2018年12月31日月曜日

2018.12.31 岩城宏之 『オーケストラの職人たち』

書名 オーケストラの職人たち
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 2002.02.25
価格(税別) 1,524円

● 指揮者と演奏者がいるだけでは,コンサートを催行することはできない。裏方の人間がいなければ。
 その裏方の仕事を,というより傑出した裏方人のエピソードを,著書ならではの視点でご紹介。

● 以下にいくつか転載。
 世界一のステージマネージャーがいるオーケストラは,必ず世界一流である。逆もまた真だ。(p24)
 弦楽器の名器は,死蔵しておいたらダメになってしまうのである。ヨーロッパやアメリカの音楽好きな金持ちは,手に入れた名器を,これはと目をつけた優秀な若い奏者に,タダで貸し与えている。よい楽器は,上手い奏者が引き続けていると,ますますよくなるのだ。下手なのが弾くと,楽器もダメになる。でも金庫にしまっておくよりは,まだましかもしれない。日本中に,成金の名器コレクターたちが,何人もいる。企業として買いあさったところも多い。世界中の数少ないクレモナの名器の多くを,殺しているようなものだ。文化への犯罪だといいたい。(p72)
 準備万端整うのを待っていたら何事もできないから,まず決行するのが,ぼくの主義である。(p101)
 日本も含めて世界中,お医者さんには音楽好きが多い。ひと頃,NHK交響楽団の定期会員には,聖路加国際病院の医師や看護婦さんが,実にたくさんいた。ひとつの企業(?)の中の,オーケストラ定期会員率というデータがあれば,おそらくこの病院がナンバーワンだったろう。現在でも,多分そうだろうと思う。(p112)
 写譜のミスよりも,むしろアレンジャー--作曲家のスコアのまちがいの方が多いものである。(p122)
 勘がよく,能力のある楽員は,最初に目を通す,つまり初見で弾くときに,写譜の間違いの音を,直観で正しい音に直して,演奏するものである。(p145)
 聴衆の耳は常に保守的であり,聴き慣れた音楽を好む。(p152)
 元を正せばすべて親類関係なのだ。区別するために仕方なくクラシックとかジャズ,演歌などと言っていることから,差別や逆差別,得体の知れない優越感やコンプレックスが生まれたのではないか。(p159)
 彼らは当然,仕事の安全な利益を考える。ひと月に一度は音楽会に足を運ぶと予測するクラシック愛好者を,人口の二パーセントと計算しているそうである。(中略)毎月一度というのは,ちょっと希望的すぎると思う。(p160)
 本当のことをいうと,自分で外国のオーケストラを指揮するのは,仕事であるというより,ぼくの最高の嬉しい趣味なのだ。とんでもないことを書くが,ほかの日本人の音楽家の演奏を観るのは,どうも好きじゃない。(p165)
 ピアノ技術研究所に入ってまずショックだったのは,あれだけ親しんできたピアノの音がわからないことでした。(中略)ピアノの調律の音としての響きが聞こえなくて,ピアノの音楽しかきくことができないわけです。(瀬川宏 p200)
 あるレベルまでは機械調律でもっていくことはできます。でも,曲を弾くとなると,塩加減というのかな。スープは飲み始めにちょっと薄いと思うくらいのが,最後まで飲んだとき,本当においしいですよね。ぼくらの仕事にもそれがあるようなんです。断言はできませんが。でもそうじゃないかな,と思うんです。(瀬川 p206)
 本来オーケストラというガクタイ集団は,演奏が終わるやいなや,一刻も早くステージから出ていきたい本能の持ち主なのだ。(p212)
 驚いたことに,大勢の客が,他の人の邪魔にならないように,静かに立ち上がり,足音をしのばせて,そーっと会場を出て行ったのだ。『ドナウ』が終わるころは,お客は三分の一くらいになっていた。ぼくはこの聴衆のあり方に,すごく感動した。彼らはもちろんウィーン・フィルの『ドナウ』が好きなのだ。だが,ベートーヴェンの「運命」の白熱した演奏の興奮のあとに,この美しいワルツを聴きたくなかったのだ。ベートーヴェンの感動だけを胸にしまって,その日をおしまいにしたかったわけである。なんでもかんでも拍手して「タダのおみやげ」を,何曲も聴こうというレベルではないのだった。(p228)
 先の音楽会の宣伝も今日の音楽会が終わってからでなく,開始の前に配るのが重要だと思います。つまり,食べ物のことは,これから食べる食事とは関係なく,食事前に考えたほうがいいと思うんです。終わったばかりでは,次の食事のことは考えませんからね。(佐藤修悦 p247)

2018年12月27日木曜日

2018.12.27 岩城宏之 『指揮のおけいこ』

書名 指揮のおけいこ
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1999.05.30
価格(税別) 1,524円

● 達意の文章。達意というか,しなやかな文章。音楽家の多くは本を読まないらしい。何となく納得する。活字がかったるくなるのではないか。一流の音楽は一流の文学を超えるし。
 最も面白かったのは,暗譜で振って失敗した話。なるほど,こういうことが起こり得るのかと。

● 以下に転載。
 テンポの違いとか解釈の相違も重大だが,音色に関しては曲の最初から最後まで,無限の組み合わせが連続するのだ。つまり指揮者は,オーケストラにピタリと合奏させるために存在するのだけれど,物理的にピタリとは絶対にいかないからこそ,存在理由があるわけだ。(p9)
 ほとんどの楽譜は演奏したあとで捨てる。なまじっか持っていると,継ぐに指揮するときに,自分の書き込みとかメモに頼って,勉強しないでやってしまう。だからいちいち新しいのを買う。(p14)
 奏者たちは指揮棒の先など見ていない。指揮者の目を見ているのだ。(p19)
 指揮者なしだと,オーケストラはいわば安全運転をするので,テンポの動きや表情の幅が希薄になる。このことのために,指揮者の存在理由があるのだ。(p26)
 大抵の「ガクタイ」は長いリハーサルが嫌いだ。(p52)
 指揮者はリハーサルでしゃべりすぎてはいけないのだ。楽員たちは,解説やおしゃべりの多い指揮者を,最も嫌う。つべこべ言わずに,自分のやりたい解釈を指揮棒で表現しろ,というのだ。(中略)不自由な外国語だと,余計なことを言う余裕がない。(中略)ところが母国語だと(中略)延々としゃべってしまう。(p56)
 ヨーロッパ語には音楽上のニュアンスを一言で表す単語が豊富だ。(中略)ぼくの英独仏語はイイカゲンなものだ。本当はデタラメをやっているに違いない。だが,このデタラメでイイカゲンで嬉々として仕事をする,ということが,肝心なところなのである。どの国の指揮者にとっても,自分の国のオーケストラとの仕事が一番難しい,と書いた。お互いわかり過ぎている関係には,チンプンカンプンが起こり難いからである。「アバタもエクボ」は,とても大切なのである。(p63)
 新聞の音楽会広告を眺めていると,みんなダラダラと絶え間なく仕事をしているように見える。余計なお世話かもしれないが,心配してしまう。(p69)
 指揮者に限らず,一,二パーセントの例外を除いて,音楽家は活字というものを読まない種族である。(p69)
 指揮という仕事は,オーケストラの真ん中でカッコよく両手を振っている商売と思われているが,あの動作は,水面に出ている氷山の一角なのである。(中略)水面下の圧倒的な大部分は,スコアの分析である。(中略)その上で,自分が再現したい理想の演奏を,ひたすら「思う」のである。指揮とは,この「思い」だけだと言っていいのだろう。(p88)
 巨匠たちは「枯れた美」そのものだった。九十歳の女性指揮者の「枯れた美」はいかがなものか。(p97)
 その場の雰囲気のための潤滑油としての罪のないウソを,女はつけないのである。だから指揮者には向かない。(p98)
 事故に直面したとき,ガチャーンの前に,キャッと叫んでハンドルから手を離してしまう女性ドライバーが,かなり多いそうだ。(中略)指揮者は,練習と本番のどの瞬間でも,絶え間なく事故の防止に神経を遣わなければならない。(p99)
 そして最初のミスっぽいのは,指揮がどこかでヘンだったことからくる。事故のほとんどの原因,遠因は指揮者からと思っていれば間違いない。(p99)
 『春の祭典』の演奏の難しさは,身も心も疲れ果てているときに,最大の難所がくることにある。(p122)
 大事故の原因は,頭の中にフォトコピーした架空のスコアをめくっていたとき,いつものくせで,うっかり二ページ一緒にめくってしまったからだった。というより,そのうっかりの映像が,目の前に出てしまったのだ。(p126)
 「巨匠」となるのは,冥王星に旅行するより難しい。「巨匠」は多くの「名指揮者」の中で,特別に巨大なエネルギーを持ったバケモノなのである。(p133)
 大物指揮者になるための一番の近道は,ユダヤ人になることだ。指揮者に限らず,世界的な演奏家の九〇パーセント以上は,ユダヤ人である。(p137)
 もう一つ,世界的な大物の音楽家であるための,強力な資格があるのだ。ホモセクシュアルである。この割合も,過半数をはるかに越える。(p138)
 指揮者はオーケストラにどんな瞬間も採点されている。(p139)
 目を瞑りっぱなしなら,自宅でCDを聴いているのと,同じではありませんか。(中略)せっかくナマの現場にいるのなら,素晴らしい演奏をしている音楽家の動作の美しさを,時々は目を開けて見てほしい。(p145)
 問題は,やたらに大仰な身振りの,何もかもダメな指揮者がいることである。しかも(中略)聴きわける力のない,多くの聴衆は,カッコいいと思われてしまうヤカラがたくさんいるから,困るのだ。(p146)
 ウィーン・フィルの定期演奏会は,日曜日の朝十一時である。定期会員は座席を親子代々受け継いでいるから,旅行者がこの定期演奏会を聴くのは,まず不可能だ。(p162)
 最近聞いた話だが,東京近辺だけでも「指揮で食っている」人間が,少なくとも千五百人はいるのだそうだ。(p186)
 どんな楽器と比較しても,指揮棒は恥ずかしいほど安いのだ。せいぜい二,三千円のものを,絶対に折れないから得だと思って買っていくような根性で,相手がアマチュアのオーケストラでもコーラスでも,指揮をしようというのが間違っている。(p193)
 指揮は,頭の中で自分の理想の演奏状態を架空に作り上げ,それを両腕と顔を使って,オーケストラに伝える。(p199)
 あらゆるスポーツにとって最も大切なことは,「力を抜く」である。スポーツに限らない。人間の動作や行動のすべてにあてはまる。だが,「力を抜く」とはどういうことなのだろうか。(中略)力を抜くためには,まず,あり余る力が必要なのだ。(中略)あれは要するに,合理的な力の出し方を言っているのだと思う。(p210)

