2017年11月29日水曜日

2017.11.29 茂木健一郎 『もぎ塾 実況ライブ!』

書名 もぎ塾 実況ライブ!
著者 茂木健一郎
発行所 東京書籍
発行年月日 2015.07.04
価格(税別) 1,500円

● 著者がすでに何度も書いていることを聴衆相手に講義した。それを文字化したのが本書。
 内容をひと言でいうと,ドーパミンが出るような生き方をせよ,ということ。では,具体的にどうすればドーパミンが出るのか。それが本書で語られている。

● 以下にいくつか転載。
 脳の神経細胞がつなき変わることを「学び」といいます。(中略)生まれた時から死ぬ時まで学んでない瞬間なんてないんです。(p13)
 優等生だけで集まると,人間の幅が狭くなる。テロリストってインテリが多いんだよね。(中略)だから,優等生ばかりもあまりいい状況じゃない。(p19)
 ドーパミンというのは,初めてのことをしないと出ないんです。(中略)ドーパミンって挑戦しないと出ないんですよ。「うれしい」時に出るっていっても,「うれしい」だけではそんなに出ないんです,チャレンジしないと。(p28)
 新しいことに挑戦している時は時間が長く感じられるということは,実は脳科学で証明されているんです。(中略)ということは,最近,時間が速く経つと感じる人は,新しいことをやっていないっていうこと。(p30)
 自分の常に慣れ親しんだ領域で何かをやるんじゃなくて,アウェイでどうするか。これがですね,実は脳が生き生きとまなんでいくためにも,いちばん不可欠なことなんです。(中略)だから自分にとって,まだ知らない世界に挑戦し続けるということが,ね。一番のアンチエイジングなんだよ。(p31)
 脳は基本的に感覚と運動のループが成立しないと,本当にあるものをマスターしたとはいえません。(中略)「話す・書く」という運動性の学習と,「聞く・読む」という感覚性の学習とのループができて初めて,人間は,脳の中で,言葉というものを自分のものにすることができると思うんです。(p47)
 感覚的な学習は運動の学習に先行するということは事実なんです。(中略)側頭連合野というところに,素材が入らないとダメなんです。まずはインプットが大事なんです。(p55)
 本というのは,読んだ本が自分の足の下に積み重なって,その高さの分だけ世界が見える。広い世界が見えると,僕は思ってる。(中略)インプット,大事なんだよね。世界が広がる。やっぱり,どんどん読まないと。(p56)
 ある人について評論を書こうと思ったら,その人の全著作を繰り返し読まなければ書いちゃいけないというのが,小林秀雄さんの基本的なスタンスなんです。だから,大変なんですよ。本当にちゃんとした仕事をしようと思ったら。(p61)
 僕は車の免許をとるのがすごく遅くて,30才をすぎて取った。イギリスで取ったの。日本の教習所には,途中で行かなくなっちゃった。(p104)
 楽しいと感じられないことには,脳はなかなか本気にならないことが分かっています。(中略)それに,脳には,自分が得られる利益を最大にしようとするはたらきがあります。新しいことに挑戦しても,できない時は,脳が拒絶している可能性があるんです。努力しても無駄だと脳が判断してしまえば,やる気は起こらない。(p107)
 生まれもった脳の出来で,得意・不得意が決まっているわけじゃない。できる人も,苦手な人も,ドーパミンは出る。それにね,脳には可塑性というものがあって,いくれでも変えることができるんです。いくらでも,自分の努力で変えることができるんです。(p132)
 苦手意識をもっている人ほど,実は最初のひと回りが回ればチャンスなんです。(中略)英語が苦手な人ほど,それができるとドーパミンが出るわけだから。(p133)
 僕はたまたま勉強ができたけど,僕みたいに勉強ができる人のことを何て言うか知ってます? これ,意外と理解されていないんですけど,「オタク」っていうんです。(中略)僕は小学校の時から,講談社の『ブルーバックス』とか,そういう科学の本を読んでたんですよ。あと,『日経サイエンス』って『SCIENTIFIC AMERICAN』というアメリカの雑誌の日本版とか。僕は小学校の高学年でこういうのを読んでた。(p140)
 好きなことって,かたよっているかもしれない。でも,底がうんと深いと,他のことにもつながっていくわけ。広がっていくんです。(中略)だからね,これってすごく大事なポイントなんだけど,勉強できる子って,別に学校の勉強をやってるわけじゃないんだよ。何かのオタクで,すごく興味あることを勉強しているうちに何か地頭ができてきたとか。(p142)
 英単語10個,1分で覚えるのはきついと思う。普通に考えると,これ,つづりまで含めて,30分ぐらいって思っちゃうんじゃないかな。でも,あえて1分でやってみる。そうやってみると,勉強が極端に違ってくるわけ。人間って,無理だと思っても意外と(中略)プレッシャーをかけてやるとできるんだよ。(p148)
 集中するのに,静かな勉強部屋なんてなくてもいい。親父が隣でプロ野球見ながらビール飲んでても集中できる,本当の集中力を鍛えなくちゃ。(p152)
 自分のためにがんばるっていったって,そんなの1人分のエネルギーしか出ないんだけど,みんなが困っていることがあって,みんなのために何かしようってできたら,すごいエネルギーが出るわけ。百人分,千人分の。でもさ,みんなのためにがんばるためには,ものすごくいろんなことを勉強しないとがんばれない。(p162)
 いちばん肝心なことっていうのは,やっぱり「学びの喜び」っていうことなんですよね。(中略)東大に入ることを目的でやってきた受験秀才は,みんな失速してますから,ほんとに。そりゃそうだよ,東大ごときに入ることが人生の目標だったらさ。(p182)
 やっぱり,最初に感動がないと,子供の脳は勉強する気にならない。(中略)人間って,人を蹴落として自分だけ甘い汁を吸おうみたいな,そんなことじゃ勉強する気にならないよ。(p187)
 人生っていうのは,どうなるか分からない不安というのと楽しみっていうのがある。どっちが強いかでその人の脳の健康さが決まってくる。不安が強い人というのは安全基地が足りない。楽しいだけの人は大丈夫なの。(p194)
 自分の欠点とかダメなところをユーモアのセンスで笑える男はなぜモテるのかというと,そういう男性は逆境に強い。例えば,リストラされてもくじけない。(p201)
 劣等感って隠しちゃってると,こじれてきます。だから言っちゃえばいいのよ。(p208)
 自分の欠点のすぐそばに,最大の長所があるもんなんだよ。だからこそ欠点を冷静に見つめることが大事なんです。(p208)
 大人にとっての安全基地というのは(中略)友達との絆,他人との絆です。ホリエモンとか,ああいうベンチャー企業をやる人っていうのは,1人で全部やってると思われるけど,違うの。友達がたくさんいる人ほど,新しいことに挑戦できる。(p215)
 ある研究によると,人間の会話の7割は,うわさ話なんです。(中略)アベノミクスについて議論しても絆は深まらない。本当にどうでもいいこと,そういうのをしゃべることによって気持ちいい時間をもって,それで絆を深くする。(p219)
 だいたい「天才」っていわれている子供の中で英才教育を受けたケースは非常に稀といいますか。(中略)だいたいの子供の場合,天才的素質は偶然発見されています。才能ってそういうものなんですよ。(p249)
 理論物理って,最も専門性が高くて,学問的に狭いものだと思われているわけだけど,その分野でさえ,やっぱりいい仕事をしている人って幅広い教養があるってこと。(p250)
 結局どの時代でも,その時代で珍しいことができる人,貴重なことができる人が求められるので,今はもう,メモリの問題に関してはコンピュータに任せておこうっていう流れに時代が変わりつつあるんじゃないかな。(p255)
 (ボケないために)大事なのは,新しいことに挑戦することなんですけど,もうひとつすごく大事なことは,体を動かすことです。僕がお勧めしているのは,歩くこと。(p264)
 勉強の達成感ということでいえば,遊びのようにやれる勉強がいちばんよく学ぶことになるんですね。だから,仕事でも勉強でも,遊んでいるのと同じような脳の状態になればいちばんいいわけです。(中略)勉強と遊びは決して別々のものじゃなくて,遊びを通しても勉強できるし,勉強を通しても遊べるというのがいいと思います。(p265)
 集中って細切れでもいいんです。自分で時間を決めればいいんです。1時間とかまとめてやる必要はなくて,本当に1分でも2分でもいいから。(p267)

2017年11月24日金曜日

2017.11.24 中川淳一郎 『ウェブでメシを食うということ』

書名 ウェブでメシを食うということ
著者 中川淳一郎
発行所 毎日新聞出版
発行年月日 2016.06.30
価格(税別) 1,100円

● 「ウェブはバカと暇人のもの」と喝破した中川さんのエッセイというか,半生記。
 誠実にネットと向き合ってきて,「Web2.0」に期待感を抱いたものの,バカと暇人に振り回され,ネットで飯を喰っていくにはどうすればいいかを考えに考え,経験則として固めていく。
 本書にはその実践知が惜しみなく公開されている。

