも世界共通です。(p115)
 中国という国は,少なくともこれまでの歴史のうえでは,じつはあまり対外的には侵略的ではないのです。朝鮮やベトナムなど,地続きのところに対しては,始皇帝の時代から自分たちの庭だと思っていますから,かなり無遠慮です。しかし中国の本来的な強さは,むしろ侵略者を全部飲み込んでしまうところにある。(p119)
 十字軍に大量の人々が加わった理由は,正義と信仰がすべてではなかった。(中略)噂に聞いている豊かで文化の華が咲く東方の国々に行けば,何かいいことがありそうな予感がした。要するに,出稼ぎの発想が多分にあったと思います。(p154)
 ローマ教会の変わったところは,ピピンの寄進によって領土を持ってしまったことです。それがいろいろな躓きの石になった。(p163)
 ヨーロッパは一つの国ではなかった。しかし教会は一つだった。それだからこそ国を越えたいろいろな情報を入手することができた。このことも,トーマ教会の見逃せない特異性だと思います。(p166)
 百年戦争までのイングランドとフランスは,ほとんど一体の国だったと理解したほうが早いと思います。(p198)
 一般に北に住む動物は白熊もそうですが,日照時間が短く温度が低いので色が白くなり,体が大きくなります。北の動物が大きいのは,熱を逃さないために,体重当たりの体表面積が狭くなっているからです。(p200)
 これは世界共通ですが,海で交易を行なう人々は,フェアなトレードが成り立つときは商人であり,アンフェアなことをされたら海賊になるのです。(中略)「ヴァイキングすなわち海賊」ときめつけるのは,かわいそうな話だと思います。(p202)
 生態系は横(東西)には広がりやすく,縦(南北)には広がりにくい性質を持っています。(中略)そのために北のアメリカと南のアメリカでは人の移動が少なく,交易が難しかった。人間は刺激がないと知恵は生まれません。南北アメリカでは,ユーラシアに比べてなぜ文明の始まりが遅れたのか,その大きな要因は人の移動が困難だった,生態系が閉じられていたという点に求められると思います。(p208)
 もともと純粋な生態系などありません。犬も猫も豚も牛も馬も,もともと世界中にいた動物ではありません。放っておいても動物は移動しますし,植物の花粉は飛散します。(p210)
 ユーラシア規模で交易を考えたときに,東が豊かで西が貧しいという図式がありました。平たく言えば,中国は豊かでヨーロッパは貧しい。これは氷河時代に原因があります。(中略)東は長江の南まで氷河が進出しましたが,雲南やインドネシアなど南に出っ張っていた部分は助かりました。ヨーロッパは全土が,すなわち地中海の北側すべてが,氷の下になってしまったので,貴重な動植物はほどんど死に絶えました。こうして東には辛うじて,お茶の木や蚕などの貴重な動植物が生き残って,それが東方においてお茶とか絹といった,圧倒的に競争力のある世界商品を生み出す源泉になります。(p212)
 海上交易が禁じられると,海に生きてきた人たちはどうするか。朱元璋の言うことを聞いて陸に上がって農民になるか,それとも国を捨てて海で生きるか。当然,後者を採ります。海で育った人が,海を捨てるのはとてもつらい。(p233)
 鄭和艦隊の最後の航海は1431~1433年でしたが,海賊の類は鄭和艦隊の二十数年でほぼ根絶されていました。(中略)こういう背景があったからこそ,プロとガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って,インド洋に船を入れることができたわけです。(p239)
 記憶すべきことは,オスマン朝が東ローマ帝国を滅ぼしたとき,イスラム政権であるにもかかわらず,長い歴史を持ちローマ帝国の国教であった東方教会の伝統と文化を守ったことです。現代でも,東方教会の本部はイスタンブールにあります。(p266)
 人間はワインと一緒で,気候の産物である。どの人も故郷をいいところだと思っている。そして,自分の祖先のことを立派な人であってほしいと願っている。(p273)
 コロンが新大陸を発見して,何が一番,新大陸の人々に影響を与えたのか,という話があります。それは(中略)メンバーの誰かが,コホンと咳をした瞬間であった。(中略)新世界の人々に免疫はありません。抵抗力がないものですから,あっという間にいろいろな病気に感染し,バタバタと死んでいくことになりました。(中略)植民地を経営しようとしても,労働力になる先住民がいなくなってしまったので,アフリカから黒人を連れてきたのです。(p274)
 アメリカは世界でも珍しい人工国家であると思うのです。憲法,契約というか,人間の理性を国の根幹に置いている不思議な国家であるような気がします。(p276)
 アメリカの建国やフランス革命を見ていて彼らが懸念したのは,人間の理性,すなわち人間の頭ってそんなに賢いものだろうかということです。(p283)
 真の保守主義には,イデオロギーがないのです。(中略)人間がやってきたことで,みんなが良しとしていることを大事にして,まずいことが起こったら直していこう。それが保守の立場です。(p284)
 アメリカが人工国家であることが,アメリカンドリームという幻想の母体になっている気がします。(中略)アメリカンドリームの実現は,実際は,針の穴ほど地位台と思うのですが,どこの国に生まれてもアメリカの大学に行って勉強して,努力すればなり上がれるという幻想を世界中に振りまいていることが,アメリカの強みです。人工国家で伝統がない強みです。(p287)
 アメリカが特異なのは,人工的にできた国家であることに加えて,人々にやり直しの舞台を何回も何回も提供できた国であった,ということです。(中略)横に同じような気候風土が,ずーっと開けていた。そしてそれが全部肥沃な土地だったのです。(p292)
 モンロー主義は,要するに外へ出ていったことへの反動なので,アメリカの本質は引きこもりではなくて,外に出ていくことだと思います。(p297)
 アメリカは平たく言うと,おだてて頑張ってもらうのが一番である。あまり厳しく言うと閉じこもって引きこもってしまい,それだと世界のためにならないから,ある程度はおだてて,出しゃばらない程度に,保安官をやってもらおう。それが一番いいということを,ヨーロッパの人はよく認識しているように思います。(p297)
 世界の歴史を見ていくと,豊かで戦争もなく,経済が右肩上がりに成長していく本当に幸せな時代は,じつはほとんどないことがわかります。その意味で,戦後の日本はもっと高く評価されていいと思います。(p323)
 日本の幸運は毛沢東のおかげです。もし蒋介石が北京に残っていて,共産党政権が成立していなかったら,アメリカは日本を歯牙にもかけなかった可能性があります。しかも毛沢東は長く生きたので,大躍進や文化大革命などを発動して,中国はなかなか立ち直ることができなかった。(p325)
 歴史を学ぶことが「仕事に効く」のは,仕事をしていくうえでの具体的なノウハウが得られる,といった意味ではありません。負け戦をニヤリと受け止められるような,骨太の知性を身につけてほしいという思いからでした。そのことはまた,多少の成功で舞い上がってしまうような幼さを捨ててほしいということでもありました。(p332)

