2019年6月30日日曜日

2019.06.30 内海慶一 『100均フリーダム』

書名 100均フリーダム
著者 内海慶一
発行所 BNN新社
発行年月日 2010.06.22
価格(税別) 1,000円

● ワッハハハ。笑いながら読めばいい。しかし,著者もどこかに真面目さを抱えていて,フリーダムというタイトルも茶化し100%ではないと思える。
 茶化しだけだと,ここまでの後味の良さは作れないのじゃないか。「愛」があるのだ。

● こういうものを集めたのは,本にする下心が最初からあってのことだろうか。それとも,「愛」ゆえだろうか。
 おそらく後者だと思う。しめたとは思ったかもしれないけど。

2019.06.30 ハヤテノコウジ 『東京 わざわざ行きたい 街の文具屋さん』

書名 東京 わざわざ行きたい 街の文具屋さん
著者 ハヤテノコウジ
発行所 G.B.
発行年月日 2019.03.28
価格(税別) 1,600円

● この本が紹介している文具店で,行ったことがあるのは6つ。
 銀座伊東屋
 ANGERS上野店
 丸善丸の内本店
 無印良品 上野マルイ
 渋谷LoFt
 銀座LoFt

● 行ってみたいと思ったのは3つ。
 POSTALCO京橋店
 THINKS\ OF THINGS(コクヨの実験店)
 トラベラーズ ファクトリー 中目黒

● POSTALCOもトラベラーズノートも使ったことがない。POSTALCOは使う気にさせてもらうために行ってみたい。
 トラベラーズノートはこの先も使うことはないと思うが,部外者としてトラベラーズノートの世界を覗いてみたい。

2019年6月27日木曜日

2019.06.27 和田秀樹 『自分を信じるということ』

書名 自分を信じるということ
著者 和田秀樹
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2018.11.29
価格(税別) 900円

● 自分を信じていない人の特徴は,周りに合わせてしまうこと。しかし,他人をも信じられないこと。結局,何でも1人で抱えてしまう。結果,辛くなる。
 自分は典型的にこれに該当すると思った。というか,日本人の多くはそうなのではないか。自ら辛い渡世に飛び込んでいるようなものだ。
 ではどうするか。それは本書を読んでいただきたい。

● でもあれですよ。日本人の多くが辛い渡世を呼び込んでいるのは,個人が自分を信じていないということよりも,“日本というシステム”の問題の方が大きいんじゃないですかねぇ。ケッセラッセラー,なるようになるさぁ♪♪・・・・で,よろしいのでは。

● 以下に転載。
 幸せに生きるためには,自分を信じればいい。わたし自身,そのことに気づくまでに長い時間がかかりました。いまは,その大切さと必要性を痛感しています。(p6)
 自分を信じない人は,自分の感覚を信じることができません。だから,何か絶対的なものを信じようとします。みんなが評価しているもの,みんなが「いいね」と支持しているもののほうが安心できるのです。(p34)
 自分の感覚を信じる人は,他人の感覚を否定しません。「あの人にはあの人の好みがあるんだから」とあっさり認めています。考え方も同じですね。(中略)ところがそういう態度を「すぐブレる」と軽蔑する人がいます。(中略)わたしが不思議に思うのは,「ブレない」ことが長所や美徳だと考える人がいまだに多いということです。(p39)
 ラインのようなSNSの世界にはいつの間にかグループから消えている人がいます。少しも珍しくありません。そういう人は仲間外れにされたのではありません。みんなの感覚より自分の感覚を信じようという気持ちになった人です。(中略)あなたをわかってくれるのは,むしろそういう人たちではないでしょうか。(p43)
 他人の気持ちは他人が決めることです。「どう思われるか」はいくら考えてもわかりません。自分が「こうしたい」と思ったことは素直な願望です。自分の感情ですから,はっきりしています。こちらは信じていいのです。つまり自分を損じるというのは,いちばんはっきりしているもにに従うということです。(p57)
 本人が意識するほど周囲はその人を見ているでしょうか。残念ながら,見ていません。「いちいち人のことなんか構っていられない」というのが現実です。(p59)
 気がついてほしいのは,広くて浅い人間関係なんかいつでも振り解けるということです。「嫌われるかもしれない」と思っていることでも,「嫌われたらそのときのこと」と割り切って動いてみることです。(p63)
 他人を信じるというのは,ありのままの自分をその人の前に投げ出しても受け入れてもらえると思えることです。みんなに合わせるというのは,自分を隠してその場の空気や成り行きに合わせることです。つまり他人を信じていないのです。(p66)
 「自分だけがダメな受験生」と思ってしまえば,不安も自分1人で受け止めるしかなくなります。誰にもわかってもらえないという苦しさも生まれます。でも「みんな同じなんだ」と気がつけば,「自分はダメ」という気持ちはなくなります。たっだそれだけのことでずいぶん楽になるのです。(p85)
 自分の欠点を気にする人ほど,他人の長所に気がつきやすいのです。それはそれですごくいいことなのですが,それなら自分の長所にも少しは気がついてほしいのに,なぜか欠点ばかり気にし続けます。(中略)相手の長所と自分の短所を比べてしまうのですから,そもそも比較にならないのです。(p88)
 自信がなくても自分を信じることはできるとわたしは思っています。ここでも大事なのは,「人はみな同じ」という考え方です。(p97)
 自分を信じない人の考え方に,「人間は変わらない」というのがあります。「どうせわたしは買われない」という諦めです。(p99)
 自分を信じるというのは,自分を見てくれる人がいると信じることでもあるのです。(p114)
 自分を信じない人は,自分の成長を信じていません。信じていないというより,頭から抜けていることが多いのです。「人は成長していく」という感覚が持てないのです。(p125)
 わたしも若いころは,学歴を得たいとか,早く成功者になりたいと焦っていましたが,ふだん高齢者に接する職業についたおかげで,人生のピークは遅いほうがいいと思えるようになりました。若い頃,いくら成功しても,その後,鳴かず飛ばずでは哀しすぎます。(p134)
 ありのままの自分をぶつけたときに初めて相手も心を開いてくれるとしたら,そこで初めて,好きな人や親しい人,尊敬できる人に出会えるということです。(p155)
 自分を信じない人は,いまあるものを守ろうとするのです。(中略)するとどうなるでしょうか? 他人の言葉を受け入れなくなります。(p167)
 他人に頼られるのは嫌ですか?(中略)ここでもし,「すぐ人に頼るんだから」と軽蔑するような人だったら,きっと自分も人に頼らないで頑張ってきた人なのでしょう。偉いなあと褒めたいところですが,ただ単に「頼ったら負け」と考えてきた人かもしれません。もしそうだとしたら,他人を信じていないことになります。(p174)
 この人(山中伸弥教授)がすごいのは,ほとんどの研究者がムリだと諦めていたことを「やってみなくちゃわからない」と考えたことだと思います。(中略)自分を信じる人は,基本的に「やってみなければわからない」という考え方をします。自分を信じない人は逆で,「やってみなくてもわかる」という考え方をします。(p183)
 双六にも,諦めるという選択肢だけはありません。自分だけ取り残されても,サイコロは手元にあるからです。それを振り続けるだけでいつかゴールに着きます。自分を信じるというのは,失敗も含めていつかゴールに着くんだと信じることです。(p188)
 信じる自分は格好いい自分でなければいけないのでしょうか? わたしはそうは思いません。(中略)自分を信じるというのは,どういう自分になっても「わたしはわたしだから」と胸を張って生きることだと思います。(p197)

2019年6月22日土曜日

2019.06.22 帯津良一 『若者がうらやましがる老人になってやろう』

書名 若者がうらやましがる老人になってやろう
著者 帯津良一
発行所 海竜社
発行年月日 2017.12.13
価格(税別) 1,100円

● 酒と女でときめこう,メタボなんか気にするな,体にいいからと嫌いなものを食べても無意味,これを仕上げるまでは死ねないなどと考えるな(あっちの世界で続きをやったらいい),といったことが説かれている。気が楽になる。