● ただし,知名度も富も名誉も役職も才能も持ち合わせていない,ぼくら一般人は,あまりこの実践知に囚われなくてもいいと思う。
 書きたいことを書いたところで,どうせ誰も読みはしない。ブログやSNSが普及するとはそういうことであって,流れゆく大河にコップ1杯の水を加えたところで,別に何も変わらないのと同じだ。
 感情的になって罵詈雑言を撒き散らすことは避けなければならないが,それ以外は好きにやればいいのじゃないか。
 つまり,ウェブは自分のために利用すればいいのだと思う。ネットに寄り添うのではなくて,ネットを自分に引きつけて,自分に役立つように使う。それが著者の提言でもあるようだ。

● SNSにしても,コミュニケーションという意識ははずした方がいいのではないかと思っている。公開日記のようなものだと考えたらどうか。どうせ誰も読まないのではあるけれども,ひょっとしたら読んでくれる人がいるかもしれない。それを頼みにして,自分のログを残すということだ。
 自分一個で完結する日記よりも,公開日記の方が継続するのは容易だろう。ひょっとしたらという頼みがあるからだ。

● 逆にいうと,Facebookを始めて友だちが増えないと悩んだり,Twitterでフォロワーが増えないと悩んだりするくらいなら,そんなものはやらない方が賢い。
 いわゆるオピニオンリーダーと目される人たちをフォローしたところで,さほどに益するところはないような気がする。彼(彼女)の著書を読んだ方がずっと効率がいい(ただし,何ごとにも例外はある。ぼくは成毛眞さんをフォローするためだけにFacebookを使っている)。

● 以下にいくつか転載。
 2000年10月,私は300時間の残業をし,もう耐えられなくなって会社を辞めることを決める。結局,サラリーマンの仕事というものは、自分より立場が上の人を出世させることにあるんだと悟り,そんな人生をこれから定年まで33年間も送りたくないと考えたのだ。(p63)
 この時私はネットを主戦場とする人々に対し,若干の違和感を抱いたことはここで告白しておく。というのも,ネットで活動する人は「身元バレ」を極端に恐れているからである。(p89)
 「ネットの側にすり寄る」姿勢を見せることで,支持を集められることはわかった。それは,「匿名容認」「マスコミ批判」「ネット・一般人の意見礼賛」という三つの軸を守るということである。ネットではこの三つを守っておけば批判はされない。(p126)
 元々アメーバニュースは過激でバカなネタを扱う方針だったのだが,この方針はあっけなく取り下げられることとなる。というのも,ネットという空間はあまりにも言論活動の場として不自由だからだ。何かを書けば何も関係のない人からクレームがやってくるし,エゴサーチにより,関係者に書いたことがすぐバレてしまうのである。(p131)
 カスタマーサポートは編集者である私の番号を問い合わせした人に伝えていた。だが,これは失敗だった・・・・・・。結局はヒマで罵倒をしたいだけのバカからの抗議だらけなのである。某航空会社のキャビンアテンダントの新しい制服を紹介したら,「私はこの会社に落ちたので,こんな記事を見せられて傷ついた」と言われたりする。(p132)
 そこで私は一つの定理を獲得する。それは「誰もが知っている『あの人は今』的な記事はアクセスを稼ぐ」ということである。(中略)要するに,最旬のネタを追うのではなく,今でこそマイナーではあるものの,多くの人が知っているような話題をひたすら出し続ければ,アクセスは稼げ,それで広告費をも稼げることを理解したのである。(p136)
 この時に感じたのは,結局組織力を持つ新聞社や通信社に敵うワケがないな,という無力感だった。というのも,ライターが書いたものを確認するのは私だけ。(中略)人手が足りないからである。(p152)
 私は再び若干の無力感を抱き始めていた。というのも,一応はニュースサイトを始めた時は「Web2.0」に期待をしていたわけだし,ついに一般の人々がマスメディアと対等にモノを言えると思っていたのに,結局圧倒的なアクセスを稼ぐブログはテレビ出身の有名人だらけなのだから。(p153)
 芸能人の参入により,「難しいことなんて考えたくないよぉ~」的な若者たちがネットの書き込みのかなりの部分を占めるようになっていくのである。(p155)
 「えっ? 編集長の許可とかはいらないんですか?」「僕が読みたい本が出版される本です。中川さんはもう書いてください」 当時柿内さんは28歳だったが,この年齢でここまで言えるとは徹底的にカッコイイではないか,この時私は35歳だった。(p171)
 ネットは便利なツールとして使用すべし。ネットに人生を引きずられるな,といった考えはこの頃すでに強固になっていた。(p185)
 この席で津田さんからは一つの提案があった。「中川君さぁ,ツイッターは実名でやった方がいいんじゃないの?」(p191)
 当時私はIT関連の本を読み,いかにその本が理想論だらけかといったことをブログに書いていた。実にアホである。なんでそんなことをやっていたのか,一言でいえば承認欲求が満たされていなかったため,突っ張って注目を浴びたかったのだと思う。(p209)
 (東日本大震災の際のTwitter礼賛について)個人的には「ネットがあったから庶民に力が与えられた」という結論ありきの美談を作り上げたい人がいて,そのストーリーに多くの人が酔いしれた,というのが現実主義者である私の見立てである。(p214)

2017年11月21日火曜日

2017.11.21 松岡正剛 『空海の夢〈新装増補〉』

書名 空海の夢〈新装増補〉
著者 松岡正剛
発行所 春秋社
発行年月日 1995.07.15
価格(税別) 2,000円

● 初版は1984年。著者に増補を付けさせたのは,オウム真理教のサリン事件であるらしい。

● しかし。この呆れるほどのパースペクティブの広さは何ごとであるか。一個人がここまで広い空間把握と時代把握ができるものなのか。
 そうするための要諦(の一部)は本書でも披瀝されるのであるけれども,こちらとすれば唖然とするしかない。

● 内田樹さんに対して「知の巨人」という言い方がされることがあるけれども,この称号は松岡さんにこそ相応しいのではないか。
 知といっても,無から有を生むわけではない。知を生産するとは,つまるところ,既存の知を編集することだとすれば,それは松岡さんの得意とするところかと思われる。

● 無類に面白い本であることはわかる。のだが,こちらの頭脳ではスイスイと読み進めることができない。日数をかけてしまった。こういう読み方では読んだことにならないのかもしれない。