2018年10月20日土曜日

2018.10.20 磯田道史・嵐山光三郎 『影の日本史にせまる』

書名 影の日本史にせまる
著者 磯田道史
   嵐山光三郎
発行所 平凡社
発行年月日 2018.08.15
価格(税別) 1,400円

● 和歌,連歌,俳諧を西行から芭蕉まで辿る。詩歌が諜報と結びついていたことを強調したかったようなのだが,そういうことはあったかもねっていうしごく穏当な話が出てくる。諜報というのをあまり特殊なものと考えない方がいい。かつては日本も普通の国だったのだ。
 しかし,メインは西行解釈で,これが面白い。

● 以下にいくつか転載。
 天皇の経験者が生存状態で(中略)何人もいる。(中略)元天皇が競合してその中の一人が「治天の君」になって院政をしく。(中略)天皇自身が地位ではなく,フィジカルな,個人の体に宿った能力で政治を行う時代であれば,下までそうなるのは当たり前です。(磯田 p12)
 実力社会になると不安定化するのは自然の成り行き(磯田 p13)
 フランスの歴史学者マルク・ブロックが中世の「封建社会」の定義をいくつも述べましたが,そのうちの一つが「暴力の日常化」です。たぶん日本社会は一一四〇年ぐらいから激しい暴力の日常化に入って,(中略)はっきりと中世に突入した(磯田 p14)
 暴力の日常化は死を身近にしていく。そういう時代の人間は故意をしても命がけですし,美しいものを見ても,必死でその瞬間を刻み止めようとします。(磯田 p15)
 結果的に清盛は中世的世界を開き,信長は近世的世界を開いたわけで,いずれも「比叡山バネ」なんです。比叡山に抑え込まれることによって,その反発で次世代を開いた英雄といえます。(磯田 p19)
 あのころ出家した人たちは,いま思えばけっこういい名所へ庵と称する別荘を建てて住んでいる。これも「数寄」ですよね,贅沢の極致でしょう。(嵐山 p24)
 日本人は基本的に世を無常とみていて,人がそこで煩悩に苦しめられている,それを巡礼し見ることによって魂が浄化される。これは能の構造とよく似ています。うち棄てられた人間に対して,その人のことを思ってあげる優しさ。(中略)西行が日本人の琴線に触れて長く愛され,生き残り続けている原因の一つはここにあると思うんです。(磯田 p29)
 中世の教育はレベルが高いですから。近世の寺子屋のような“なんちゃって教育”じゃなくて,住み込みで,今で言えばラテン語でも読みこなせるようなレベルまで鍛えられる。(磯田 p33)
 前近代社会で,馬というのは自動車産業に近い。しかも高級自動車です。ものすごい富をもたらします。(磯田 p36)
 信西が理屈倒れなのは,追われて逃げたときの隠れ方が「土の中に潜れば大丈夫だろう」というものだったことによく表れています。ほんとうに穴掘って隠れたんですから。(中略)「隠れるとは自分の姿が相手に見えないこと」であって,「通報されないこと」だとは考えない。(磯田 p54)
 銃が登場すると,戦いからポエムがなくなります。(中略)弓矢と刀は人間の筋力が相手の死をつくるから,誰の肉体が誰の肉体を滅ぼしたかはっきりしていて,文学になりやすい。(磯田 p72)
 おそらく,日本は「言挙げをしない国」なんです。ヤマトタケルがどうしてあんなに悲惨な死に方をしたのか,荒ぶる伊吹山の神を退治する前に「こうするぞ。殺してやろう」と言挙げをしてしまったからです。(中略)相撲でも,「横綱は無言たれ」といい,ガッツポーズもだめ。それが『古事記』や『日本書紀』の時代からこの国の軸をなしている,この国の古層として沈殿した政治思想の文化であることは理解しておく必要があります。(磯田 p87)
 連歌の時代にはまだ現実の,実体としての自然を詠んでいた。そこからきて,人間の空想力を短い詩形のなかでここまで展開したという点では,西山宗因が登った山は明らかに芭蕉よりも高いと思います。(磯田 p130)
 伊賀上野にいたころの芭蕉は社交的で性格が明るい。気がきいて勘がよくて,人の話を聞くのがうまい。晩年の無常感が漂う芭蕉とはまるで違う。(嵐山 p143)
 ぼくが『三冊子』のなかでいつも心得ているのは,「物の見えたるひかり,いまだ心にきえざる中にいひとむべし」という言葉です。物が「あ,いま見えた!」とピカッと光ったように感じたとき,その感動が心に消えないうちに言語化しろと。(磯田 p187)
 芭蕉俳諧でも浄土真宗でも,本人より弟子に,師匠の思想哲学のエッセンスをわかりやすく伝える者が出たことが,爆発的に広がる一つのきっかけになったのだと思います。(磯田 p189)
 荒海や佐渡によこたふ天の川 も同じで,荒海ですから佐渡も天の川も見えない,その見えないものを見る,幻視するというのが芭蕉の力です。(嵐山 p191)
 嵐山 俳句はみんな嘘ですから。 磯田 そうなんだけれど,『悪党芭蕉』でも指摘されているように,その嘘を「見立てる」というんですね。「見立ての文化」は日本文化論できわめて重要な地位を占めます。何かに見立てる,つまり「~であることにする」。(p200)
 日本はもっともディズニーランドが成功する国なんです。「着ぐるみの中に人はいないことにする」も「夢の国であることにする」もできる。これはけっこう高度で,お互いの合意がないとできない。(磯田 p201)