● 以下に多すぎる転載。
 益軒は『養生訓』を通して,人の生き方,死に方を説いていたのです。『養生訓』を読むなら,ぜひそこまで読み取っていただきたいと思います。(p4)
 私は,幸せは人生の後半にあるという益軒の考え方に全面的に賛成です。私自身も,六〇歳から急に人生が充実してきました。人生後半の幸せを実感しています。仕事にも集中できるし,お酒もおいしいし,女性にももてるし,六〇歳は最高だと悦に入っていました。ところが,七〇代になるともっと楽しくなりました。今は八〇代に入ったばかりですが,これがまたいい感じで,うきうきしながら毎日を過ごしています。(p5)
 死を意識することで,「ああ,これで良かった」と納得して死んでいける人生後半を演出することができます。「健康第一」などと言っていると,いい人生後半は遅れません。健康は目的ではなく手段です。(中略)ですから,健康は第二か第三でいいのです。(p7)
 それまでに成功しているとかうまくいかなかったとか,そんなことはそこで精算してしまって,六〇歳からの新しい日々に期待と希望をもって,心をときめかせて,一気に加速してください。(P7)
 夫婦だけでなく,家族もずっと一緒にいるとか,仲良くするとか,あまりそんなことに重きを置く必要はありません。(p25)
 一人だと寂しいと思うこと自体が老化です。若いときには一人暮らしをすることにワクワクしたものです。(p26)
 惰性で生きていると,老化が進んでいきます。人には刺激が必要なのです。(p27)
 見かけの若さは,大抵の場合,八〇歳を過ぎれば差がなくなります。私は外科医でしたが,若いころは手術の巧拙は顕著に現れます。器用な人は手際がいい。しかし,下手な人でも一〇年たつと上手な人に追いついてしまいます。二〇年,三〇年たてば,横並びです。それと同じで,見かけの若さも,差が出るのは六〇~七〇代までです。見かけも大切ですが,それ以上に内からわき出てくるエネルギーに目を向けてもらいたいと思います。年を取ることをネガティブにとらえるとエネルギーは低下してしまいます。(p29)
 年を取るのを嫌がるのではなく,年を取る喜びを見つけること。これも老いに逆らうことのひとつです。老いとは喧嘩をせずに上手に逆らってみることです。(p33)
 できれば,貝原益軒が文章を書くことに没頭したり,伊能忠敬が暦学や天文学を学び始めたように,本当にやりたかったことにチャレンジするイメージが大事です。(p46)
 私たちは,生から死をへて死後の世界へ旅立っていきます。その旅は,川のように滔々と流れていくものだとイメージしています。(中略)死んだらすべて終わるわけではありません。死んだあとも,今やっていることの続きをすればいいのです。(p50)
 しっかりした土台とはどういうものか。私は,「ときめき」だと考えています。(中略)私は,「酒と女」でときめきます。(中略)年を取ったので酒はやめましたとか,この年で女性のことを言うのははしたないという情けないことを言ってはいけません。(p58)
 私は,まったく逆のことを患者さんに言います。「酒は養生だから,毎日飲まないとダメだ」(中略)心配しなくても大病をした人は無茶をしません。(p63)
 若いころは,陸上競技や水泳で言えば予選のようなものです。力のある選手は,ゴール前で力を抜いたりします。しかし,決勝は本気を出します。人生の後半は決勝です。力をすべて出し切るくらいの生き方が必要です。(p70)
 いい年の取り方をしているなと思える男性は,必ずと言っていいほどすてきな女性がそばにいます。(中略)私はできるだけ恋をしようと心がけています。片想いで十分です。(p74)
 「恋なんて関係ない」と思っていると,どの女性も同じ顔,スタイルに見えてきてしまいます。世の中にはさまざまな魅力を湛えた女性があふれています。(p77)
 お金と名誉でもてるというのは,私に言わせれば底の浅い恋です。品がありません。年を取ったら,そんな物質的なことではなく中身でもてたいものです。中身でもてるためにはいのちのエネルギーが高まっている必要があります。(中略)男性も女性も志をもって生きているともてます。志といっても,これから大仕事をやってやろうということである必要はありません。小さなことでいいので,こんなことをやってみたいという夢をもってそれに向けて努力している人は魅力的です。(p80)
 たとえば,腹立たしいことがあったとします。腹立たしさの原因をとことん追求して,それを排除しようとすると,これには大変な労力が必要です。(中略)その人に文句を言っても,素直に「すいません」と謝るはずもありません。(中略)私は,余程のことがない限り,「しょうがない」ですませることにしています。(p93)
 ある年齢になれば,あるところまでは諦めずにがんばっても,ここが引きどきだなと思ったら,さっと身を引くことも覚えた方がいいでしょう。引き際は,経験からわかるはずです。(中略)諦めることは負けではありません。諦めることによって局面が変わって,いい方向に物事が進むことはよくあることです。(p95)
 私は,色気というのは内なる生命場のエネルギーが高まってあふれ出ることにあると考えています。色っぽさというと,女性の専売特許のように思ってしまいますが,男女の別なく生命エネルギーの高い人のことを言います。それが外にあふれ出すわけですから,かなりの高いエネルギーをもっていないといけません。(p101)
 死に対する不安や恐怖を癒すには,その人よりも死に近いところにいる必要があります。大病をしたことのない元気な人に「大丈夫だよ」と言われても,がんの患者さんのこころは安らぎません。(p103)
 自分のことばかりではなく人のことを考えて生きられる人は色気が増すのかもしれません。(p104)
 凛として老いているかどうか,ひとつの指標が「歩き方」です。ヨタヨタとしているようでは凛としているとは言えません。(中略)九〇歳になってリズミカルに歩けるには,それまでの鍛錬が必要です。鍛錬と言っても,日常生活の中で,なるべく便利さに甘えないで自分の足で歩くようにしていれば大丈夫です。粋に老いている人は,からだを動かすことを厭いません。まめに動きます。(p108)
 健康は大事ですけれども,健康を目的として生きていると,生き方が小さくなってしまいます。(p110)
 九〇歳を過ぎて粋に生きている人はみなさん,子どものように好奇心が旺盛で,ちょっとしたことに感動し,うきうきしながら新しいことにチャレンジしています。とても初々しいのです。(p117)
 平然とすることなどありません。いつまでもおどおどしていればいいのです。(p118)
 食事も,「私は何でも感謝していただきます」というのも立派ですが,私のように好き嫌いがけっこうあると,好物が食卓に出ているのを見たときにはうれしくてこころが大いにときめきます。(p119)
 明るく前向きに生きれば免疫力が上がって体調も良くなると言われてきました。本当にそうなのでしょうか。明るく前向きだから元気になるのか,元気だから明るく前向きになれるのか。私は後者ではないかと思うようになりました。(p123)
 もとはと言えば,たった一人でこの世にやって来て,たった一人であの世へ旅立っていくのです。それが私たちの本質であって,この世でわいわいやっているのは幻に過ぎないのです。それからは,私は患者さんに「私たちの心の奥底に広がる,揺るぎのない大地は,かなしみであり,さみしさです」とお話ししています。(中略)明るく前向きという,宙に浮いたような状態を当たり前だと思ってしまうと,何かあったときにバランスを崩して落下してしまいます。(p125)
 プラス思考が浅はかに感じられるのは,自分では苦しくてつらいのに「これはプラスなのだ」と自分に無理やり言い聞かせるところです。どこか痛々しさを感じてしまいます。(中略)いくら笑いがからだにいいと言っても,自然に湧き上がった笑いならいいのですが,おかしくもないのに無理に笑っても効果はいかがなものかと思います。プラス思考には,おかしくもないのに笑おうとするような不自然さが感じられるのです。(p126)
 江戸時代の随筆家・神沢杜口は,「生涯皆芝居なり」という名言を残しています。(中略)そう思えば,失敗だったなという人生も,たまたまそういう役を演じさせられてきたのだとあきらめがつくというものです。成功する人だけではいいドラマはできません。(p129)
 これまでの自分を,映画を見るかのように客観的に振り返ってみると面白いと思います。思い出したくなりこともあるかもしれません。しかし,それも物語を盛り上げる要素になっていることもあります。まだまだ舞台の途中ですから,これからどんな展開にもできます。ハッピーエンドだけが名作ではありません。続編に向けて含みをもたせた終わり方でもいいのです。(p131)
 もし,あの世へ行くのが楽しみだという心境になったらどうでしょうか。死ぬのは嫌だ,死んだらどうしようとびくびくして生きるよりも,楽しくて輝く老後を送ることができるはずです。(p136)
 仕事や夢をこの世で完結させることはありません。あの世へ行けば,いくらでも時間があります。この世以上に,やりたいことに没頭できます。(中略)死後の世界については,どうがんばっても本当のことはわかりません。わからないことはわかろうとせず,開き直って自分の好きなように考えればいいのです。(p142)
 人間とはそういうものですから,それを恥ずかしいと思う必要はありません。(p148)
 人生にはいろいろな晴れ舞台があります。誕生日,入学式,卒業式,就職,結婚式などです。しかし,死というのは,そんなのとは比べものにならないくらいの一世一代の晴れ舞台です。(p157)
 死ぬとわかったら,今までの自分をじっくりと振り返ったり,それまでやれなかったことをやって死んでいきたいと思っていたことがあります。(中略)しかし,あるときからそんな考え方をやめました。(中略)漱石が,死ぬときには一瞬のうちに過去を振り返ることができると書いています。市に瀕すると過去の記憶が走馬灯のように流れると言います。どんな死に方であっても瞬間的に一生を見ることができるのかもしれません。それなら,わざわざじっくりと自分を振り返る必要もありません。(p160)
 やり遂げたかどうかは関係ありません。いのちのエネルギーが高まっていれば,納得してあちらの世界に行けます。私たちが生きている目的は,何かを成し遂げることではなくて,少しでもいのちのエネルギーを高めることですから,結果に執着する必要はないのです。(p162)
 死を意識することで,生がきゅっと引き締まります。(p171)
 統合というのは足し算することではありません。一度バラバラにして再構成して新しいものを作り出すことです。(p175)
 がん細胞は死なない細胞です。死なないからどんどん増殖していって,大きくなっていって,栄養を横取りし,臓器を痛めつけ,最終的には人間を死に追い込んでしまします。(中略)人類全体を見ても,死んでいく人がいるからこそ全体の秩序が保たれてします。(p179)
 足腰が丈夫で,近くの居酒屋mまで歩いて行ければ,体力は良しとしましょう。(中略)マイナスには目をつむる。プラスを見つけて大いに喜ぶ。そうすると,間違いなくときめきは増えていきます。それが老いを楽しむ方法です。いのちのエネルギーもどんどん高まっていきます。(p182)
 日ごろからできることで,いのちのエネルギーを高めるのにもっともいい方法は気功です。(中略)姿勢を整える(調身),呼吸を整える(調息),ここをと整える(調心)の三つがあれば気功と言うことができます。(p188)
 少々のストレスには負けてはいられません。受けて立ってやる! という気持ちになれば,だいたいのストレスははねとばすことができるものです。(p205)
 人は場の影響を受けます。(中略)いのちのエネルギーを高めようと思うなら,いのちのエネルギーの高い人と会うべきです。(中略)親しくならなくても,そばにいるだけでいい影響を受けられるはずです。(p207)
 予感は人生を豊かにしてくれます。予感のない人生は無味乾燥です。一瞬先は何が起こるかわかりません。だからこそ面白い。わからないからそこに予感が入り込む余地があるのです。予感に私たちはときめきます。先がわからないことで人生は豊かになります。私は,予感というのは虚空から送られてくるシグナルだと思っています。(p215)
 予感と直感を受け取るためにはこころを空っぽにしておく必要があります。こころが空っぽというのは何も考えないとかぼーっとしているということではなく,常識にとらわれないこころをもつことです。思い込みを外すことです。(p220)