2018年12月23日日曜日

2018.12.23 岩城宏之 『棒ふりのカフェテラス』

書名 棒ふりのカフェテラス
著者 岩城宏之
発行所 文藝春秋
発行年月日 1981.05.01
価格(税別) 980円

● 40年前に出たものだけれども,古さは感じない。どの分野でも文才のある人はいるもので,音楽界では故岩城宏之さんがその代表だろう(探検家では角幡唯介さん)。こうした人たちの文章を読めることは,幸せのひとつに数えていいと思う。
 これは交友録なのだが,つまりは書き手が自分を語ることになる。

● その交友の相手は次のとおり。
 マルタ・アルゲリッチ
 レナード・バーンスタイン
 千葉馨(N響ホルン奏者)
 ディーン・ディクソン

 延命千之助(N響事務職員)
 ジャン・フルネ
 ジョージ・ゲイバー(NBC交響楽団のティンパニー奏者)
 ヤシャ・ハイフェッツ

 オイゲン・ヨッフム
 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 ウィルヘルム・ロイブナー
 黛敏郎

 中村紘子
 長田暁二(レコードディレクター)
 ペンデレツキー(作曲家)
 邱捷春(作曲家)

 スヴァトスラフ・リヒテル
 アイザック・スターン
 武満徹
 ハンス・ウルリッヒ(バンベルク交響楽団バイオリン奏者)

 ニノ・ヴェルキ(オペラ指揮者)
 渡辺暁雄
 ヤニス・クセナキス(作曲家)
 山本直純

 ニカルノ・ザバレタ(ハーピスト)
 ルービンシュタイン

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 言葉では言えない音楽家同士の戦いがあって,特に指揮者と独奏者の場合,その最初の一発でコンチェルトの主導権が決まってしまう。(p9)
 この日の彼(バーンスタイン)は朝十時からニューヨーク・フィルと新日本フィルの野球の試合で大騒ぎをし,午後は東京見物をし,その後は朝の五時までここに書いたとおりだったのだ。スーパースターの狂気のエネルギーとしか言いようがない。(p23)
 アメリカのオーケストラは,市民達の援助で成り立っている。国や州には助けを求めず,したがって介入もさせず,自分達の文化は自分達の手で育てる,と流石はデモクラシイの本場の国だ。(中略)が,問題も大いにある。(中略)膨大な数のスポンサー達の大半が,おばあちゃんたちなのである。要するに金持ちの未亡人,有閑マダムのスノビズムが,その街の音楽を支配することになる。(p34)
 芸事とは所詮,人に夢を売ることだろう。芸人自身に夢はなくとも,人さまが夢を感じれば,その芸事は成功といえるだろう。(p53)
 ぼくは音楽ファンと音楽の話をするのが苦手で,こういう人達は大抵すごい物知りであり,嘗ての自分の姿を見てしまうのに苦痛があるのだろうか。専門になると深く狭くならざるを得ない必然が,広く浅い知識を持つことの出来る暇のないことへの嫉妬を感ずるのかもしれない。(p62)
 目下,山口百恵さんがぼくの神様だから,世界中彼女のテープを持って歩いているが,たまに日本に帰った時にテレビでお顔を拝めれば,十分に満足で,というよりは,そうでなければならないのだ。好きだ,ファンだと称して週刊誌で対談している作家の方々は,ファンとしてはニセモノに違いない。(p68)
 ヘルベルト・フォン・カラヤンという名前,つまりフォンという字が入っているから貴族のような名前なのだけれど,ぼくは一度彼のパスポートを覗いたことがあるのだが,ヘリベルト・カラジャンとあった。(中略)だから,大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンという名は,もしかしたら芸名だと言うことができるかもしれない。(p87)
 ヨーロッパの中央文化地帯は,長い歴史を,侵略,被侵略のくり返しで過ごしてきて,そもそもが何人だ,ヤレ何人でないなっていうことを神経質に考える必要がないのかもしれない。(p88)
 突然,カラヤンが指揮を中断して,こっちを向いてどなった。「うるさい! こんなにうるさくて,練習ができるか。あの電車を止めてくれ。イワキ,電話をかけて止めさせろ」(中略)カラヤンは,電車の騒音に楽員たちがイライラし始めたのに,先手を打ったに違いない。(p94)
 この人(カラヤン)は,世界中のありとあらゆる知り合いが何語で話すのが得意かを,コンピューターのように記憶していて,何年ぶりで会っても,ヤア,しばらくからして,その人用の言葉をしゃべるので有名だ。(p96)
 もしかしたら世界の音楽ファンのうちの半分が,アンチカラヤンかもしれない。真の偉大なスターにはこういうことはつきものであって,アンチが強烈であればある程,実はやはりカラヤンファンなのだと思うのだ。(p100)
 人気がありすぎることからくる,カラヤンへの世界中の誤解という,不幸も実に膨大ではないのか。彼の指揮者としての恐ろしいまでの才能と能力については,世界中のカラヤンファンの,いったい,何分の一が知っているだろうか。(p100)
 カラヤンは有馬(大五郎)さんに,しみじみと言ったそうだ。「世界中の人間は,自分のことをこれだけの地位,人気を保っているのだから,さぞや自分が政治的にも,実務的にも,権謀術策的にも,あらゆる手を使っているだろうと思っているだろう。そういわれていることはよく承知している」といいながら,カラヤンは右の腕をさすって,「だがなあ,アリマ,本当はこの右手一本だけなんだぜ。この歳になっても音楽の勉強をし続けて,この右手で表すことだけをやっているだけなんだ」と少し寂し気に笑ったそうだ。(p101)
 それにしても,日本のオーケストラは,どうしてその時の指揮者の国籍によって,こうも違ってしまうのだろう。その抵抗のなさ加減に,時には寂しさを思うことがある(p110)
 ドシロウトの二人がやっても,日本人が日本の楽器を持つと,どちらかがかける「イヤーーアッ」のあとの「ポン」が絶妙にピッタリ合って,西洋風に三,四と指揮をされたって,こうは合わないね,とぼくが感心すると,だから「阿吽」というんだと,作曲者(黛敏郎)は威張るのだった。(p117)
 どうもこの人は,何の音も分かっちゃいないらしい。もしかしたらオンチらしいのだ。だが,演奏が上手く行った時に,長田さんが出すOKは,実に,実に的確なのだった。(p136)
 原爆のことなど,全然イメージになくて書いた「作品何番」は,ただの「作品何番」としてもすばらしい曲なのだ。だが,「広島の犠牲者のための哀歌」としてこの曲が世に出なかったとしたら,あんなに早く,世界の,いわばスーパー・ヒットになっただろうか。(p141)
 所詮,ソリストたちは名人芸的に勝手に弾きまくり,指揮者たちはそれにヒョイヒョイとテンポを合わせてやり,合わせ方のうまいのがコンチェルトの上手な指揮者であって,しかも合わせてやったぞ,ザマアミロ,というのがコンチェルトだと思っていた。(p154)
 昨日あなたはパリで音楽会をやったそうだが何をやったか。ムソグルスキー=ラヴェルの「展覧会の絵」でした。ああ,あれはすばらしい。だけど私はやっぱりラヴェルのオーケストレーションの方ではなく,ムソグルスキーのピアノ曲の原曲の方が好きだ,と言って彼(リヒテル)は弾きだした。もうそうなったら曲を愛するあまり止まらないのだ。(p155)
 「今年は,音楽界を二百九十回やってしまった。いくらなんでも,これは多すぎる。来年からは数を減らして,もっとじっくり音楽にとりくもうと思うんだ」,と十年程前,アイザック・スターンに言われて,仰天したことがある。(p159)
 ある一人の指揮者が,そのオーケストラの一年中のスケジュールをやったと仮定すると,これは体力と気力の問題で,全く不可能だ。なにしろこの商売,やはり神経と体力をベラボウに使うから,なんとか,人様よりはたくさんの休みを,つくらなければならない。それに,何日にいっぺんずつの休日も大切だけれど,夏の頃に,一ヶ月か二ヶ月の休暇をドカンととらなければ,次のシーズンがだめになってしまう。(p162)
 スターンだけではない。世界中の超一流の演奏家の九〇パーセント以上が,ユダヤ人だと言える。彼らのほとんどがこんな調子なのを見ていると,ユダヤ人の体力,気力その他もろもろのすべてのエネルギーが,全世界の民族の中で飛び抜けていることに,改めて驚嘆するのだ。(p162)
 日本の音楽ファンには,きびしい面というか,まあ,本当のことを言うと,後進的な面があって,例えば,カラヤン,ベルリン・フィルが演奏中にミスをやると,ああ,彼等もやはり人間なのだ,と感激するくせに,ちょっと名を知らない音楽家や団体がミスをすると,すぐに三流だと決めつけてしまうところがある。(p182)
 世界中のほとんどのオーケストラでは,二人ずつ並んでいる絃楽器奏者の席順は,前から後に,収入の順を表すのだ。技術の順でもある。きびしいことである。(p183)
 オーケストラというのは,ハッキリ言ってしまえば軍隊である。(中略)軍隊というのは,将校と兵隊とだけで成り立っているわけではない,と思うのだ。古参の下士官というのがいて,両方をつなぐわけだ。(p183)
 今現在の文化活動的レベルがそう高くなくても,歴史の中のある時期に,一時世界を制覇した国の末裔がやっている芸術には,時々,途方もない個性や大きさが出てきて,非常におもしろい。(p205)
 早くから社会保障がゆきとどき,国民全体の生活レベルが世界一高い国にも,魅力のある芸術は育たないようだ。(p206)
 こういうパーティーでは,ひとしきりグラスで歓談のあと,メインゲストは別室に招き入れられ,当家の主人と少人数で正式なディナーが始まるものだ。(中略)このメインの部屋でわれわれといっしょにディナーを食べる人は,それこそ特権階級的な人というわけで,だから,相当なジイサン,バアサンばっかりである。(p226)
 自分は練習が嫌いなたちなので,部屋で一人でさらっていると全然一生懸命やらないものだからなんにもならないから,お客の前でやる時が,その曲の次の時のための練習だと思っている。お客がいっぱいいると一生懸命に練習ができる,など恐ろしいことを言って笑うのだ。(p231)

2018年12月18日火曜日

2018.12.18 嶋 浩一郎・森永真弓 『グルメサイトで☆☆☆の店は,本当に美味しいのか?』

書名 グルメサイトで☆☆☆の店は,本当に美味しいのか?
著者 嶋 浩一郎
   森永真弓
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2014.09.19
価格(税別) 1,400円

