2021年10月31日日曜日

2021.10.31 三浦 展 『下町はなぜ人を惹きつけるのか?』

書名 下町はなぜ人を惹きつけるのか?
著者 三浦 展
発行所 光文社新書
発行年月日 2020.11.30
価格(税別) 900円

● 副題は「懐かしさの正体」。著者は下町を4つに区分する。
 第一下町:江戸時代の下町。1920年以前が人口最大。日本橋,神田,京橋。
 第二下町:明治・大正以降の下町。人口は関東大震災後に減少。浅草,下谷,芝,本所,深川。
 第三下町:震災以降の下町。震災後に人口が急増。荒川,向島。
 第四下町:戦後の下町。城東,王子,江戸川,葛飾,足立。

● 東京近代史といっていい内容。近代史を総花的に扱うのではなく,人口の移動と街並みの形成,地場産業の盛衰に絞って,その理由,原因を探るというもの。
 東京歩きは自分の趣味というと語弊があるが,楽しい時間の使い方になっている。本書を読んで良かったと思う。街歩きの楽しみが少しは深まるかもしれない。

● 以下に転載。
 1970年代に入り,下町は〈発見〉されたのだとわかる。それは都心の近代的オフィス街化,郊外住宅地を中心とする生活様式の西洋化などが進むことにより,近代的でも西洋的でもない,伝統的で日本的なものとして下町が珍しがられる時代が始まったということでもある。(p6)
 関東大震災のあった1923年は田園調布の分譲開始の年であるということは実に象徴的である。震災のために,下町が壊滅し,もう下町には住めないぞという気運が高まり,山の手,西郊への人口移動が加速したのである。下町中心でのコレラの流行も一因である。(p33)
 第一~第三下町に限ると,人口は戦争によって4分の1に減り,その後回復するものの,戦前には届かない。対して山の手は,戦後は戦前より3割ほど増えている。いかに震災と戦争が下町に被害をもたらしたかが明瞭である。(p35)
 東京の人口移動を考える上で重要なのは,1919年に制定された旧都市計画法である。これにより東京は地域ごとに,商業,工業,住宅などと用途地域指定された。(中略)こうして同じ郊外でも西側山の手は中流ホワイトカラーが多く,東側下町は工場,倉庫などで働く労働者階級が多い,という近代東京の構造が固まった。(p36)
 今われわれが思い浮かべるお寺のような外観の銭湯は,大正時代につくられはじめたものだ。戦後も人口増加に対応して,たくさんつくられた。大正から昭和,戦後にかけて,東京に流入してくる人々は若く,貧しい,風呂のある住宅には住めない人々だったからである。(p41)
 大正時代に同じようなことが起きている。「郷土」という言葉が重視されたのだ。今は当たり前に使う郷土という言葉であるが,この言葉が重視されたのは明治以降の近代化がひとしきり進んだ1910年代のことである。(中略)明治以来近代化を進め,1880年代に憲法や教育制度などの新しい体制を確立した日本が,それから30年経って発見したのが「郷土」「故郷」「ふるさと」なのだ。(p45)
 麹町区と深川区の(区民所得の)差は20倍ほどである。皇居と隅田川を隔てた土地には,今から見れば「超格差」があったことがわかる。(p58)
 銀座煉瓦街も建設以前はスラムだった。小商人,職人,日雇い,大道芸人らの下層民や雑業者が住んでおり,彼らを強制退去させて煉瓦街がつくられたのだ。(p58)
 明治20年代には小石川区に15の貧民窟があったという。浅草区には13,神田区,芝区に各11,日本橋,京橋区に各10があった。東京市15区内での構成比では小石川が13%,浅草が11.3%,神田,芝が9.6%,日本橋,京橋が8.7%である。これが明治30年代になると,浅草は14.2%に増え,下谷区が11.2%に急増する。(中略)神田にいた貧民層が浅草区内,そして下谷万年町などに移住してきたからである。(中略)第一下町から第二下町に貧民が移動したことがわかる。1900年頃から10年ほどで地代が10倍以上に上昇したことも,貧民を郊外に押し出す圧力となった。(p59)
 江戸は何度も火災にあったが,明治以降も火事は多く,1881年には神田で大火があり1万戸以上焼失するなど,明治期最大の被害となった。(中略)大火が起こる理由は,貧民の暮らすこけら葺きの長屋が多いからである。だから不燃・防火の都市をつくり,煉瓦や石づくりなどの高額な住居をつくることは,貧困層が住める家をなくすことにつながる。(p77)
 単に東京の人口増加が下町の拡大をもたらしたのではなく,都心部の近代化とそれに伴う政策が貧民たちを外側に(場末に)追い出し,場末の人口を増やし,結果としてその場末を次第に下町的にしていったのである。(p81)
 明治時代は,日本橋から神田須田町にかけてが東京の中心だったという。銀座はまだ栄えていない。このへんの感覚が今はわからない。(p86)
 地主は,大きな土地を持つ人ほど都心にいた。(中略)下谷の土地はほとんどが第一下町か浅草の地主に所有されていたのである。言い換えると,江戸時代以来の場末としての性格が明治期までそのまま引き継がれていた。(p107)
 速水融『歴史人口学の世界』によれば,江戸時代の町人の平均寿命は農民より短かった。また民俗研究者の岩本通弥によると,都市の死亡率が農村より低くなったのは,なんと1920年代以降である。(p110)
 1921年の調査によると,たとえば浅草の田中町(現・東浅草)にあったスラムでは居住者1044人中,なんと239人が1年間で死亡している。(中略)その他のスラムでも四谷旭町(新宿駅南口あたり),下谷金杉本町,深川富川町・猿江裏町では1割以上死亡している。(中略)浅草は娯楽都市として繁栄し,銀座はモダンな消費都市として繁栄していたが,一歩そこから踏み出せば,衛生状態の悪いバラックのような長屋に住む貧困層が大量に存在していた。(p111)
 竹内誠氏によれば,深川が下町と称するようになったのは江戸時代どころか明治ですらなく,昭和になってからだという。(p138)
 深川は江戸と川を隔てて隣接しているだけなのに,江戸から見れば自然豊かで美しい別荘地であり,深川の人は隅田川を渡って西に行くことを「江戸へ出る」と言った。(p141)
 今でも,門前仲町で有名な居酒屋に行くと,「おきゃん」とはこういう感じかという女性が切り盛りしている。テレビドラマ『孤独のグルメ』にもその店が出てきて,女性役を浅野温子が演じていたが,口調も身のこなしも本物そっくりだった。(141)
 明治以降の向島は別荘地であった。(中略)大財界人である大倉喜八郎は1912年,向島に別邸「蔵春閣」を建築した。内部は秀吉の桃山御殿のふすま,杉戸を使い,狩野探幽の屏風も置かれる豪華なもので,海外の賓客を招いたという。(p154)
 1902年当時,石鹸工場は日本全体で175あったが,うち東京都が46,大阪府が33と,非常に大都市に集中した業種であった。現在のような石鹸を使う生活は,当時は未だ大都市の中流以上の階級による新しいライフスタイルだったからであろう。(p161)
 当時は紡績会社といっても何のことかわからない人がほとんどで,表向きは紡績工場と言いながら,実は火葬場をつくるに違いないと噂されて土地の買収に手間取ったという。まら煙が噴出するのは衛生上迷惑だという苦情も多く,住民が竹槍を持って騒動を起こすこともあったため,鐘紡役員一同はピストルを携行したというから,昔の日本は西部劇のように物騒だったらしい。(p162)
 戦後も,墨田区は(中略)中小零細の町工場が無数に密集し,高度経済成長を支えた。優秀な縫製職人がたくさんいるため,ファッション産業の土地でもある。イッセイ ミヤケ の洋服の縫製も墨田区の企業が何社か担当している。(p162)
 『女工哀史』の刊行と同じ1925年,建築家で考現学者の今和次郎は「本所深川貧民窟付近風俗採集」をしていた。うかつだったが,私はこの2つの著作が同じ年のものだとはつい最近まで気づかなかった。社会問題と都市研究では分野が違うし,女工といえば製糸工場,だから明治時代だと,何となく間違って記憶してしまっていたからだ。(p172)
 労働はつらく寄宿舎は多少不潔なところもあっただろうが,おそらく地方の貧しい農村から出てきた女工にとっては,あるいは当時まだ農村地帯だった下町の生活から見れば,十分近代的で,給湯設備がある洗濯場などは天国のようなものだと思われた可能性はある。託児所の整備も近代的だと言える。(p191)
 寄宿舎のある工場街は一種の団地であり,それゆえ一般国民よりは早く近代的な生活が実現した。だから,戦後の団地がそうであったように,工場街をモデルにして一般国民の暮らしが近代的な方向に変わっていった側面もあろう。(p192)
 東日暮里ではアーチストレジデンスと思しき物件にもいくつか遭遇した。(中略)銭湯や長屋や商店街があって職人が住んでいる庶民的な街は,墨田区京島などと同じで,若いアーチストなどには住みやすいのであろう。(p207)
 1964年のオリンピックに向けて東京都心部はどんどんきれいになっていった。しかしそれは,部屋に散らかっているモノを押し入れに詰め込むように,見栄えのよくないものを下町に押しつけることでもあったのだ。(p218)
 山の手を舞台にした落語というものはない。山の手に住む武士は,落語ではからかいの対象である。だから,寄席はもちろん,演芸,映画などの娯楽全般は下町で発達したわけで,その代表が浅草だ。(p219)
 荒川区の歴史はまさに昭和の庶民の歴史である。底辺労働の苦しみも,貧乏な長屋も,人間味のある近所づきあいも,活気のある商店街も,そこにはあった。神田のようなちゃきちゃきの江戸っ子の下町ではなく,地方から集まった人々が方言混じりの言葉で話す朴訥な下町,それが荒川区だったのだ。(p222)
 北千住はもともと日光街道の,日本橋を出て最初の宿場町・千住宿である。現在の千住1丁目から5丁目が成立当初の宿場だ。(p248)
 北千住は,豊かな商人層に支えられた文化都市でもあった。(p249)
 下町の娯楽というのは大衆的であると同時に,意外に流行的である。比較的所得の低い労働者が多いため,安価で手軽な娯楽を求めるからだろう。(p263)
 プライバシーの中に閉じこもらず,あけっぴろげで,気さくで,言いたいことを言って生きている。(中略)下町の,人々が自分に閉じこもらずに,生活を街に開いている雰囲気が,むしろこれからの時代,いろいろな街に何らかの形で増えていってほしいと思っている。(p280)

