2017年7月28日金曜日

2017.07.28 茂木健一郎 『「超」東大脳』

書名 「超」東大脳
著者 茂木健一郎
発行所 PHP
発行年月日 2014.03.12
価格(税別) 1,300円

● このタイトルを付けたのは版元でしょうね。このタイトルの方が売れると踏んで。
 本書の内容は教育論。ひとつは大学入試をペーパーテストだけで決めることの愚かさを説く。もうひとつは,英語の必要性。英語で読み書きができないと,インターネット社会では大きく遅れを取るぞ,と。三番目が独学のすすめ。

● 以下に転載。
 問題は,グローバル化,IT化の進展によって,ほとんどすべての情報がリアルタイムで共有され,すごいスピードで進化しているということだ。(中略)そんな時代には,時間をかけて翻訳をする時間はない。学術情報の「リングァ・フランカ(共通言語)」である英語で思考し,新しい知の付加価値を生み出していかなくてはならない。それでこそ,世界に発信できる学問が可能になる。(p36)
 制度改革よりも大切なことがある。それは,ペーパーテストの点数の高い順番に合格させることが公正だと考える悪しき伝統から脱することだ。(p41)
 偏差値偏重は,別の問題も引き起こした。尾木さんはそれを,「農学部から文学部まで,全部の学部がフラットになってしまった」と表現している。「自分は何をしたいのか」「この学部はどんなカリキュラムか」「教授陣はどうか」といった基準よりも,偏差値の高低で学部が選ばれるようになったのである。(p47)
 個性は,点数化も偏差値化もできない。だから多様性,可能性があり,重要であるのだ。(p55)
 ピーター・F・ドラッカーは,「歴史の本には,学校の成績は優秀だが,人生では何もできなかった人たちのことは出てこない」と言っている。(p56)
 たまたまペーパーテストの点数がよくて,「偏差値の壁」に隔てられた「高偏差値側」に行った人間は,自分は優秀だという思い込みの上にあぐらをかいて努力を怠りがちになり,壁のない自由な国の人間に負けてしまう。たまたま「低偏差値側」に行った人間は,自分はダメだという劣等感から才能を伸び伸びと開花できず,こちらも自由な国の人間に負けてしまう。お互いに大きな損ではないだろうか。(p58)
 コンピュータの理論的原型をつくったイギリスの天才数学者アラン・チューリングは若き日,教室で何かの説明を受けている時,ほかの学生たちが納得した顔をしている中で,1人だけ当惑した顔をしていたという。私はこのなにげない話に,チューリングの天才性が感じられて仕方がない。(p64)
 新しいものが出る時は,多くの人から「そんなのムリだ」と言われるものだ。その声にとらわれずに前に進む人が創造性を発揮することになる。(p68)
 「これが正解だ」と教えられて,それを鵜呑みにするのは二流の知性にすぎない。本物の知性は,前提とされていることを疑う。(中略)こうした苛烈とも見える知性と態度こそが,イノベーションには不可欠である。(p69)
 学問の区分にこだわる愚かさは,スティーブ・ジョブズがはっきりと教えている。ビル・ゲイツとの対談の中で,「なぜアップルは成功しているのか?」と質問され,ジョブズは,こう答えている。「われわれは科学技術とリベラルアーツ,常にその交差点にあろうとしたからだ」(p81)
 ジョブズは,コンピュータやインターネットといった最先端技術の現場にあって,人間に寄り添う芸術的な完璧さを追求した。とかくデータ処理の道具になりがちなIT機器を,使いやすくデザインされた美しい作品に仕上げた。(中略)ジョブズにとってパソコンは「安くて,いい道具」以上のものだった。(p81)
 (ジョブズは)のちに「創造性とは?」と聞かれ,「ものごとを結びつけることにすぎない」と答えている。そして,創造的な人間はたくさんのことを経験して,つなぎ合わせる点をたくさん持っているが,こうした点をあまり持たない人には創造的な仕事は難しいと断じている。(p83)
 日本人がたくましい知性をみにつけるために,ぜひとも必要な要素が,偏差値からの脱出や英語の習得とは別に,もう1つある。それは,自分たちは世界に影響を与えるアイデアや思想の発信者になれると信じることである。少なくとも、その可能性を疑わないことだ。(p84)