● ベルリン・フィルもユーチューバーであるとか,グーグルやFBを立ち上げたときに「あなたの携帯電話の番号を入れてください」というポップアップ画面が出るときがあるが,迷わず入れるべしとか,モヤモヤのいくつかが解消された。
 高校生がLINEとTwitterをどう使っているかの解説も勉強になる。

● 以下にいくつか転載。
 映画をチェックする場合です。じつは,注目すべきは★の数よりも,口コミの件数なんですよ。過去に映画のレビューに関してデータ解析をしてみたところ,興行収入と連動していたのは,★の数よりも口コミの件数のほうだったんです。(p23)
 「・・・・・・まずは自分で行ってこい,話はそこからだ」と。一回も行ったことのないお店をセッティングできてしまうなんて,重度の集合知依存症ですよ。(p25)
 「損しない,失敗しないものを選ぶ」ということを,重要に思いすぎているんじゃないかな。本当は,失敗や想定外のことからこそ,新しい発想や,偶然の発見が得られるんだけどね。(中略)あんまり,効果効能を事前に求めすぎるのは,逆にもったいないよ。(p26)
 読み方のコツとしては,低い点数をつけているレビューから読むことです。(中略)低い点数のレビューを確認して,その内容が自分にとって許容できるレベルの悪いことかどうかを判断すればいいんです。(p46)
 “ユーチューバー”として有名なのは,レディー・ガガ。一説にはCDの売り上げよりも,YouTubeのほうが大きな収入源になっているともいわれます。(p98)
 ベルリンフィルも“ユーチューバー”なんですよ。すごく質のいい音源をYouTubeに上げてるんです。(p99)
 “ユーチューバー”として評価されるには,コンスタントに出し続けなくちゃならないところが大変なんですけどね。一発屋はダメなんです。(p102)
 自分のアバターが適当な格好をしているのを「恥ずかしい」と思う。それは「アバターに,自軍を表現するような人格を持たせたくなった」ということだよね。アバターが持つものは,デジタルで架空のものであっても,自分の欲しいものになる。(p127)
 何か自分が好きな領域がある人だったら,ブログを試してみるチャンスかもしれない。でも,ちゃんとそこで稼ぐつもりなら,その業界の中でトップ数パーセントに入らないと難しい。(p170)
 LINEのトーク機能がリアルを凌駕していったのはわかる。リアルだと更新をかけないと情報が新しくならないけど,LINEなら勝手に情報が飛んできて,いつでもタイムリーな状態で便利だから。(p205)
 若い人たちにとっては,LINEのトーク機能はリアルが高速化したチャットで,タイムライン機能がリアルとブログの間ぐらいのポジションと理解するといいと思います。大人が理解するとしたら,完全に友達限定のフェイスブックぐらいの存在って感じですかね。(p206)
 大人はあまり使ってないので実感がないかもしれませんが,タイムラインに流れてくる企業のアカウントについている「いいね」の数を見ると,じつはフェイスブックよりも(LINEの方が)ユーザーがずっと多いことがわかります。(p206)
 LINEが学校や部活などの人間関係中心のコミュニケーションツールなのに対して,ツイッターは趣味を軸にしています。会ったことがない人同士でも,趣味が合えば,ツイッターで友達になっているという感じ。(p208)
 デジタルツールの進化に合わせてコミュニケーションを拡張する方向にひたすら活用されるばかりで,ずっと使っているわりに,意外と(高校生の)デジタルリテラシーは上がってないんですよね。(p210)
 昔から,コミュニケーションのスピードを急ぐ欲求の強い人って,常にある割合で存在していましたが,LINEというツールでその人たちの欲求が強く出てきたのかな,と。(中略)そういうことを言い出す人が1人でもいると,村社会っぽくなってきてしまう。(p213)
 フランス語やドイツ語や中国語など,英語以外の外国語を翻訳する場合は,いったん英語に翻訳するのがお薦めなんです。(中略)このひと手間で,翻訳の精度が上がりますよ。(p226)
 ネットニュースはちょっとB級なものというイメージもあるよね。だけどこの5年くらいで,そのトレンドが変わってきているんだ。それは,出版社がネットニュースに参入し始めたから。(p244)

2018年12月15日土曜日

2018.12.15 石原壮一郎 『SNS地獄を生き抜く オトナ女子の文章作法』

書名 SNS地獄を生き抜く オトナ女子の文章作法
著者 石原壮一郎
発行所 方丈社
発行年月日 2017.10.03
価格(税別) 1,200円

● まず,いくつか転載。
 LINEは用件を伝えたりやり取りを楽しんだりするのは向いていますが,深く語り合うことには向いていません。つい長文を書いてしまう癖がある人は,あえて「そっけないメッセージ」を心がけるぐらいでちょうどいいでしょう。(p106)
 世の中には,怒りをぶつけられないと,自分が悪いことをしたと気づけない人がたくさんいます。(p110)
 SNSが広まったことで,世の中にはいかに「かまってちゃん」が多いかが浮き彫りになりました。自分の中の「かまってちゃん要素」にも気づかされます。(p146)
 正論を堂々と書くだけでも恥ずかしいのに,さらに「自戒を込めて」の連発。そもそも「自戒を込めて」には,俺っていいこと言うなあと勝手にドヤ顔している傲慢さと,ちゃんと我が身も振り返っているので突っ込まないでと予防線を張っている姑息さと,そういう印象を与えることに気づかない愚鈍さが込められています。(p154)
 エアリプのつもりじゃなくて,単なる独り言に対しても,「自分のこと?」と思う人が現れがち。それはTwitterの宿命と言っていいでしょう。(中略)この手の誤解に耐えられない人は,Twitterには向いていないと言えるでしょう。(中略)気をつけたいのが,自分が誰かのtweetにギクッとして,「それ,私のことですか?」と聞いたり思ったりすること。勘違いだったとしても実際に自分のことだったとしても,聞いたとたんに「すごくめんどくさい人」になってしまいます。(p159)
 予想外のクソリプ攻撃を受けると,「自分の書き方が悪かったのかな・・・・・・」などと反省したくなります。あえて煽ろうとしたならともかく,反省する必要はまったくありません。何を書こうが,どういう書き方をしようが,クソリプは湧くときは湧きます。(p165)
 カチンと来る事態が起きたときに,いちいち気にせずスルーする勇気を持つことは,Twitterに振り回されないための必須条件です。(p166)
 クソリプ気味のtweetに抱く感情は,ある種のリトマス試験紙です。「あなたがクソリプに舌打ちするとき,クソリプもまたあなたをせせら笑っている」という一面があることも,頭の片隅に置いておきましょう。
● こんなに面倒なら,LINEもFBもやめてしまった方がいいんじゃないか。FBやLINEなど,ネットで文字のみのやりとりが簡単にできるようになったのは,いいようで悪い。ハードルが低いから,みんな飛びつく。飛びついて疲れてしまっているのではないか。
 いつでも“友だち”が侵入してくるということでもある。外界を遮断して一人の世界を作ることができない。内と外の区別がない。いつでも外になってしまう。

● スルーできればいいのだが,それもしづらいだろう。FBはそれでも友だちの数だけの広がりを持つが(実際には友だちの数分の1程度の広がりか),LINEだと結構な閉塞感を味わうことになりそうだ。
 遠慮なく既読スルーができる人しか使ってはいけないものかもしれない。が,そういう人からは逆に友だちが離れていくだろうから,彼(彼女)はLINEには残れないだろう。要するに,LINE耐性のある人はLINEからはじかれる。何だかなぁ。

● FBやLINEは告知や指示や依頼には向いているが,雑談的なコミュニケーションには向かない。というより,雑談的コミュニケーションをネットで文字だけでやろうとするのが間違っている。ネットでリアルのコミュニケーションを代替,補充できるとは思わない方がよい。
 ネット上のつながりをつながりと思ってはいけないというのは,ネットリテラシーのイロハのイだろう。

● 君子の交わりは水のごとし,ではないけれど,雑談的コミュニケーションにも適正濃度があると思う。LINEはその濃度を上げすぎてしまう結果をもたらすことが多いのでは。
 とはいっても,ママ友だと,LINEでつながっているいないで,仲間はずれ的な位置におかれてしまうことがあるんだろうか。厄介ではあるけれども,基本的に友だちにすり寄る必要はないと思う。

● ぼくはネットでの個人対個人のコミュニケーションは煩わしいだけだと思っているので,FBはやめたし,LINEも相方としかやっていない。ネットで個対個のコミュニケーションはやらない。向いていない場でそういうことをするのは愚というものだ。
 ネットは基本,告知の場だ。Twitterやブログで自分が何をしているのかといえば,自分はこんなことを考えてますよ,こんなことを思いつきましたよ,という告知なのだ。

● だからネットは告知で溢れることになる。告知する(書く)人ばかりになる。その告知を受ける(読む)人がいない。
 が,それでもネットは告知に向いているのであって,個対個の関係を新たに築いたり,それを維持するための手段としては向いていない。

● 場に相応しい使い方をしていくのがよい。あとは告知の内容(コンテンツ)の勝負になる。面白いコンテンツ,読むに耐える文章を書くことだ(と言い聞かせねば)。
 PVのために書くのではないが,告知した以上は反応があった方がよい。自分は反応しないくせにそう思う。
 だから,告知のあとは競争なのかもしれない。限られた市場の中で自社製品を売りこんでいくのと同じ。それなりの工夫が必要なのだろうが,その工夫の前に,自社製品の品質を高めていくベーシックな努力が必要だ。勉強しなくちゃ。

● リアルでも文字は個対個のやりとりには向いていない。文字ってのは記録のために使うもので,雑談やコミュニケーションのためにあるものではない。
 ネットは告知に向いていると言ったけれど,ぼくはリアルでも個対個のコミュニケーションをあまりしたくない人間だ。リアルでも告知だけしていたいのだ。リアルよりネット向きの人間なのだと思っている。
 それゆえ,文字でのやりとりの方がいいというのは,リアルの世界で生きていくのがヘタなタイプに属すると考えていいと思う。

● これからはネットの比重が高くなるから,文字でのコミュニケーションが重要になると言われることがあるが,逆にいうと,それは人間本来のあり方からすればイビツな形なのかもしれない。
 音声から文字に比重が移っていくのは,たぶん間違いないのだろう。ネットが文字を光の速さで遠くまで届くようにしたから。
 ぼく一個にとってはそれは福音なのだけども,いったん発したら消えることのない文字がやりとりに使われることになると,世の中にある“曖昧”や“逃げ場”が脅かされることになるかも。

● やりとりに使われる文字は,いつまでも残しておいてはいけないような気がする。保存期間をかなり短めに設定する必要があるのではないか。
 すでに発言が最長24時間で消えるSNSがあるようだけれど,アーカイブにして残すものと短期間で自動的に消えるものの両方が必要になる。