2021年10月24日日曜日

2021.10.24 伊藤まさこ 『まさこ百景』

書名 まさこ百景
著者 伊藤まさこ
発行所 ほぼ日
発行年月日 2020.08.06
価格(税別) 1,800円

● 著者は「ほぼ日」上で「weeksdays」というセレクトショップを運営している。本書はそのプロモーションの意味合いも持っているのだろう。ただし,宣伝臭は皆無に近い。
 お気に入りのモノを紹介している。同じような趣向の本を前にも読んだ記憶があるが,定かではない。

● 紹介されているモノの背後にあるのは,こだわりと言ってしまっていいんだろうか。そう言ってしまうと,少し以上にピントを外すことになるんだろうかなぁ。
 何でもいいということがないのだ。ぼくは大いにそれがあるので,こうして著書を通じて著者と向き合っている分にはいいけれども,直接に向き合うとひと言も話が通じないだろうな。

● 以下に転載。
 ほかほかの蒸籠をテーブルに持って行き,蓋を開けた瞬間,毎度歓声があがるのも料理をつくる側としてはうれしいポイント。湯気の持つ威力ってすごいのです。(p13)
 最近,わたしをハッとさせる仕草をする人は,多くがリネンのハンカチを持っている,ということに気がつきました。清潔できちんとアイロンがかかったまっ白なリネンは女の人をきれいに見せるのです。(p19)
 ものをたくさん見て,瞬時に「いいものとそうでないもの」を見極める仕事についている人は,とにかく目が速い。(中略)わたしもどちらかというと速い方。森の中できのこを見つけるのも得意です。(p27)
 「もう小花柄は似合わない」。数年前のある時,そう思ってからきっぱり着るのをやめました。(中略)好きと似合うは違うもの。(p101)
 ひとつでもひっかかるところがあったら買わない。ものをえらぶ時,それくらいの潔さがあってもいいんじゃないかと思っているんです。だってほかのだれでもない,自分が使うものなのだから。(p165)
 どうやら「ほしい」気持ちは前面に押し出すといいものと巡り会えるみたい。(p211)
 自分とみんなをとりまく景色が少しでもよくなりますように。(p231)

2021.10.24 白川密成 『空海さんに聞いてみよう。』

書名 空海さんに聞いてみよう。
著者 白川密成
発行所 徳間書店
発行年月日 2012.02.29
価格(税別) 1,400円

● 副題は「心がうれしくなる88のことばとアイデア」。
 著者の文章に初めて接したのは,2001年から「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載された「坊さん」だった。衒いのない素直な文章で,連載を読むのが楽しみだった。
 のだが,その連載をまとめた単行本もその後に出た書籍も読むことなく,9年前に出た本書を今頃になって読んだ次第。

● 読み手の好きなように読めばいいものだと思うのだが,ぼくな仏教の入門書として読んでいた。そういうものとして読み始めたわけではないのだが,途中からそういう読み方になっていた。
 高校を卒業してまっすぐ高野山大学に入学し,僧侶への道を目指した人だが,頭脳の働きがかなり明解な人のようだ。