2018年10月18日木曜日

2018.10.18 外岡秀俊 『発信力の育て方』

書名 発信力の育て方
著者 外岡秀俊
発行所 河出書房新社
発行年月日 2015.09.30
価格(税別) 1,300円

● 河出書房新社の“14歳の世渡り術”の中の1冊。中学生でもわかるように書けとは,本書にも出てくる言葉で,よく使われるけれど,中学生をなめちゃいけないやね。
 “中学生でもわかるように”とは,“アンタじゃわからないかもしれないけど”の後に続く言葉かもしれないねぇ。

● 内容は,「ジャーナリストの心構え」とでもいうべきもの。たとえば,ブログやSNSのPVを増やしたいと思って,本書を読んでもあてが外れるだろう。
 著者は新聞社に長く勤務した人だけれども,ここに書かれているとおりに仕事をしている記者がさてどの位いるのかという問題は,別途,存在するだろうね。

● 以下にいくつか転載。
 どんな人でも,一日に何度か,喜怒哀楽や驚き,興味を感じることがあるでしょう。その心の変化や気づきをそのままにせず,掘り下げていく。それが,私のいう「自分の井戸を掘る」作業なのです。(p15)
 記者の当時,先輩からこういわれたことがあります。「大切なのは,『エッ?』と『へーえ』なんだ。それを『そうなんだ』と納得してもらうのが新聞記事だ」(p15)
 いつも自分を起点に「問題意識」を持って自力で情報を集める。それだけが,ほんとうに「知恵」が身につく方法なのです。(p28)
 一冊の本には,ぼうだいな時間と労力が注ぎ込まれています。著者が下調べをし,データを取捨選択して組み立て,編集者がわかりにくい点や間違いを指摘して,はじめて本が生まれるのです。いってみれば,さまざまなデータの流れを一つの場所でせきとめ,豊かな水をたたえるダム湖のようなものです。データの海におぼれないためにも,その保水力を利用しない手はありません。(p34)
 百科事典は基本書の中の基本なので,執筆者は多数の本を読み,間違いがないかどうかを確認します。それだけで,項目ごとに一冊の本が書けるほどの労力を注いでいます。いわば知識の一番搾り,「知のエッセンス」といってよいでしょう。(p37)
 図書館にあってデータベースにないもの。それは,こうした道草で起きる思いがけない「出会い」です。(中略)検索エンジンは,キーワードによって,最短時間に最短距離で探しているものに行き着く道具です。しかし,図書館で開架図書を眺めるのとは違って,余計なものや「遊び」を排除してしまいます。いわば,自分に関心のあることにしか,関心が向かない。裏を返せば,関心の幅を広げることには不向きな道具なのでしょう。オリジナリティ(独創性)をはぐくみ,実らせるのは,検索したデータの積み重ねというよりは,こうした偶然の出会いや,「ひらめき」にあることが多いのです。(p40)
 どうすれば,「情報通」になれるのでしょう。答えは,「人に聞く手間を惜しまない」という言葉に尽きます。(中略)人と話すことを好きになる。それが,「情報通」になる秘訣です。(p61)
 すでに書かれた情報を頭に入れて現場に行くと,その情報に沿ったものしか見えない,ということが起こります。(中略)自分で「仮説」を立てて現場に行くと,その「仮説」では説明できないこと,「仮説」に反することが見えてきます。「仮説」が裏切られたら,それがニュースなのです。(p67)
 論説委員室では毎朝,二十人以上の論説委員が集まり,翌日に掲載する社説のテーマについて話し合いをします。(中略)その話し合いの結果をまとめて「社説」とします。おおぜいの討論の結果をまとめるので,「社説」には署名がありません。(p176)
 直感で思ったことを先に言い,そのあいだに,「なぜそう思うのか」を考え,話しながらまた考える(p178)
 コミュニケーションとは,この「熱意」と「誠意」のやりとりのことだと思います。ですから,コミュニケーションの力をみがく一番の方法は,技をみがくことではなく,自分に素直になり,相手に伝える熱意を持ち,誠意をもって表現することです。(p182)

2018年10月16日火曜日

2018.10.16 夢枕 獏 『夢枕獏の奇想家列伝』

書名 夢枕獏の奇想家列伝
著者 夢枕 獏
発行所 文春新書
発行年月日 2009.03.20
価格(税別) 780円

● 玄奘,空海,安倍晴明,阿倍仲麻呂,河口慧海,シナン,平賀源内の7人を取りあげる。著者はこの中の過半の人を題材に小説も書いている。それらを読んでいく楽しみもある。人生はそんなに退屈しないですむようにできている。 