● ぼくにとってはネットは味方だ。ネットを味方につけて生きていけるのはありがたい。そこに安住してしまえる気安さがある。苦手なリアルからはますます遠ざかることになるかもしれないけれども,ネットのおかげで老後は安泰だと思っている。
 他者に向けての表現行為を行える場があるっていうのは,とてもありがたい。

2018年12月8日土曜日

2018.12.08 百田尚樹 『至高の音楽』

書名 至高の音楽
著者 百田尚樹
発行所 PHP新書
発行年月日 2016.01.05
価格(税別) 780円

● 自分の無知が次々と暴かれていく快感ある。演奏を聴いて曲を聴いていない,というくだりがあって,ハッとした。
 ぼくはライヴをメインにしているんだけど,それだとたしかに演奏は聴いても,曲を聴いていなかったかもしれない。曲を聴くにはCDが向いているかもなぁ。

● 以下に多すぎる転載。
 ジャズの巨匠デューク・エリントンが語った「世の中の音楽には二つのジャンルしかない。良い音楽と悪い音楽だ」という有名な言葉がありますが,私は十八世紀から十九世紀にかけてのヨーロッパの音楽--とくにドイツの音楽こそ世界最高レベルの音楽だと確信しています。(p6)
 その昔,レコード屋で一時間も迷って買った同じ録音が一〇〇円ショップで売られているのを見ると,何とも言えない複雑な気持ちになる。(p14)
 その時は不意に訪れた。それまで幾度聴いても何も感じなかった私の心に,当然,すさまじい感動が舞い降りてきたのだ。(中略)それまで霧の中に隠れていて何も見えなかった巨人が目の前に立っていた。私はその偉大な姿をただただ呆然と見つめているだけだった。これが,私がクラシック音楽に目覚めた瞬間だった。(中略)それからは狂ったように家にあるベートーヴェンのレコードを聴きまくった。最初の一回はほとんど感動しない。しかし繰り返し聴くうちに,「エロイカ」の時と同じように,徐々に霧が晴れていき,ある瞬間,目の前に素晴らしい世界が広がるのだ。(p17)
 現代を代表するピアニストである,マウリツィオ・ポリーニもヴラディーミル・アシュケナージもダニエル・バレンボイムも,いずれも五十歳を超えるまで,この曲(バッハ:平均律クラヴィーア曲集)をレコーディングしなかった。三百年も前の作曲家が幼い息子の練習曲として書いた曲が,二十世紀最高のピアニストたちをひれ伏させるのだ。何という作曲家であろうか!(p28)
 この旋律は厳密にはロ短調だが,凄まじいばかりに半音階が使われていて,ほとんど無調性のように聴こえる。(中略)これは私の想像にすぎないが,おそらくバッハはドデカフォニーの原理を知っていたのだと思う。しかしドデカフォニーだけでは美しい音楽にならないことも同時に知っていた。だからこそ,その一歩手前で踏みとどまったのだ。(p30)
 モーツァルトが短調をほとんど書かなかった理由は,当時の聴衆は短調の曲を喜ばなかったからだ。(中略)ベートーヴェンのように自分の理想とする曲を追い求める挙句,しばしば当時の聴衆の好みを無視するような曲作りは,モーツァルトは基本的にはやらなかった。(p36)
 私も若い頃は理想的な演奏を求めて何枚も聴き比べた。しかし年を経て「名曲は誰が演奏しても名曲」という境地に達した。少なくともレコード会社がCDに録音しようというだけの演奏家なら,何を聴いてもそれほど大きな違いがあるわけではない。 しかしショパンの「練習曲集」だけは,ちょっと様子が違う。(p55)
 ポリーニのあまりの完璧ぶりに,一部の音楽評論家たちは「機械のようだ」「冷たい」「音楽性が感じられない」という避難をしたが,笑止と言わざるを得ない。日本の評論家は,巨匠と呼ばれる大家が,音が揃わなかったり,和音が乱れたり,テンポが揺れたりする演奏を,「芸」とか「味わい」とか言って尊ぶ癖があるが,おそらく「わび,さび」と勘違いしているのだろう。(p58)
 モーツァルトは最晩年になると,音楽がどんどん澄みわたってきて,悲しみを突き抜けたような不思議な音の世界を描くようになるが,「魔笛」はまさしくそんな音楽である。(p70)
 モーツァルトは後のベートーヴェンとは違い,基本的に演奏者の技術を考慮して作曲した。曲を依頼してきたプレーヤーや楽団のテクニックが高ければ高度な音楽を書き,そうでない場合は,その人が演奏できる音楽を書いた。(中略)それくらいモーツァルトは職人技に徹した作曲家だった。(p72)
 (第九の)第一楽章の神秘的な導入部分は,これまでどの作曲家も紡ぎ出したことのない不思議な響きである。二十世紀最高の指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは,この冒頭を「宇宙の創世」に喩えた。(p77)
 私は「巨匠」と呼ばれる過去の名指揮者が好きなのである。これは単なる懐古趣味とは違う。古い指揮者の演奏はその多くが強烈な個性を放っているのだ。それに比べて現代の指揮者は誰の演奏を聴いても同じに聴こえる。(中略)彼らが育った時代はレコードもなければラジオもない。つまり音楽を日常普通に聴くことはできなかった。(中略)だから彼らがコンサートにおいて,これまで一度も聴いたことがない交響曲や協奏曲を演奏するのは普通のことだった。そのため当時の指揮者は曲のイメージを掴むためにスコアを徹底して読んだ。(p85)
 なぜ昔の指揮者に個性的な演奏が多かったかと言えば,その曲に「規範」となるべき「模範的演奏」というものがなかったからだ。(中略)また「古い巨匠」たちの多くは楽譜というものは完全なものとは見做していなかったふしがある。彼らは作曲家が楽譜に書ききれない音とニュアンスを演奏で表現しようとした。(中略)もう一つ,過去の指揮者と現代の指揮者の大きな違いがある。それは過去の巨匠たちにとってクラシック音楽は同時代の音楽であったことだ。(p88)
 リヒャルト・ヴァーグナーはクラシック音楽界の「突然変異」とでも呼びたいような不思議な作曲家である。若い時の習作は除いて,主要作品のすべてはオペラという特異さもさることながら,驚くのは,その台本も彼自身が書いていることだ。(p99)
 初めてヴァーグナーのオペラを聴いて,どれが何のモティーフかわかる人など誰もいない。彼自身は,どの旋律が何のモティーフであるかなど,まったく説明していないからだ。(中略)これを一度聴いて好きになる人はいないと断言できる。ところが何度も聴くうちにモティーフがだんだんわかるようになり,やがてそれらの組み合わせも聴きとれるようになった頃には,「ヴァーグナーの魅力」にとことん取り憑かれていることになるのだ。(p103)
 実は楽器演奏の技術もスポーツの技術と同様,時代が下れば下るほど進歩する。つまりいかにパガニーニが凄いとはいえ,彼の技術は二百年前のものであり,当然,現代のヴァイオリニストの方がテクニックは上である。(p110)
 それでもその曲にはやはり作曲家の性格や人間性が顔を出すものである。ところが面白いことに,人間性が想像もつかないような音楽を書いた作曲家が何人かいる。その代表的な人物がアントン・ブルックナーだ。(p125)
 ブルックナーは生涯にわたって自信の無さを臆面もなくさらけだし,批評家や友人たちに作品を酷評されるたびに,彼らの忠告を無批判に受け入れ,生涯にわたってせっせと自作の書き直しに励んだ男なのだ。(中略)七十二歳で死ぬまで他人の評価に振り回された。(p128)
 ブルックナーの自作解説を読むと,彼自身が自分の作品を理解していないのではないかと思うほどだ。(p129)
 「クラシック通」という存在は始末に負えないところがある。彼らは多くの人々が愛する通俗名曲を馬鹿にして,(自分だけが理解していると思い込んでいる)マイナーな曲を愛する(ことを吹聴する)傾向がある。しかしこの本を読んでいただいているクラシック初心者の皆さんは,そんな「通」の言葉に惑わされる必要はない。クラシック音楽の本当の傑作は,実は有名曲の中に圧倒的に多いのだ。(p134)
 チャイコフスキーは交響曲や協奏曲を作曲する時は,形式に合わせて厳格なスタイルで書くことが多かったが(それでも,彼はしばしば羽目をはずしているのだが),バレエ音楽ではそうした制約から逃れ,やりたいことをすべてやっている感じがする。(p139)
 この曲は「運命」と呼ばれることが多いが,これは作曲者が名付けたものではなく,実は日本だけの名称である。しかしこの名称は素晴らしいタイトルであると思う。なぜなら,まさに「運命」と格闘するドラマが描かれているからだ。(p143)
 本来,歌詞のない純粋器楽の音楽は聴く者の感情に強く訴えかけることができても,文学的なメッセージを与えることは非常に難しい。しかしベートーヴェンは音楽の力でそれを可能ならしめることを証明した。(p144)
 芸術はスポーツではない。優劣を競うものではないし,数値化できるものではない。これ(聴き比べ)が行き過ぎると,曲を聴いていても演奏ばかりに耳を奪われ,肝心の曲を聴くということを忘れる。(p159)
 彼(ブラームス)は本来非常に美しいメロディーを書く作曲家であるが,その美しいメロディーを敢えて封印して作曲している気がしてならない。何のためか--古典形式にもっていくためである。(p162)
 ブラームスは理想とするベートーヴェン的なものを描くために,本来の自分を抑えながら,懸命にもがいたような気がしてならない。だからこそ二十一年もの長きにわたって,産みの苦しみを味わったのだ。本来ブラームスの音楽はもっとナイーブで,迷いに満ち,内省的なものだと思っている。しかしこの「第一交響曲」では,そんな自分の「弱さ」をかなぐり捨てて必死で戦っている。それだけに私はこの第一楽章を聴くと,胸が詰まりそうになる。(p164)
 バッハの慈愛のオリジナル楽器に合わせることも意味のあることではあるが,それでなければバッハは再現できないという考え方はむしろバッハへの侮辱とも思う。バッハの音楽はそんな狭い音楽ではない。むしろ進化した現代楽器で演奏すれば,よりバッハの意図を大きく表現できる。(p175)
 今日の研究によれば,ベートーヴェンはむしろ多くの貴族令嬢や夫人と情熱的な恋愛をしたことが明らかになっている。彼は耳が聞こえず,貧しい平民の出身で,背は低く,顔には疱瘡の痕があり,ハンサムとはとても言えなかった。にもかかわらず,多くの貴族令嬢や夫人が彼に夢中になったのだ。(中略)高い音楽教養を身につけた貴族令嬢たちがベートーヴェンの演奏を目の当たりにすればどうなるか--考えるまでもないだろう。(p182)
 女流文学者としても名高く,文豪ゲーテとも親交があった才媛ベッティーナ・フォン・アルニムはゲーテへの手紙でこう書いている。 「初めてベートーヴェンに遭った時,私は全世界が残らず消え失せたように思いました。ベートーヴェンが私に世界の一切を忘れさせたのです。ゲーテよ,あなたさえも--」 私はこの手紙を書いたアルニムの恐ろしいまでの慧眼に感服する。(p183)
 シューベルトは「死」というものに魅入られていた男だったと思っている。もしかしたら若い時から,自分は長く生きられないという予感があったのかもしれない。(p199)
 才能に任せて書きなぐったように見える曲が多いのだ。彼(ロッシーニ)のもっとも有名なオペラ「セヴィリアの理髪師」は何と三週間で書きあげられた。(p203)
 (ロッシーニには)実はただ一つないものがある。それは「深刻さ」である。切ない部分はあるが決して悲しくはなく,悲劇的に見えても本当の「暗さ」や「怖さ」はない。(中略)だからといって彼を低く評価するのは間違いだと思う。クラシックは何も「深刻」で「真面目」で「陰翳」がなければならない理由はない。(p203)
 わずか数分の中に,いくつもの名曲が詰め込まれているような贅沢さがある。並の作曲家なら一つの動機(モティーフ)を徹底的に使いたおすところを,ロッシーニはメロディーを惜しげもなくつぎ込むのだ。小説で喩えるなら,いくつも長編を書けるだけの材料を短編の中に放り込んでしまう感じだ。(p205)
 「初心者のための小クラヴィーア・ソナタ」という副題が付けられているピアノソナタ・ハ長調K545は,おそらく弟子のレッスン用に書かれたもので,テクニック的には極めて易しく書かれている。にもかかわらず晩年を代表する傑作となっているところにモーツァルトの凄味がある。(p212)
 彼(モーツァルト)のピアノ協奏曲にはピアノパートの部分も即興に委ねられているところが少なくない。というのはもともと彼自身が弾くために書かれたものだから,細かい楽譜や指定は必要なかったのだ。(中略)だから,これは私の個人的な考えだが,現代でモーツァルトのピアノ協奏曲を弾く場合,ピアニストは自由にアドリブを加えるべきだと思う。(中略)それこそモーツァルトが望んだ演奏だと思う。(p214)
 変奏曲というのは,簡単に言えば「主題をアレンジ(編曲)した曲」で,実はこの編曲能力こそが作曲家の真の力を測れるものと言っても過言ではない。(中略)「ゴルトベルク変奏曲」は主題と三〇の変奏曲からなるが,バッハの変奏はかなり大胆なもので,初めて聴くと,主題のメロディーは第一変奏からほとんど聴き取れない。実はバスの主題(低音部)を残して,あとは自由闊達と言っていいほどに大胆な変奏を繰り広げているからだ。(p219)
 当時は狭い学生下宿で安物のプレーヤーによる貧弱な音で聴いていました。その頃の夢は理想的なリスニングルームで高級なオーディオで音楽を聴くことでした。そんな環境で聴くレコードの感動はどれほど素晴らしいだろうかと夢想しました。四十年後の現在,その夢を叶えました。しかし時々ふと思います。本当はあの頃のほうが今よりもずっと「いい音」で音楽を聴いていたのではないかと。そう,音楽は耳ではなく心で聴くものなのです。オーディオ的な音の良しあしなんて音楽にとってはささいなことなのです。(p239)