2019年6月21日金曜日

2019.06.21 斉藤政喜 『島旅はいつも自転車で』

書名 島旅はいつも自転車で
著者 斉藤政喜
発行所 二玄社
発行年月日 2010.03.10
価格(税別) 1,500円

● 島旅かぁ。しかも自転車でかぁ。まずは,自転車で日本一周ってのをやってみたい。貧相すぎたわが“青春”を老いた身で取り戻してみたい。

● 以下にいくつか転載。
 還暦を迎えた吉田拓郎や,中高年ばかりの観客が年甲斐もなく熱狂している姿を見て胸が熱くなり,自分もあのときの夢を実現させたくなった。(p45)
 美しい風景に出会うよりも,地元の人間の笑顔や優しさに触れたほうが,その土地の印象は一段と良くなるのだと再確認した。(p87)
 ガイドブックに出ていない情報を入手すると心が沸き立つ。(p181)

2019年6月17日月曜日

2019.06.17 櫻井秀勲 『ツキを呼ぶ「空気」の読み方』

書名 ツキを呼ぶ「空気」の読み方
著者 櫻井秀勲
発行所 海竜社
発行年月日 2007.08.14
価格(税別) 1,300円

● 今,若者の憧れは堀江貴文さんや田端信太郎さんや箕輪厚介さんなのだと思う。旧来の秩序や常識など歯牙にもかけるなとハッパをかける。前提としてインターネットがある。
 対して,本書の著者の櫻井秀勲さんはその旧来型のやり手。本書執筆時で76歳。