 アインシュタインはただひたすらに物理だけをやっていたのかというと,そうではない。時間の多くを研究に割いていた一方で,ロシアの文豪ドストエフスキーの小説や,イギリスの代表的作家シェークスピアの悲劇と喜劇,ドイツの詩人ハイネの詩集,カントの哲学書といった古典に親しんでいた。(中略)また,自らバイオリンを演奏するほど音楽への造詣も深かった。(p86)
 先進的な富裕層は,もう日本の教育を相手にしていないのだ。日本の学校へ行かせることなど,ハナから考えていない。とうに日本離れが始まっている。そこまで教育の惨状は進んでいるのである。結局,今でも子どもを進学校へ行かせ,できれば東大に進ませたいと願うのは,いわゆる一般的な市民層に限定されつつあるのだ。(p90)
 2011年に日本人で初めてMITメディアラボの所長になった伊藤穣一さんに,「ハーバードはどう?」と聞いたことがある。返ってきたのは「ハーバードなんて終わりだよ。あんな大学,何もつくらないし,しゃべっているだけだから」という答えだった。伊藤さんは「ユニーク,インパクト,マジック(驚異)」を標榜するクリエイティブな人間だ。その彼から見れば,ハーバードでさえ評価はこうなる。(p96)
 合計点では合格にわずかに届かないが,英語だけ,数学だけの点数が合格者よりずっと高いとか,ある科目だけは満点に近い点数を取っているといった学生を,合格点だけで振るい落とすのは愚かなことだ。(p101)
 今では,ネット上で,論文や古典的文献など,多くの学術情報が簡単に手に入る。しかも,多くの場合は無料だ。いわば,独学者の時代となったのだ。もはや大学の唯一の役割は,「もったいぶること」だと冗談を言いたくもなる。(p109)
 独学者に注意すべきことがあるとすれば,独善的になったり,変な癖がつかないようにすることだ。各分野における標準的な体系は何なのかという知識は身につけておいたほうがよい。その点で大学のカリキュラムは参考になる。(p111)
 グローバル化時代は,世界中からの才能の獲得競争時代でもある。すぐれた才能をいかに発掘し,迎え入れるか。そこで大学や企業の優位性が決まってくる。だから,各大学はこうしたネットの無償講座に力を入れている。その意味では,オープンコースウェアは過酷な世界でもある。 中にはハーバード大学のマイケル・サンデルの授業のようなよくできているものもあるが,つまらない授業だってたくさんある。ネットで比較するのは,商品の価格ばかりではない。知の世界においても,いいものと,そうでないものを簡単に比べることができる。(p120)
 アメリカのアイビーリーグの学生は,卒業するまでに本を平均して500~600冊くらい読むという。私自身も,大学ではそのくらいの冊数を読まないと学問には追いつけないという感覚を持っている。だが,残念ながら日本の学生はそういう体力を持ち合わせていない。私は早稲田大学の国際教養学部で教えているが,ある時,すごく厚い専門書を「読むといいよ」と紹介したところ,次の週までに読んできたのは日本人の女の子1人だけだった。(中略)その子はスイスの寄宿舎学校の出身だった。(p128)
 西欧の概念をみごとに日本語化した和製漢語の豊穣さは,翻訳文化の優秀さを示してあまりある。それは私たちの誇りでもある。しかし一方で,翻訳文化の優越は,日本人が英語で世界のクリエイティブ・クラスと直接やりとりすることを妨げてもきた。(p137)
 人は忙しすぎると新しい何かを考える余裕をなくす。また,しばしば仕事と無関係のことに熱中している時にひらめきは訪れる。創造性をはぐくむ上でも,受験勉強はほどほどにして,大好きな何かに没頭する時間を持つといい。(p177)
 採用ひとつとっても,世界を相手にビジネスを展開する企業が欲しいのは「才能」であって,必ずしも「日本人」である必要は何もない。(p187)
 スティーブ・ジョブズがいつも心がけていたのは,Aクラスの人間だけでチームをつくることだった。そのためには国籍なんかどうでもいいというのがグローバル企業の考え方だ。(p188)

0 件のコメント:

コメントを投稿