● 以下にいくつか転載。
 危ないところは助けてもらって,おいしいところだけをいただいて帰ってくる。こういう軟弱なことしかやれないという方がほとんどではないでしょうか。(中略)一つのことのために十七年もの歳月をかけるなんて,よほど心の中に激しい飢えとか欲望のようなものがなければできないはずです。玄奘三蔵は心にそうした気持ちを持っていた人なのです。(p31)
 玄奘三蔵は名声を獲得し,歴史に名を残すことになりました。でも,それは無事に帰って来られたからです。(中略)道半ばで死んだ人のなかには,彼ら成功者と同じぐらいの,もしくはもっとすごいものを持った人たちがいたかもしれません。(p34)
 人間の集団では,必ず成功者の陰に隠れる役回りの人が出てきます。それは集団としてどうしても必要なことです。(p34)
 仏教の考え方の中に,次の仏陀は五十六億七千万年後にこの地上に現れるという考え方がありますが,(中略)そこで空海は思うのです。「五十六億七千万年も待たなければいけないなんて冗談じゃない」 ここが空海の発想のおもしろいところです。(中略)空海の偉大なところは,こうした発想力にあると思います。(p46)
 空海は自分のことをたいへんな能力の持ち主だと思っていましたから(それはまったく正確に自己評価していたと思いますが),自分がやらなければこれからの日本の仏教はやっていけないというような感覚を抱いていたと思います。(p52)
 昔は今よりも言葉の力が強いと信じられていましたので,言葉にすることで天地が動く-簡単に言えばそういうことも信じられていたわけです。だから祈れば叶う。祈りが弱いと叶わない。その技術のもとになるのが言葉の持つ力です。その言葉の持つ力のことを,私は呪と呼んでいるのです。(p84)
 玄宗が残してきた庶民はどうしたかというと,これがまた傑作で,彼らは玄宗のいなくなった宮殿に乗り込み,したい放題に略奪を働きました。宮殿の最初の略奪者は安禄山の兵ではなくて,玄宗が守ろうとした長安の市民だったのです。(p126)
 イスラムのモスクは,キリスト教の教会と違って偶像を使いません。人間であるとか,神であるとか,動物すら描かれていない。描かれているのは植物,それも幾何学模様にされた植物の図柄だけです。そういったものだけで構成されているモスクという空間に,これが意外に,神の姿が見えてくるのです。キリスト教の教会は人間の偶像が多すぎて,人の声がやかましくて,かえって神の姿が見えない。(p158)
 そこに飾るべき絵や,調度品を建物が選ぶのです。音楽でも,この建物ではどういう音楽を聞きたいかというのが出てくるのです。だから,建物がふさわしい芸術作品を選んでいくのであって,逆ではない。(p175)

2018年10月15日月曜日

2018.10.15 アフリカのことわざ研究会編 『アフリカのことわざ』

書名 アフリカのことわざ
編者 アフリカのことわざ研究会
発行所 東邦出版
発行年月日 2018.08.15
価格(税別) 1,300円

● “ことわざ”に関しては,アフリカ特有のものはないと言っていいようだ。言い回しは別にして。“ことわざ”とは概ね処世訓なのだろうが,これはほぼ世界共通。
 なのに,異文化の理解は困難だという,こちらの方が逆に不思議に思えてくる。芯は同じでも表層が違う。表層の理解が難しい。

● 印象に残った“ことわざ”を記しておく。
 3人の人間と付き合うな。貪欲なしみったれ,喧嘩っぱやい臆病者,自省好きの痴者(p30)
 無益な日々とは笑いのない日々(p45)
 ラクダは重い荷物には耐えられるが,縛り方の悪いロープには耐えられない(p50)
 ライオンの住み処に子羊を見たら,子羊のほうを恐れよ(p58)
 うまく踊れない人は言うでしょう,「ドラムが悪い」と(p60)
 日本でも「下手の道具調べ」と言うように,下手な人ほど道具に文句をつけるのは万国共通のようです。(p61)

2018年10月8日月曜日

2018.10.08 外山滋比古・前田英樹・今福龍太・茂木健一郎・本川達雄・小林康夫・鷲田清一 『何のために「学ぶ」のか 中学生からの大学講義Ⅰ』

書名 何のために「学ぶ」のか 中学生からの大学講義Ⅰ
著者 外山滋比古
   前田英樹
   今福龍太
   茂木健一郎
   本川達雄
   小林康夫
   鷲田清一
発行所 ちくまプリマー新書
発行年月日 2015.01.10
価格(税別) 820円

● 中学生に向けた学び方,生き方指南。自分が中学生の頃,これがあったとして,果たして読み解くことができたろうか。
 特に,最後の鷲田清一さんの話は,折にふれて何度も読み返すべきものだと思った。簡単に“わかる”ことの危険を説く。