● おそらく,両者はトレードオフではなく,かなり近い位置にいるように思える。登山口は違っても頂上は同じという,ありふれた比喩になってしまうのだが。

● 以下に転載。
 合コンの席上で,相手がOKサインを出しているにもかかわらず,それに気づかないのは,圧倒的に男が多いのです。女性が男の前でケータイを出してくれば「あなたのメアドが知りたいの」というサインだ,と考えていいのに,それを見送ってしまう。(p31)
 パソコン派を超えて,すでにケータイ派が最大グループを形づくっているのですから,早くそれになじまないと,ユビキタス社会で落ちこぼれになってしまうでしょう。落ちこぼれとは「取り残される」というだけでなく,「落ち零れ」といって,おちぶれる,見る影も形もなくなる,という意味です。こうなっては,運命の逆転もありえません。(p36)
 あるとき私は偶然,田中角栄元首相と,民主党代表だった前原誠司のそばにいたことがあります。もちろん時代が違いますが,このとき私は田中元首相のそばにいながら,電気に触れているような熱い気分でした。これに対し前原元代表は,私の隣に立っていながら,それと気づかないほど,無味無臭,つまりただの人だったのです。時代というのは,常に華のある人物によってつくられるという,不思議な決まりがあるようです。(p39)
 家の中の空気がよどむほど,怖いことはありません。(中略)アメリカ人が比較的陽気だというのは,塀というものをつくらず,隣家と芝生がつづいているという環境と強い関連があるのです。(p44)
 いつの世でも,老人は若い人に伝統や教えを残したい,という強い気持ちをもっています。私の例でいえば,本棚の何千だか何万冊だかの蔵書を,私の死後活かして使ってくれる人はいないだろうか,と考えています。上智大学の名誉教授で英語学の権威の渡部昇一さんは七十七歳ですが,つい最近,書斎と書庫を新築しました。蔵書は十五万冊といいますから,これはもう図書館並みですが,このためにいまからローンを数億円組んだそうです。(中略)老人だからといって,古いだけではないことがわかる,好例だと思うのです。(p48)
 あなた自身にも,あなたの匂いの付いた空気が漂っています。(p49)
 会社でも家庭でも,狭いところにいた頃のほうががんばれた,という人は意外に多いものです。(中略)大きなオフィスを構えてしまうと,空気は薄くなり,それと共に,幸運の確率も減るような気がしてなりません。(中略)小さな場に一緒にいるほうが,考えがわかり合うものです。つまりは,「場の空気が読めない」といったケースは,起こりようがないのです。これも実際例ですが,大きな家を構えている家庭にかぎって,息子や娘が警察のご厄介になる率が高いのです。(p52)
 私は基本的には「次の時代の風は裏通りに吹いている」という考え方の持ち主です。かつての高利貸しは銀行という巨大産業に発達しましたし,裏通りの怪しげな生計美容医院は,いまや堂々と都心のビルに進出してきました。(p59)
 これまでの日本は,常に西風を受けてきました。文化は常に西風に乗ってきたのです。仏教もそうでしたし,キリスト教もそうでした。(中略)戦後の一時期,日本の東に当たるアメリカが脚光を浴びましたが,大きく捉えるならば,西に目を向けるほうが正しいでしょう。(p59)
 かくいう私もその一人で,一時期は,株式投資その他で,莫大な損失を出してしまいました。(中略)なぜ庶民は,そんな危ない橋を渡って,マンションや土地を買うのでしょうか? 大勢という熱気です。(中略)ババを引かない唯一のコツは,誰か一人でも専門家が「危ない」といい出したら,それを信じることです。(中略)みんなで渡ることだけはやめるべきです。(p62)
 ギリギリに出社する人は,ミーティングでもギリギリです。旅行でもなんでもギリギリになるのです。それは「間に合えばいい」という考え方から,抜け切れないからです。しかし,それでは空気になじめません。なじめないどころか,せっかくの空気をかき乱す存在になってしまい,人生を誤ってしまう,とさえいえるのです。(p65)
 みんなで盛り上がっているのに,一人だけ冷めていたら,仲間外れになって当然ですし,コミュニケーションのできない人間として,職場でもいやがられるのです。(p70)
 夜話す声は低くしたほうが,どんな場合でも効果が上がるのです。(p76)
 区切りを多くして,「こんな説明でよろしいでしょうか」「ご質問があればお願いします」といった低姿勢が必要になってくるのです。学生に対しても,あるいは会議の出席者に対しても「わからないことは,あとで聞いてくれ」といった強引な態度では,反感をもたれるだけです。(p87)
 私はマスコミの世界で何十年も生きてきましたが,どうもおとなしい人は,うまくいかないように感じます。(中略)おとなしい人は,人と会うのが苦手なので,そこで遅れをとってしまうのです。その結果徐々にですが,うつが溜ってしまうのです。(p89)
 一日に一回以上「ありがとう」という感謝の言葉を口に出しているかどうか,よく考えてみましょう。出していなければ,今日から口にしてみることです。劇的に,周囲となじめるようになります。(p90)
 女性が作家や詩人,画家,ミュージシャンに心を捉えられるのは,これらの仕事に携わる人々は,基本的に女性の心と同一であり,ロマン性をもっているからです。もう一歩進めれば,これらの芸術家には涙があります。(中略)だから人間的な幅を広げるには芸術は欠かせません。(p96)
 非社交的な人ほど,外見を変えるのをイヤがります。(中略)こうしているうちに,他人の空気を読むことに鈍感になるのです。(中略)「生き方下手」と呼ばれる人は,往々にしてこのタイプです。これらの人たちは,実はとても大勢います。(p99)
 リッツ・カールトンといえば,世界最高のサービスを誇るホテルとして鳴り響いていますが,ここではセンスとか能力を,社員んは教えないといわれます。もともとそれらをもっている社員を採用するのだそうです。ここは非常に重要です。(p101)
 最初は序々にゆっくり,真ん中は複雑に展開,そして最後はすばやく集結,という形にすると,観客に非常に快いものです。(p103)
 日本だけではありませんが,どこの国にも闇の権力があります。この権力は「金」生命線であって,それ以外のモラルはありません。トップが豪邸に住んでいる企業などは注意しなければなりません。(p117)
 家の中が冷えきっていると,一刻も早く床に入って寝てしまおうと,非常に消極的な生き方になってしまうのです。(p128)
 心のあたたかい人は,必ず足を使うものです。これだけは間違いありません。(p137)
 収入の差が一人ひとり,大きく異なる場では,自分は中流以上だな,と思ったら,絶対,相手のプライドを傷つけてはいけません。(p143)
 最近では,メジャーに行くプロ野球選手がふえましたが,記者会見でウケる選手の会見は,下手ではあっても英語を使っています。これはどの国でも,自分の国の言葉を使ってくれるのがうれしいからで,たったそれだけで,国民の言葉を鷲づかみにできるのです。(p148)
 そんなに険悪化して,なにがトクになるのでしょうか?(p174)
 実は学習効果のない人たちは,下流ほど多いのです。それはなぜなのか? いつも仕事が浮動しているからです。(p178)
 先方の怒りをときには,まず誠意とスピードであって,品物ではありません。(p180)
 女性は「ゆっくり長く」というものに関しては,とても寛容です。セックスでもそうですが,そんなにイケメンで男のもちものがよくても,あわただしく短い時間ですませるような男は拒否するのです。この女性の性格を知っておくことは,男の人生を大きく左右するだけに,とても重要です。なんによらず,ゆっくり長い時間かかってする男には,好感をもってくれるのです。(p183)
 彼女の言動に左右されるようでは,空気を読めませんし,彼女もイライラするだけです。彼女の低気圧を追い払うような高気圧こそ,男に必要な空気といえるでしょう。(p190)
 後年,心理学を勉強していくうちに,視線の効果の大きさに驚くようになりましたが,勉強ができなくても,黒板や先生の顔をじっと見ているだけで,3の成績はとれるのだ,ということを知ったのです。(中略)このことはとても重要です。(中略)恐らく目の力は,自分が考えているより,よほどの霊力があるのだと思います。頭脳をしぼるより,目力を加えるほうがたやすいし,効果は絶大だと思うのです。(p192)
 仲間の空気に浸かったほうが,実は人生を強い意志で渡れるのです。(p197)

2019年6月13日木曜日

2019.06.13 ヨシムラマリ・トヨオカアキヒコ 『文房具の解剖図鑑』

書名 文房具の解剖図鑑
著者 ヨシムラマリ
   トヨオカアキヒコ
発行所 エクスナレッジ
発行年月日 2018.06.29
価格(税別) 1,600円

● サッと斜めに読んだだけだけど,文房具ってのはなにゆえにこんなに魅力があるのかねぇ。

● ひとつだけ転載。
 そもそも“カワイイ”文化と文房具との蜜月が始まったのは,1970年代からだと考えています。その理由は,当時2つのことがあったからです。1つは,1971年(昭和46年)に東京・新宿に「サンリオ ギフトゲート」がオープンしたこと。(中略)もう1つの出来事は,意外に思われるかもしれませんが「蛍光ペン」の登場です。(p90)

2019年6月11日火曜日

2019.06.11 半藤一利・出口治明 『明治維新とは何だったのか』

書名 明治維新とは何だったのか
著者 半藤一利
   出口治明
発行所 祥伝社
発行年月日 2018.05.10
価格(税別) 1,500円

● 幕臣の阿部正弘がグランドデザインし,大久保利通が具体化した。大久保が暗殺されて,残ったのは小物の伊藤と山縣。大久保がもっと長く生きていれば,山縣の跳ねっ返りもなかったろうに。
 が,太平洋戦争末期には,「伊藤公,出でよ。山縣公,出でよ」と言わせるくらいに,悲惨な状況だつたのだよね 。