● 著者は本書執筆にあたって,筑摩書房の『弘法大師 空海全集』をメインに使い,一部,高野山大学密教文化研究所の『定本弘法大師全集』に依ったと述べている。
 このような大部な全集は,ぼくらが手を出すものではないだろう(出してもいいが)。しかし,ありがたいことに,ちくま学芸文庫から『空海コレクション』全4冊が出ている。これで空海の著作のあらかたは読める。
 じつは,ぼくも出たときに買っていて手許にある。が,1行も読まないまま今日に至っていた。読まなきゃなと思った。

● 以下に転載。
 千年の時を超えて残っているような言葉は,それだけで耳を澄ませるに値する言葉だと思います。(中略)まずはその「言葉」が今,ここに “残っている” という事実をみなさんと喜び,そこから謙虚な気持ちで少しでも何かを具体的に学びたいと思います。(p5)
 良工は先ず其の刀を利くし,能書は必ず好筆を用う。(中略)その言葉(弘法筆を選ばず)とはまったく逆の言葉を弘法大師が遺されていることに気づき,「むふふ」と笑ってしまいました。(中略)優秀なスポーツ選手や演奏家などの大半が「道具」にこだわり抜き,多くの場合,熟練の名人である職人をパートナーとしていることが多いでしょう。(p40)
 私たちが経験するすべてのことは,「実際に起こっていること」と「私の心」のコラボレーション(共同作業)だと思います。だから,「私の心」の側を少しでも変化させることで,同じと思われた事柄,風景,人物が変わりはじめるはずです。(p49)
 「わたしには,子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし,すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか(ウダーナヴァルガ p54)
 大きな事件や自然災害が起こると,私たちは「言葉」を使って語りかけたり,言語によって考え,伝えることの無力さを痛感させられます。しかし,そのようなときであっても私はいつも「自分自身が言葉に力をもらい,助けてもらった」経験を忘れたくはないと強く思います。(p69)
 あるチベット僧の法話で,「自分と他者の人数を比べてみてください,他者のほうがずっと多いはずです。ですから,他者の幸せなしには,自分の幸せなんてないのです」と伝えられたことがあります。(p86)
 古人は道を学んで利を謀らず。今人は書を読むも但名と財のためなり。弘法大師の生きた時代は,千何百年も前の時代ですが,そういった時代の人もやはり今と同じように「昔の人は・・・・・・」ということを考えていたのだと思うと,なんだか興味深いです。(p88)
 「厳しさの中にも,必要な “ゆるし” がある。だからこそ咲くことができる花がある」というような考え方には,大乗仏教の叡智が詰まっているように感じました。(p93)
 私たちが受けとる情報の量が今までの時代とは,比べることができないほど膨大になっていることです。(中略)ほうっておくと心が「受けとる」「発する」ことばかりになって,気づかないうちに「見つめる」ことを忘れてしまいます。(p97)
 「心に先入観を持たず素直でいて万物の動きにまかせた」というのが現代語訳ですが,漢文書き下し文の「虚心物を逐う」というのは,鋭くリズミカルなイメージとともに胸に飛び込んでくる言葉です。(p110)
 空海は次の段階として,「学ぶ」「習う」ことと「写す」「似せる」ことをしっかり区別することの大切さを指摘しているように私には感じられるのです。考えてみると,素晴らしい先人たちの方法や作品は,その人自身が,その人の心にちょうど合致するように編み出されたもので,あなたには,あなたのためにもっとフィットするフィーリングや雰囲気があるはずではないでしょうか。(p118)
 笑われたり,非難を受けたら,やめるべきですか? むしろそういったものの中に大事なものがあることが多いのです。(p123)
 「密教」の特色を簡潔な言葉で考えてみると「身口意」の働きを抑え込めるというよりは,むしろ肯定的に積極的に “用いようとした” ことにあるのではないかと思います。(p130)
 「私」というとても小さな存在でも,その「大きなもの」と旅をともにすることで,大きな収穫を得ることができる。(p149)
 人間である私たちは,自分が目にして心が写し出すものが,現実の世界だとおもってしまいますが,じつは自分たちの「見たいものだけ」「欲しているものだけ」「必要なものだけ」を見ている(中略)「生きもの」事態がそういった “システム” によって運用されている,という理知的な側面を持っている事柄だと感じます。(p169)
 このように短い言葉を引用して,弘法大師の考えを「わかった」ことにしてしまうことは,じつはあまり得策ではありません。その言葉の裏側をかいま見る注意深さも必要です。(p177)
 起るを生と名づけ,帰るを死と称す。(p192)
 遮那は中央に座す 遮那は阿誰の号ぞ 本是れ我が心王なり(p212)

2021年10月12日火曜日

2021.10.12 林 望 『定年後の作法』

書名 定年後の作法
著者 林 望
発行所 ちくま新書
発行年月日 2020.12.10
価格(税別) 840円

● タイトルに “定年後” が付く本をけっこう読んでいるのだが,またひとつ読んでしまった。実際に定年になった人が “定年後” の本を読むのは,あまり恰好のいいものではないとも思っている。
 どの年代の人にもその年代に合わせた雑誌が発行されていて,自分の年齢に合う雑誌を読んでいるような人は,所詮はその他大勢の中に埋没しているだろう。自分の属性とは全く違うものを読んでるような人に,魅力のある人が多いだろう。

● 自分もまた,自分の属性に合った雑誌を読んでいた「その他大勢」の1人なのだが,馬齢を重ねてもそこは変わらないものだなと,ひとり自嘲もしている。
 しかし,背伸びをしても仕方がない。気になった本は読んでみればいいのだ。