2018年12月4日火曜日

2018.12.04 伊藤まさこ 『おべんと帖 百』

書名 おべんと帖 百
著者 伊藤まさこ
発行所 マガジンハウス
発行年月日 2016.03.10
価格(税別) 1,400円

● 高校生の娘の弁当を作るという想定。女子高校生っていうのはこんなに少食なのか。曲げわっぱに詰めるんだけど,これが小っちゃいもので,これでたりるのかなぁ。
 という,突拍子もない疑問で申しわけない。足りるんだろうな,たぶん。

2018年12月1日土曜日

2018.12.01 伊藤まさこ 『おいしいってなんだろ?』

書名 おいしいってなんだろ?
著者 伊藤まさこ
発行所 幻冬舎
発行年月日 2017.07.25
価格(税別) 1,400円

● 衣食住をきちんと考えている人の本を読むと,自分もそうしているような錯覚に陥ることがあって。それで安心してしまって,「出来合い&インスタント&レトルト&ファストフード」の道を邁進することをやめない。それこそ俺の生きる道,みたいな。
 困ったものだ。と本気で思っていないのが困ったものだ。

● 以下に転載。
 物をたくさん持っている人が幸せとか,持っていない人が不幸せとか,もはやそういう感覚はなくなりました。金持ちだろうが貧乏だろうが,楽しみや幸せはそう変わらない。(オオヤミノル p12)
 最高の店でも,場末の店でも,そこをどう使うかは本人次第。食べ手が,店のランクに合わせた礼儀とアイデアを知っておくべきだと思うんです。(オオヤミノル p12)
 生きていく達人の条件は,ランクにかかわらず“ていねい”かどうかだと思います。物はもちろん,人,時間,ひらめきに対して“ていねい”かどうか。(オオヤミノル p13)
 コーヒーを淹れる際,「ていねいに」と言うと,みんな時間をかける。でも時間をかけると,一滴と一滴の間が長くなるだけで結果おいしくならない。ていねいな人はおうおうにして早いもんです。早さには運動神経が要り,運動神経には経験と知恵が必要です。(オオヤミノル p14)
 赤い肉は血の味がしますね。いい血の味はいろいろな味がする。(オオヤミノル p20)
 高い材料で時間をかけて,勉強した人が作る最低を食べるか,あるいは安い材料でCPで鍛え上げられた人の最高を食べるか。ランクが低いものの最高と,ランクが高いものの最低は一緒ではない。ランクは実は上下関係ではなくて,世界が異なる。高いランクの最低を食べるくらいだったら,低い世界の高いところを食べたい。(オオヤミノル p25)
 コンソメ文化はまだまだ根強い。かつて家庭でお母さんが洋食的なものを作る時,何にでも固形コンソメを入れました。(中略)デザインの味はほんとうにはおいしくない。(オオヤミノル p30)
 写真を始めた頃,アラーキーが好きで荒木さんみたいな写真を撮りたくて同じペンタックス67というカメラに九十ミリのレンズを付けてポートレートを撮ってました。でも当然荒木さんの写真にはならない。でも同じ機材を使っているから,荒木さんの写真を見ると,どうやって撮っているのかある程度は想像できる。そうやって違いを知り,自分の写真について考えるわけです。(長野陽一 55)
 友人知人は皆,食べる速度が速い。料理の仕事に携わる人が多いということもあるけれど,やはり根が食いしん坊だからではないか。早く,速く。おいしい一時を逃してなるものか。そういう意気込みが感じられて頼もしい。(p103)
 カウンターは舞台で料理人は役者のようだなと感じる。料理人がかっこいいのは,観客である我々に常に観られているからではないだろうか。(p107)
 コトコト煮る,というより,ガーッと火を通すことによって,フルーツの味がぎゅっと詰まったおいしいジャムが出来上がる。(p112)
 料理の環境にいると太る傾向があるんですよ。中華料理のコックさんの多くは太り気味です。味見するという理由もありますが,食べなくても,油成分などを吸収している。(陳志清 p123)
 食欲は生きようとする本能なので,それを一回ストップすると,逆に生きたい,生きようとする意欲が出てくる。それから比べたら,将来の心配とか悩みは,今生きるのにそう困ることではない。(大沢剛 p148)
 人間は毛の生えてない猿なんですね。体毛も皮下脂肪もそう多くない人間は,本来暖かいところで暮らす生き物だと思うんです。だから運動して自力で温めるのが一番いいけれど,それが十分にできないのでせめて外から温めて巡りをよくしようと。(大沢剛 p154)
 食事の内容が糖に偏っていると,食べたあとに血糖値が上がって,その後下がりやすいんですね。下がるときに空腹を感じます。(中略)だから血糖値を下げないもの,例えば上質な油やタンパク質を摂るといい。(大沢剛 p155)
 使っているところに血液が上がってきますので,頭ばかりを使っていると上のほうに血液が集まりやすくなるんですね。(中略)そういう時は歩くと,上にのぼり過ぎていた血液が下がる。(大沢剛 p156)
 お腹が空いた時に,グーグーと鳴っているのが気持ちいいんですよ。お腹が空いてイヤじゃなくて,すごく気持ちのいいほうに向かっていることを実感しました。(p157)
 食べたいものを食べるということは,食べたくなくなったら食べるのをやめるということとセットなので。これくらい残すのもなとか,高かったからなっていうのは体の欲求以外のところで無理矢理詰め込むことになるのでそこは潔く食べない。(大沢剛 p159)
 私の周りの料理上手たちは,いつも台所をピカピカに磨き上げている。「料理のにおいが残っているのが気になる」これはみんなの共通感覚。(p168)
 要は手加減ですね。これがあるからこそ面白いのですが。手加減ってものがおいしさの表現なんです。(河田勝彦 p248)
 生地が出来上がることを「乳化した」と言いますが,この乳化が大事なんですよ。その時,ピカッとツヤが見える。それがタイミングなんです。これを見落とすと大変なことになる。(河田勝彦 p250)
 例えばクロワッサンも,火が幽霊のように動いていますので,全部を同じ形で仕上げるには,型に入れて焼くしかない。ところが型に入れると味も変わってしまう。好きなように,伸びたいように伸ばしてあげたほうが,味はだんぜんおいしい。(河田勝彦 p257)
 (おいしいってなんでしょうね)難しい問題だけど,自分のなかでは答えが出ているような気がしています。結局作る人の雰囲気とかも一緒に食べている。人柄と,あとイメージする力。(吉本ばなな p279)
 泡立てた生地に砂糖の半量を混ぜ,全体をさっくりとかき混ぜてよく馴染ませる。それから残りの半量の砂糖を入れ,軽く混ぜたら型に入れる。どうして一度に混ぜないのでしょう,入る分量は同じなのに。そう先生に尋ねるとこんな答えが返ってきた。「生地に砂糖がすべて混ざりこんでいるよりも,ところどころのほうが甘みが感じられるでしょう?」 この時の先生の言葉は,お菓子作りだけでなく,その後の料理作りに大いに役立つこととなった。(中略)ちょっと引き算して,最後に中心となる味をきりりと利かす。料理の味がぼやけなくなったのは,このおかげに他ならない。(p305)