● 以下にいくつか転載。
 シーパワーというと武力だけのように解釈されることが多いのですが,実は通商がシーパワーの基本なんですよね。通商をしっかりやるために,それを守るための武力が必要になる。(半藤 p23)
 これが日本人の良いところなのか悪いところなのか,「起きて困ることは起こらない」と思い込んでしまうんですね。(中略)「起きないんじゃないか」と主観的かつ楽観的にいいほうにいいほうに考えて対応をズルズル引っ張ってしまうんです。(半藤 p27)
 明治維新の「開国」「富国」「強兵」というグランドデザインを描き,そのための準備に着手した阿部正弘は,明治維新の最大の功労者のひとりではないでしょうか。(中略)有為な人材登用や人材育成策は,お見事の一語に尽きます。(出口 p33)
 お尻に火がついて大変なときには,若い人が頑張るんじゃないでしょうか。(中略)幕末は,維新の志士たちだけではなく,幕府のほうもみんな若くて優秀なんですよね。大きな時代の変わり目には,これまでの経験則が役に立たないので,勉強している人じゃないと対応できないのだと思います。(出口 p39)
 明治維新は江戸時代の鎖国による二〇〇年の遅れを取り戻す運動だったと思います。(出口 p46)
 実際には,お金を持っている商人のほうが威張っている。現実に秩序は守られておらず,いわば有名無実だった。だから逆に言葉(士農工商)だけ残っているわけですね。(出口 p49)
 そんなに勉強してないんじゃないですか。少なくとも,わが長岡藩では朱子学なんて誰も聞いたことないと思いますよ。(半藤 p50)
 それ以前から幕府がいちいち「こういう国策を決めましたので,ご了承願いたい」と朝廷に許可を得ていたかというと,そんな話は聞いたことがありません。一体いつから,そんなことになったのか。それがよくわからなかったんですよ。それでいろいろと調べたところ,光格天皇のときに変化があったようなんです。(半藤 p64)
 「討幕の密勅」なるものは,岩倉らによる偽造文書であることはもう明瞭です。公家の後ろ盾があるから,いつの間にか薩長軍が「官軍」,幕府軍が「賊軍」になってしまいました。(半藤 p77)
 どの世界でも,将来のビジョンや設計図を描く人と,実際にそれを具体的な行動に落とし込む人は違いますからね。同じ人がやれればいいけれど,そんなに器用な人はあまりいません。龍馬は,実際に動き回るほうのタイプの人だった。(出口 p86)
 薩長の連中は,新しい国家をどうやって作るかというイメージをほとんど持っていなかったんですよね。唯一,大久保の頭の中にはあったと思います。(半藤 p103)
 西郷が去った後,大久保はどんどん参議のクビを切って,小さな政府に仕立て直して自分で支配するようになりました。最初に新政府を立ち上げたときは,一応は薩長土肥のみんなの顔を立てなければいけなかったので,無駄に大きな政府だったんです。(半藤 p111)
 伊藤は大した力量がなかったからこそ,大久保が生前に考えていたことをそのまま忠実に実行していったのではないでしょうか。(出口 p115)
 一般的には,三月一四日の西郷・勝会談で万事うまく片づいたと思われているのですが,そこではまだ話は終わっていなかった。むしろ,そこから先の備え方が,政治家・勝海舟の真骨頂なんです。(半藤 p131)
 (勝海舟は)きわめて合理的に物事を考えられる人ですよね。(中略)社会が大きく揺れ動いているときは,狂信的な人はあまり仕事ができないんじゃないかと思います。(中略)ひたすら攻めていけばいいときは,むしろ狂信的なリーダーのほうがいいんですよ。あまり合理的に考えてしまうと,ネガティブな要素が気になって「やはりやめておこう」という話になりやすい。合理的思考だと勢いがつかないんです。でも大変な状況をまとめるときは,合理的思考が求められるんですね。(出口 p140)
 ああいう土壇場で何事かを成し遂げる人間というのは,立派な大義名分を掲げたりしない。それこど終戦時の総理大臣だった鈴木貫太郎も,ただ一点,昭和天皇を守らなければいけないということだけを求めて本気で取り組んだんです。そいういうときは,あんまりデカいことは言わないし,考えないほうがいんですね。むしろ狙いを一点だけに定めて,それを守り抜くほうが大きな力が発揮できるのではないでしょうか。(半藤 p145)
 西郷は永久革命家だと思います。だから彼がいると革命が終わらないんですね。その意味で,征韓論で敗れて野に下ったのは正解だったと思います。(出口 p146)
 廃藩置県はまだ岩倉や大久保が国内にいるときに決めましたが,岩倉使節団が船の碇を上げて旅立った途端に,西郷はどんどんやりたいことをやりました。まず第一に,朝敵だった大名をみんな大赦してしまうんです。(半藤 p151)
 ものすごく荒っぽくいってしまえば,明治維新は大久保利通の作品ですよね。(出口 p159)
 大久保さんは何でもできる不思議な人で,私生活がきれいだからといっても単に清廉潔白なわけでもなく,理屈の通った正論を吐ける一方で悪だくみもできるんです。ああいう人がいたからこそ,スムーズに明治新政府が立ち上がった面はあると思いますね。(出口 p161)
 権力争いというのは難しいもので,大事なのはどちらが勝つかではないんです。どちらが先に諦めるかで決着がつくんですよ。(半藤 p169)
 吉田松陰にいわせると,山縣は「丸太ん棒」だそうです。その何の役にも立たない「丸太ん棒」が残っちゃったんですよ。吉田松陰そのものも大した人物ではないが,伊藤と山縣はその門下生の中でも大したことないんです。(半藤 p177)
 森鴎外がベルリンに行くなど,当時の留学生はドイツへの憧れが強かったというイメージが強いのですが,実際に留学した人数を見ると,アメリカが圧倒的に多いんです。(中略)明治政府は世界の実勢をきちんと知っていたのだと思います。(出口 p195)
 そうやって日本語で外国の学問を教えられるようになったことは,教育水準を向上させる上で実に大きかったんです。明治以降,日本の文化レベルがそれこそ「脱亜」と呼べるぐらいまで一気に上がったのは,日本語で高等教育ができるようになったからなんですね。これは明治の人たちの大功績ですよ。近代日本の基礎を作ったといっていいほど重要な仕事だったと思います。(半藤 p202)
 日本の軍国主義は,本格的な立憲国家が成立する前に,山縣有朋という個人の野心的な性格によってポンとできちゃったんです。(半藤 p208)
 たとえば乃木さんの第三軍が,旅順要塞を落とすためにムチャクチャな作戦を実行して,どれだけ多くの兵隊を死なせたか。ものすごく悪戦苦闘してようやく落としたんですが,「大和魂をもってうする日本の白兵戦術は近代戦においても非常に有効であった」みたいな美談として語られていったんです。ここで本当の歴史を隠してしまったので,昭和の軍人たちは陸軍も海軍も真実を教わらなかったんですね。(半藤 p214)
 ルーズベルトは,国力や戦力の点では明らかにロシアのほうが日本より上なのに,金子堅太郎との友情に免じて,一対一ぐらいの対等な講話を斡旋してくれたわけですよね。いわば日本を依怙贔屓してくれたのですから,日本の国民は自分に感謝するはずだ,と思うのが普通の人情でしょう。ところが,そこまで親切にしたのに日本人は,「俺たちはロシアに勝ったのに,こんな講話を斡旋したルーズベルトはけしからん!」などと怒っている。ルーズベルトは「こんな国と仲良くできるのか」と思ったのではないでしょうか。(出口 p217)
 アメリカもイギリスも受け入れてくれないから,海軍の人たちもみんなドイツに行くんですよ。でもドイツ海軍なんて,日本の海軍にとって勉強になるものは何もないんです。ではドイツに行った連中が何をやっていたかといえば,女を抱かせられていた。(半藤 p228)
 どちらかというと,「幕府を倒せ」というのは楽だと思うんですよ。関ヶ原からの積年の恨みもあるわけですしね。しかし幕府の中にいながら,二〇〇年も続いた鎖国という体制をみずから壊す改革を決断するのは,ものすごく勇気がいったと思います。その勇気が阿部正弘にはありました。(出口 p231)

2019年6月9日日曜日

2019.06.09 池谷裕二 『ココロの盲点』

書名 ココロの盲点
著者 池谷裕二
発行所 朝日出版社
発行年月日 2013.12.20
価格(税別) 880円

● 「認知バイアスと呼ばれる脳のクセを,ドリル風に解説したもの」。
 ジンクスを作ったり,ゲンを担いだり,反省過多に陥ったり,そこから教訓を引き出そうとしたり。それらは脳のクセによるものだったのか。
 これって偶然だと思えます? と問われたときに,偶然だよと躊躇なく答えれるようになる本。

