書名 下町はなぜ人を惹きつけるのか?
著者 三浦 展
発行所 光文社新書
発行年月日 2020.11.30
価格(税別) 900円
第一下町:江戸時代の下町。1920年以前が人口最大。日本橋,神田,京橋。
第二下町:明治・大正以降の下町。人口は関東大震災後に減少。浅草,下谷,芝,本所,深川。
第三下町:震災以降の下町。震災後に人口が急増。荒川,向島。
第四下町:戦後の下町。城東,王子,江戸川,葛飾,足立。
● 東京近代史といっていい内容。近代史を総花的に扱うのではなく,人口の移動と街並みの形成,地場産業の盛衰に絞って,その理由,原因を探るというもの。
東京歩きは自分の趣味というと語弊があるが,楽しい時間の使い方になっている。本書を読んで良かったと思う。街歩きの楽しみが少しは深まるかもしれない。
● 以下に転載。
1970年代に入り,下町は〈発見〉されたのだとわかる。それは都心の近代的オフィス街化,郊外住宅地を中心とする生活様式の西洋化などが進むことにより,近代的でも西洋的でもない,伝統的で日本的なものとして下町が珍しがられる時代が始まったということでもある。(p6)
関東大震災のあった1923年は田園調布の分譲開始の年であるということは実に象徴的である。震災のために,下町が壊滅し,もう下町には住めないぞという気運が高まり,山の手,西郊への人口移動が加速したのである。下町中心でのコレラの流行も一因である。(p33)
第一~第三下町に限ると,人口は戦争によって4分の1に減り,その後回復するものの,戦前には届かない。対して山の手は,戦後は戦前より3割ほど増えている。いかに震災と戦争が下町に被害をもたらしたかが明瞭である。(p35)
東京の人口移動を考える上で重要なのは,1919年に制定された旧都市計画法である。これにより東京は地域ごとに,商業,工業,住宅などと用途地域指定された。(中略)こうして同じ郊外でも西側山の手は中流ホワイトカラーが多く,東側下町は工場,倉庫などで働く労働者階級が多い,という近代東京の構造が固まった。(p36)
今われわれが思い浮かべるお寺のような外観の銭湯は,大正時代につくられはじめたものだ。戦後も人口増加に対応して,たくさんつくられた。大正から昭和,戦後にかけて,東京に流入してくる人々は若く,貧しい,風呂のある住宅には住めない人々だったからである。(p41)
大正時代に同じようなことが起きている。「郷土」という言葉が重視されたのだ。今は当たり前に使う郷土という言葉であるが,この言葉が重視されたのは明治以降の近代化がひとしきり進んだ1910年代のことである。(中略)明治以来近代化を進め,1880年代に憲法や教育制度などの新しい体制を確立した日本が,それから30年経って発見したのが「郷土」「故郷」「ふるさと」なのだ。(p45)
麹町区と深川区の(区民所得の)差は20倍ほどである。皇居と隅田川を隔てた土地には,今から見れば「超格差」があったことがわかる。(p58)
銀座煉瓦街も建設以前はスラムだった。小商人,職人,日雇い,大道芸人らの下層民や雑業者が住んでおり,彼らを強制退去させて煉瓦街がつくられたのだ。(p58)
明治20年代には小石川区に15の貧民窟があったという。浅草区には13,神田区,芝区に各11,日本橋,京橋区に各10があった。東京市15区内での構成比では小石川が13%,浅草が11.3%,神田,芝が9.6%,日本橋,京橋が8.7%である。これが明治30年代になると,浅草は14.2%に増え,下谷区が11.2%に急増する。(中略)神田にいた貧民層が浅草区内,そして下谷万年町などに移住してきたからである。(中略)第一下町から第二下町に貧民が移動したことがわかる。1900年頃から10年ほどで地代が10倍以上に上昇したことも,貧民を郊外に押し出す圧力となった。(p59)
江戸は何度も火災にあったが,明治以降も火事は多く,1881年には神田で大火があり1万戸以上焼失するなど,明治期最大の被害となった。(中略)大火が起こる理由は,貧民の暮らすこけら葺きの長屋が多いからである。だから不燃・防火の都市をつくり,煉瓦や石づくりなどの高額な住居をつくることは,貧困層が住める家をなくすことにつながる。(p77)
単に東京の人口増加が下町の拡大をもたらしたのではなく,都心部の近代化とそれに伴う政策が貧民たちを外側に(場末に)追い出し,場末の人口を増やし,結果としてその場末を次第に下町的にしていったのである。(p81)
明治時代は,日本橋から神田須田町にかけてが東京の中心だったという。銀座はまだ栄えていない。このへんの感覚が今はわからない。(p86)
地主は,大きな土地を持つ人ほど都心にいた。(中略)下谷の土地はほとんどが第一下町か浅草の地主に所有されていたのである。言い換えると,江戸時代以来の場末としての性格が明治期までそのまま引き継がれていた。(p107)
速水融『歴史人口学の世界』によれば,江戸時代の町人の平均寿命は農民より短かった。また民俗研究者の岩本通弥によると,都市の死亡率が農村より低くなったのは,なんと1920年代以降である。(p110)