● 以下に,多すぎる転載。
 いちばんつまらない議論もはびこっている。オウム事件は日本の社会的矛盾を反映した病理の露呈であるという、いわゆる社会病理説というものだ。この手の評論はその趣旨をどのように粉飾し,何を例証にもってこようと,つまらない。歴史上,病理のない社会などあったためしがないからだ。(pⅵ)
 そもそも仏教が,なぜ「意識の制御」(マインド・コントロール)を必要としたかということが,問題の大前提になっていなければならないだろう。密教というも空海というも,もともとはこの「意識の制御」を発端させた初期の思索や活動の様式に起源をもっているからだ。意識の制御をしたくなったということは,ほうっておけば辛くなるような意識の傾向が芽生えたということである。(中略)そこには,ヒンドゥー教や仏教が生まれた(中略)インドの気候風土が関与する。ともかく話はそこからだ。(pⅶ)
 言葉などというものは,たとえば「心を鎮めて欲を断ち」などという一フレーズの意味ですら,どんな解釈も可能であるのだから,ここに解釈の立場をめぐる論争と対立が次々におきていく。ヒンドゥー教から仏教が分かれ,その仏教が大乗と小乗に分かれていったのは,そこである。(pxⅰ)
 だいたい宗教的動向に変更が加わるときは,こうしたグローバリゼーションとローカリゼーションの正当性が正面からぶつかっている。(pxⅱ)
 そもそも宗教には二つの宿命があって,ひとつは限定した言語体系をつくってしまうこと,もうひとつは禅によくその特徴があらわれているのだが,本質的なことは言葉では言いあらわせない(不立文字)とすることだ。このふたつの宿命は大半の宗教のどこかに忍びこんでいるものだが,空海という人はこのあたりを自在に横断してみせた。(pxⅴ)
 もともと中国への文化文物の流入は,シルクロード型と南海型と北方ステップロードによる草原型の三種のコースによっていた。これをシルクロード型の一本にみてしまうのは,やがてそれが朝鮮半島を経て日本に入ってきたことに照らし合わせても,たいへんに日本文化とアジア文化の橋梁を狭いものにしかねない。(p9)
 社会にいて「我」をとりのぞくのはなかなか困難なことだった。「我」は生物界から離脱した人間が牙と毛皮のかわりにみがきあげた武器である。その武器を放棄するのは社会的生活の失敗を意味していた。(p23)
 仏教史とは,つねに生命と意識の対立をどのように解消するかという一点をめぐる世界最大の思想劇である。(p24)
 直立二足歩行がひきおこしたもうひとつの事態は,世の女性を震撼させる。子宮が陥没し出入口が狭くなったため,これによって出産が容易ならざることになったのである。出産率は低下し,種族によっては絶滅の危機にさえさらされた。のみならず,子宮陥没は胎児の時間をひきのばしてしまうことになった。俗に十月十日といわれるヒトの胎児状態は,あらゆる生物の中で一番に長い。それはメスの受胎能力の限界に近かった。わが女性たちの狩猟能力が一挙に衰えたのはこのためである。それまではメスこそが力強いハンターとして森林を疾駆していたものだった。(p29)
 大脳がほかの動物より大きくなってしまったのも,実は子宮の出入口が狭くなったためだった。生クリームをボール紙をまるめた口からしぼり出すように,われわれは“狭き門”を通過したがゆえに肥大した大脳にありついたのである。(p30)
 言語記憶の再生は大脳の皮質の上ではノン・ローカルでありながら,その再生のためにはあえてローカルな場所を設定したほうが有効だったということになる。つまり言語記憶とその再生にはつねに「場面」が必要だったのである。(p34)
 古代言語観念の世界においては,「お前は誰か」と問われて自身の名を言ってしまうことがそのまま服属を意味していた(p39)
 この国は,コトアゲ(言挙)せぬことをもって言語習俗としていたふしがある。いたずらに言葉をつかわないことがむしろ言葉の力を生かしているのだと考えられてきた。コトダマが信仰されたのはそのためである。(p41)
 空海にはそういうとことがあった。AとA',あるいはAとA''をも同定するところがあった。だからこそ,インド,中国,日本にまたがる思想の潮にも対応できた。(p49)
 それ(『大日経』)は言われるところの“事相テクスト・ブック”というよりも,むしろ魔法の羅列のような奇怪な印象だったのである。空海ならばただちに秘密の芳香を感得して,その独占のために入唐を決断しかねまいとおもわれた。(p69)
 空海の道教批判を一点にしぼれば,そこには自他救済の慈悲が説かれていないということだろう。つまり逆に言えば,それ以外の面では,空海はひそかにタオイズムに憧れていたということになる。(p72)
 空海の声は深かったと思う。ただ大きいのではなく,深く遠く響いたであろう。高くはなかったはずである。(p81)
 この少年(空海)は友人をつくる器量に欠けていた。寡黙であったせいばかりでない。周囲の者もなにかしら近づこうとはしなかった。少年の方もその壁をすこしずつでもくだこうとはしない。壁はしだいに高くなっていた。これを打破するには,よほどの飛躍を必要とするようになっていた。(p82)
 青年(空海)は,五経の奥に四書五経をあやつる一人の大指揮者の指揮棒があることを見ていた。大指揮者とは鄭玄である。(中略)それまで彼方の経学としかおもえなかった古典の世界に,鄭玄という具体的な人物がこれをあでやかに指揮するのを知って,いささか大唐という国に関心をもちはじめたのもこのころであったろう。(p83)
 ここでひとつの激突があれば,佐伯真魚は沙門空海とはならなかった。いまもなお高校や大学で日々くりかえされている自我の真空放電でおわったことだろう。それでも彼は一人の有能な官吏や卓越した文人になったかもしれない。彼はかれらとの論争に勝ってしまっただろうからだ。しかし,彼はきっと黙ってしまったのだ。そのあまりにもみずみずしい感受性が連中のニヒリズムにもペシミズムにも感応してしまったのである。宗教家の資質のある感受性とはそういうものである。いつかその内奥にたまるエネルギーが爆発することはあったとしても,ふだんはたいていの議論を呑みこむものだ。(p86)
 そうした山中では,四書五経が役に立つはずもなく,虚空蔵求聞持法のようなダラニのもつコトダマの力だけが空海を守ったにちがいない。そして,ただひとつの「求聞持法」のみに頼った空海は,修行の日々のうちにさらに強烈な呪法を渇望したにちがいない。その渇望こそが空海に密教をもたらすことになる。(p93)
 『三教指帰』を読んで驚かされるのは,その老成した主張の結構もさることながら,やはり厖大な漢籍を縦横無尽に駆使している「博学の技術」というものである。目がくらむとはこのことだ。(p97)
 空海が他の追随を許さないほどの「集めて一つに大成する綜合力」(福光光司)に長けていたことは,空海研究者の誰しもが認めている。私の言葉でいえば,これはエディトリアル・オーケストレーションの妙,すなわち編集構成力というものだ。(p99)
 エディトリアルの出発はAに見出したきらめきを別のBにも見出したいと願うことにある。そこが学問とは異なっている。Aをそのまま突っこんではしまわない。きらめきを多様の中に求めようとする。(p102)
 エディトリアルとは結集ではない。どちらかといえば結縁というものである。そこには一種の禅機がなければならず,また過剰な探求があってはならない。つねに眼を光らせていながらも,その質量の下に横たえて下敷になるようであってはならない。そういう意味では諸学に対するに遊撃性をもってあたらなければならなかった。それは思想の方位という相対性に向きあって,たえず自在な選択力をもつということでもある。(p106)
 善無畏がナーランダー寺院で学んだ師の達摩掬多から「中国を開教しなさい」と言われて,西域から天山北路を通って長安に入ったのはもう八十歳になんなんとする時だった。(p109)
 特筆すべきは新羅の恵日・悟真,ジャワの弁弘,日本の空海らの異邦僧にも好んで伝法していることである。門人一千人の中にはさらに多くの異邦僧がいたことだろう。私はこの点をいささか誇大に重視したいとおもう。そこに史料にあらわれぬ恵果の秘められたインターナショナリティを看取したいと思う。(p115)
 般若三蔵については,彼が日本に渡ろうとしていたという話もある。老齢の般若がこれを果たせなかったのはやむをえないところであろうが,その熱情がおそらくは空海を動かした。(中略)空海はぜいぜい日本語と唐語を知っていたにすぎなかったが,このカシミール出身の老僧は三ヶ国語,いやおそらくは西域諸国や南海諸国の言葉を加えた数ヶ国語に通暁していたと思われる。それが,いままた東海の波を越えて日本語にも関心を示している。空海はサンスクリットを学びつつ,この醴泉寺にたたずむ老僧の世界言語観念ともいうべきもののすさまじさに大いに共感したのではなかったか。(P124)
 空海が必ずしも時流に乗る人ではなかったことは強調してよいかもしれない。四十歳をこえてたしかにその勢いは天下に聞こえたが,それはむしろ晩成というにふさわしい。(p129)
 ちょっと意外かもしれないが,あるものの状態を構造として整えこれを維持しやすいようにしておくには多少ゆさぶっておくことが必要である。(p141)
 空海の密教構想が矛盾をもっているということは,同時代の得一や円珍も批判的に感じていたことだし,その後も今日にいたるまで指摘されつづけている。(中略)しかし,「宗教に矛盾がない」とはまたどういうことなのであろう。どの宗教に矛盾がないと言えるだろうか。宗教はもともと矛盾をエネルギー源として出発しているはずである。(p151)
 空海だけがとびぬけていた。そして,あまりにとびぬけているその構想は,平安王朝のみならず,ごく最近にいたるまでそれが日本思想に根をおろすものであるとはおもわれなかった。(p151)
 最澄がともすれば内なる憤懣を泰範や徳一などの-さすがに空海には正面切らなかったが-個人にむけて一挙に吐露せざるをえなかったのにくらべると,これはやはり空海の強靱であり,また,個人的発言ではなくつねに類的発言に徹する空海の普遍でもあった。(p165)
 よく「字面にとらわれる」と言うが,空海はその字面にこそ本意がはためいているとみえた。そういう“文字の人”だった。(p169)
 「書は散なり」とは,空海の書のみならず,その思想を知るうえでもすこぶる重要な指摘である。書を散らして書きなさいというのではない。書する心の方をあれこれ景色にあてがいなさいと言うのだ。景色とはまた気色であるが,ようするに対象に陥入してidentifyすることである。(p175)
 しばしば文字を見れば人がわかると言われる。そうだろうか。文字を見れば人がわかるとは,その人が自分にこだわっているさまがよくわかるという意味であろう。エゴイズムが見えてくるということにすぎない。空海の書は入唐後,そのエゴイズムをこそ脱しようとした。(p175)
 益田池碑銘は一字ずつ書体を変えている。単に篆隷真行草を変えているのではなく,その一字の背後に棲む景物気色に応じて,それぞれ恰好の象形を選んでいる。(中略)小野道風が空海の書は邪道だと批難するのもむりはない。これはとても道風の書美の知識ではわからない次元での天工開物である。空海はここにタオ・カリグラフィの生命力をこそもちこんでいたのであった。(p177)
 われわれはどうしても小さな写真図版でマンダラを見てしまいがちである。それでは全体の構成が先に眼に入ってきて,細部が見えにくい。ところが実物大の複製マンダラを眺めてみるとまったく印象がちがってくることを知る。(p195)
 われわれがいつかは考えなければならないもっとも怖るべき問題のひとつは,「生命は生命を食べて生きている」ということにある。この怖るべき事実から唯一のがれられるのはわずかに緑色植物の一群だけである。(p225)
 実は,そこにこそ最初にして最大の「生命の矛盾」が顕現するのであるが,藍藻の冒険は次の静物たちがこれと同じ方法で生きる可能性を奪ってしまったのである。つまり対応の紫外線エネルギーで自給自足のできる生命体をつくることは,もう次に生まれてくる生物にはできなくなっていたのであった。(p238)
 一般に発音や発語の問題-すなわちボーカリゼーションの問題は文化史では過小評価されているようだ。これはわれわれがあまりに放縦な発音世界や聴音世界にいるために,「音」と「義」と「字」をバラバラに切り離してしまっているからである。(p249)
 発話時には一分あたりの呼吸数が激減し,吸息作用はすこし増すものの呼息作用はいちじるしくゆるやかになり,全体としての呼吸は深くなる。(中略)十全な発語活動をしているときに呼吸が深くなるということは,声を出していても瞑想しうるという可能性を立証する。これがマントラやダラニの高次元性を支えるひとつの条件になる。(p256)
 むしろ全身に号令のかからない声などありえないと言ったほうが正確なほどである。したがって「声の文」とはいえ,そこには全身体的特徴が検出されるはずなのである。空海はその特徴をこそ「文の字」と言った。「六塵ことごとく文字なり」とはそういう意味だった。(p258)
 だいたいインターバルのあまりに長い呼吸はそれこそ筋肉内のATPをフルにつかうためよほど自覚的でなければできないことで,そうした強引な呼吸法と瞑想性は合致しない。(p261)
 しょせん空海には「国家」など仕掛けの多すぎる悲しき玩具であった。(p288)
 コンピュータがホロニックではなく,われわれの脳がホロニックである最大の差がここにある。たった一個の入力情報によって,その部分=全体系を組み替えることができること,それはまた生命だけがもつ神秘でもあったのである。(p334)
 それは「一個の有機体はそれが存在するためには全宇宙を必要とする」(ホワイトヘッド)という目のくらむような考え方である。われわれはたとえ一個の石塊すら全宇宙から放逐することが不可能であることをふだん忘れているものだが,そのわれわれ自身が存在するためにも全宇宙がいっさいを準備しているのだということをもっと忘れていたようにおもう。(p336)