● 以下にいくつか転載。
 脳の判断は思い出しやすさに影響されます。脳裏に浮かびやすい情報は「これほど簡単に実例が思い出せるのだから,その通りだろう」と確信が強まります。(p6)
 脳の判断はちょっぴり複雑です。「自分の仮説や信念」に一致する例を重要視する傾向があるのです。(p10)
 事が起こってから振り返ると「前もって予測できた」「本当なら実行できたのに」と思いがちです。これを「後知恵バイアス」と言います。「あのとき株を売っておくんだった」(中略)など様々な場面で現れます。(中略)このバイアスの悪しき点は「あれが兆しだった」と,ありもしない因果を創作して,妙な信念を導いてしまうことです。(p22)
 すばやく判断しなければならないとき,全体の判断は,冒頭部分の情報に影響されます。(p30)
 損失が連鎖する傾向は,教育や習い事,あるいは投資でもよく見られます。「せっかくここまでやってきたんだから」とこれまでの努力が失われることを惜しむあまり,やめるタイミングを逸してしまいがちです。(p34)
 脳は対象の全体をくまなく観察して判断することはありません。目立つ特徴に着目して,全体を判断します。ハロー効果です。(p42)
 脳は数少ない経験でも法則化しがちです。偶然の出来事が二,三回重なったら,「次もきっと・・・」と一般化したい感情を抑えるのは難しいものです。これが「迷信」が生まれる理由です。(p50)
 脳は入ってきた情報を「記憶すべきかどうか」と品定めします。このときの判定基準は「出力」の頻度です。(p54)
 新しいものを手に入れる快感よりも,すでに持っているものを失うことへの不快感に敏感なこの傾向を,「保有効果」と言います。(p58)
 記憶は未来に向けたメッセージです。将来の自分に役立ってはじめて意味を持ちます。だから役に立つように記憶内容が歪められます。(p66)
 脳は理由を問われると,「作話」します。しかも,でっちあげたその理由を,本人は心底から「本当の理由」だと勘違いしています。(p71)
 人は,他人が下した評価を無意識のうちに吸収して,あたかも「自分の意見」であるかのように振舞います。私たちの知性は傀儡です。(p83)
 脳はなぜか秩序を好みます。無秩序であることを認めるのは勇気のいることです。ついでに,ストーリーも大好きです。(中略)試合には「流れ」があって,シュートが決まりやすい「ノっている時間帯」と,そうでない「我慢の時間帯」があるような気がします。しかし,実際の試合データを統計的に解析した結果,シュートの成功と失敗の順列は,ランダムと区別がつかないことがわかっています。(p86)
 一般に,過去の自分に起こった実際の変化に比べ,将来の自分に起こる変化を少なく見積もります。(中略)つまり「もう変化は終わった」と勘違いするのです。これが「歴史の終わり錯覚」と呼ばれる理由です。(p90)
 年配者は「歳をとると記憶力が落ちる」と信じています。すると,その信念通りに記憶力が低下します。(p94)
 たとえば,「忘れっぽい」「しわ」「孤独」など老齢をイメージさせる単語を見ると,若い人でも歩く速度が老人のように遅くなることが知られています。(p95)
 もちろん失敗すればショックは受けます。しかし実際には,想像していたほどにはクヨクヨしないことが知られています。(p98)
 脳は確率がわからない選択肢を嫌います。曖昧であることが不快なのです。(p111)
 感情は,表情よりも,姿勢に強く引っぱられます。(中略)脳は顔よりも体との結びつきが強いのです。(p119)
 驚くなかれ,「押そう」と決める前に,脳は「押す準備」を始めています。無意識の脳回路が押す準備を整えたところで,ようやく「押したい」という感情が立ち上がります。(中略)どんな活動にも原因,つまり源流となった活動があるはずです。無からは何も生まれません。「押そう」という意志が発生したからには,その源流である「押そうという意志」を準備する事前活動が脳のどこかに存在しているのは自然なことです。(p122)

2019年6月8日土曜日

2019.06.08 為末 大 『限界の正体』

書名 限界の正体
著者 為末 大
発行所 SBクリエイティブ
発行年月日 2016.08.02
価格(税別) 1,300円

● 為末さんのTwitterを見ていると,誠実な人柄が伝わってくる。真面目であり理を追求する人のようにも思われる。かといって,いわゆる堅物ではないし,声高に語る人でもない(と思われる)。
 その為末さんの著書を読むのは今回が初めて。