● 以下に多すぎる転載。鷲田清一さんからの転載が多い。
 日本では一九世紀からつい最近まで,満点のほうが七〇点や六〇点よりいいと,学校も世の中も考えていた。その結果,いつしか社会は活力を失ってしまった。(外山 p11)
 いったい,「満点をとる」とはどういうことだろう? 私に言わせれば,それは「頭が機械的に優秀である」ということだ。(外山 p12)
 知識が増えると,どうしてもその知識をそのまま使用して物事を処理しようとしがちになる。自分自身で考えることが,ついついおっくうになりがちだ。(外山 p15)
 人間は非常に保守的な生き物だ。いったん始めたことはなかなか変えない。(外山 p18)
 勉強は体を動かすことと組み合わせないといけない。(中略)体をうごかして集中力を高める必要がある。(中略)文武両道でなければダメなのである。(外山 p31)
 人間が自分の頭で考えるようになるためには何が必要か。(中略)不幸とか,貧困とか,失敗とか,そういう辛い境遇から逃げないことだ。困難な状況の中にいないと,頭は必死になって考えることをしない。(外山 p34)
 文章にかけて,百閒の右に出るものはない。ドイツ文学を専攻し,ドイツ語の先生をしていたのに,百閒の文章には外国語のにおいがまったくないのにおどろく。(外山 p38)
 対象への愛情がないところに学問というものは育たないと私は思う。(前田 p55)
 君たちが教員から学ぶべきなのは専門知識ではなく,彼らがものを考えるときの身ぶりや型なのだ。そこにその人のほんとうの力が現れている。(前田 p58)
 自分を発見すること。世界と出会うこと。この二つは表裏一体の出来事だ。世界と出会うことによって改めて自分を発見しなおす,と言ってもよい。(今福 p67)
 「わかりやすいこと」は,すでにある,誰もが知っている情報のパッケージとして組み立てられているから「わかりやすい」のだ。(中略)だから新しいものには,はじめ必ずわかりにくさがつきまとう。「わからない」のは,ネガティブでつまらないことではなく,ポジティブでおもしろい未知がかくれているということなのだ。(今福 p84)
 「頭がいい」とはどういうことか。それは「努力の仕方を知っている」ことだ。(中略)勉強というのは情熱を注ぎ込めばすごいところまで行ける。(茂木 p105)
 脳をうまく使うには,ドーパミンをよく出してあげることが必要だ。それでこのドーパミンは,少し自分には無理かな,と思うくらいのことに挑戦して,それをクリアできたときに,いちばんよく出る。(茂木 p108)
 いつも他人と比較して劣等感を抱いていると,そのことをだんだん見ようとしなくなる。避けるようになる。(茂木 p113)
 余計なことを省略して,やるとなったら一秒後から実質に入る。(中略)「九時になったら勉強しよう」「あと三〇分ゲームをやったら勉強しよう」-そんな「自分への花束贈呈」みたいな儀式は即刻中止して,思い立ったらすぐ机に向かおう。(茂木 p117)
 一生,勉強し続けなければ,先はないと思ったほうがいい。もちろん,がんばって志望校に合格することは大切だ。でも,それがゴールだとはくれぐれも思わないでほしい。クリアすべき第一関門でしかない。だから逆にいえば,その程度のことはとりあえずクリアしてほしい。(茂木 p121)
 感覚を研ぎ澄まし,いわば野生動物のように,あの本,この本と渡り歩くようでないといけない。だから,「どんな本がオススメですか」と他人に聞く癖がある人は,ぜひともそういうことはやめて,自分自身の原始感覚を磨くようにして欲しいと思う。(茂木 p125)
 七〇年生きるゾウも,二年くらいで死ぬハツカネズミも,心臓の打つ回数は一五億回,呼吸の回数も三億回で同じ。同じことを二年で凝縮してやるか,七〇年かけるかで生き方はだいぶ違うはずだ。(本川 p139)
 子どもは私である,孫は私である。そう考えると,子どもを産める条件を備えていながら子どもをつくらないという選択は,生物学的には自殺に当たる。生物としての基本は次世代の私をつくること。それがすなわち大人になるということだ。ところが,最近はみんな大人にならない,なりたがらない。(本川 p145)
 実は新発見というものは,発見者が一五~一六歳の頃からその種を自分の中に宿していることが多い。(中略)これは分野によらない。このことが端的に示しているのは,世界を変えるのは知識ではなく「若い力」だということだ。若い力とは「知らない」力であり,「知っている」ということよりも「知らない」ということのほうが重要なのである。(中略)新発見は,それまでの常識からすればエラー,あるいはアクシデントと呼ばれる事態の中でなされることが多い。(小林 p163)
 数学の勉強が嫌いなら,どこが好きでどこが嫌いなのかを考えてみてほしい。考えることが,単なる好きや嫌いの感覚から距離を置くことを教えてくれるから。それが学ぶことの第一歩。(小林 p165)
 学ぶためのもう一つのポイントは,全体を見ること。それと同時にどこか一点を見なければならない。全体だけを見ていても絶対に自分のものにはならない。(中略)これは思考の基本でもある。人間がものを考えるとき,公理から出発することはありえない。全体のコンテクストをぼんやりと視野に入れながら,その中で手がかりを見つけて,考えを進める。(小林 p165)
 人間は,決して完成しない存在なのだ。しかし,それでも完成してしまったらどうすべきだろう。実は,完成は壊さなくてはならない。(小林 p167)
 高校生たちは「何もかも見えちゃってる」などと言っている。だから元気が出るはずないよ,という顔をする。(中略)が,「見えちゃってる」のはいいことしか見ていないからだ。(鷲田 p180)
 ほんとうにつらいときの人間は,ただ生きていること,それすらできない。つまり,人間はただ生きるだけのためにも,自分がここにいる理由が欲しい。(鷲田 p182)
 一つだけてっとりばやい逃げ道がある。それは恋愛だ。恋愛は相手から,自分の存在の理由を与えてもらえる。(中略)こんなに楽な状態はない。(鷲田 p183)
 近代社会は「生まれ」,つまり階層,地域,言葉,性別,といった本人が選びようのない条件はすべて無視しようという考えを基本に成り立っている。(中略)その代わりあとは自分で選びなさい,と放り出される社会だ。そうするとどうなるか。今ある自分は自らが選択した結果なのだからすべて自分の責任だ,ということになる。(鷲田 p186)
 そんな大きい責任を課せられている今の時代であるにもかかわらず,若い人に限らず,すべての世代が,どんどん無力になっていると私は感じている。大げさな言い方だと思うかもしれないが,では,この中にお産のときに赤ちゃんを取り上げることができる人はいるだろうか。(中略)昔は,こういったことは女性であれば全部できたのだ。(中略)人にものを教えることも,うまくできなくなっている。教育は学校の責任になった。(中略)最低なのは,隣近所とのもめ事が起こったとき,それを解決する能力すらない。すぐに役所に電話したり,何かというと弁護士に頼んだりする。(鷲田 p187)
 近代社会は,全員が責任を持った「一」である市民社会をつくろうとしていたはずなのに,結局私たちは「市民」ではなく「顧客」になってしまった。(鷲田 p190)
 最近カウンセラーたちが,「トラウマ」や「アダルトチルドレン」「うつ」などといった言葉を使う。これらは本来慎重に扱うべき言葉なのだが,安易に使われている。人生は,そのようなひと言で言い当てられるほとシンプルではないはずだ。(鷲田 p191)
 「あなたはうつ的な状態です」と診断しても,今の患者さんは受け入れず,「違います。私はうつ病なんです」と,言い張るそうだ。つまり病気にしてもらわないと困る,というわけだ。理由は簡単だ。病気であれば,「私のせいではない」からだ。(中略)ふさぎやしんどいことには,自分で真正面から格闘しなければどうしようもない。(中略)これは単に逃げているだけ。一番してはいけないことだ。そういう思考回路に陥ると,次第にものの考え方が短絡的になっていってしまうのだ。(鷲田 p191)
 だから,私たちは「ちっとは賢く」ならなければいけない。「賢い」というのはつまり「簡単な思考法に逃げない」ということだ。物事の理由は簡単にはわからない。それを知り,受け入れようとすることが賢くなる第一歩なのだ。(鷲田 p192)
 例えばここに一枚の絵がある。素人は,ここのピンク色は隣とのバランスで黄緑色にしてもいいんじゃないか,などと偉そうなことを言うかもしれない。しかし描いた側にとって,すべての色は必然なのだ。そのピンク色を黄緑色にすれば,絵全体がだいなしになる。ただ,その理由は,画家には説明できない。しかし必然だということだけはわかる。(鷲田 p193)
 政治,ケア,表現活動といった人生に非常にたいせつな局面ではほんとうに必要とされるのは,一つの正解を求めることではなく,あるいは正解などそもそも存在しないところで最善の方法で対処する,という思考法や判断力なのだ。(鷲田 p194)
 世の中には問いと答えが一対一の問題は,めったにない。「光は波動であるか粒子であるか」という大論争があったが,これは正解が二つある例だ。(中略)無力な状態から脱し,自分の問題を自分で考えて,責任を負うことができるようになるために,私たちは,「一つの問いに一つの答えがある」という考え方をやめなければならない。物事は,こちらからはこう見えるが,後ろから見ればこんなふうだ,といろいろな補助線を引きながら考えよう。(鷲田 p195)
 投げ出さずに考え続ける,いわば知的な肺活量も持ってほしい。理解はあるとき一瞬でできることでは決してなく,じっと考え続けて到達できるものだ。(鷲田 p197)
 自分の持っている狭い枠組みの中で無理やり解釈して,わかった気になっても何も解決しないし,とても危ない。必要なのは,わからないことでもこれは大事,としっかり自分で受けとめて,わからないままにずっと持ち続けることなのだ。(鷲田 p199)
 この世界を見るわたしたちの視野というのはけっして広くありません。いつもここから,自分の立っている場所からしか,見られないという限界がまずあります。次に,自分が習ってきた知識や習慣の枠の中でしか見られないという限界があります。加えてさらに,自分がなじんでいる言語のなかでしか考えられないという限界もあります。(鷲田 p200)
 世界の襞を広げるとは,すでに知っている知識を量的に拡大するということなく,これまでそんなものがあることさえ知らなかったものの見方,問い方にふれるということです。(鷲田 p200)

