著者 茂木健一郎
発行所 青土社
発行年月日 2006.06.10
価格(税別) 1,400円
● “おいしさ”について四方八方十六方から検討していく。雑誌連載をまとめたもの。当然,連載の1回ごとにテーマが違い,それが集まって四方八方十六方になったわけだ。
文章も著者自身の手によるもの。
● 以下にいくつか転載。
しばしば「ウニを最初に食べた人間は勇気がある」とか,「ナマコを食べようと思った人は偉い」などといったことを言うが,実際には,文明以前の野生生活において,食べ物が十分に得られずに今まで食べたことがないものを口に含んでみることなど,日常茶飯事だったはずである。(p14)
料理の盛りつけというものの不思議さ,割り切れなさは,それがやがて壊されてしまうものであること,壊されるためにこそあるということの中にある。(p28)
自分とは異なるものを食べ,身体の中に入れ,同化してしまうという一連の行為の中には,人間を初めとする生物の存在自体に内在するエロスがある。 茶器,壺などの骨董を,博物館の中でガラスケースに入っている状態で鑑賞することと,それを手に取り,撫で,触るときの体験は全く異なる。ましてや,器に茶を入れ,それに唇を付けてその感触と暖かさを味わう行為には,そうしないと味わえない喜びがある。(p28)
食べ物なんて,栄養さえとれれば良い,と考えるのは,そのために犠牲になった生き物たちに対して失礼である。何よりも,自分自身の生に対して失礼である。(中略)食べるという生の根幹をないがしろにしては,宗教生活も,世俗の生活も成り立たない。(p33)
そのメッセージを出すのに必要な生理的,心理的コストが高いほど,そのメッセージは強いインパクトを持つ(p39)
二つ以上のクオリアが同時に成立すると,その組み合わせにより,全く新しいクオリアが生み出される。1+1が2以上になるのが,意識の中の質感の世界なのである。(中略)感覚が統合される過程で,全く新しい「何か」が生み出されている。統合の対象となっている感覚からは類推が利かないような,新しいクオリアの次元が生み出されるのが,感覚統合のプロセスの本質なのである。(p43)
どんなに食材の贅を尽くしても,文化的に見た条件をそろえても,人間の脳は,予定調和では満足できないという贅沢な性質を持っている。(p75)
人間の幸福は,結局は脳内の快楽物質の分泌によって決定付けられる。(p83)
アフタヌーン・ティーを楽しむ人たちは,「アフタヌーン・ティー」というイメージをも食べている。(p85)
にぎり寿司という食文化は,その発祥の地の東京を離れることによって自由を得て,さらなる発展を遂げようとしている。(p88)
他人の作った料理を食べるということは,究極の信頼を寄せることである。(p93)
文化は,互いが作ったものを交換することで成り立つ。(p94)
文化の違いを尊重することも大切であるが,それも,最低限共通できる基盤があってのことなのである。(p99)
欲求は,それが容易に満たされないものであるほど,強いものになる。(中略)「懐かしさ」は,原理的には決して完全には満たすことのできない欲求である。(p102)
脳内の認知プロセスの本質は,カテゴリー化(分類)にある。最初は「苦い」としか知覚できなかった味の中に,無数のヴァリエーションがあることが,そのような刺激に接する回数が多くなるにつれてわかってくる。(中略)脳の仕組みとして,世界を知れば知るほどさらに奥深い細部が見えてくるという構造があるのである。だからこそ,生きていることは面白い。(p114)
日本で定着したこの習慣(バレンタイン・デー)も,チョコレートという食品の特性あってのことである。もともとは,仕掛け人がいたのだとしたり顔で言う人がいるが,いくら宣伝してもそれが人々の想像力を刺激しなければそれまでのことである。(p118)
欠乏するとは,すなわち,「待つ」ことである。飽食とは,「待つ」ことなく,すぐに食べ物が手に入ることである。(p131)
人間の脳は,結局,快楽原則に従って動いている。従来の様々な社会運動が,時に人々の生活実感から離れ,結局は失速していったのも,脳が快楽原則で動く臓器であるという事実を見過ごしていたからであろう。もちろん,快楽といっても,様々なあり方がある。どのような時に,どのような形で快楽を感じるかということ自体が,一つの文化である。(p136)
学会などで,世界のいろんな国に行く。面白いことに,しらふの時には随分国民性が違うなあと思っていても,ビールやワインを飲んで酔っぱらってくると,皆同じになる。(p164)
熱帯に比べれば,北方の自然は,モノカルチャーにもともと向いている。北の原野は,一見したところ小麦畑とそれほど変わらない。(中略)北の文化は,確かにモノカルチャーの発想に至りやすい。(p171)
「北」は,もともと乏しいモノカルチャーの自然環境を克服し,その上に人工的な豊穣を作り出すためにこそ,文化を作り,文明を築き上げたのである。(p173)
国内の様々な立場の人たちの生活を「勝ち組」「負け組」といった二分法で語ることが間違っているのと同じように,「北」と「南」の差を,一人あたりの所得で語ることは本質を外している。そもそも,南の自然は,単一の基準でそれを把握することが困難なくらいの多様性に満ちている。(p174)
どこで何を食べてきたかということが,まるで人生そのものの縮図であるかのように感じられる。それもそのはず。人は,時々息継ぎをしに水面に上がってくる生物のように,時折ご飯をたべることなしでは生きてはいけない。「命継ぎ」の儀式をどこで行ったか。その記憶が,人生の中で特別な意味を持たないはずがない。(p204)
人生の本来の価値に気づかされるほど,嬉しいことはあるものではない。日常の中ではその光輝が隠蔽されているかけがえのないものに気づかせてくれるものは,どんなものでも広い意味での「芸術」である。(p205)
恥ずかしいという気持ちは上手に乗り越えて自分を開くためにこそある(p212)
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