● 以下に転載。
 歴史上「天才」と言われる人たちは,ある年代,特定の場所に集中的に登場することがわかっています。(中略)僕は,才能がひとつの時代に片寄って登場するのは,「時代の空気」の影響を受けたからではないか,と考えています。(p20)
 限界はあると思っています。しかし,その限界は,力を出し切った人の前にしか,あらわれないものです。人間は本気で挑んだときにしか,自分の範囲を知る事ができません。(中略)限界を超える経験をした人は,「このあたりが限界かな」と思った先に,本当の限界があることを知っています。だから,簡単にはあきらめず,限界を超える努力をするのです。ところが,陸上競技の経験がない人は,息が上がった時点で限界に達したと思い込み,早々とあきらめてしまします。(中略)つまり自分の能力を低く見積もってしまっているのです。(p23)
 タイムを競うスポーツの世界で限界をつくる要因のひとつが,「十進法」だと言われています。(中略)本当はもっと遠くに自分の限界があるのに,キリのいい目標を設定したことによって,その数字が限界の檻をつくってしまうことがスポーツの世界では起こります。(p35)
 走・跳・投といった単純な動作能力を競う種目は,人間がもともと持っている身体能力の差がそのまま結果につながりやすい。だから先天的な身体能力で劣る日本人は,なかなか勝つことができません。ですが,ハードル,3段跳び,ハンマー投げ,競歩のように,「走る」「跳ぶ」「投げる」の基本動作に技術が加わり,複雑な動きが求められるようになれば,身体能力以外の要素-技術や戦略など-がモノをいうようになります。(中略)その意味では,人生こそ,究極の複雑系の競技といえるかもしれません。なにも持って生まれた才能がないからと,限界の檻に入ることはない。(p51)
 アインシュタインは,「常識とは,18歳までに身につけた偏見のコレクションである」と喝破しました。僕たちの限界の多くも,思い込みや偏見の産物なのです。(p57)
 世の中の人の期待は,たいてい世の中の「想像の範囲」内にあります。ということは,期待に応えようとすると,想像の範囲内でしか活躍できません。(p63)
 世界的に活躍し続ける選手の中に,マイペースで,多少わがままに見える選手が多いのは,自分のやりたいことに軸を置いていたほうが,期待以上の結果を残せることがわかっているからでしょう。(p65)
 ただ「自分らしさ」にこだわる人こそ,限界の檻に入りやすいことも知っておいた方がいいでしょう。自分らしさを見つけることは,自分の限界を設定することに似ています。(p67)
 当時の僕は,自分のことを「考えるより先に行動するタイプ」だと思っていたのですが,海外には僕以上に無鉄砲な選手がいて,彼らに比べたら,僕はまったく逆の,「考えてから行動するタイプ」だったのです。僕があのまま日本に留まっていたら,自分は行動派であるという間違った自分らしさを捨てきれなかったでしょう。(p68)
 真似をすればするほどスピードが出なくなって,僕は,深刻なスランプに陥ってしまったのです。今になってわかるのは,僕と伊東(浩司)さんには,身体的な特徴に違いがあって,僕は足が流れてしまうという特徴があったからこそ,ハードルが向いていたということです。(中略)身体能力とは,生まれたときから与えられた条件のようなものです。あくまで,本来の自分の延長線上にしか成長はないのに,あのときの僕は憧れの人の真似ばかりして,自分がどういう選手なのかに目を向けようとしなかった。(p77)
 成功者の真似をしても再現できないのは,成功法則は,高いレベルに行けば行くほど,その人自身に特化したものになるからです。(p79)
 梅原大吾さんは(中略)「あまり大きな目標を立てず,目の前のできることにのみ集中していれば,ふとしたときに信じられない高みにいることに気づく日が来るだろう」と述べています。僕も,同意見です。憧れやなりたい自分に意識を置かずに,今の自分にできることに集中するほうが,力を発揮しやすくなります。(p81)
 再現性がないものは,実力ではありません。(中略)「なぜできたのか」を理解して,再現する。何度も再現ができて,はじめて限界を突破したといえるのです。(p83)
 目標を「変更しない人」と,「変更することを繰り返す人」では,前者のほうが選手生命が短く,後者のほうが選手生命が長いと感じます。継続の限界値が高い人の特徴は,スケジュール変更が多いということです。(p88)
 「その日の目標をまっとうしないと気がすまない人」「決めたことをきちんと守らないと許せない人」 そんな人は,実は継続ができずに,モチベーションが長続きしません。(p91)
 周囲のアドバイスを聴きすぎると,自分の頭で考える習慣が身につきません。コーチや監督の指示に従って練習をするだけだと,それは作業になってしまうからです。(中略)また,周囲のアドバイスには,当たり障りのない無難な意見が多い気がします。(p92)
 反対に,周囲のアドバイスを,聴かなすぎるとどうなるでしょう。おそらく,行き詰まってしまい,限界の檻に入ります。人は,自分で自分のことを客観的に見ることができません。(中略)僕の場合は,「人の話を聴こう」という前提の上で,無難な意見は聴きすぎないように心がけていました。(p94)
 情報や知識を集めすぎることで,新しい発想の邪魔をすることがあります。情報を最初に入れすぎてしまうと,余白の部分が少なくなり,ニッチな研究しかできなくなるのです。(p96)
 実際に自転車に乗ってみたあとで,乗り方を教わったほうが,結果的に早く習得できるはずです。(p98)
 量を増やすことで限界を突破しようとする考え方は,日本人的です。(中略)選手個人の習熟度によって,量が通用する段階と,通用しない段階があります。基礎固めの段階にある選手であれば,量を積むことは大切です。けれど,誰もが一定の量を積んでいるプロの世界は,頭を使う世界ですから,量を積むだけでは勝ち残れないでしょう。(p114)
 積み重ねが効かなくなってきたなと感じたら,次に必要なのは,自分に「揺さぶり」をかけることです。(p118)
 相手の出方によって,こちらの出方を変える競技の場合,応用力が求められます。応用力とは,積み重ねによる反復練習では,なかなか身につきにくいものです。(中略)日本のスポーツ界を見てみると,20歳以下のカテゴリー「U20」までは,メダルを量産していながら,それ以降の年代では,メダルの数は伸び悩んでいます。ろの理由んおひとつは,積み重ねを重視しすぎることにあるのではないでしょうか。すでに応用や変化の段階に入っているのに,そのことに気がつかず,いつまでも基本だけにこだわっているため,実践的な経験が身につかないのです。(p119)
 選択肢を変えないかぎり,自分を大きく変えることはできません。やったことのないこと,知らないこと,興味がないことをやってみるからこそ,経験の幅が広がり,自分の可能性を開くことができます。それは,言葉でいうほど簡単ではありません。(p131)
 限界とは,今いる世界での限界なのです。自分は,どの世界の,どんなルールだったら戦えるのかに気づいた人ほど,限界の檻から脱出できると思います。(p135)
 好きなことに対して努力を投下するから上手になるのであって,嫌いなことに努力をしても,それほどうまくいくはずがありません。好き嫌いだけでは仕事にならないが,好き嫌いこそが仕事の原動力になる(p140)
 好きなことに努力を投下するためには,自分の好きなことと嫌いなことをはっきりさせておく必要があります。(中略)日本人の多くは,少ない経験の中から,自分に合っていることを見つけようとしている気がします。(p141)
 失敗の分析は,やりすぎてはいけないと僕は思います。(中略)原因を探りすぎると,本当は失敗の原因ではないものまで,失敗の原因だと勘違いして,変えてしまうことがあります。(中略)失敗の原因を真面目に考える人は,問題は必ずあるという前提で失敗を振り返るため,問題を見つけずにはいられなくなります。その結果,本当の原因かわからない問題にまでアプローチしてしまい,余計にスランプにはまってしまうことがあるのです。(p143)
 僕自身の経験からも,部分的なマイナーチェンジより,思い切って技術の手直しをしたほうが,記録は伸びるような気がします。本人にしかわからない小さな変更ではなく,まわりからも明らかに跳び方が変わったといわれるくらい,大きな変化を加えたときに,ブレイクスルーは訪れるものです。また,思い切って変えてみないと,今までのやり方と新しいやり方の違いがわからないということもあると思います。(p152)
 僕は,自分の身体を使って競技を行ってきた結果として,身体も,頭も,心も,大部分は,自分ではコントロールできないものであると感じています。(p160)
 僕がメダルを獲れたのは,没頭する力があったからだと思います。(中略)その走力がレース当日に何%発揮されるかは,「没頭する力」=「集中して試合に入り込む力」に影響される気がします。(p170)
 「心から信じれば,願いはかなう」「強く思い描くと現実になる」 僕は,そんな考え方に肯定的です。(中略)ですが,信じること自体がいちばんむずかしい。(中略)僕は,何かを信じる思いの強さには,3つのレベルがあると考えています。それは,低いほうから順に, ①「そうなってほしい」 ②「そうしてみせる」 ③「そうなることが決まっている」(中略)心から信じれば,願いはかなうという場合の信じる強さとは,③の状態にまで至ることです。(中略)信じようとしている状態には,願いをかなえるほどの力はありません。(p173)

2019年6月6日木曜日

2019.06.06 角幡唯介 『新・冒険論』

書名 新・冒険論
著者 角幡唯介
発行所 インターナショナル新書
発行年月日 2018.04.11
価格(税別) 740円

● 面白い。これだけの筆力をもった冒険家がいるのは,ぼくらの共有財産というか,ぼくらの宝なのではないか。

● 以下に転載。
 こういう行為にあたっては意味の追求など,それこそ無意味である場合が多くあり,意味などといった既成概念で解釈できるような価値体系にとらわれていたら,こうした常識外れの行動をとるのは難しい。(p9)
 川下りとかケービング(洞窟探検)とか自転車旅行とか,そういうある特定のジャンル化した行動,アウトドア専門店に行ったらそれ専用の販売コーナーができあがっているような活動にもどこか醒めた意識があり,そういったものとは一線を画した,まだ命名されていない知られざる行動形式によって困難な旅を実践してみたいと学生時代から欲求していた。(p20)
 冒険における無謀性とは,じつは管理されていない自由で不確かな領域におけるクリエイティブな試行錯誤の中にこそあるといってもいいだろう。(p53)
 現代の冒険が陥っているジレンマとは,到達すべき場所が無くなってしまったジレンマのことである。(p78)
 二〇一七年春に早稲田大学の女子学生が北極点に到達したと発表したが,彼女も飛行機で北極点の近くに着陸して最後の百キロを歩いただけだから事実上,観光客としての到達者だ。(p128)
 人間は本能的にどこかに到達したいのだが,この現代においてはすでに新しくて価値ある到達点が無くなってしまった。じゃあ既存のゴールを使って,あとは内容で優劣を競おうじゃないかというのが冒険がスポーツ化する最大の要因だ。いいかえれば,ゴールの数が決まっている以上,到達するという視点に縛られているかぎり,スポーツ化して優劣を競う方向でしか発展のしようがない。(p134)
 〈どこかに到達することではない冒険〉は現代においても可能だし,そうした冒険が素晴らしいのは地理的な制限を受けないので未知なるフィールドが一気に,ほとんど無限大にまで広がる可能性があることだ。(p138)
 冒険における自由とは何か。それは自分の命を自力で統御できている状態のことである。(中略)不安定な自由状態の中で冒険者は,システムの保護によってではなく自分の力で命を管理して安定させる努力をしなければならない。(p179)
 冒険である以上,一歩でも判断をまちがえれば自分の命が失われてしまう危険があるわけで,要するに冒険の自由の対価は死,なのだ。自由であることの責任は命で償わなければならない。(p182)
 ひとつだけ断言できるのは,自力性を増し,自由になればなるほど行為は困難になり,内容は濃いものになるということだ。冒険の世界で自力という観念が尊ばれるのは,こうした理由による。(p185)
 冒険者は脱システムすることで,自力で命を管理するという,いわば究極自由とでも呼びうる状態を経験することになる。この自由はたしかに不快で面倒くさい側面があるが,同時に圧倒的な生の手応えがあるので,一度経験するとそれなしではいられないようなヒリヒリとした魅力というか中毒性もある。(中略)死は絶対に避けなければならない事態であるが,同時に死の危険があるからこそ,冒険者は冒険の現場に惹きつけられもする。(p188)
 死が見えなくなったせいで現代人の生は活性化される機会も失い,だらだらといたずらに時間が流れる寄る辺の無い漂流状態を強いられるようにもなった。(p189)
 よくよく考えてみれば,便利であることそれ自体に本質的な意味は無く,ただプロセスが省略されて時間と労力が節約されるというだけの話にすぎない。(中略)私の目から見れば,どれだけ便利さを追求しても,その先には虚無しかなく,結局何も得られないようにしか思えないのだが,しかし世間の目から見れば,おかしいのは私のほうなのだ。(p196)
 現代という時代は,ほとんどの人間が自分の頭で考えない時代であり,非個人的な組織の原理が人園を組織している。だから自分の頭で考えることは必ず反社会的になる。(渡辺広士 p207)