2018年10月6日土曜日

2018.10.06 立花 隆 『死はこわくない』

書名 死はこわくない
著者 立花 隆
発行所 文藝春秋
発行年月日 2015.12.10
価格(税別) 1,000円

● 臨死体験とは,脳が非常時に見る夢。それ以上のものではない。そういう方向に固まりつつあるらしい。
 ぼくらが知りたいことの究極は,死後の世界があるかどうか。それがあって欲しい(霊魂不滅)という前提があるからだろう。
 意識はなぜ生まれるか。その研究も鋭意,なされているんですな。

● 以下にいくつか転載。
 いま日本では安楽死を認めていませんが,幾つかの国では外国人に認めていますから,安楽死を求めて国を渡る人たちが出ています。(p26)
 視覚と触覚を切りはなすと,人間は簡単にあり得ないことを信じるようになるのです。同じ装置を使って体外離脱の疑似体験ができるようになっていました。(p42)
 フォールスメモリー(偽の記憶)の植え付けを巧みに行えば,冤罪事件を作りあげることは,十分に可能なのです。人間の脳というのは,本質的にフォールスメモリーの植え付けに弱いという弱みをかかえているのです。(p43)
 いざ死の危機に直面すると,人間って,その状況を把握したり,その対応に駆け回ったりするのに精一杯で,死を心配している余裕なんてない。それが普通なんです。暇な人だけが死の恐怖にとらわれるんじゃないでしょうか。(p58)
 臨死体験は脳が最後に見せる夢に近い現象ですから,いい臨死体験ができるように,死に際の床をなるべく居心地よくしておくのが肝要です。(p65)
 いちばんの問題は,その意識の中に「主体性」を持ちこむことが可能かどうかという点に,未来社会の最大の分岐点があるような気がします。機械に主体性を与えなければ,機械は機会を使う人間の道具ないし奴隷でしかありません。(p170)
 これからも,科学は常に解釈の余地を残し続けると思いました。科学が解釈の余地なしに,臨死体験とはこういうものだと事実として突きつける,そういうことは起こりえないように思います。(p180)