● 以下に多すぎる転載。
 どこにも所属していないということになると,そこに「孤立」した自分を想定しなくてはならない,それはたしかに未知の恐怖を感じることがどこか避けられない,ということだったかもしれません。しかし,定年後,何より大事なことは,この「孤立」を恐れない心です。(中略)「孤としての生き方」とは誰ともつるまず,誰にも寄りかからず,一人ですっくりと立っている生き方にほかなりません。(p8)
 無所属の恐怖かぁ。これしばしば言われることなんだけど,そんなことを感じる人が本当にいるんだろうか。ぼくに関していうと,それは1mmもなかったけどねぇ。大半の人はそうじゃないのかねぇ。
 人間には「感じの良い人」と「感じが悪い人」の二種類しかいない,その中間はない,というのが私のかねてからの持論であります>(中略)まず,最も嫌われるのが,上から目線で偉そうにものを言う人です。(中略)そこで,感じのいい人になるためには,まずなによりも,いばったり,上から目線でものを言ったり,要らざる薀蓄を傾けたり,というようなことを,自らよほど抑制しなくてはいけません。(p12)
 「自己評価は必ず他人の評価を裏切る」という心理学上の法則があります。つまり,自分を「親切な人間だ」と思っている人が実際に親切だったためしはなく,逆に「自分は意地悪だ」と思っている人は実は意地悪ではないということです。(中略)自分を意地悪だと思う自我は,すぐれて自省的であるはずだからです。したがって,そういう自省心がある人間は意地悪にはなりません。(p14)
 人間は不思議な動物で,群居する性質を持ちながら,しかし,一定の距離感がないと不愉快を感じる,そういうものです。(中略)だからお互いに干渉しあわないように,自分独りの時間と空間を持つ。そうやって「間」を取ることによって,一緒にいる時にはより仲良くなれるというものなのです。(p33)
 偉そうにすることなく,どちらかといえば,いつもぼんやりとしてるくらいがちょうどよい(p53)
 出世栄達なんてことをよそに,のんびりと非競争的な人生を送っているという人には,どこか不思議に人間的な魅力があるものです。そういう人こそ,定年後の生き方として目指したい一つのイメージではなかろうかと思うのです。(p61)
 定年後は,つまり,社会がその人に求めるものから自由になった,組織の桎梏から解放された分,どんな無用のことにも力を注ぐことができます。それが世の中の役に立つか立たぬか,そんなことは度外視してよいのです。(p67)
 一番良くないのが,定年になって暇ができた,さあ,どうやって暇をつぶそうかという考えです。(中略)つまりは「暇つぶし」とはすなわち「時間の無駄遣い」です。(中略)それは穀潰しなる愚考というものです。(p73)
 練習していてもそれが嫌にならない,どこかにもっとやりたい,もっと先に進みたいと思う「気持ち」のなかに才能というものが宿っているということなんです。(中略)あきらめるってのが,いちばん良くない態度で,あきらめずに続けるということによってしか,才能という鉱脈に辿り着くことはできません。(p75)
 音楽教室か個人レッスンかと比べてみると,レッスン料はたしかに,個人レッスンは多少高い。しかしながら,その成果の上がり方は,まったく違うものなのです。(中略)定年後です,お金は有効に使わなくてはなりません。(p79)
 つまらない文章に共通の属性は,「音楽がない」ということです。文章にリズムがなく,だらだらとしている,そういうのはやはり読む気がおこらないのです。(p81)
 人前に出て恥をかきながら学んでいく,そういう心がけが何より大切だと思うのです。(p89)
 生きがいを,もし趣味の世界に求めるとしたら,(中略)下手の横好き,御隠居の義太夫,みたいなところで満足するのではなくて,いわば本職になるほどやったほうがいい,と私は思っています。(p95)
 俳句は,お茶やお花のように「型」のある芸道ではありません。俳句は「文学」なのです。(中略)そうなるとさて,文学がお師匠さんの言いつけを守って,一つの型を金科玉条と心得るようでは,どんなものでしょうか。(中略)もっと自由に,言い換えれば自分勝手に,試行錯誤することが,いわば上達の王道だと私は信じています。(p99)
 常住坐臥いつも俳句を作ろうと思っていることが大切で,私は四六時中M値のポケットにメモ用紙とペンを入れています。なにしろアイディアはいつ湧き出てくるか予想ができないからです。思いついたら即座にメモする。これが俳句作りの大秘訣です。(p102)
 楽器などを習うときは,メソッドを守り,つねに師匠に修正指摘してもらう必要がありますが,文学は先生に教わってどうにかなるものではない。私も文章を書くのを仕事としていますが,今まで文章の書き方など誰にも教わったことはありません。(p103)
 アイディアなんてものは,三十秒くらいしか生命がありません。一分でも他のことをやってしまったら,もう忘れて思い出せなくなります。だから,ともかく即座に書き留めることが必要です。(p105)
 井戸を掘らなければ水は出てこないのです。最初から自分にはそんな才能はないからとあきらめるには及びません。(p123)
 勉強は,結果ではなくて,過程にこそ最大の愉悦があるのです。そこが受験勉強や,会社のプロジェクトなどと根本的に違っているところなのですから。ここでも,孤独は作業ではありますが,楽しい孤独,すなわち名誉ある孤立でもあるんです。(p126)
 『徒然草』のおもしろいところは,なにやら人生の深奥を探るようなことがあれこれと書いてありながら,その底流として,常に「エロス」があることです。生きていることとエロスというものは切り離せないものだということが,これを読むとよくわかります。(p128)
 私も,ほかには何も運動はしませんが,ひたすら歩くことだけは励行しています。それも犬の散歩だの,週末にゴルフ場を歩くなんてのはだめで,ただただ「歩く」ことを自己目的として脇目も振らずに歩くことが肝心です。(p158)
 私は家にいても絶対に電話には出ません。ああ,電話が鳴ってるな,と思いながら,ベルが切れるまでじっと静観しているだけです。(p164)
 私はSNSに類することも一切やりません。ツイッターのような,ほんのひと言,思いつきだけの短文を垂れ流すというのが,どうも不毛なことのように思います。(中略)SNSは一種の《電子的つるみ状態》で,つまりは,程の良いディスタンスが保たれていないんですね。(中略)人と人のコミュニケーションにおいても,心のソーシャル・ディスタンスが必要だと思うのです。(中略)ここでも,やhり「個(孤)」を保ちあうということが,良い人付き合いの,要諦のなかの要諦だと,そう言っておきたいと思います。(p166)
 人間の健康も縮小していくように,生活そのものもだんだんと縮小していくべきがほんとうなのだろうと感じています。(中略)この「縮小していく生活」を,自分で考えて,粛々と受け入れていくことこそ,これからの最大のテーマだと,私自身は考えています。(p198)
 還暦を過ぎた頃から,私は極力ものを買わない,必要なもの以外は買わずに,身辺の物を増やさないようにしようと考えました。(p201)
 その要諦は,「大事なもの,価値のあるものから手放す」ということです。とかく未練で,良いものは手許に置いておきたいと思っていると,ついに何も手放すことができません(p204)
 なんとかして,私は「じじむさく」ならずに死にたいものだと思います。それには,何と言っても清潔が第一。むさ苦しく不潔で,ひとい加齢臭がするようでは,人を不快にさせるばかりで嫌がられます。(p206)
 ぐっとお安い定食屋で食べるのも,なんだか面白くないことで,それなら家に居て自分で料理すれば安くあがるし,自分の好きな味に作ることもできる,それがいわば食費節約の大原則です。つまりは外食は極力やめたほうがいいと,お勧めする次第です。買い物も,あれこれと予め献立を決めてから買いにいくのではなく,どんなことにも使える普遍的な食材を一通り買っておいて,それが無くなるまで,工夫して使い切る,それが,いわば食費節約の王道です。工夫万端,無駄なく使い切る,そこに要諦があります。(p210)
 死ぬなんてことは,考えたくないことですが,だからこそ,心を励まして考えておき,常住坐臥,このことを思わぬ時はない,というくらいにしてちょうど良いのだと思います。(p222)
 心を通わせて話したいときは,横並びで話すことです。(p227)
 五年後,十年後までにこれをやろうと,あれこれ目標や計画を立てたところで,それまで無事に元気で生きている保証はどこにもないのです。だから,「今日,何をやるか」が大事です。今日一日を有意義に生きることに,まずは集中しましょう。そして,全力を尽くしておけば,明日急に死んだとしても,悔いは無いではありませんか。(p232)
 人生の扉を開けるのは簡単です。(中略)しかし,広げるのは簡単でも縮めるのは容易ではありません。(中略)発展は誰にとっても嬉しく望ましく,苦労があってもそれを苦労だとは思わない。しかし,縮小するのは楽しくも望ましくもないことですから,そのための努力は本当に辛い努力です。けれども,定年後はどうしたってその縮小していく局面に向かい合わなくてはなりません。(p243)

