書名 世界の10大オーケストラ
著者 中川右介
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2009.07.30
価格(税別) 1,300円
● 新書とはいえ500ページ。量的な読みごたえはありすぎるほどにあった。
● 世界のオーケストラから10を選びだすことの困難さについては著者も語っているが,ともかく次のオーケストラが登場する。
シュターツカペレ・ベルリン
ニューヨーク・フィルハーモニック
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
イスラエル・フィルハーモニック管弦楽団
フィルハーモニア管弦楽団
パリ管弦楽団
● 著者が「まえがきにかえて」でも書いているけれども,この本は「オーケストラを通じて十九世紀後半から二十世紀の終わりまでの「世界」を描くもの」になっている。それぞれのオーケストラがそれぞれの「国家や都市とどう関係してきたか」が叙述される。オーケストラから見た欧米近現代史のようなものだ。
● 最も印象に残った人物は,サンクトペテルブルク・フィルハーモニー管弦楽団で登場するショスタコーヴィチ。スターリン時代のソ連で生きた人だけれど,具体的に生命の危機を感じながら生活していた時期があった。親族が収容所に送られたり,逮捕されたりという経験も味わっている。これはフルトヴェングラーもカラヤンもマーラーも味わうことのなかった体験。
交響曲5番で復権できたからいいようなものだが,余人の容喙を許さない体験ってこういうことだな。
● ニューヨーク・フィルハーモニックの章で次のような記述がある。映画(無声)が登場する前はクラシック音楽のコンサートが「娯楽の王座」だったことがわかる。
しかし,この時代,娯楽を享受できるのは上流に限られていたはず。大方の人たちは娯楽とは無縁の世界に生きていた。映画も音楽も,それらが大衆化するのはもっとずっと先のこと。
すでにニューヨークは大都会であり,ブロードウェイには七十もの劇場がひしめいていた。映画はまだ無声映画だったが,観客を増やしており,クラシック音楽が娯楽の王座から転落する日が近いのは誰の眼にも明らかだった。(p83)● 指揮者の苦労について。
指揮者たちは音楽監督になると,ある種の使命感で現代音楽を演奏したがり,その結果,批評家からは評価されるが,聴衆と理事会の支持を失う。現代音楽が少ないと批評家たちが批判するのも事実だが,批評家は客を連れて来てはくれない。それが,二十世紀後半のオーケストラの音楽監督にとって,最大の悩みだった。(p110)● ウィーン・フィルについて著者は次のように書いている。
多くの指揮者たちの評伝を読むと,このオーケストラと関係した指揮者たちのほとんどは,オーケストラとの関係において不幸である。関係した男たちすべてを不幸にする悪女的なオーケストラなのだ。だからこそ魅力があり,だからこそ指揮者たちはこのオーケストラに吸い寄せられるのかもしれない。(p136)● 最後に,「あとがき」から現在のオーケストラと指揮者についての総括部分を引用。
昨今は,オーケストラに限らず,指揮者も,あるいはピアニストやヴァイオリニストといった独奏者たちも,「個性がなくなった」と言われる。(中略) 個性がないのは,みんなが幸福になったからなのだ。個性あるオーケストラ,個性ある指揮者が,戦争と革命の不幸な時代がもたらしたものだとしたら,それを生むためには,またも何千万もの人々が殺されなければならない。 現在のオーケストラに個性がなくても,別にいいではないか。昔のような個性を聴きたければ,過去の録音を聴けばいいのだ(p500)
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