2018年10月4日木曜日

2018.10.04 岸見一郎 『老いる勇気』

書名 老いる勇気
著者 岸見一郎
発行所 PHP
発行年月日 2018.03.3028
価格(税別) 1,400円

● アドラーによれば,悩みのすべては人間関係から発生する。が,幸せも人間関係の中にしかないと著者は言う。生産性だけが価値ではない。それを踏まえたうえで,共同体への貢献が幸福感を生む。
 三木清『人生論ノート』からの引用がめだつ。高校生の頃,推奨されていたものだが,読まないまま今に至る。

● 以下に多すぎる転載。
 新しいことを学ぶということ自体は,胸踊る楽しい経験です。辛いこともありますが,これまでの蓄積をリセットすることなく,若い頃に戻ることができ,若さを“疑似体験”できます。これは誰にでもできます。必要なのは,特別な才能や適性ではなく,ほんの少しのチャレンジ精神です。(中略)アルフレッド・アドラーの言葉を使うならば,「不完全である勇気」です。(p16)
 私は若い頃,学生オーケストラでホルンを演奏していました。今,もし演奏するチャンスがあれば,技術的にはあの頃に及ばないとしても,少し練習をすれば,若い頃よりもはるかに質の高い演奏ができるのではないかと思います。その後,楽器を手にすることはなくとも,音楽は聴き続けてきましたし,音楽に対する理解度が,若い頃とは違います。(p21)
 日本には枯淡の境地を美徳とする文化的土壌もありますが,意欲を枯らしてはいけないと思います。(中略)人間はいくつになっても進化できます。ただし,注意しなければいけないことが,一つあります。どこに向かって進化するかということです。(中略)そこに他者との競争や勝ち負けを持ち込む必要はありません。勝ち負けや他者からの評価を気にして汲々とするのではなく,昨日できなかったことが今日はできた,という実感を持つことが大切です。(p25)
 「やってみてはどうですか?」と提案しても,「はい,でも」という答えが返ってくることがあります。これはするかしないかで迷っているのではなく,「しない」と宣言しているのです。この「でも」の壁を越えなければ,前に進むことはできません。(p32)
 仕事の場面では,確かに生産性も重要ですが,人の価値を生産性に置いてはいけないと思います。(中略)「働かざる者食うべからず」ではなく,働ける人が,働ける時に働く。何もできなくても,それを「申し訳ない」と思う必要はありません。(p34)
 貢献していると感じられるということは,意識が他者にも向けられるようになったということです。これは恢復の一歩です。(p46)
 先々のこと,残された時間を考えることからは,何も生まれません。(中略)なぜ,先々のことをそんなに案じるのでしょうか。それは,時間や人生を一本の直線としてとらえているからです。(中略)しかし,たとえどこかに到達しなかったとしても,そのプロセスの一瞬一瞬が完全であり,完成されたものであると考えることもできます。この場合,時間や人生の長さは問題になりません。(p59)
 先々のことを案じるのは,「今,ここ」をなおざりにしている,ということでもあります。「今,ここ」を大事に生きていないから,先々のことが気になるのです。(p61)
 人間は,いつまでも若くあれるのか。この問いに対し,フランスの哲学者ジャン・ギトンは,「自分の前に永遠があると考える限り」と答えました。(中略)永遠を信じるとは,自分には無限の時間がある,と考えることです。人間の生は,決して無限ではありません。しかし,余命に関係なく,「今,ここ」で自分にできること,しなければならないことだけを考えて生きれば,いつまでも若々しい心で,悠々と生きることができます。(p63)
 死に方や死に際に,ことさら注目すること自体にも疑問を感じます。その人の人生が短くても,自ら命を断ったとしても,そこにばかり焦点を当てて,その人の生涯を見たり語ったりしてはいけないと思います。(p79)
 プラトンは,「死を恐れるということは,知らないことを知っていると思うことだ」というソクラテスの言葉を伝えています。(p80)
 健康によいといわれれば,親に勧めたくなります。しかし,それをするかどうかは,親が決めることです。(中略)押し付けるのは,相手を変えようとする言動,態度です。押し付けられたと感じた親は,子どもの提案に従えば負けたことになります。(p87)
 人間は,ともすると物事の“闇”のほうにばかり目を向けがちです。(中略)ネガティブな側面に心を奪われてしまうと,眼前にある物事のよい面に気づけなくなります。(p93)
 老いた親が何度も同じ話をすると嘆く人がいます。しかし,同じ話をする人はいません。「またか」と思って聞けば,同じ話にしか聞こえません。話のあらすじは同じであっても,よく聞くと細部は毎回,微妙に異なっているものです。その微妙な違いは,その人の「今」を反映していますから,親の心情や関心事を知る重要な手がかりになります。そうした違いに注目して話に耳を傾け,微妙なサインを見逃さない--それが「話を聞く」ということです。(p94)
 本人に危害が及ばないのであれば,現実の世界に引き戻そうとするのではなく,親が生きている世界に,こちらから入ってみてはどうでしょう。(中略)妄想を訴える人は,話を否定されればされるほど症状が深刻化します。(p98)
 本人が思い出したくないから,あるいは忘れる必要があって忘れているのだとしたら,忘れていることをあえて指摘したり,無理やり思い出させようとしたり,記憶を正したりしてはいけないと思います。(p99)
 もしも親が,子どもである自分のことを忘れてしまったとしたら,初めて出会った人とのように,新鮮な気持ちで,親と新たによい関係を築く努力をすればいいのです。(中略)直近のことすら思い出せない親を見ると切なくなりますが,「今,ここ」を生きる親は,人間として理想の生き方をしているともいえます。もうろくという濾過器を通して大事なことは覚えているとしたら,家族にできる最善のことは,覚えていることを大切にし,その意味を汲みとる努力をすることです。(p105)
 過去だけでなく,未来を手放す決心も必要だと思います。先々のことばかり案じていると,今が疎かになります。日々,新たな人生を始められるのですから,明日の課題は明日考えればいいのです。(p106)