2021年10月10日日曜日

2021.10.10 開高 健 『開高健の本棚』

書名 開高健の本棚
著者 開高 健
発行所 河出書房新社
発行年月日 2021.09.30
価格(税別) 2,200円

● 本書は何かといえば,エッセイのアンソロジーであり,開高健のお気に入り本の紹介でもある。杉並区に「開高健記念文庫」があり,茅ヶ崎市に「開高健記念館」がある。本書はその2つの協力を得てできあがっているものだが,記念文庫や記念館に行くよりはこの本をじっくり読む方が,より多くの実を得ることができるだろう。
 比べるものではないのだろうが。

● 以下に転載。
 書物は精神の糧である。(中略)精神の美食家になり,大食家になること。一念発起。そこからである。(p11)
 言語についての研究は近年にわかにさかんになり,精緻になっているけれど,分析が緻密になるだけ初発の直感の鋭さや豊沃さが喪われていくという事情は他のどの分野ともおなじらしく見える。(p48)
 よく写真を見ると学者や作家は万巻の書棚をうしろにおちょぼ口をしたり一点をカッと目貫めたりしてすわっているのを見るが,いかにもしらじらしいきがする(中略)やれやれ,これだけ本を背負わなければ歩けませんと,自分の頭のわるさを広告しているようなものではあるまいか。(p59)
 大人の世界で流行したものが半年おくれて子供の世界で流行するのだそうだ。かならずそうなるという。(p68)
 私はもともとマンガ無害論者である。子供は吸収力が速いのと同じ程度に排泄力も速い。(p69)
 「ユーモア」の感覚は人間の本能の知恵なのである。この知恵を汲むことのできない人びとは,ほかのあらゆる美質にもかかわらず私を和ませない(中略)くそまじめな日本の陰湿な風土ではこれがひどく育ちにくいこと,文学界,学界,すべて同様である。(p73)
 全集や文庫版など,一定規格のサイズとデザインにおしこめられた本からは “匂い” がたちにくい。(p78)
 よく読後に重い感動がのこったと評されている “傑作” があるが,これは警戒したほうがいい。ほんとの傑作なら作品内部であらゆることが苦闘のうちに消化されていて読後には昇華しか残されていないはず(p82)
 文学が政治を扱うと,どういうものか,成功はごく稀れで,ほとんどがのっけから失敗するものと覚悟しておかなければならないのに,これ(「動物物語」)はおそらく動物寓話にしたせいでしょうが,やすやすと至難を克服しています。(p88)
 革命は成就後にいつともなく変質をはじめてやがてはかつての仇敵にそっくりのものに転化する(p88)
 推理小説やスパイ小説はまぎれもなく,“近代” の分泌物である。(p92)
 どの分野でもナンセンスとかパロディーというものはセンスがよほど成熟,爛熟して種切れになりかかるところまできてから発生するものである。(p93)
 「種において完璧なるものは種を越える」と言ったのはゲーテだったか,ほんとにそのとおりであって,これ(「我が秘密の生涯」)はもうポルノなんてものじゃない。(p127)
 ロマン・ピカレスクとは何ぞやということなんだけれども,これは一口で言うと,(中略)けたはずれの強力なヴァイタリティをもった人物が社会を横断もしくは縦断する,それにつれて,一社会の横断面,縦断面がくっきりと浮びあがってくるという形式の物語なわけね。(p127)
 ナチュラリスト文学で気をつけなければいけないのは,人事を自然に反映させて,鳥獣虫魚の生態を人間社会にあてはめて解釈し,表現しようとする欲求をどう制御するかということやね。(中略)この擬人化の弊害はじつに大きい。(p131)
 ファーブルの『昆虫記』は,そういう,人間社会にもまれて辛酸を重ねてまた自然にもどりたくなった大人が読んで,はじめてほんとうのおもしろさがわかる本ではあるまいかという気がするのよ。(p132)
 御大アシモフがいいこと言ってるぜ。「大衆がSF映画を見に行くのはなぜか。九〇パーセントの破壊場面を見るためだ」。(p149)
 ホワイは分からないが,ハウは分かる。だいたい釣りは全体にそういうことがいえるんで,もっと押し広めれば,人生すべてがそれや。(p151)
 昔の動物学だと,人間は過ちを犯すがアリは過ちを犯さない,という定言があったわけだけど,自然はまた過ちに満ち満ちているんだよ。(p152)
 笑いのない現実というものはあり得ない。いかに悲惨なものにも,見方を変えれば笑いがある。(p156)

2021年10月9日土曜日

2021.10.09 島田潤一郎 ほか 『ブックオフ大学ぶらぶら学部』

書名 ブックオフ大学ぶらぶら学部
著者 島田潤一郎 ほか
発行所 夏葉社
発行年月日 2020.11.05
価格(税別) 1,300円

● ブックオフは最近まで利用したことがない。本を売ることはないので(本を処分するときはゴミステーションに出すか,地元図書館のリサイクルコーナーにそっと置いてくる),売り手としてブックオフを訪れたことはないし,買ったのも一度か二度あったかどうか。
 ぼくにも年に100万円を本代に使う若い時期があったのだが,その頃はブックオフはなかったのだし(ブックオフの創業は1990年),中年以降は本を買わなくなった。もっぱら図書館で借りて読むものになってしまったからだ。

● たまに買うときも駅ビルの新刊書店を利用することが多い。ブックオフは以外に遠い存在だった。
 が,最近,新潮文庫の宮沢賢治本を買おうとして,わが家から一番近い氏家のブックオフに行った。そこにあるのは買ったけれども,ないのもあったので,川崎や錦糸町のブックオフも覗くことになった。