2018年11月28日水曜日

2018.11.28 新谷 学 『「週刊文春」編集長の仕事術』

書名 「週刊文春」編集長の仕事術
著者 新谷 学
発行所 ダイヤモンド社
発行年月日 2017.03.09
価格(税別) 1,400円

● 熱い思いが語られている。一気に読んだ。
 それはそれとして。紙の週刊誌がいつまで存続できるか。最大部数を誇る週刊文春も60万部を割り込みそうだ。単純計算だと日本人の0.5%しか読んでいない。対象読者のセグメントはしていないと語っているが,読者層の高齢化はおそらく紛れもないだろう。
 電車の中でも乗客のほぼ全員がスマホを見ている。新聞や週刊誌を広げている人を見かけることは非常に稀だ。

● そうしたことは,当事者(著者)は言われるまでもなくわかっている。したがって,次々と手を打ってもいる。
 しかし,電車の中でスマホを見ている人の中に,文春のコンテンツを読んでいる人がどれほどいるだろうか。ほとんどいないと思う。

● 理由は2つある。ひとつは,ネットから取る情報はタダというのが定着してしまっていること。心ある人は,有料コンテンツも見ているのだと思うが,そうした心ある人が週刊文春の読者の中にいるかどうか。
 もうひとつは,ブログとSNSの普及だ。特にSNSだ。多くの人が発信者になった。もちろん,大したものは発信していないし,できるわけもない。が,ともかく発信者が大きく増えた。発信者というのは自分が発信したものを他のどれよりも高頻度で見るものだ。ま,自分がそうだから,他の人も同じなのだろうと思っているだけなのだが。

● 週刊誌は日がな1日図書館にいる年寄りが,自分では買わないで読むものになっている。ネタは外部依存。が,SMAP解散のような国民的関心を呼ぶ出来事はそうそう起きない。難しい世の中だ。

● 以下に多すぎる転載。
 スキルやノウハウといったものとは全く無縁の編集者人生を送ってきた。(中略)世の中で起こっている様々な出来事,あるいは話題の人々。それらを「おもしろがる」気持ちがスキルやノウハウよりも大切だ。世の中の空気を肌で感じ,あらゆるモノゴトに敏感になること。それが,全ての原点である。(p5)
 やはり人間はおもしろい。愚かだし醜いけど,かわいらしいし美しくもある。立川談志さんは「落語とは人間の業の肯定である」という名言を遺したが,週刊文春も全く同じ。(p16)
 あらゆる仕事の原点は「人間と人間の付き合いだ」ということを忘れてはいけない。相手をネタや情報源として見たら,スクープは獲れない。(p16)
 情報は全て「人」から「人」にもたらされる。「人」が寄ってくれば,「情報」が集まってくる。(中略)そして人が集まってくるような場を作るには,「一緒にいるとおもしろいことができそう」と思ってもらえることが大切なのだ。(p19)
 私はSNSのたぐいは一切やらない。(中略)本当の信頼関係はSNSでは築けないというのが大きな理由だ。SNSが普及したことで,人間関係も「ストック」ではなくて「フロー」になっているように思う。多くの人とつながっているように見えるが,個々の人間関係はものすごく浅い。(p20)
 こういったときに大切なのは図々しさだ。相手のやはり忙しい。本業をやりながらなので,私の相手なんかできないのもわかる。それでも臆せずに接触することだ。(p25)
 基本的に「情報はギブアンドテイク」だ。特にその濃密な情報コミュニティに入るにあたっては「教えてください」だけではダメ。(p26)
 人に会う前に我々はどんな準備をしているのか。まず,これから会う人に著書があれば読んでおき,相手がどういう人かを予め把握しておくことは大前提だ。ネットを使った情報収集も必要だろう。一方で,予備知識に縛られてはいけない。(p35)
 どの世界でも何かを成し遂げた人には独特の雰囲気がある。会えば,それはすぐにわかる。編集者,記者にとって,そういう人の謦咳に接することはかけがえのない財産だ。我々は会った人によって鍛えられる。(p37)
 私は苦手な人は少ない方だと思う。ちょっと癖がある人であっても,最初から腰を引くようなことはしない。そして,誰が相手でも,偉い人であってもなるべき直球でものを言うように心がけている。(p38)
 苦手な人と立て続けに会っていると,自分のテンションも落ちてくる。疲れてしまう。やはり,会って元気が出る人と会いたいものだ。(p39)
 編集者や記者は多くの人と長期的な信頼関係を築くことが大切だ。そのためには日常的な「マメさ」が求められる。(p43)
 人間なら誰でも,自分の国が良くなったほうがいいと思っているはずだ。そのために,それぞれの持ち場,それぞれの立場で汗をかいているわけだ。よって,わかり合えるところは必ずある。(p44)
 日々いろいろな世界のキーマンとお会いするが,そういったすごい人には共通点がある。普通の人は「今度飯行きましょう」とか「また改めて」というセリフを社交辞令として言いがちだ。しかし,私が尊敬するすごい人たちは,社交辞令で終わらせない。「やりましょう」と言ったら,すぐ「じゃあ,いつやろうか?」と日程調整に入るのだ。(中略)このスピード感には感動した。大組織のトップになってもアクセスは速く,フットワークは軽い。(p46)
 もうひとつすごい人に共通するのが「肩書きで人と付き合わない」ということだ。(中略)振り返ってみると,付き合いが長く続く相手に共通するのは,お互い立場は違うが,「何のために働くのか」について共感できるという点だ。(p48)
 事件はたいてい表と裏の狭間で起きる。(p51)
 この仕事は正直に言って,真面目な人,オーソドックスな感性の人はあまり向いていない。誰もが考えつくようなことを言っても「それはそうだよね」で終わってしまう。お金を払ってもらえるようなコンテンツはなかなか作れない。(p56)
 企画の発端は,こうした雑談から始まることも多い。そこで大切なのは「おもしろい」と思ったら,すぐに一歩を踏み出してみることだ。そのままにしておかない。「実現できたら,おもしろいな」と思ったら,まずやってみることが大切だ。(p59)
 私は,人がやったことのないようなことをやるのが好きだ。見たこともないようなものを作るのが大好きだ。そこに大きな喜びがある。(中略)予定調和はつまらない。最初から見本や感性予想図があって「そのとおりにできてよかったね」ということの何がおもしろいのか。(p68)
 企画を考える上で大切なのは,常に「ベストの選択」をすることだ。「この人を落としたらすごいぞ」「このネタが形になったら世の中ひっくり返るぞ」と思ったら,そのベストの選択肢から絶対に逃げないことだ。(p71)
 組織というのは大きくなるほど「結果が読めない」ものに対して臆病になるのが普通だろう。売上げが立つのかどうかわからないものに投資することを嫌う。しかし,「読めない」からこそおもしろいのだ。(p72)
 すごいマーケティングだなと思うのは,光文社の「VERY」だ。あれは究極のマーケティング雑誌と言えるだろう。ほぼ読者と一体化している。読者に根ほり葉ほり聞くだけ聞いて,実在の女性が浮かんでくるような誌面作りをしている。あのリアリズムはすごい。そして,今の時代にうまく合っている。(p76)
 では週刊文春も同じように,いろんな人に「どういう記事を読みたいですか?」と聞いて回ればいいかと言えば,それにはほとんど意味がない。それをしても,今までに見たおもしろかったものをベースに語られるだけで新しいものは生まれないからだ。我々が求めているのは「見たこともないもの」であり「誰も予想がつかないもの」だ。(p76)
 週刊文春については性別や年齢層などはあまり考えない。そうではなくて「文春的な切り口,文春的なテイストが好きな人たち」がお客様だ。(中略)従来の「マーケティング」のようにカテゴリー分けしすぎると雑誌はつまらなくなる。(p77)
 雑誌作りにしても何にしても,最初にガチッと設計図を固めてしまうと,「それを守ること」が仕事になってしまう。そのとおりに作ることが,ある種のノルマや義務になってしまう。だからつまらなくなってしまうのだ。設計図がないからおもしろい。何が起こるかわからないから,やる気が出る。まっさらな新雪を踏みしめるようなワクワク感が大切なのだ。(p78)
 辛い時期こそ,フルスイングする勇気を忘れないことだ。本当に辛くなってくると,過去の成功体験に縛られてしまう。(p80)
 おもしろいか,おもしろくないか。当たるか,当たらないか。最後は自分の中の「驚き」が重要な判断基準である。(p82)
 常に「本音」で「本当のこと」を伝えることが信頼につながる。(中略)芸能界は最たるものだが「強い事務所はやらない,弱い事務所ならやる」というのが当たり前になっている。今,ネットをよく見る人であれば,「本当のこと」に気がついてしまっている。(p83)
 ユニクロの企画のように「独自の戦い」が軌道に乗ると強い。なぜなら,週刊文春からしか基本的に情報は出ないからだ。週刊誌に限らず,あらゆるビジネスにおいて「自分でリングを設定し,主導権を握ったところ」が勝つ。(中略)ビジネスがうまくいっていないときほど,他人のリングで戦おうとしてしまう。それではどんどん縮小していくだけだ。(p84)
 まず先に考えるべきは,圧倒的に「おもしろいかどうか」だ。「売れる」ことは目指すが,順番はまず「おもしろいかどうか」が先。(p86)
 企画の良し悪しを見極めるひとつの大きなポイントは「見出しが付くか付かないか」だ。(p90)
 その人の核心,本質,しかもあまり触れられたくない部分を,ビシッと突く。そして,そこをいかに広げていけるか。(p91)
 その考え方の全ての源にあるのは「どうなるのだろう?」という不安ではなく「どうするのか」という意志である。前向きに考えること。そして,攻めの姿勢である。(p94)
 どんなプロジェクトでもそうだが,熱がないものはうまくいかない。現場にひとりでも「これを成功させたい」と強く思っている人がいないとダメだ。(p101)
 実現したいことがあったら,難しそうでもまず頼んでみることが大切だ。最初から可能性の幅を狭くしてはいけない。(p104)
 告発者は途中で必ず揺れる。一度決断しても不安になって前言を翻すことがままある。相手が強大な権力を持っている場合はなおさらだ。そんなとき記者にできることは,何時間でも告発者に寄り添い,話を聞き,共感を示すことだ。(p111)
 「何のために働いているのか」を示すのは,リーダーの仕事でもある。菅義偉さんが官房長官としてあれだけの高い評価を受けているのはなぜか。菅さんのもとで働いている人たちに話を聞くと,共通して返ってくる答えがある。「菅さんの指示にはゴールがある」と言うのだ。(p114)
 私は,誰かに会うときは常に「一期一会」だと思っている。「次に会うときに聞けばいいや」というのではダメ。聞くべきだと思ったことは,その場で聞かなければならない。(p117)
 言いにくいことは聞きにくいことほど,率直に伝えるべきだ。(中略)そして,相手にとってマイナスな情報ほど「早く」伝えたほうがいい。なぜなら,その分早く状況を修復できるからだ。(中略)ただし,誠意を持って,相手のプライドが傷つかないように工夫をすることが大切だ。(p118)
 政治とは人間がやるものだ。よって,政治を書くということは人間を書くということだ。その政治家を一人の人間として知り尽くしていなければ,本当の政治は書けない。そういう意味で,彼(山口敬之)が書いた『総理』という本には,切れば血が出るリアルは政治が描かれている。よく,総理を会食する記者を「御用記者だ」と批判する人間がいるが,私からすると全くナンセンスである。(p124)
 職人肌の編集長,デスクほど,「美しい雑誌」を作りたがる。だが,週刊誌は美しさより鮮度。突貫工事でもイキのいいネタを突っ込むべきなのだ。(p133)
 自らの決断に縛られてもいけない。目の前の「現場」は生き物であり,刻々と複雑に変化を続けている。リーダーはブレることを恐れてはならないのだ。(p152)
 社員と特派で違う点があるとすれば,社員は「何でもできる」のが基本だ。(中略)特派に関してはなるべく専門性を持たせる。(中略)うちの特派は「50歳」を定年としているが,彼らが定年になったときに,政治ジャーナリスト,芸能ジャーナリスト,医療ジャーナリストとして筆一本で稼げるように専門性をしっかりと身に付けてもらっている。(p158)
 この指揮命令系統は絶対だ。編集長がデスクを飛び越えて現場の人間に指示することはない。デスクがカキを飛ばしてアシに指示するのもNGだ。重要な指示ほどそれは徹底される。(p159)
 編集長はとにかく「明るい」ことが重要である。(p165)
 花田(紀凱)編集長は「超楽観主義者」だ。明るく前向きで,雑誌が本当に好きなことが伝わってくる。(中略)「出してから考えよう」と言われたときに「これか」と思った。まさに花田イズム。出してから考える。揉めたら,そのときは何とかする。このノリがイケイケの花田流の原点にあるのだ。(p166)
 花田さんは身内ではつるまない人だった。デスクや現場の人間と飲みに行くこともほとんどなかった。彼の世界は外に向かって開けていたのだ。いろんな分野の人と,毎晩つき合っていた。(p168)
 チームでする仕事では,常に現場の最前線の記者たちに最もダイレクトに負荷がかかる。編集長はその状態をきめ細かく把握しておかなければならない。(p169)
 デスクたちが私の企画に対する違和感を口にしやすい,異を唱えやすい雰囲気を作ることが大事だ。よって,私は,そういう耳障りなことを言われても真摯に耳を傾けるように心がけている。(p172)
 大切なのは現場を責めないことだ。そこで責めたら次のトライをしなくなってしまう。(p174)
 結果がダメであっても,客観的な事実はそのまま受け止める。自分が見たい現実ばかり追い求めていたら,必ず失敗する。(p174)
 もうひとつリーダーが厳に慎むべきは,部下からの報告に「そんなことは知っている。俺のほうが詳しい」と張り合うことである。こういう上司はどの世界でも意外に多い。(p174)
 リーダーシップの根源は何だろうか。私は「信頼」であると思う。(中略)部下に信じてもらわなければならないし,自分も部下を信じなければならない。スクープとは,そもそも「信じて待つ」ことから生まれるものだ。(p179)
 リーダーの首は差し出すためにある(p184)
 舛添さんの会見で「どうすれば舛添さんは辞めてくれるんですか?」と聞いたテレビ局の人間がいたが,あれは傲慢そのものだ。(p192)
 政権に問題があればファクトで武装して戦うべきなのだ。メディアの武器は,論よりファクト。それこそが報道機関による権力との戦い方である。(p193)
 我々は「たかが週刊誌」だ。一週刊誌が「大臣の首をとってやる」なんて,そんな傲慢な姿勢で雑誌を作ったら,世間はそっぽを向くだろう。(p193)
 SNSが発達してくると,有名人も自分で発信をするようになる。有名人自身がメディアになると,自分にとって都合のいいことばかりが発信される。(p195)
 最近,メディアでも敵味方で世の中を分けすぎているように感じる。応援団は応援し続けて,批判する側は批判し続ける。いずれも「自分たちが見たい現実」を見ようとするから,彼らから発信されるニュースにはバイアスがかかる。(p197)
 報じられた側の気持ちがわからなくなったら,おしまいだ。そこに創造が及ばなくなったら,この仕事をやる資格はない。(p199)
 学級委員が作るような雑誌になると,週刊誌は途端につまらなくなる。学級委員が正論を吐いても,誰も読まない。(中略)新聞社系の週刊誌が陥りがちなのはそこだ。(p201)
 そもそもゴシップを楽しむというのは古今東西見ても,ひとつの文化だと思う。偉そうな人,気取っている人をおちょくって,世の中のガスを抜き,憂さを晴らす。それも週刊誌にとって大切な役割であることを私は否定しない。(p206)
 昨今のメディアに関する議論を見ていてまず言いたいのは,「外見についての議論が多すぎる」ということだ。「4Kか8Kか」「デジタルか紙か」といった議論は,外見の話だ。大切なのはあくまで中身。(p228)
 組む相手を選ぶ際,重要な条件が二つある。ひとつは相手が「熱」を持っていることだ。熱がある同士でぶつからないと,おもしろい化学反応は生まれない。(中略)もうひとつの条件が自分たちと対極にある相手を選ぶことだ。そのほうが相互補完的な関係が作れるし,メリットは大きい。(p236)
 川上(量生)さんは感覚が編集者っぽい。常に逆張りを意識している。みんなが「右」というときにあえて「左」を見ようとするのは編集者にとってすごく大切なセンスだ。(p237)
 これまでは情報の発信者であるテレビ局が視聴者に対して圧倒的優位に立っていた。「この番組を見たいなら,何曜日何時に何チャンネルに合わせろ」と。ところが今では,見たいときに見られなければ,「もういいや」となりかねない時代なのだ。(p239)
 紙と心中するなどという後ろ向きの発想は,週刊文春をどんな形であれ読みたい,と心待ちにしてくれている読者に対して無責任だと考える。(p239)
 出版界全体では雑誌は苦戦しており,5年,10年と長い目で見たときに現在の規模で存続するのは非常に厳しいだろう。紙の体力があるうちに新たなビジネスモデルを確立しなければならない。(p242)
 なんでもPV数でランキング化しえしまう「ネット民主主義」には,悪化が良貨を駆逐するリスクが常にともなう。(p247)
 大切なのは,なにごとも全力でやりきることである。読者のなかには,意に沿わない職場で悶々としている人もいるかもしれないが,それでもその場で「フルスイング」していれば,かならず仕事はおもしろくなり,突破口が開けるはずだ。やるからには徹底的にやることだ。受け身でなく,前のめりで攻めるべきなのだ。(p255)