 介護をするなら,生産性から離れ,成果や見返りを求めることをやめなければなりません。介護も子育ても,見返りを求めると辛いものになります。介護することで貢献感を持てたとしたら,それでよしとすべきです。(p108)
 親の幸・不幸は,子どもに伝染します。子どもの幸せを願うのであれば,親がまず幸せでなければなりません。(p116)
 人間が不幸そうに振る舞うことには,目的があります。周囲や世間の同情を引くためです。しかし,そうした振る舞いは,子どもを敵に回すことになります。「一所懸命育てているのに,あの子が学校に行かないから,私はこんなに不幸なのだ」ということを世間に知らしめる親の行為が,子どもにとって嬉しいはずがありません。(p116)
 一足先に介護を受ける立場に置かれた人には,介護を受けている自分を卑下したり,申し訳ないと小さくなったりせずに,被介護者のよきモデルになってほしいと思います。赤ん坊が親から面倒をみてもらうことを恥ずかしがったりしないように,与えられるものを堂々と受け取っていいのです。介護をされていても,「楽しそう」「介護を受けるのも悪くはないかもしれない」と周囲が思えるような人生を送れば,それも一つの他者貢献です。(p123)
 相手がどんなボールを投げてきたとしても,「それはおかしい」ではなく,「そうなんだ」と受けとめ,たとえ賛成できなくても,理解することから始めなければなりません。(p128)
 何事も,取り組まないことには始まりません。できない可能性もあるけれど,その場合も「できない」という現実から始めるしかないのです。いつまでも「やればできる」「そのうちやる」という可能性の中に生きていては,道を拓くことはできません。(p137)
 「近所付き合いなんて面倒なだけ。何の益もない」と嘯くのも,対人関係に入っていく勇気がない証左です。アドラーは,「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」といっていますが,生きる喜びや幸福は,対人関係の中でしか得ることはできません。(中略)そのような対人関係に入っていくためにも,何より「自分に価値がある」と思えることが肝心です。(中略)ありのままの自分に価値を認め,「今,ここ」にある自分を好きになる--そのためには,価値についての考え方を転換する必要があります。生産性に価値がないわけではありません。生産性にのみ価値があるわけではないということです。(p138)
 いかに才能があっても,それを対人関係の中で他者の役に立てなければ,生きる喜びは得られない--つまり,真の幸福とは「他者貢献」だということです。(p146)
 定年後に自分の価値を肯定できずにいるのは,自分の行動が共同体にとって有益だという確信が持てないから,あるいは共同体にとって有益であることを志していないから,ではないでしょうか。感謝されることを目的とし,それを成果として行動する人は,自分にしか目が向いていません。(p146)
 アリストテレスは,「哲学は驚きから始まる」といっています。「なぜだろう」と考えるのが哲学の出発点です。対人関係も同じです。(p149)
 アドラーは「他者を愛することによってのみ,自己中心性から解放される」といっています。他者を愛することによって,初めて「共同体感覚」に辿り着くことができるということです。共同体感覚とは,「私」を主語として物事や人生を考えないということです。(p151)
 だからといって人間が幸福について,まったく何も知らないかというと,そうではありません。知らないものを,知ろうとするはずはないからです。(p157)
 異論や反論があっても考え続けることは,容易なことではありません。声高に叫ばれる安易な世界観やフェイクニュースを鵜呑みにして,排他的な態度をとるのは,それが楽だからです。自分で考えることをしなくて済むので楽なのです。物事を深く考えることなく問題を解決しようとすれば,いきおい「力」に頼ることになります。(p165)
 相手がどのような態度で対話に臨んだとしても,変わらず丁寧に対応することも大切です。相手が怒鳴っても普通に接し,泣き出したとしても動じない。泣くことも,怒鳴るのと同じ示威行動の一つです。(p166)
 どういう時に人は「ちゃんと話を聞いてもらえた」と感じるかというと,一つは,話を途中で遮られないとわかった時です。(中略)もう一つは,この人は決して批判しないとわかった時です。(p167)
 嫌われることを恐れないということのほかに,もう一つ大切なことがあります。それは,影響を及ぼそうとしないということです。(p169)
 そもそも人は人を育てることはできません。できるのは,子どもや孫が育つのを援助すること,子どもが育つ環境を整えることです。(p170)
 歳老いてこそ様々なことを学んでいかなければならないし,本を読んで考えることをし続けなければ,人間としての成長は望めません。(p173)
 なぜ若い人が年長者の話を聞かないかというと,年長者がわかったふうないい方をするからです。(中略)いかに齢を重ねても,わからないことはわからないと率直に認める勇気を持たなければなりません。(p173)
 生き方は,人それぞれ違います。先達の意に沿う必要はありません。さらにいえば,先達よりも,理想主義に燃える若い人のほうが,人生の正しい姿が見えているといえます。(p175)
 後進の力になることは,年長者に課された仕事の一つです。(中略)仕事でも,研究活動や教育の現場においても,後輩や学生が自分を超えられなかったとしたら,その取り組みは失敗だったといっても過言ではありません。(p175)
 古代ギリシア人にとっては,生まれてこないことが何にもまさる幸福であり,次に幸福なのは,生まれてきたからには,できるだけ早く死ぬことでした。(p186)
 三木清は成功は過程であり,幸福は存在であるといっています。幸福は成功と違って何かを達成しなければならないわけではありません。幸福が存在であるというのは,人は幸福に「なる」のではなく,幸福で「ある」ということです。(中略)人は生きている限り幸福ではないのではなく,今ここで幸福なのです。このことはまた人間の価値は「ある」ことにあって,何かを達成することにはないということです。(p186)