● というときに本書を見つけた。タイトルも秀逸というか,惹かれるものがあった。読み始めると面白くて,一気通貫。

● 以下に転載。
 日本中になぜブックオフがこんなにもあるのか。そのこたえはいたって単純だろう。ブックオフが大量生産・大量消費の申し子だからだ。本がたくさん売れ,CDがたくさん売れたから,部屋に収まりきらない本とCDが売りに出される。(p3)
 今,モノを書く人間になり,同業者を見て,「なんで,必要な本ばかり読んでいるんだよ」と心の中でちょっぴり憤る。不必要な本を買い,不必要な本を読もうよ,と思う。(p7)
 ブックオフにあり,新刊書店や目利きのいる古本屋には無い点とは何か。「本のことをよくわかっていない人が,これはたぶんこっちじゃないかと並べてみちゃった感じ」である。(p10)
 ちょっとした郊外で,「今日のうちに岩波文庫のアレが欲しい」となれば,ブックオフがもっとも便利だ。ちくま学芸文庫でも,講談社学術文庫でも同様。(p12)
 新刊書店は体調が悪くても楽しめるが,ブックオフは体調が悪いと楽しめない。(p13)
 ブックオフはCDだけじゃなくて,本もDVDも全部そうやけど,均一以外の商品は意外と値段が高いんですよ(p21)
 ブックオフの魅力って,やっぱり圧倒的な在庫量と幅にあるわけです。(p29)
 東京のブックオフはやっぱりレベルが違いますよね。(中略)そんだけ東京では本が回転しているんだなあと(p31)
 いちばん集中して見るのは,作家別に並んでいる棚が終わったあとの出版社別の棚。(p32)
 ぼくは珍しい本を探すっていうんじゃなくて,純粋に読む本を探しているから,飽きないんだと思いますよ。(p35)
 相場より安いという理由で買った本って,たいてい読まないんですよね。(p36)
 少し前までのブックオフは,本を半額で売っていました。(中略)ブックオフはどんな素人でも買取と値付けができるシステムを作り上げました。本の値付けが面倒なら,いっそのこと値付けをしかねればよい。そんな発想の転換を店舗経営の場に落とし込んだのが,「本半額」システムです。このシステムは,本を定価の一割程度で買い取り,定価の半額で売るという単純明快な図式です。(中略)細やかな値付けが必要になる古い本は最初から買取せず,扱うのは新しい本だけ。(p62)
 ブックオフの買取基準は「きれいかどうか」のみで,古く汚い本は廃棄していたと言われています。(中略)「きれいかどうか」の買取基準では,古本愛好家が喜ぶような稀覯本が入荷する確率は著しく低くなります。そのため,古本好きだけではなく,かつての目利き系せどり師もブックオフを軽視していたと思われます。(p69)
 当時のブックオフはセールの旨味に溺れていた感があります。セールを乱発しすぎれば,セール以外の日は買い控えて,セールの時にだけせどらーが押し寄せるのは自明の理です。(p97)
 本は読むために買っているのだという原則を私はどこかで守ろうと考える人間だが,読みたい本を見つけるのではなく,じつは,見つけた本を読んでいるにすぎない。(p124)
 私はよく見かける。たかが百円の本を買うのに何時間も迷った挙げ句,やっぱり買わないおとなを。子どもでなくなった今でも,子どもの頃の金銭感覚を維持している。そのようなおとなは案外といるもので,私もそのひとりである。(p126)
 お前,どうやら四刷なんだってなあ。そんなに刷られて,いったい誰に読まれたかわかったもんじゃないぜ。きっと,陳腐なことしか書かれてないのだろう,お気の毒に。(中略)珍しい本たちはひそひそ話を始めるだろう。あれは馬鹿が読む本だと。ありふれた本にとっては青天の霹靂であった。俺は馬鹿が読む本だったのか。(中略)馬鹿に読まれるくらいなら,俺なんて出版されてこなければよかったんだ。(p131)
 ほかのお客様のご迷惑となりますのでご遠慮ください。(中略)実際は店が迷惑なのに,それをほかのお客の迷惑になるとはなんだ。(p140)
 ブックオフの醍醐味は量が多いことと,もし欲しい本があったらそれは確実に定価以下で買えるというところにあると思います。(p151)
 たった一冊の本がその後の人生に大きな影響を与えることがあります。その可能性がどの書店よりも高いのがブックオフだと言ってもいいかもしれません。なにしろ店舗数が多く取扱いジャンルも幅広いですから。(p157)
 ぼくと同じように学校にも仕事にも行っていなそうな人を見るとほっとした。(中略)ブックオフはまるでセーフティネットのようだった。社会に行き場のない人たちが集い,カルチャーをなんとか摂取しようとしていつまでも粘る場所。(p165)
 お金さえ潤沢にあれば,こんなにブックオフに嵌まらなかったかもしれない,と思う。人生が順風満帆に進んでいれば,こんなにも本にCDに心を預けることはなかったかもしれない。でも人生はうまくいかなかったし,たいてい喜びよりも悩みのほうが多かったから,ブックオフに通った。(p168)

2021年10月4日月曜日

2021.10.04 弘兼憲史 『めざせ,命日が定年』

書名 めざせ,命日が定年
著者 弘兼憲史
発行所 幻冬舎
発行年月日 2020.04.15
価格(税別) 1,100円

● また読んでしまったよ,弘兼憲史さんの老人向け生き方本。この人,若いときから人生論,仕事論の本をたくさん書いている。自分から望んだのではなく,出版社からのリクエストに応じてきただけのことだろうけど。
 老いてから弘兼さんの説くようにできる人は,老いる前にも弘兼さんの説くようにできていた人なんだろうかな。

● たぶん,人は脱皮できるのだと思う。しかし,それができるのは何歳までだろうか。60歳になっても70歳になってもできるとは思えない。
 定年を迎えた時点で,定年後の人生がどんなものになるか,その勝負は決している。定年になってからバタバタしても手遅れだ。こうした本も定年後に読んでも遅い。

● 副題は「終わり笑えばすべてよし」。憶えておきたい言葉でしょ。あるいは,頼りたくなる言葉でしょ。
 生涯現役のすすめであるわけだが,現役の内実は仕事でなくてもいい。遊びでも何でもいい。時間をうっちゃるのではなくて,世間や家族のためではなく,自分のために楽しく過ごす術を持て,というのが本書の説くテーゼ。

