2021年10月24日日曜日

2021.10.24 白川密成 『空海さんに聞いてみよう。』

書名 空海さんに聞いてみよう。
著者 白川密成
発行所 徳間書店
発行年月日 2012.02.29
価格(税別) 1,400円

● 副題は「心がうれしくなる88のことばとアイデア」。
 著者の文章に初めて接したのは,2001年から「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載された「坊さん」だった。衒いのない素直な文章で,連載を読むのが楽しみだった。
 のだが,その連載をまとめた単行本もその後に出た書籍も読むことなく,9年前に出た本書を今頃になって読んだ次第。

● 読み手の好きなように読めばいいものだと思うのだが,ぼくな仏教の入門書として読んでいた。そういうものとして読み始めたわけではないのだが,途中からそういう読み方になっていた。
 高校を卒業してまっすぐ高野山大学に入学し,僧侶への道を目指した人だが,頭脳の働きがかなり明解な人のようだ。

● 著者は本書執筆にあたって,筑摩書房の『弘法大師 空海全集』をメインに使い,一部,高野山大学密教文化研究所の『定本弘法大師全集』に依ったと述べている。
 このような大部な全集は,ぼくらが手を出すものではないだろう(出してもいいが)。しかし,ありがたいことに,ちくま学芸文庫から『空海コレクション』全4冊が出ている。これで空海の著作のあらかたは読める。
 じつは,ぼくも出たときに買っていて手許にある。が,1行も読まないまま今日に至っていた。読まなきゃなと思った。

● 以下に転載。
 千年の時を超えて残っているような言葉は,それだけで耳を澄ませるに値する言葉だと思います。(中略)まずはその「言葉」が今,ここに “残っている” という事実をみなさんと喜び,そこから謙虚な気持ちで少しでも何かを具体的に学びたいと思います。(p5)
 良工は先ず其の刀を利くし,能書は必ず好筆を用う。(中略)その言葉(弘法筆を選ばず)とはまったく逆の言葉を弘法大師が遺されていることに気づき,「むふふ」と笑ってしまいました。(中略)優秀なスポーツ選手や演奏家などの大半が「道具」にこだわり抜き,多くの場合,熟練の名人である職人をパートナーとしていることが多いでしょう。(p40)
 私たちが経験するすべてのことは,「実際に起こっていること」と「私の心」のコラボレーション(共同作業)だと思います。だから,「私の心」の側を少しでも変化させることで,同じと思われた事柄,風景,人物が変わりはじめるはずです。(p49)
 「わたしには,子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし,すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか(ウダーナヴァルガ p54)
 大きな事件や自然災害が起こると,私たちは「言葉」を使って語りかけたり,言語によって考え,伝えることの無力さを痛感させられます。しかし,そのようなときであっても私はいつも「自分自身が言葉に力をもらい,助けてもらった」経験を忘れたくはないと強く思います。(p69)
 あるチベット僧の法話で,「自分と他者の人数を比べてみてください,他者のほうがずっと多いはずです。ですから,他者の幸せなしには,自分の幸せなんてないのです」と伝えられたことがあります。(p86)
 古人は道を学んで利を謀らず。今人は書を読むも但名と財のためなり。弘法大師の生きた時代は,千何百年も前の時代ですが,そういった時代の人もやはり今と同じように「昔の人は・・・・・・」ということを考えていたのだと思うと,なんだか興味深いです。(p88)
 「厳しさの中にも,必要な “ゆるし” がある。だからこそ咲くことができる花がある」というような考え方には,大乗仏教の叡智が詰まっているように感じました。(p93)
 私たちが受けとる情報の量が今までの時代とは,比べることができないほど膨大になっていることです。(中略)ほうっておくと心が「受けとる」「発する」ことばかりになって,気づかないうちに「見つめる」ことを忘れてしまいます。(p97)
 「心に先入観を持たず素直でいて万物の動きにまかせた」というのが現代語訳ですが,漢文書き下し文の「虚心物を逐う」というのは,鋭くリズミカルなイメージとともに胸に飛び込んでくる言葉です。(p110)
 空海は次の段階として,「学ぶ」「習う」ことと「写す」「似せる」ことをしっかり区別することの大切さを指摘しているように私には感じられるのです。考えてみると,素晴らしい先人たちの方法や作品は,その人自身が,その人の心にちょうど合致するように編み出されたもので,あなたには,あなたのためにもっとフィットするフィーリングや雰囲気があるはずではないでしょうか。(p118)
 笑われたり,非難を受けたら,やめるべきですか? むしろそういったものの中に大事なものがあることが多いのです。(p123)
 「密教」の特色を簡潔な言葉で考えてみると「身口意」の働きを抑え込めるというよりは,むしろ肯定的に積極的に “用いようとした” ことにあるのではないかと思います。(p130)
 「私」というとても小さな存在でも,その「大きなもの」と旅をともにすることで,大きな収穫を得ることができる。(p149)
 人間である私たちは,自分が目にして心が写し出すものが,現実の世界だとおもってしまいますが,じつは自分たちの「見たいものだけ」「欲しているものだけ」「必要なものだけ」を見ている(中略)「生きもの」事態がそういった “システム” によって運用されている,という理知的な側面を持っている事柄だと感じます。(p169)
 このように短い言葉を引用して,弘法大師の考えを「わかった」ことにしてしまうことは,じつはあまり得策ではありません。その言葉の裏側をかいま見る注意深さも必要です。(p177)
 起るを生と名づけ,帰るを死と称す。(p192)
 遮那は中央に座す 遮那は阿誰の号ぞ 本是れ我が心王なり(p212)

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