1921年の調査によると,たとえば浅草の田中町(現・東浅草)にあったスラムでは居住者1044人中,なんと239人が1年間で死亡している。(中略)その他のスラムでも四谷旭町(新宿駅南口あたり),下谷金杉本町,深川富川町・猿江裏町では1割以上死亡している。(中略)浅草は娯楽都市として繁栄し,銀座はモダンな消費都市として繁栄していたが,一歩そこから踏み出せば,衛生状態の悪いバラックのような長屋に住む貧困層が大量に存在していた。(p111)
竹内誠氏によれば,深川が下町と称するようになったのは江戸時代どころか明治ですらなく,昭和になってからだという。(p138)
深川は江戸と川を隔てて隣接しているだけなのに,江戸から見れば自然豊かで美しい別荘地であり,深川の人は隅田川を渡って西に行くことを「江戸へ出る」と言った。(p141)
今でも,門前仲町で有名な居酒屋に行くと,「おきゃん」とはこういう感じかという女性が切り盛りしている。テレビドラマ『孤独のグルメ』にもその店が出てきて,女性役を浅野温子が演じていたが,口調も身のこなしも本物そっくりだった。(141)
明治以降の向島は別荘地であった。(中略)大財界人である大倉喜八郎は1912年,向島に別邸「蔵春閣」を建築した。内部は秀吉の桃山御殿のふすま,杉戸を使い,狩野探幽の屏風も置かれる豪華なもので,海外の賓客を招いたという。(p154)
1902年当時,石鹸工場は日本全体で175あったが,うち東京都が46,大阪府が33と,非常に大都市に集中した業種であった。現在のような石鹸を使う生活は,当時は未だ大都市の中流以上の階級による新しいライフスタイルだったからであろう。(p161)
当時は紡績会社といっても何のことかわからない人がほとんどで,表向きは紡績工場と言いながら,実は火葬場をつくるに違いないと噂されて土地の買収に手間取ったという。まら煙が噴出するのは衛生上迷惑だという苦情も多く,住民が竹槍を持って騒動を起こすこともあったため,鐘紡役員一同はピストルを携行したというから,昔の日本は西部劇のように物騒だったらしい。(p162)
戦後も,墨田区は(中略)中小零細の町工場が無数に密集し,高度経済成長を支えた。優秀な縫製職人がたくさんいるため,ファッション産業の土地でもある。イッセイ ミヤケ の洋服の縫製も墨田区の企業が何社か担当している。(p162)
『女工哀史』の刊行と同じ1925年,建築家で考現学者の今和次郎は「本所深川貧民窟付近風俗採集」をしていた。うかつだったが,私はこの2つの著作が同じ年のものだとはつい最近まで気づかなかった。社会問題と都市研究では分野が違うし,女工といえば製糸工場,だから明治時代だと,何となく間違って記憶してしまっていたからだ。(p172)
労働はつらく寄宿舎は多少不潔なところもあっただろうが,おそらく地方の貧しい農村から出てきた女工にとっては,あるいは当時まだ農村地帯だった下町の生活から見れば,十分近代的で,給湯設備がある洗濯場などは天国のようなものだと思われた可能性はある。託児所の整備も近代的だと言える。(p191)
寄宿舎のある工場街は一種の団地であり,それゆえ一般国民よりは早く近代的な生活が実現した。だから,戦後の団地がそうであったように,工場街をモデルにして一般国民の暮らしが近代的な方向に変わっていった側面もあろう。(p192)
東日暮里ではアーチストレジデンスと思しき物件にもいくつか遭遇した。(中略)銭湯や長屋や商店街があって職人が住んでいる庶民的な街は,墨田区京島などと同じで,若いアーチストなどには住みやすいのであろう。(p207)
1964年のオリンピックに向けて東京都心部はどんどんきれいになっていった。しかしそれは,部屋に散らかっているモノを押し入れに詰め込むように,見栄えのよくないものを下町に押しつけることでもあったのだ。(p218)
山の手を舞台にした落語というものはない。山の手に住む武士は,落語ではからかいの対象である。だから,寄席はもちろん,演芸,映画などの娯楽全般は下町で発達したわけで,その代表が浅草だ。(p219)
荒川区の歴史はまさに昭和の庶民の歴史である。底辺労働の苦しみも,貧乏な長屋も,人間味のある近所づきあいも,活気のある商店街も,そこにはあった。神田のようなちゃきちゃきの江戸っ子の下町ではなく,地方から集まった人々が方言混じりの言葉で話す朴訥な下町,それが荒川区だったのだ。(p222)
北千住はもともと日光街道の,日本橋を出て最初の宿場町・千住宿である。現在の千住1丁目から5丁目が成立当初の宿場だ。(p248)
北千住は,豊かな商人層に支えられた文化都市でもあった。(p249)
下町の娯楽というのは大衆的であると同時に,意外に流行的である。比較的所得の低い労働者が多いため,安価で手軽な娯楽を求めるからだろう。(p263)
プライバシーの中に閉じこもらず,あけっぴろげで,気さくで,言いたいことを言って生きている。(中略)下町の,人々が自分に閉じこもらずに,生活を街に開いている雰囲気が,むしろこれからの時代,いろいろな街に何らかの形で増えていってほしいと思っている。(p280)

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