● 以下に転載。
 人生はあるがままに生きて初めて輝きます。(中略)本当の人生は,むしろ定年後に始まると言っても過言ではありません。(p4)
 人間には,生まれたら必ず死ぬというプログラムがある。僕らはみんなそのプログラムの中で生きている。老いるということは,そのプログラムの最後の到達点に向かって,着実に歩を進めているということである。(p14)
 僕は「何かを成し遂げる人は年齢に関係なく何かを始める人」だと思っています。当たり前の話だけれど,何かを成し遂げるには何かを始めないといけない。(中略)会社のためでも家族のためでもなく,自分自分のために何かを成し遂げてみせる。おれは高齢者になったからこそ与えられる,大きなチャンス,大きな楽しみの一つなんじゃないでしょうか。ただし,チャンスはじっとしていたら掴めません。(p23)
 立てていた計画を修正するって,ものすごいエネルギーがいります。精神的にかなり疲弊します。そんなことになるくらいなら,最初から予定なんて立てずに,「先はどうなるかわからないけれど,まあまあ行くところまで行ってみよう」くらいの感じでいたほうが,ずっと楽に生きられるんじゃないでしょうか。(p27)
 人生というのは,逆らったところでどうにもならない,だからムダに考えすぎちゃいけない,ケセラセラ,なりゆきまかせでいいんだよ,ということだと思うんです。(p28)
 先のことはあんまり考えない。でも,今目の前にある仕事については考えて考えて考え抜く。(中略)むしろ計画がないからこそ全力投球できるというのが,僕の率直な感想です。(p28)
 叱るって,エネルギーがいるでしょ。(中略)僕の場合,叱る前に必ず30分くらい,あれこれシミュレーションして考えるんですよ。で,いろいろ考えるうちに,疲れちゃって,面倒臭くなっちゃって,結局叱らないで放っておく,となってしまう。(中略)年がいったら,エネルギーを使って消耗してくたびれるようなことは,できるだけ避けるに限りますよ。(p35)
 いくら一人でがんばったって,周囲からの応援がなければ何も始まらない。声援を得られるような言動を身につけて初めて,議員なり何なりになれるわけですよね。(中略)結局人生って,ある意味すべてが人気投票だと思うんですよね。(p38)
 僕の知る限り,成功者になって第一線を走り続けている人は,みんな概ねいい人です。コンプレックスや欠点もあるのでしょうけど,それを感じさせない,おおらかさや朗らかさがある。(p41)
 そういう時って,あまり深く考えないほうがいいです。大事なことだから真剣に,失敗できないから慎重に,と思う気持ちもわかりますけど,深く考えすぎるとかえってうまくいかないということもあります。(p46)
 反省するのは悪いことじゃないんですけど,そこにずっとこだわっていると,次もまたうまくいかなくなる。(p48)
 「失敗したらどうしよう」じゃなく「失敗してもいいや」で振り切るのがいいんです。(p49)
 特に年がいったら,ムキになるより頭下げたほうがスマートですよ。(p53)
 蓄えも年金も十分にあって,働く必要がなかったとしても,ゴロゴロしてちゃいけません。何かしら打ち込めるものを見つけたほうがいいんです。イキイキやれるなら,仕事でなくてもいい,遊びだって構いません。(p57)
 一人暮らしってやっぱりいいですよ,最高ですよ。本当に,これほどいいものはないって心底思いますよね。(p68)
 ただ,一人ぼっちで引きこもってしまうような一人暮らしは,やっぱりよくないですね。コミュニケーンをとるのがイヤで,とことん人を避けて暮らす。そういう極端な一人暮らしだと,むしろ人に迷惑をかけてしまうことになりかねません。(p70)
 見栄も世間体もかなぐり捨てて,一人で楽しいことをしたらいいんです。(p71)
 一度上げた生活はなかなか下げられないとか言いますけど,ンなもん,いくらでも下げられます。「金がないんだからしょうがねえな」って思うだけですよ。(p73)
 「手持ちのものでどう乗り切るか」という考え方が身についていれば,何があってもなんとかなると思えます。(p74)
 取り越し苦労に悩まされないためには,「何かあったらあったで,その時そこで考えればいいや」という胆力を養っておくこと。(p74)
 自分で言うのもなんですけど,速いんです,仕事が。というか,せっかちなんだな。何ごとにつけても,決めたらさっさとやるのが僕の強みかも知れません。(p75)
 漫画家ってこういう時,大人になれない人がとても多いんですよ。才能があるのに途中で終わってしまう人は,たいていそれです。編集者の意見を聞かないでごねたりする。これ,ものすごく損なことですよ。(中略)結局,実力一本の世界に見えて,マンガの世界も人間関係が重要なんです。なんだってそうですけど,一人でやれることなんて一つもない。(p77)
 仕事に関しては一人でやるより,何人かいてワイワイやってたほうが,やっぱりはかどるんですよね。というのも,一人でやってるとどうしても怠けちゃうんですよ。(p78)
 僕のオススメは,誰かと待ち合わせをした時に,約束時間の30分前に待ち合わせ場所い行くことです。で,その周りをちょっと歩いてみる。関心を持って眺めてみる。(中略)きっと面白そうなものと出会えますよ。(中略)待ち合わせ相手からは「30分も時間があったら退屈でしょう?」と言われますけど,とんでもない,30分家にいるほうがよっぽど退屈ですよ。楽しいことは,家の中より外の世界にあるんですから。(p83)
 なかなか眠れなくてもちょっと我慢すれば,10分ほどでパタッと寝られるともいうんですけど,(中略)僕,せっかちですからね,10分じっとしてるのがダメなんです。(p89)
 世の中腹を立ててもどうしようもない,抗ってみてもどうにもならないこともある。先に進むためには,潔く諦めることが必要な時もある。「まあ,いいか」は,前向きな意味での諦観でもあるんです。(p95)
 好き勝手にするまって損をするより,周囲から好かれて助けてもらったほうがずっと得。謙虚になるということは,老後を生きる術の一つと心得て,「身勝手山」からは下りるべきなのです。(p103)
 最近,シニアの間で「一人カラオケ」が流行っていると聞いたことがあります。と言っても,歌を歌うわけではありません。仕事をするための事務所代わりに使うのだそうです。(中略)でも,僕はやっぱりファミレスが好きです。(中略)一人こもって考えるより,大勢の中のほうがはかどるからです。(p110)
 よくインタビューなんかで「この作品のメッセージは何ですか?」って聞かれますけど,ないんです,そんなもの。みんなほとんどないと思います。(中略)メッセージ云々ではなく,好きだから描いている。(p117)

 ビートたけしも映画について同じような発言をしている。「メッセージなんてないよ! ジェットコースターに乗るのに理由なんてなくて,「面白い」からでしょ。映画はやっぱり面白ければいい」と。