2017年11月17日金曜日

2017.11.17 朝日新聞社編 『文士の肖像 一一〇人』

書名 文士の肖像 一一〇人
編者 朝日新聞社
発行所 朝日新聞社
発行年月日 1990.06.20
価格(税別) 4,757円

● カメラマンは木村伊兵衛,土門拳,濱谷浩,秋山庄太郎の4人。錚々たる大家。

● 最も面白いと思ったのは,土門さんが撮った土井晩翠と正宗白鳥の写真。下からアングルを取っていて,鼻毛まで写っている。

● 巻末で安岡章太郎さんによる「文士の顔」と題する本書の解説が載っている。
 四十過ぎたら,自分の顔に責任を問われるものだとしても,その顔は時代によって確かに違ってくるのである。 政治家や実業家とは明らかに異なった何かが,文士の風貌には共通してあるようだ。 それはみずからの人間としての弱さを,閉ざしも隠しもしていないということであろうか。
● とあるんだけれども,今となってはどうだろうか。いや,当時からどうだったろうか。
 職人は言うに及ばず,今なら,ホームレスの中にもこの種の風貌を見つけることができるのではないか。ホームレスと「文士」は意外に近しいのかもしれないが,職業が風貌を作るというのはあまりなくなっているように思う。

● 業界を通貫する一流の顔というのはあるのかもしれない。が,ぼくには見分けがつかない。
 ただ,おしなべていうと,異形の顔というか怪異な風貌というか,そういうものと一流は相性がいいんじゃないかと思っている。

2017.11.17 三好和義 『HOTEL楽園 オリエンタルリゾート』

書名 HOTEL楽園 オリエンタルリゾート
著者 三好和義
発行所 小学館
発行年月日 2000.11.20
価格(税別) 3,000円

● だいぶ前の刊行。なので,ここで紹介されているホテルの中で,今は消滅しているものもあるかもしれない。経営体が替わっているものは,もっとあるだろう。
 紹介されている国(地域)は次のとおり。インドネシアはそっくりアマンの紹介。
 セイシェル モルディブ タヒチ ハワイ フィジー ボルネオ インドネシア インド トルコ エジプト サハラ イスラエル シンガポール タイ ミャンマー マカオ ネパール チベット ブータン 日本

● ブータンやチベットなど山岳地域のホテルもあるけれども,多いのは海がらみだ。リゾートというときに,海が果たす役割は大きいのだろう。マリンスポーツもさることながら,風景としての海が持っている力。
 癒やしとか開放感の象徴だ。ぼくらは海に住んでいた生き物の子孫なのだ。太古の記憶がぼくらを海になびかせるのだと,安直に理解しておこう。

● 以前は,こうしたホテルの写真を見ると,行ってみたいものだと思ったものだ。が,今はあまりそそられなくなっている。惹かれなくなった。好奇心が枯渇したわけではないと思いたい。
 リゾート,行楽という言葉からぼくが連想するのは,南の島ではなくて,都市だ。自分が田舎生まれの田舎育ちだからだと思うんだけど,休日は都市で過ごすのが何より気分転換になる。アーバンリゾートというやつだ。

● 散歩や買い物もしなくはないけれど,基本的にホテルの中で過ごすことになる。で,一般論としていうと,ホテルのサービス水準はいわゆるリゾート地よりも都市の方が高い。日本ならやはり東京はすごい。
 もし,アメリカに行くんだったらカリブ海とかそっち方面じゃなくて,ニューヨークのホテルに泊まって,ホテルの窓からニューヨークの街並みを眺める快感を味わいたい。

2017年11月16日木曜日

2017.11.16 番外:GOETHE 12月号-最上の生活必需品

編者 二本柳陵介
発行所 幻冬舎
発売年月日 2017.12.01
価格(税別) 741円

● 『GOETHE 12月号』では,メルセデス日本法人の社長やソニーの社長が,「最上の生活必需品」を紹介している。「自分の彼らが最上と認めるモノ,特に生活必需品ともなると,さらに愛用するモノに色濃く人生が映りこみ,無数の物語が生まれでる」と。なるほど。
 筆記具だとモンブランの149や,フランスのデュポンの製品が紹介されている。

● では,ぼくも同じように自分の生活品を紹介できるだろうか。
 ムリだね。たとえば,最も常用しているノートとペンは,ダイスキンとプラチナの千円万年筆。洋服はユニクロがメイン。いつも持ち歩いているバッグは,レスポのトート。これらを紹介できるだろうか。
 物語は高級品からしか生まれないかといえば,そんなことはないと思うんだよね。金額の多寡にかかわらないはずだ。

● でも,ダメだ。理由は2つ。ひとつは,そういうものを紹介するのは,この雑誌の主旨にはまるでそぐわない。
 もうひとつは,持ち主に魅力がないからだ。モノは物語を生みだすとしても,その物語の帰属者が平々凡々で,耳目を惹くような業績もなく,容姿もなく,お金もないのでは,物語自体が伝達性を持たない。

2017.11.16 永江 朗 『新・批評の事情 不良のための論壇案内』

書名 新・批評の事情 不良のための論壇案内
著者 永江 朗
発行所 原書房
発行年月日 2007.06.05
価格(税別) 1,500円

● 次の批評家たちが俎上に乗っている。
 内田樹 小熊英二 藤原帰一 森達也
 姜尚中 北田暁大 鈴木謙介 酒井隆史

 三浦展 玄田有史 斎藤貴男 矢部史郎
 稲葉振一郎 野口旭 金子勝

 菊地成孔 陣野俊史 仲俣暁生 田中和生
 縄田一男 山下裕二 森川嘉一郎 ササキバラ・ゴウ
 本田透 荷宮和子 山崎まどか

 ドン小西 遠山周平 赤城耕一 福野礼一郎 山口淳
 松田忠徳 犬養裕美子

● このうち,ぼくが読んだことがあるのは,内田樹と三浦展だけ。あとは知らない。あ,温泉評論家の松田忠徳はNHKのEテレに出ていたのを見たことがある。だいぶ前のことだけど。
 すでに言論界から消えてしまった人もいるのかもしれない。が,元々知らないんだから,そういう人がいたとしても,ぼくにはわからない。