2018年11月25日日曜日

2018.11.25 潮凪洋介 『人生は「書くだけ」で動きだす』

書名 人生は「書くだけ」で動きだす
著者 潮凪洋介
発行所 飛鳥新社
発行年月日 2014.11.29
価格(税別) 1,204円

● また,こういうものを読んでしまった。書くだけでは人生は動き出さないと思う。著者が告白している。
 なぜ社会人クラブをつくったかというと,「生きることを楽しむためのオフタイムの提供」こそが私の生きる心情だったからです。これは「書く作業」をする以前からの一貫した生き方の「柱」でした。(p65)
● 他にも転載。
 未来を想像して文字にしようにも「こんな暮らしがしたい」「こんな人生を送りたい」「こんなところに住みたい」といった希望もあいまいで,明確に書き出すことなど難しすぎてできませんでした。けれど,今にして思えば,自分の心の声など,最初は「その程度のもの」なのです。(p36)
 「書くこと」で人生を変える! これを実現するために大切なことがひとつあります。それは文字に自分の「感情」をのせるということです。心から感情をすくい上げ,それを文字に込めて書くのです。(p42)
 少し慣れてきた人は,次にブログやSNSなどで自分の気持を書きつづってみてください。「自分の思いを伝えたい!」という「ワクワク」「パッション」だけを素直に書きます。技法なんかどうでもいいのです。(中略)文字そのものが,自分の心のエネルギーの塊だと思って,絞り出すように,そして紙やキーボードにエネルギーの塊をぶつけるように書き出してください。(p43)
 悩みの正体を具体化せずにモヤモヤと悩み続けるのは,時間のムダです。(中略)私も「あ,モヤモヤしてきたな」と思ったときは,そのモヤモヤの正体をはっきりと文字にするように心がけています。しかもなるべく早いうちにそれを行います。「文字にするほどでもないな」そう思っているうちに,悩みはどんどん大きくなってしまいます。(p80)
 自分が目標にする人を思い出しながら,「あの人ならどうやって解決するだろう?」と,その人になりきって想像することで,問題が解決することがあります。(中略)自分ではいつもと違う観点から考えているつもりでも,やはりどこかいつも似通った考え方をしています。このパターン化により,なかなか問題が解決できないことも多いのです。(p83)
 悩みや苦しみを書く頻度は10回に1回程度にしましょう。ネガティブな書き込みは,あなた自身を「ネガティブ」でるかのように印象づけてしまいます。(中略)言葉ならまだしも,文字でネガティブな表現をすると,そのマイナスパワーは会話の何倍にも増強されて他人に伝わってしまうのです。こうなれば,幸運とは逆のものを引き寄せてしまいます。(p92)
 心が躍動した瞬間こそが「書き時」です。そのときを見逃さずに,実況中継をするような「瞬間日記」を発信してみてください。(p95)
 誰かの不便を解決する方法を発信するだけで,私は人々の役に立ち,そして彼らからの信頼を勝ち取ることができるのです。(p98)
 ここで大切なポイントがあります。それは「小学校6年生に説明するつもりで書く」ということです。あなたはその道の専門家です。あなたが当たり前に思っていることでも専門外の人には難しく感じてしまいます。(p99)
 「共感を得られる文章」と「得られない文章」とでは何が違うのでしょう。答えはとてもシンプルです。それは「体験に根ざしたものであるかどうか」に尽きます。(中略)どんな文章でも,人の心を打つ文章はその文章の中に「書き手の体験」そして「息遣い」が必ず存在しています。(p101)
 人生を充実させるためには自分が主役になれるステージを持つことが先決です。ブログ発信をすることで,こっそりと,水面下から「ゆるいリーダーシップ」あるいは「ファンコミュニティ」を創造してみましょう。(p128)
 さらなる高みを目指すのであれば,あえて「自分の書いた文章を人目に晒してみる」ことです。ブログで発言した瞬間,あなたはプロの書き手ではなくとも,そこで自動的に「公の人」になります。(p129)
 常に「読者のメリットになることを書く」ということです。「知って得したな」「読んで問題が解決したな」「なんか心のモヤモヤが消えたな」など,「読者にメリットを与え続ける」ということです。(p131)
 今の景色の外側に出ることです。それだけで,書きたいことがとめどなく湧き上がってくるはずです。(p138)
 この快楽の感情は文字に「言霊」としてのり,読者の視覚に飛び込み,その人の脳の中までその波動を伝えます。(p140)
 自分の気持ちが酔えない,書いていてもワクワクしないテーマはどんどん切り捨ててほしいのです。(p142)
 コンプレックスや挫折と向き合い,乗り越えた話は,自分の人生経験を体系化してマニュアル化する知的財産の整理作業であり,さらには読者を勇気づける「宝の山」なのです。(p149)
 「眼の前に好きな人」がいることを想像し,その人に話しかけるつもりで書く(p162)