2019年6月2日日曜日

2019.06.02 井上ひさし 『本の運命』

書名 本の運命
著者 井上ひさし
発行所 文藝春秋
発行年月日 19979.04.10
価格(税別) 952円

● 1997年の刊行。本に仮託して自分の生い立ちを語ってるところあり,読書術を指南しているところあり,の盛り沢山。
 が,良い本(コンテンツではなくて,本)の寿命は人間よりも長く,人間を使って自らを移動させるというところに納得。

● 以下にいくつか転載。
 やや大きめの手帳を用意して,本でも新聞でもなんでも,これは大事だと思うことは書き抜いていく。その日,自分の目に触れて「ウン?」と思ったことを,ただ順番にずーっと書いていくだけなんです。あとで参照できるように,出典とか頁数とかも書いておきます。そんな手帳が,一年にそうですね,五,六冊になりますか。それに番号さえ振っておけば,不思議に「あれは三冊目のあの辺にあったかな」ってわかるんです。手が覚えているんですね。(p60)
 整理するから忘れる。整理なぞしてやるものかと決心して,ただただ自分の生活時間に合わせて,分類などしないで写していく。これだと情報はなくならない。つまり,情報のポケットを一つだけにする。そしてそのポケットの中身を単純に時間順に並べる。このとき妙な整理をするから,逆に不整理が始まっちゃうんですね。(p62)
 どんな本でお最初は,丁寧に丁寧に読んでいくんです。最初の十頁くらいはとくに丁寧に,登場人物の名前,関係などをしっかり押さえながら読んでいく。そうすると,自然に速くなるんですね。(p64)
 戯曲を楽しむコツがあって,それは自分でキャスティングすることなんですね。たとえば「ハムレット」初めて読むとしたら,自分の好きな俳優をハムレットにしてしまう。(p74)
 黄表紙というのは方法論の宝庫なんですね。どうやって速射に面白く読ませるか,ありとあらゆる工夫が試みられています。(p112)
 まったくあの頃は,国会図書館なぞは特に,本を見せてやるんだからありがたく思え,という雰囲気でした。昭和三十年代の前半頃までは,役人と国民の関係というのは全部そうでしたけれど。(p120)
 こうやって,本が人の手から手へと渡っていくと,おもしろいことがいろいろ起こりますね。本もそのたびに新しい読者を迎えて,生き返る。ですから,いい本というのは寿命がとっても長い。(p128)
 「子供の本離れ」は,大人の側の問題です。子供は,基本的に大人が面白がっているものに興味を持つんですね。(p135)
 よく,「本棚が死んてる」という言い方をします。本棚の本が動かなくなって,ということは持主が本を読む情熱を失い,ホコリが積もっていって,何年も手を触れないままになってしまう。これはたまらなく寂しい景色です。(中略)本というのは絶えず触ってあげなくてはダメなんです。(p168)
 生活の質を高めるということを考えると,いちばん確実で,手っとり早い方法は,本を読むことなんですね。本を読み始めると,どうしても音楽とか絵とか,彫刻とか演劇とか,人間がこれまで作り上げてきた文化のひろがり,蓄積に触れざるを得ない。(p186)

2019年6月1日土曜日

2019.06.01 新井 満 『死の授業』

書名 死の授業
著者 新井 満
発行所 講談社
発行年月日 2010.10.29
価格(税別) 1,238円

● 中学生に自分の大切な人(親,友人)やモノの絵を描かせて,それを燃やすっていうのが,大切な人の死に立ち会う疑似体験になるんだろうか。
 率直にいえば,くだらない試みだと思うのだが,中学生の多感な時期なら充分に疑似体験たり得るのか。

● 以下にいくつか転載。
 死の定義の一番重要なポイントは,決定的に別れてしまうというところに尽きるのではないか,と。(p74)
 死ぬってたいしたことはないと思っているお子さんが,簡単に自殺してしまう。(p75)

2019.06.01 伊集院 静 『いろいろあった人へ 大人の流儀 Best Selection』

書名 いろいろあった人へ 大人の流儀 Best Selection
著者 伊集院 静
発行所 講談社
発行年月日 2018.03.12
価格(税別) 926円

● 『大人の流儀』既刊7巻からの抜粋。著者はご意見番というか,現代版長屋のご隠居というかな。ご隠居にしてはずいぶん精力的ではあるんだけど。
 たまにはこういう文章も読まないと。嘘を書かない人だよね。

● 以下にいくつか転載。
 いい時と悪い時は交互に訪れるという人がいるが,それは嘘である。運のいい人間と,運の悪い人間は明らかにいる。昔から人間が何か,誰かに祈ったり,頼み事をするのは,運,不運の存在を知り,運の悪い方に自分が入らないように願うからである。(p120)
 一度,談志の楽屋を訪ねたことがある。高座に出る直前,談志がふと真顔になった瞬間を見たことがある。ハッ! とするほど艶気があった。その折,楽屋口で談志の履物を見た。綺麗なものだった。お洒落なのだと感心した。(p125)
 幕末から明治にかけて,日本人を初めて目にした欧米の外国人が,総じて語っている日本人の印象は,“好奇心が強く,人に対して好意的で,よく笑う人々である”というものだ。この印象は多分に先進国の人々が途上国の人間を見る時に言われるものであるが,私は日本人の印象としては,そう間違っていないと思う。(p159)
 若い人の特権に,-未だどこにも所属せず ということがある。青春時代の君たちの目は,すでに私たちが失いつつある視点である。(p160)
 旅は旅することでしか見えないものが大半である。これは決して若い人だけへの提案ではなく,大人にも言える。(p161)
 「こんな酷いことが起こるなんて・・・・・・」 母親は悲痛な顔をして少年と二人で歩き続けた。母親は何度も手を合わせていた。少年はその母親に手を合わせる必要がないと言った。母親は少年が周囲の日本人から苛められ,いつも喧嘩し,彼等を憎んでいることを知っていた。だから死体を見て「いい気味だ」と口にした時,母親は少年の頬を叩いた。初めて母親に殴られた。(中略)三日後にあんなに元気だった母親が死んだ。(中略)男は別れ際に言った。 「母は自分の命を賭して,少年の私に許すこととは何かを教えてくれたんです」 やがて私は,自分が許せなかったことなど,たかが知れていると思えるようになった。(p175)