● 以下にいくつか転載。
 誰だって知っているような細部をつなぎあわせて全体を俯瞰してみると,誰もが知っているはずだけどよくは自覚していなかったことが顕在化してくる,というのが小熊の仕事の本質ではないだろうか。(p26)
 小熊が本当にすごいのは,大量に資料を読んだことでも,厚い本を書いたことでもなく,大量の資料の中から的確にテキストを抜き出し,それを再編集・再構成したところにある。小熊の本当の才能は編集者としてのそれである。(p29)
 「余裕」とは過剰に熱狂しないことであり,条件反射的に物事を考えないことである。(p33)
 重要なのは,何が正しいかではなく,なぜ(それらを主張する人びとにとっては)正しいのかなのだ,と藤原は言っているように私には思われる。つまり,絶対的な正しさを発見してそれに合致しないものを否定するような態度からは,何も生まれないと藤原は考えているのではないか。(p34)
 姜尚中は小さな声でゆっくりと話す。だから,彼といると,つい全身の注意を彼に向けることになる。彼がゆっくりと話すのは,たぶん幼いことに吃音癖があったことと関係しているのだろう。(p55)
 知識人とは,常に自分を括弧に入れて,物事を観察し,分析する人のことである(中略) いくら「生活者」を名乗ったところで,抽象的論理的思考のなかでは自分を括弧に入れて考えざるをえない。対象化とはそういうことなんだから。(p61)
 面と向かって相対する場合ならば,顔の表情や声の様子などから,その文脈を類推することができる。しかし,文字だけの情報のとき,この文脈は教養に置き換えられる。教養は経験と洞察力に左右されるので,階層化が不可癖だ。(p62)
 基本的に同意せざるを得ないのは,格差の拡大はコミュニケーション能力においても深刻であり,不平等化・格差拡大を批判する者がいずれも「勝ち組」の側に属しているという矛盾についでである。(p63)
 書籍の出版点数が年々増えても,メガヒットに集中する「一人勝ち」現象が起きるのは,コンピュータによるデータ管理が進んだことも一因だ。(p67)
 宮台の女子高生分析が,一〇年経って見るといくつかの誤りがあったように(結局,茶髪も援交も,ただの流行現象でしかなく,その意味ではかつて朝シャンを「みそぎ」になぞらえた大塚英志と同じく,深読みというか意味付与しすぎていた),対象との距離の近さが情報の誤読を招く可能性は否定できない。(p68)
 人工知能の研究では,身体を持たない意識だけの人工知能には限界があることがわかっている。(中略)身体がなければ,意識は自己と他者,内と外といった概念が理解できない。外界を理解するモノサシがないのである。(p71)
 言葉は存在を規定する。フリーターという言葉はまたたく間に認知され,一般用語となった。(中略)言葉ができたことで,フリーターになること,フリーターであることの後ろめたさは減った。(p94)
 企業は役に立たない人材,給料に見合った働きをしていない人材から首を切るわけではない。首を切りやすい社員から手をつける。中間管理職が狙われやすいのは,彼らの多くが労働組合に加入しておらず,また,彼らがちょっとでも有能だと経営者は自分の立場を脅かすと感じるからだ。(p96)
 一介の労働者が改札窓口に座るだけで鉄道経営者を代弁する気持ちになってしまう。支配は権力機関が強権を発動して行われるわけではない。「みんな」が自動改札を使っているのだから一人の例外もなく自動改札を使うべきだ,などと根拠もなく考えるこの駅員のような,支配されたがる人びと,支配の道具になりたがる人びとによって権力の支配は完遂される。(p105)
 資本家は労働者を安くこきつかって商品を作り,それを売って利益を得る。(中略)労働者は自分が作ったものを自分で買う。しかも,安く作って高く買う。資本家は作ったときと売ったときの二回,労働者=消費者から収奪するのである。(p111)
 私は,批評家とは皮肉屋でなければならないと考えている。(p150)
 情報誌の編集部というのはポップカルチャーに関する情報が大量に集まってくる。(中略)集まってくる情報の全体を肌で感じることができる。担当以外のこともなんとなく分かる。(p163)
 たとえば文学賞でも,選考委員に評論家が加わっているもののほうがおもしろい。芥川賞や直木賞がつまらないのは,選考委員が作家ばかりだからだ。作家は小説を書くプロではあるけれども,一部の例外を除いてあまり小説を読まない。(中略)選評などを読むと,自分とは違う種類の才能は認めたくないのだなと感じることが多い。新人に賞を与えない理由としてよく使われる「人間が描けていない」だの「小説になっていない」だのという言葉はその最たるものだろう。(p169)
 評論には切り口が必要で,たいていの評論家は得意技というかオリジナルな武器というか,そういうものを持っている。(p171)
 人生は短く,芸術は永遠である。文学の,少なくとも純文学の書き手には,そうしたロマンチックな幻想がある。だが田中はその甘い幻想を冷たく突き放す。(p174)
 いま考えると,固有名詞を閉じた内輪の言語であるとして批判した富岡多恵子の議論は,最初から無理目のものだった。固有名詞に限らず,あらゆる言語は内輪の言語であるしかないのだから。それが開かれているか閉じているかは,程度の差でしかない。(p174)
 セックスがあるからこそ,多くのおたくも非おたくもアニメに惹かれるのであり,それは成功したキャラクターの魅力なのだ。(p205)
 一五歳の少年がほしのあきに夢中になるとは考えにくい。ほしのあきがグラビアアイドルとしてブームになったのは,グラビアアイドルを支えるファンの年齢が上がったことを示している。(中略)「萌え」がブームとなった背景には,こうした変化-三〇年前なら一〇代の若者が夢中になったものに,現在は三〇代,四〇代の大人が夢中になり,しかもそれを隠そうとはしない-があることを押さえておく必要がある。(p208)
 それにしても,本田をはじめオタクたちはなぜ自分を被害者として措定して語りたがるのだろう。何かを好きになるのに理由はいらない。たしかに世間の偏見はあるが,好きだから好きだ,と言わないところに,なんとも窮屈なものを感じてしまう。(p213)
 市場原理主義は強者の論理だ。郵政などの民営化にしても,市場解放論にしても,誰もが強者の立場で発言したがる。(中略)勝者よりも敗者のほうが圧倒的に多いということが分かりきっているのに,あたかも自分は関係ない,もしくは自分は敗者にならないという前提でそれらに賛成する人がほとんどだった。(p218)
 なぜネットの中では弱いものがより弱いものを叩く構造になるのか,までは充分に説明しきれていない(p219)
 セレクトショップ系の古書店では,センスに合わないものを受け入れない。「何を集めるか」だけでなく,「何を排除するか」でこれらの店の品ぞろえは行われている。(p224)
 かつては実売九〇万部を誇った『暮しの手帖』が,いま往時ほどの輝きがないとすれば,それは同誌によって商品の質が向上し,消費者の生活もよくなったからである。(p254)
 雑誌の役割が,一般読者にはなかなか体験できないことを,代わって体験して報告することにあるとするなら,豊かになった日本人にとって,代行はもはや必要なくなった。ただし,だからといってモノについて語ることが不要になったわけではない。(中略)逆に,誰もが鑑賞できるからこそ,批評家の言葉が求められる。(p263)
 分析して批評するためには,その対象を大量に調べなければならない。批評家には何よりもまず量が必要なのだ。音楽評論家は大量に音楽を聴いていなければならないし,文芸評論家は大量に文芸作品を読んでいなければならない。(中略)だが松田自身が言うように,重要なのは短期間にこの調査が行われたことだ。同時にたくさんの対象を調べることによって見えてくるものがある。(p269)

2017年11月11日土曜日

2017.11.11 角幡唯介 『探検家の日々本本』

書名 探検家の日々本本
著者 角幡唯介
発行所 幻冬舎
発行年月日 2015.02.10
価格(税別) 1,400円

● 著者の角幡さんをひと言でいえば,おそろしく文才のある探検家,ということになろうか。内省する探検家といってもいい。内省しないで探検家が務まるとも思えないが。
 内省を言葉に翻訳するのが巧みなのだろう。この文才は新聞記者を経たことによって鍛えられたものではない(たぶん)。持って生まれたものだろう。

● 探検家であることがまずある。その上での文才だ。探検家の心性は,自らを危険にさらすことを厭わないどころか,ジリジリとそっちに近づこうとする心の構えだ。
 著者にいわせれば,それが「表現」だからであり,「生き死ににかかわるような緊張感に触れなければ」調子が出ないからというのだけれども。
 つまり,ぼく(ら)には理解できないもの。というか,頭の表面では理解できても,それ以上には行かないように,たぶん無意識にストッパーを掛けているものだ。そのストッパーが壊れている人を探検家というのかもしれない。

● 「サードマン現象」の話が面白かった。「極限状況に直面した時,自分とは別の人間がそばにいて,助けてくれるという不思議な体験」をする人がいるらしい。
 もちろん,その人の脳の仕業に違いないのだが,言われてみればあっても不思議はないように思えてくる。もっとも,著者はその体験をしたことはないそうだ。