 普通の本ならたいていネットで買えます。(中略)絶版になってしまった僕の漫画もアマゾンで入手可能でした。ですから,本は一度読んだら捨てる。必要になったらまた購入する。そういう付き合い方で十分なんじゃないでしょうか。(p125)
 あの良寛さんや一休さんも,70歳を過ぎて現役バリバリで恋愛を楽しんでいたそうです。良寛さんには貞心尼という尼さんが,一休さんには森女という盲目の恋人がいたのだとか。(p129)
 女たらしの役をやらせたらピカイチと言われた,ある俳優さんの話です。彼,女性と一緒に寝ている時に「私と一緒に死んでくれる?」って言われて,すんなり「いいよ」って言ったんだそうです。なんの迷いもなく,堂々と。なんだかもうそれだけで,「うわぁ,すげえ」って思いますよね。(p136)
 降りたことのない駅で降りて,その辺をぐるぐる歩いて,お寺や商店街なんかを見て回る。「これはいい」と感じた景色があったら,スマホやデジカメで撮ってみる。うまそうなうどん屋があったら,うどんを食って帰ってくる。これだけでも,立派に旅になるじゃないですか。(p164)
 冒険しようとするなら好奇心が大事です。漫然とじゃなく,しっかり観察しながらものを見る。でないと,せっかくの風景も「なんだ,どこにでもあるものじゃないか」としか思えないですからね。(p166)
 僕はツイッターとかインスタとか,いわゆるSNSというのは全然やりません。「自分の近況を人に知らせて何の意味があるんだ」と思いますし,そもそも忙しくてそんなことをしている時間がありません。(中略)最近は政治家も大統領もよくSNSをやってますけど,思うに,彼らはヒマなんじゃないですかね。(p175)
 SNSなどやらなくても,自分の外に自分を押し出していく手段を持っているからってのもあるかもね。実際,SNSの世界でインフルエンサーと呼ばれる人たちはSNSがなくても困らないんじゃないですかねぇ。
 会社のトップになる人ってキレイ好きな人が多いです。(中略)中には全然気にしない人もいますけど,きれいにしてる人と比べるとやっぱり野暮に見える。要するに本物の紳士というのは,公共の水回りも美しく使うということなんですよね。(p179)
 僕の場合むしろ「俺にやらせてくれ」って感じなんですよ。何しろ動いてないと死んじゃう回遊魚だから,人の分まで動きたくてしょうがない。(中略)積極的に体を動かすのは健康にもいいです。手足や指先をこまめに使うのはボケ防止にもなります。そう考えたら,動くっていうのはじっとしているより得なことが多いはずです。(p182)
 自分をよく見せたくて,服やアクセサリーにやたらお金をかけたがるお金持ちも多いですよね。でも,孫さんレベルともなるとまるで逆。毛玉ができたから新しく買い換えようなんて,そんなケチくさいことは考えない。毛玉を気にするヒマがあったら,新しい事業プランを考える。(中略)「お金があるからいい服を着よう」という発想が,もはやないんですよね。(p186)
 僕の高校時代の恩師が,亡くなる直前,こんなことを言ってました。「自分はもうすぐ死ぬけど,死ぬ瞬間自分がどういうふうになるのか,ちょっと楽しみだ」(p202)
 生も死も同じ人生の地続きだと考えれば,どう生きたかがどう死ぬかに結びつくことになる。結局僕らにできることは,どう死ぬか以前に,残された今をどう生き切るかということなんじゃないでしょうか。(p209)

2021年10月2日土曜日

2021.10.02 八木重和 『note 完全マニュアル』

書名 note完全マニュアル
著者 八木重和
発行所 秀和システム
発行年月日 2020.11.03
価格(税別) 1,480円

● 副題は「“好き” や “得意” を作品に!」。ブログやTwitter,Facebookなど,ネットを発信媒体として使う場合のツールはいくつもあるが,プロご用達的に使われ出しているのが「note」だという印象。注目度が高いのではないか。
 で,note がどういうものなのか知りたくて,『noteではじめる新しいアウトプットの教室』(インプレス)を読んだ。

● また,note が気になってきた。『noteではじめる新しいアウトプットの教室』を読み返せばいいようなものだが,マニュアル本があったので,ざっと眼を通しておくかと思った。
 現時点で note を使ってみたいと思っているわけではない。この Google Blogger でいい。不満は何もない。
 が,ひょっとすると(たとえば,Googleがブログサービスをやめるなんてことがあれば)note に移ることがあるかもしれない。その移動先として note は適当なのか。そこを知りたかったというか。

● で,本書を読み終えた今の結論を書いておくと,note に移ることはやはりないということ。自分のログを保存しておくだけなら Blogger で足りる。というか,Blogger 以上のものはないんじゃないか。
 たんに保存しておくのじゃなく発信するというところに力点があるのであれば「note」を使うことも考えればいい。

● 発信するに値する情報を出せる人はそんなにはいないはずで(100人に1人はいないと思う。1,000人の中のせいぜい4人くらいじゃなかろうか),ぼくも自分が今書いているものが発信に値すると考えるほどアホじゃないつもりだ。
 note はそうした特別な人,クリエイティビティーのある人が使えばいい。

● 以下に転載。
 フォロワーを集めたいから必死で投稿し,広告で収益を得るために無理やりにでもネタを生み出す。果たしてこれが,自分がやりたかった情報発信のカタチでしょうか。(p4)
 これまでブログを経験した人の多くが「飽きる」という壁が越えられず,いつしか更新しなくなり,そのまま放置されます。(p22)
 少しでも多くの人に情報を発信したと思うのであれば,分野を絞った方が成功に近づきます。(p59)
 「とにかく注目されたいから毎日多くの話題を取り上げる」ような投稿はTwitterのようなSNSが適していて,note には適していません。note では,「厳選した話題を深く掘り下げる」ような情報を探し,調べ,書くことに適しています。(p71)
 特に,2020年4~5月頃でMAU(月間アクティブユーザー)が大きく伸びました。新型コロナウィルスの流行による外出自粛から,創作の時間や,作品を読む時間が増え,「創作」という不要不急のものが,人生にとって重要であると,改めて感じた人が増えたのだと思います。(p309)
 「創作」とは,いわゆる「作品をつくる」ことに限らず,日常のなかにある「ほんの少しの工夫すべて」だと,私たちは思っています。(p310)
 基本的にSNSはフロー型のコミュニケーションツールであり,一方で note はこれまでのSNSにはなかったストック型です。(p311)
 つまり,ブログに回帰したサービスだと考えていいのだろうと思う。
 note にランキングが無い理由としては,ランキングがあると,作品のジャンルが徐々にランキング上位に収斂していき,作品の多様性が失われてしまうことを避けるためという理由があります。また,順位を競う過程で,ひとの欲求をあおる過激なタイトルや悪口のようなものも増えてしまいがちです。(p312)
● note が従来のブログ等と違うところは
 1 有料の記事を販売できる
 2 広告がない
 3 複数の記事を1つにまとめる「マガジン」を作れる
 という3つかと思うのだが,1はネットユーザーの99%の人には関係ない。2については,Google Blogger も広告表示を強制しない。Blogger で広告が表示されている場合は,アフェリエイト収入を狙ったバカが書いている確率が100%だ。

● 知りたかったのは3なのだ。萬屋じゃなくて専門店になった方がいいとしても,よほど禁欲的じゃなければ,種々雑多が紛れこむ。それを内容別にマガジンに振分けることで解決できるかということ。このあたりがよくわからなかった。
 まぁ,気になるなら,試みにやってみればいいんだよね。それが一番手っ取り早い。気になるなら,ね。