● 以下にいくつかを転載。
 こと本を読むことに関する限り,私は誤読を恐れない。たとえ著者の意図とはことなるものであっても,読み手の感性と共鳴するものがあれば,それは読書としては成功だからである。(p8)
 読書には未消化だった経験に適切な言葉を与えてくれるという効能があり,言葉が与えられることでかたちの曖昧だった経験は明確な輪郭を伴った思想に昇華されるのである。(p8)
 本を読んだほうが人生は格段に面白くなる。読書は読み手に取り返しのつかない衝撃を与えることがあり,その衝撃が生き方という船の舳先をさずかにずらし,人生に想定もしていなかった新しい展開と方向性をもたらすのだ。(p9)
 どうやら子供というのは自然そのものであるらしい。自然というのは人間には制御できないもの,どうしようもないものと私は理解している。(中略)そう考えると子供というのは雄大な自然そのものだ。(中略)つまり,子供を育てるということは自然を相手に格闘するのに等しいわけで,やっていることは山登りと同じなのだ。(中略)男は子供のような大自然を胎内に宿すという経験を永遠に持てないため,女のように自分の独立した身体で自然を理解することができないのである。(p18)
 少なくとも学生なら私は就職に対して抵抗感を持つべきだと思う。なぜならそれは社会に対して安易に迎合しないという,若者だからこそ許される反逆の精神の表れだからだ。(p27)
 フェイスブックに象徴されることだが,お互いに誉めそやしたり,いいね!と励まし合ったりするあの雰囲気は一体何なのだろう。(中略)およそ他人にとってはどうでもよい話にしか思えない日常の話題を写真付きで公開し,おまけに喜び合って,気持ちよくなれそうな相手に一方的に友達リクエストなるものを送って交際を求めるという,あのわけの分からない空間の魅力が私にはさっぱり理解できないのだが,あれなどは典型的な優しさ,気持ちよさ蔓延ツールであろう。(p31)
 ネットやメールというのは,実名で書く表向きの部分は優しさと思いやりであふれており,(中略)一方,そこからハミ出した悪口や露骨な本音や誰かを傷つけるような言動をする時,(中略)匿名で散々やるという,裏表がきっちり分かれた情報世界なのだと私は認識している。(p32)
 読書強制的状況は探検でフィールドに出た時に最大限に達する。行動中は動くのに忙しいし疲労も蓄積するので,本を読む暇などないのではないかと思われるかもしれないが,案外そうでもない。(p37)
 何かを表現することには狂気が宿る。ひとつのころを徹底的に肯定するためには,他のすべてのことを切り捨てなければいけないのだ。(p43)
 クライマーが山に命を賭けることができるのは,それが表現だから以外の何物でもない。(p44)
 表現することにはどうしても他者と相いれない部分が出てくる。作品を作ることの本質は他者と何かを共有することではなく,むしろ自己と他者を区別し,独自の世界を構築することにある。(p44)
 出発する前は死ぬ確率が三割ぐらいあると冷静に考えていたが,だからといってそれが私の行動を妨げる要因にはならなかった。たとえそれをやることによって好きな女から振られ,家族から勘当され,友人も離れ,全財産を失い(全然なかったけど),路頭に迷うことになったとしても,ツアンポー峡谷を探検しない人生よりはマシだった。(p45)
 雪崩に遭って分かったことは,状況が危険な局面に突入しようとしているまさにその瞬間に,当人がその状況を的確に捉えることはできないということである。いい換えると決定的な一線を越えるその瞬間,本人は一線を越えたことを自覚できない。(p54)
 それにしてもなぜみんな同じところに行くのだろう?(中略)登山は本来自由を目指す行為のはずなのに,今では多くの人が同じ山を目指し,そして同じことをやろうとする。(p103)
 誰もやったことがない旅。昔から私はいつかそういう旅をしてみたかったのだ。それこそまさにイグジュガルジュクの言う,「人類から遠く離れたところ,はるか遠くの大いなる孤独のなか」であろう。たった一度の人生,そこを目指さずに一体どこに行こうというのか。(p121)
 探検というのは別に地理的な探検だけに限定されているわけではない。自分たちの世界の枠組みや常識の外側に飛び出てしまうこと,それこそが探検行為の本質である。(p127)
 ヒマラヤや極地や大海原に挑んだ探検家や冒険家の中には極限状況に直面した時,自分とは別の人間がそばにいて,助けてくれる「サードマン現象」という不思議な体験をする人がいるという。(p137)
 登山のルポは難しい。確固たる視点を持たずに山に行っても,そこには基本的に自然しかなく,対自然は対人間と違い会話などのやりとりがないため,文章にメリハリをつけるのが難しいのである。服部(文祥)さんの山岳ルポが面白いのは,自然と対話し,そこから読者を唸らせる発想を得ているからだ。(p141)
 カルトや狂信的テロ集団が生じるのは別に珍しいことではない。カリスマ性のあるリーダーと,閉鎖的な空間があれば,それはいつでも現れ得る。(p145)
 森達也の本は,常にシーンの連続だ。新聞記者はデータとして有用な内容ばかり重宝するから,シーンは不必要な情報として切り捨ててしまう。しかし映像を撮っている人はシーンの中に本質が表れることを知っている。(p146)
 山や北極に比べると都会での生活はどこかフワフワしていて生きていることの臨場感に欠けるので,定期的に自然の中で,多少大げさにいうと生き死ににかかわるような緊張感に触れなければ日々での生活でも調子が失われてしまうのだ。(p172)
 ノンフィクションを書く時に最も難しい問題のひとつに,予断にどのように対処するかということがある。(中略)ノンフィクションを書く場合は,この予断がないと取材に取りかかることは絶対にできない。(中略)その一方で予断が予断通りのまま進んでも,決して面白い本にはならないということもいえる。(中略)つまりそこには新しい発見が何もない。(中略)予断が崩壊する時は作品にとってピンチでもあるが,新しい物語が広がるチャンスでもある。予断が崩壊した時にこど作り手の感性は試される。(中略)ノンフィクションが作品として成功するかどうかは,予断が覆された時に生じる自分の感情のぶれをどのように描き出すかという,ただその一点にかかっているとさえいえる。(p191)
 記者というのは視点が内向きで,他社の知らない特ダネ(あくまで重視されるのは他社が知らないかどうかであり,社会的に有用かどうかという観点は新聞記者の価値判断にはふくまれない)をいかにすっぱ抜くかしか考えてないので,事件の場合は各社の記者が警察幹部から情報を取ろうと血眼になって競争し,特ダネを聞いたら,それが本当に事実かどうかなど二の次で,警察が認めたからというだけの理由で正真正銘の事実であるかのように報道する。(中略)極端な言い方をすると,新聞記者は事実に関心がない。新聞記者が関心があるのは,それが事実かどうかではなく,それが事実として書ける素材であるかどうかであり,より正確にいえば,それが書けるということが誰によって認定されているかどうかである。そもそも本当に事実かどうかなど,誰に分かるというのだろう? 新聞は独自で事実認定する努力を事実上放棄しているのだ。(p210)
 事実というと硬い石のようにカチッと確固として存在しているように思えるが,実際にはそうではなく,実は非常に曖昧で捉えどころがない。(中略)さらに事実というものを深く考察すると,ひとつひとつの事実そのものにはさほど意味はないことに気がついていく。(中略)事実に意味を持たせているのは,その事実を事実として成り立たせている事実性のようなものである。(中略)事実というのは事実性にまで到達しないと精確に書くことはできない。いくら表面的には正しく書いたとしても,背後にある事実性を認識した上でそれを書いたのでなければ,本当に事実を書いたことにはならない(p213)
 ノンフィクションを書くには,たとえそれがどのようなテーマであれ,絶対に皮膚感覚レベルの実感が必要なのだ。(p217)
 自然は死を基調とした恐ろしい世界であり,その奥深くに入れば入るほど人は死に近づくことになる。しかし,というか,だからこそ,というか,とにかく冒険者は自然が与える死の匂いの中で生きることで,その奥底にある,自分たちの命を律動させている何かと触れ合っているような気になるのである。(中略)千日回峰行もまた冒険と同様,自然の中で抽象的で観念的な何かを掴み取ろうとする行為である。回峰行は台風でも豪雨でもとにかく千日間続行しなければならないという人為的な制約を課すことで,本来北極やヒマラヤに比べたら穏当な大峰山を,それらと同じレベルの過酷な自然環境に変成させる。(p264)

2017年11月8日水曜日

2017.11.08 樺沢紫苑 『読んだら忘れない読書術』

書名 読んだら忘れない読書術
著者 樺沢紫苑
発行所 サンマーク出版
発行年月日 2015.04.20
価格(税別) 1,500円

● 「読んだら忘れない読書術」なんてない。本書にも色々説かれているけれども,それを全部実行しても忘れないなんてことはないでしょ。実行しないでこう言うのは申しわけないんだけど。
 こうして読んだ本について記録を残していても,1ヶ月前に読んだ本なんて,タイトルすら忘れている。ぼくが特に頭が悪いからじゃなくて,そんなもんだと思うんですよ。

● 忘れないでいるって,不毛なことかもしれないんだよね。読んだら忘れていいと思うんだけどね。受験勉強してるんじゃないんだから。
 ぼくらがしている読書は,消費(=娯楽)としての読書だもんね。けっこう固い内容の本を読んでいる場合でも,何かに役立てようと思って読むことは,ぼくの場合は,ほとんどないな。

● 以下にいくつか転載。
 圧倒的な量の情報を日々自分の頭に入力しているからこそ,毎日原稿用紙で10~20枚程度,多い日で約30枚ものアウトプットが可能になるのです。「圧倒的なインプット」があって,はじめて「圧倒的なアウトプット」ができるということです。そのインプットの軸になるものが「読書」です。(p4)
 「読書の習慣のない人」は,読書の本当のメリットを知らないはずです。(p22)
 ほとんどの人の仕事,生活は,無駄だらけです。無駄なことをやり,無駄なことをして疲れ,無駄なストレスを抱えて病気になる。そういう「無駄」を避け,膨大な時間を節約する方法がたった1500円の「本」に書かれています。それを知るのか,知らないのか。本を読めば,大幅な時間短縮が可能です。(p31)
 「文章力」というのは,実はインターネットの時代となった現在,極めて重要になっています。(中略)「文章力」を鍛えるほとんど唯一の方法は,(中略)「たくさん読んでたくさん書く」ことしかないのです。(p38)
 自分の経験・体験からしか判断できない人は,今,自分が走っているレールをそのまま走り続けるしかないのです。自分がいる井戸の外側の情報がまったくないのに,その井戸から出ていこう,というアイデアが浮かぶはずはありません。(p60)
 私がこれほどたくさん読書する理由は,「楽しいから」です。これがまず基本です。(中略)本を読む動機は「楽しいから」であって,「自己成長のため」であってはいけないのです。(p69)
 人間の脳は,入力された情報のほとんどを忘れるように作られています。正確にいうと「重要な情報」以外は,全て忘れるようにできているのです。脳が「重要な情報」と判断する基準は2つです。「何度も利用される情報」と「心が動いた出来事」です。(p80)
 私は電車の中でスマホを見るのは,最大の時間の無駄だと思います。なぜならば,1日10回もメールやメッセージをチェックする必要はないし,スマホでメッセージを返信するよりも,パソコンで返信したほうが,何倍も早いからです。(p86)
 私が,スキマ時間を使って1日1冊読み切ることができるのは,ちょっとしたコツがあります。それは,その日の外出前に「今日は,帰宅までにこの本を読み終える!」と決めることです。(p90)
 読書において読むスピードは,あまり意味がないのです。(中略)「読んだつもり」になっているだけ,ただの「自己満足」のための読書になっている人が多いのです。特に,「速読しています」という人ほどその傾向にある。(p93)
 私は本を読んだら,その日かその翌日に,Facebookに感想をアップするように心がけています。10行を超えるような長文の感想を投稿する場合もありますが,数行の感想でもいいと思います。たったそれだけのことですが,それをやるだけで,本の内容が,やらない場合に比べて何倍も記憶に残りやすくなるのです。(中略)SNS上に感想を書く。それは,あなたの体験を共有する,つまり「シェアする」ということです。自分しか読まない手帳やノートに書くのと,第三者に見られることを前提とした「シェア」には,大きな違いがあります。(p107)
 そうなのか。Facebookでは10行を超えるような文章は,長文の範疇に入るのか。憶えておこう。
 「Facebookの上級者向けノウハウが学べます!」と強調すると,たくさん人が集まります。しかし,そこに参加する人の7~8がFacebook初心者なのです。(中略)初心者の人に限って,基本的な使い方すら知らないのに,なぜか「上級のノウハウ」を知りたがるのです。(p153)
 ネットやスマホで情報チェックするのももちろんいいのですが,スマホ,つまりインターネットで得られるものの大部分は「情報」です。熱心なスマホユーザーのほとんどは「情報過多」で「知識不足」に陥っているはずです。(p192)

2017年11月5日日曜日

2017.11.05 関本紀美子 『手帳スケッチ』

書名 手帳スケッチ
著者 関本紀美子
発行所 ソフトバンククリエイティブ
発行年月日 2011.12.07
価格(税別) 1,300円

● スケッチの描き方,イラストの描き方の手引書。別に手帳に描くのでなくてもかまわない。

● なるほどと思ったところがあるんだけど,それだけでは畳上の水練にもならないね。実際に描いてみないとね。
 自分に絵心はないことはわかっている。一方で,ひょっとしたらあるのかもしれないぞ,とも思っている。

● それでこういう本を読んでみたりするんだけど,その結果,描き始めたということはないから,それ自体が絵心がないことの証明なんでしょうね。

2017年11月4日土曜日

2017.11.04 茂木健一郎 『東京藝大物語』

書名 東京藝大物語
著者 茂木健一郎
発行所 講談社文庫
発行年月日 2017.03.15(単行本:2015.05)
価格(税別) 590円

● 東京藝術大学がどんなところなのか。二宮敦人『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』(新潮社)を面白く読んだ。音校(音楽学部)より美校(美術学部)の方が破天荒のようだ。
 著者はその美校で授業を持った。数年間続けたらしい。そのときのあれやこれやを小説仕立てにしている。

● ジャガー,杉ちゃん,ハト沼といった「永遠の幼児たち」が織りなすエピソードの数々は,それだけで面白い。キャラクターが魅力的だ。
 彼らにしてみれば,世の中に折り合いを付けていくのにひと苦労もふた苦労もしなければならず,厄介な才能,厄介な嗜好を持ってしまったものだと嘆くときもあるのかもしれないけれど。
 町田康さんが解説を寄せている。

● 以下にいくつか転載。
 「確かに,ぼくたちは,絵さえ描いていればいい,本なんか読まなくていい,とにかく描け,という教育を受けますからねぇ。」 (中略)難しい本を読むよりは,実技を大切にするという校風なのだと,ジャガーは言う。(p30)
 芸術は,結局,自分の手を動かして,何が描けるかだ。 「狩野派の画家たちは,一日何千本も,線を引く練習をしていたそうですね。村上隆さんのカイカイキキも,そこを目指していて。」(p31)
 何しろ,何十倍という入試をくぐり抜けて,東京藝術大学に合格した彼らではあるが,その中で,作品を売って食えるアーティストになるのは,ほんの一握り。一説には,十年に一度出れば良い,とも言う。(中略)下手をすれば,東京藝術大学に合格した時が,人生の頂点だった,ということになりかねない。イヤ,実際,大抵はそうなんだろう。(p37)
 「人生,基本,不穏」とでもいうような藝大生たちを組み伏せて,彼らに感銘を与える講義をするのは,全くもって並大抵のことではない。 その点,三木茂夫さんは,伝説的な,藝大の先生だ。「うんちを握れ!」と叫ぶなど,とてもユニークだったと今日に伝えられる三木茂夫さんの講義。 そして,藝大生の不穏な個性の持つ勢いと言えば,本当に,うんちを握りかねないほどなのだ。(p53)
 東京藝大の入試,つまり,デッサンや油絵といった実技の巧みさで受験生を選別するシステムは,結果として,アーティストとしてのすぐれた資質を見分ける機能を果たしていないのかもしれない。(p63)
 表現者が持つべき資質の第一は,飽くなき継続だろう。(中略)これでもかっ,これでもかっ! そんなエネルギーを持って継続できるということが,結局は最大の才能である。(p125)
 「浪人してまで東京藝大に入るようなやつは,その時点でもうダメだっ!」 大竹伸さんご自身は,現役の時に東京藝術大学を受けて落ち,武蔵野美術大学に入った。そして,すぐに休学して,北海道の別海町の牧場に住み込みで働き始めたのだという。そんな大竹さんから見れば,ジャガーやハト沼は,所詮ぬるま湯なのだろう。(p127)
 科学とは,実は,他人の心を思いやることに似ている。科学の正反対は,「無関心」である。(p136)
 アートというものは個の思いが結実したものであり,最大公約数を求めるものではありません。それに対して,東京や,東京藝大のようなところは,最初から中心や,最大公約数を求めすぎるんじゃないのかな。(p143)
 大衆を鼓舞し,先導し,この素晴らしい国を創るために,アートは存在するんだっ! 下手くそな画学生よ,君たちの芸術には,本当は,世の中を変える力がある。それほどアートは人を扇動する,そして洗脳する。そんな力がある。君らは,アーティストになりたいのか,それとも,作品を通して,世の中を変えたいのか。(p145)
 アーティストにとって,美術大学なんて,意味がないんだ。ましてや,こんな,東京藝術大学なんて,通ってもしょうがない学校に,お前ら,よく頼まれもしないのに来ているな! 今すぐ,この校舎,自分たちの手で爆破しちまえ!(p151)
 アーティストは,良い絵を描くためには,不道徳なことさえやりかねない。凡庸な作品をつくるいい人であることと,悪い人でも傑作を描くことのどちらかを選べと言われれば,芸術家の答えは決まっている。問題は,選ぼうとしても,心と体の自由が,案外利かないことだ。(p200)

2017年11月3日金曜日

2017.11.03 茂木健一郎 『やり抜く脳の鍛え方』

書名 やり抜く脳の鍛え方
著者 茂木健一郎
発行所 学研プラス
発行年月日 2017.05.02
価格(税別) 1,300円

● 本書の主旨は「はじめに」の次の文章に要約されている。
 そもそも「生まれ持った才能がすべてを決める」とか「天才なら何をやっても成功できる」といった考え方には“才能さえあれば,特別な努力などしなくても,何かを成し遂げられるはず”という都合のいい願望が隠れています。(p3)
 「真の才能とは,結果が出るまでやり抜く努力ができる“脳の筋力”である」 この結論を脳科学的に説明すると,脳の神経回路というのは,何かしらの活動によって負荷をかけ続けなければ,その回路は強化されないということです。(中略)結果が出るまであきらめず,創意工夫をこらしながら,やり抜くための努力ができること。それも,イヤイヤではなく,毎日を楽しみながら。(p4)
 もうひとつ,「おわりに」から。
 物事のスピードが速く,多様化したいまの時代において“やり抜く”というテーマを考えた時,ただひとつのことを黙々とやり抜くという感覚では物足りない感覚があります。むしろ「自分が変わることを楽しみ抜く!」という表現が一番しっくりくるのではないでしょうか。(p209)
● ほかに,いくつか転載。
 自分が社会に出てからほとんど使わない能力に,限られた時間とエネルギーを注ぐよりも,得意なことに集中し,それを個性として磨きをかけたほうが,人生は開けていくのではないでしょうか?(p27)
 この井戸を掘ることは,アルファベットの「I」の字のように,垂直に掘り進むだけの行為に思われるかもしれませんが,実は違います。物事を深く考え,掘り下げていく行為の裏には,思考の力だけではなく,幅広い知識や見識が求められるものです。ちょうど画びょうのように,垂直に降りていく思考という一本の針があり,そこを支える広い平面が知識見識という具合です。(p61)
 人間の脳は,「勝つ」という行為に反応してドーパミンが分泌するようにできています。(p75)
 「自分が思っているほど他人は自分のことを気にしていないのだ」ということを肝に銘じてくださ。重要なのは他人の目ではなく,必要以上に背伸びせず,ありのままの自分でいることなのです。(p90)
 多くの日本人は,いったんやめると戻ってこれません。なぜなら,「一度やると決めたらやめてはダメ」と強烈な決意を持つ人たちほど,やめてしまった後に罪悪感を持ってしまい,自信喪失のあきらめ状態に陥ってしまうのです。(p93)
 「頑張ったらこの先,どんなに素晴らしいものが手に入るか」と考えるのではなく,「いま,ここで頑張っているこの瞬間こそが,かけがえのないもの」と考えたほうが,意外なことに努力というものは続く。(p101)
 脳というのは飽きっぽい性質を持っているということです。(中略)さらに付け加えると,飽きるということを動物行動学的に分析した結果,エネルギーが有り余っている動物によく見られる状態であることがわかっています。(p119)
 スポーツにしても,現代のスポーツ科学の見地から,練習のし過ぎによる問題点を検討する時代に入っています。(p123)
 目標を公言してしまうと,その公言自体が脳の報酬となってしまうため,それ以上成長を望むことができない場合があります。(p126)
 私は常々,努力は他人に見せないほうがうまくいくと考えています。なぜなら人は努力を公表した時点で満足してしまうのです。(p136)
 プロのアスリートが小さな子どもたち向けに,自分の専門種目でコーチングイベントを開催します。(中略)これほどまでに彼ら,彼女らが情熱を持って取り組む理由として,原点回帰で自分自身にエネルギーがもらえることがあるのは間違いないと思います。(p142)
 ビジネスの世界でも,芸術の世界でも,やり抜いた人はみんな,思い込みの強い人だという感覚を私は持っています。(p162)
 ずるずると「凹みの谷」が続いている人と,そこから抜け出せる人には,ある違いがあります。(中略)それは「やるべきことを,いろいろつくってみる」ということです。実際,「凹みの谷」をすぐに抜け出せる人は,常に動き回っているという特徴があります。忙しいので落ち込んだままではいられない,というわけです。(p189)
 昨年,私がケンブリッジ大学での恩師に当たる教授の95歳の誕生パーティーに出席した時の話ですが,そこには世界各国で研究者として成功を収めている豪華なメンバーが揃っていました。そして,その場のみんなが口を揃えていっていたことが,驚くべきことに,彼らの毎日が「雑用だらけ」ということだったのです。(p197)
 本当のところをいうと,物事の成果と,向き・不向きには因果関係がないというのが私の結論です。なぜなら,自己評価とは,あまり当てにならないものだからです。(p199)
 勉強や仕事といっても,ただひとつのことだけに専念していることは,いまの時代においては非常にリスクが高いといわざるを得ません。(中略)私自身もいま,さまざまな大学から「専任教員になってください」というお話しをいただくことがあるのですが,それらはすべてお断りしています。なぜなら,大学の授業や研究だけをやる人生というのは,私にとってはリスクが高過ぎますし,何より刺激的な毎日が送れないからです。(p205)

2017年11月1日水曜日

2017.11.01 茂木健一郎 『いつもパフォーマンスが高い人の脳を自在に操る習慣』

書名 いつもパフォーマンスが高い人の脳を自在に操る習慣
著者 茂木健一郎
発行所 日本実業出版社
発行年月日 2016.09.10
価格(税別) 1,300円

● 脳を自在に操る習慣といっても,なかなかね。本書で説かれているのは,自分に無茶ぶりをしろとか,リミッターをはずせとか,行動の基準を他に求めるなとか,集中しろとか,そういうことだ。
 それをできる人とできない人がいる。できない人は縁なき衆生かなぁ。もちろん,著者は誰にでもできることだと言うわけだ。

● 以下にいくつか転載。
 私たちの脳のパフォーマンスというものは,日々の習慣によって成り立っているので,やる気という特別な感情は脳自体が必要としていないのです。(中略)やる気というのは“雨上がりに見る虹”のような幻覚でしかありません。(p13)
 日本人が陥りがちなもののひとつに,「客観性の病」というべきものがあるような気がしてなりません。(中略)自分がどう感じているか,どう判断しているかではなく,外部の基準にその根拠を求めることで,自分で判断しなくてもよくなってしまう。一種の思考停止状態です。(p16)
 このメタ認知を利用するポイントとして,「本番中はメタ認知を外して集中し,それが終わったときにメタ認知を起動する」というのが正しい方法だということを知っておいてください。(p29)
 世界のトップクラスが実践している,本物のパフォーマンスの基準を上げていく方法とは何でしょうか。それは,「真に良質なものに触れてセンスを磨く」ということに尽きます。東大卒にしても,意識高い系にしても,私が一緒に話をしていて「こいつ,なかなか感性がいいな」と思う人は99%いないと断言できます。(p43)
 芸術大学や美大などに行くと,「あ,こいつはセンスがいい」と思える学生が意外にも多いのです。(中略)なにも単純にアートなどに多く触れているから,芸術的センスが磨かれているという意味ではありません。芸術大学や美大に進んだほとんどの学生は,「アートでは食えないでしょ?」と周囲から一度は反対をされた人間です。すなわち,それでもなお自分の“基準”を貫きとおしている強い意志を持っている人たちなのです。(p43)
 センスを磨くためには,まずは一般に正しいとされているルールや基準を疑ってみるというところから始めなければなりません。(p47)
 岸見(一郎)さんいわく,『ソクラテスの弁明』をギリシャ語で読むと,いままで白黒の世界にいたのが一気にカラーの世界になる,それくらいの強烈な違いがあるとおっしゃっていたのがとても印象的です。著書が翻訳出版されている中国,タイ,ブラジルやポルトガル,そしてスペインといった国の言語をこれから勉強して,現地で講演をする際には現地の言葉で話をしたい,と仰るのです。(p49)
 「決める係」の自分をつくるときに,何かしらの根拠を求めてしまいがちですが,根拠など求めなくてもいいのです。ここで肝心なのは,決める係の自分は直感に従って物事を決めていけばいいということ。だからこそ,普段でも小さなことから決断をするという訓練をしてみてください。その繰り返しによって,自分の直感による決断がゆくゆくは根拠を生み出すようになっていきます。(p66)
 理想のワーキングメモリをつくるためのとっておきの秘訣をご紹介しましょう。それは,脳のワーキングメモリに蓄えている情報をリスト化するのではなく,まるで一枚の絵のように描いてみるということです。(p68)
 これは,私自身のやり方でもあるのですが,手帳やスマホなどで管理するToDoリストはなく,常に頭のなかでダイナミックに内容を更新できるToDoリストをつくって,優先的にやるべきことをそのつど決めて行うようにしています。(p80)
 私たち人間の脳というのは,自分の限界に挑戦した瞬間から,変わり始めているのです。(中略)仕事でも勉強でもなんでもそうですが,「自分が変わる」ということ以上に,脳が感動することはありません。(p98)
 自分にリミットを設けてしまっている人というのは,予測能力が高い人でもあります。たしかに,予測する能力というのは大事な脳の働きですが,自分勝手なリミットに関しては外した方がいいということ。そこで,「自分はこの程度だ」という脳の予測回路をオフにしてみてください。それに尽きると思います。そのためには,次のような心がまえを持ってみてはいかがでしょうか。「とりあえず,目の前のことを刹那的にがんばってみよう!」(p107)
 なぜ脳が筋肉と似ているのかといえば,確実にできることをやっているだけでは成長しないからです。(中略)「レベルが高すぎて自分にはついていくのはムリだ」といっている子というのは,私の経験上,そのあとグングン伸びていくことが多いものです。その理由は,成長が止まったのではなく,その子の脳がいままでに経験したことがないようなレベルの負荷をかんじているだけだからです。(p115)
 私たちの脳というのは,何歳になっても成長し続ける性質があります。つまり,脳はいつまで経っても完成を迎えることのない,まさに「青天井の構造」をしているといえます。他人との比較ではなく,自分自身の脳の中で少しでも進歩があれば,それは脳にとって大きな喜びになります。そして喜びを感じると,脳の回路がつなぎ変わってさらに強化されていくのです。(p116)
 「努力賞ではダメ。狙うは場外ホームラン」 私は,そんあことをいつも思いながら,自分に無茶ぶりをするようにしています。(中略)現在の事情などはいっさい無視して,自分に無茶ぶりをすることで脳が強化され,やがてはガラスの天井を突き破ることができるようになるからです。(p123)
 私たち人間の脳とうのは,さぼっていると次第に「落ちていく喜び」に目覚めてしまうものです。(p137)
 よく誤解されるのですが,脳というのは疲れないのです。脳が疲労を感じるときというのは,ずっと同じことに没入して脳が退屈しているというだけに過ぎません。(中略)裏を返せば,「文脈」を変えて違うことをやれば,脳は常に高いパフォーマンスで仕事や勉強に向き合えるということです。(p170)
 現代における創造性に関する科学的理論は一貫して,「創造性とは組み合わせの探索である」と考えられています。つまり,人はゼロから何かをつくれるわけではなく,その人のなかにある何かと,その人のまわりにいる人のなかにある何かが組み合わさったり,並べ替えが起こって,新しいものが生まれるという考え方です。(p175)
 常識が通用しない世界でこそ,脳は強化されていくということがあるからです。つまり,不確実性こそが順応性を生み出し,どんなときでも冷静沈着に高いパフォーマンスを発揮することができるようになっていくというわけです。(p189)