2018年11月24日土曜日

2018.11.24 松浦弥太郎 『明日,何を作ろう』

書名 明日,何を作ろう
著者 松浦弥太郎
発行所 KADOKAWA
発行年月日 2017.04.21
価格(税別) 1,400円

● パスタ料理がいくつか出てくる。ぼくは市販の乾麺を茹でて,これまた市販のレトルトのミートソースを温めてかければ,充分以上に旨いと思っている。だから,そうしている。
 さすがに麺から作るわけではないけれども,ソースを手作りする著者と,レトルトですませるぼく。基本の姿勢が違うということ。

● 以下にいくつか転載。
 おいしいものほどレシピはシンプルなのだ。(p47)
 「どうして毎日こんなに熱心にディスプレイをしているのですか」と聞くと,おじさんは「働くことを自分がこんなに楽しんでいるってことを,お客さんに伝えたいんだよ。新鮮な食材を売るだけではつまらない。とにかく,人というのは,楽しんでいる人のところに集まるものだと祖父に教わったんだ。(中略)」と答えた。(p120)
 朝,手作りのジャムがテーブルにいくつも並んでいる光景をぼんやり見て,ああ,なんてささやかな,しあわせなのだろうと思う。そして,たったそれだけのことだけれど,そのジャムが手作りであるという贅沢を思い知る。(p155)
 料理のおいしさとは,口に入れた時は,それが何味なのかわからないくらいの淡さがよくて,鼻や舌や喉の感覚を使って,自分のちからで味を探して,それを見つけた時が「おいしい」ということであると聞いたことがある。(p157)
 それは料理する人の心持ちで変わるように思う。食べている時においしいものを作ろうとするか,食べ終わってからの後味がよいものを作ろうとするかの違いである。または,空腹を満たすだけのものか,心を満たすものにするかとの違いである。(p158)

2018.11.24 『iPhone10週年完全図鑑』

書名 iPhone10週年完全図鑑
編者 村上琢太
発行所 枻出版社
発行年月日 2018.03.30
価格(税別) 1,200円

● iPhoneが存在していなかった時代に,どうやって暮らしていたかわからないという人も多いのではないだろうか? という文章が出てくる。本当にそうだと言う人は多いだろう。
 ぼくはAndroidユーザーなのだけど,そこまでじゃない。スマホよりパソコン依存度が高い。スマホを使いこなしているとは言えない。

● 「あなたが書いた一文を,数分後には何十万人という人が見ているかもしれない,というある意味とてつもなく民主的な情報社会がやってきた」(p14)というのもよく言われることで,それはそのとおりなのかもしれないのだが,そういうマスメディア的なことが起こるのは,発信者がすでに有名になっている人の場合に限られる。内容よりも誰が言ったかが情報の流通力を決める。
 ちなみに,情報発信ということならば,FBよりツイッターの方がいいと思う。言いたいことを言える。

2018.11.24 堀江貴文 『刑務所わず。』

書名 刑務所わず。
著者 堀江貴文
発行所 文藝春秋
発行年月日 2014.01.10
価格(税別) 1,200円

● 刑務所は普通の世間なのだな。本書に登場する,ミスター不機嫌や傭兵さんやガチマジ先輩や親切さんはうちの会社にもいるよ,と。
 さしもの堀江さんも刑務所ではパンピーで,そのパンピーぶりも本書の面白さの大きな部分。時に大笑いしながら愉しめる読みもの。

● 以下に転載。
 結局,いちばん大変なのは人間関係なのだ。刑務所は完全な体育会系タテ社会。刑務官(いわゆる看守です)や,受刑者の先輩との関係は,かなり面倒であった。受刑者のなかには,人間関係に疲れ果て「独房や禁錮刑の方が楽」と思っている人すらいるくらいなのである。(p30)
 私も,収監前はトイレ掃除も自分ではしなくていい生活だったけど,老人のうんこを素手でつかめるようになった! これってすごい経験値だ。(p32)
 私が刑務所内で精神的に病まなかったのは,人と会話ができたから(p40)
 刑務所の中でもいじめは存在する。みんな懲罰が怖くていじめられっ子をかばったりできないので,シャバよりもっと陰湿かもしれない。(p55)
 つまり刑務所ってのは,かなり属人的な運用がされているってこと。その人次第,という部分も大きいのだ。(p60)
 刑務所に入ったら,とにかく本を読むぞ! と決めていた。結果として漫画も含めれば,1年9か月で1000冊以上読むことができた。(p98)
 刑務所にいる人たちの多くは,別に極悪非道でも奇人変人でもなくて,普通の人たちだった。1年9か月しかいなかったけれど,それはすごく思った。本当に普通の人だな,と。(p110)
 だから政府補助ってダメなんだよ! 向上心を持ってリスクを取って自分の安定した暮らしとか捨てている奴にしか補助を出しちゃダメ! と思ったりするが,そういう人たちって元から政府の補助とかアテにしないの。(p130)
 新聞を読んでいたら来年の手帳の売れ行きが好調らしい。手で字を書くのってキーボードやスマホのフリック入力より時間がかかるから,私はイライラしてしまうんだけど,多くの人は手書きの方が早いのかな?(中略)実際,ムショのなかで手書きしか許されてなくて,超イライラしているもん。書くスピードが考えるスピードに追いつかないからね。(p131)
 最近は,カラーコンタクトレンズをブログで芸能人に紹介させて売るのが儲かっているらしい。(中略)「オタクが作って,ヤンキーが売る」の法則。(p149)
 「食料自給率の向上」原理主義者は自給率向上がよいことだと信じ切っているから始末に負えない。農業生産は適材適所,供給地の多様性確保も大事だと思うし,ほどほどでよいの。ムダ金を使ってまで推進すべきことではない。自給自足じゃあ効率悪いし,何よりこの世界人口は養っていけないし,自給率100%を超えている地域の農産物は,どこかの国,地域が消費しないとそれこそ無駄だらけ。(p163)
 笹子トンネルの天井板崩落事故は,また弁護団が刑事告発しようとしているらしい。真相解明や再発防止には,関係者を面積扱いにして,洗いざらい調査委員会に語らせること。でないと,刑事処分を恐れて肝心な所を関係者は話さなし,当局は勝手なストーリーをでっち上げる癖があるから。(p169)
 AKB48峯岸みなみの坊主頭。あの情けない顔は笑いのツボだ。秋元さんは話題作りが上手い。アイドルの邪道プロデュース術。『週刊文春』が手玉に取られている。(p176)
 会社を辞めて唯一よかったと思うことはゴルフを覚えたことだな。食わず嫌いはよくないね。一生楽しめるスポーツを持つってこと,一緒に楽しめる仲間がたくさんいるってことがいかに大事か。(p195)
 年寄りの世話をしていて思うのは,体の不自由な人とか盲目の人は,むしろ自分の体の限界を潔く理解して,介護に身を任せてくれるので比較的手がかからないってこと。厄介なのは耳が遠い人だ。ほとんど聞こえないのに,わかったフリをして実は全然判ってないから始末に負えない。(p197)
 パイロット免許の為に気象の勉強をしていると「気象予報士になれば?」なんて言う人が多いんだけど,何故? なんというか,日本人の「資格信仰」を感じるよね~。飛行機だって必要ないなら免許を取得しないし,何でも「資格」が必要だって思われている現状は,天下り官僚や利権屋の思うツボだってのがわかんないかな~。(中略)不要な資格はできるだけ廃止して自己責任を徹底すべきだ。(p205)
 最近の警察・検察は自らの存続の為に犯罪者を“作り出している”としか思えない。(中略)やっぱ,リストラすべきなんじゃないかね。マスコミも(特に社会部)ネタが欲しいから「治安が悪化」してるかのようなデマを流しているし。殺人事件も交通事故も年々減少傾向にあるのに。(p207)
 アベノミクス効果で好景気だそうだ。でも,景気ってのは完全に気持ちの問題。日本の株式市場が好調なのは,円安の進行で他国通過ベースで割安になったせいであって,外国人の資金が流入してきているからだ。(p221)
 バブルは必ず起こるし,もう今の日本はバブル化が始まっている。雑誌・ウェブメディアはわかりやすい。どの会社の株が上がるか,という下らない記事ばかりだからだ。こんなものを読んで上手くいくのは博打で儲かるのと同じぐらいの確率だ。バカめ。(p221)
 正直刑務所のスカスカのスケジュールで毎日嘘みたいに長い睡眠時間を取っているし,十分のんびりしているから出所したらフル回転で働きたいんですけど・・・・・・。わかってもらえないのよねぇ・・・・・・。(p228)
 Appleストアで新しいMacも買おうかとおもったけどやめた。どーせテキストファイルしか俺は扱わないし。(p239)
 そんな刑務所生活であるが,あの1年9か月の事を私はすでに忘れつつある。仮釈放されたからの生活の密度の濃さと比べて一日がゆっくり流れていたということもあるだろう。(p255)

2018年11月22日木曜日

2018.11.22 岸見一郎 『三木清『人生論ノート』を読む』

書名 三木清『人生論ノート』を読む
著者 岸見一郎
発行所 白澤社
発行年月日 2016.06.30
価格(税別) 1,800円

● 所々,難解。『人生論ノート』も高1のときの担任の先生が熱烈推薦してた。
 当時読んでも???だったと思うのだが,高校の現代文の教科書には,今思うと,かなり高度な文章が並んでいたな。柳田國男『清光館哀史』とか。
 自分の読書歴の質的ピークは高校の教科書だったかもしれない。

● 以下に転載。
 親しい人が鬼籍に入ると死というものは怖いものではなくなる,そういう気持ちになるというのは事実あることです。(p31)
 我々は我々の愛する者に対して,自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。(三木 p58)
 愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのでなく,反対に,彼等は幸福であったが故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。(三木 p60)
 子どもの進学に自分を賭けているという母親は多いようです。しかし,子どもとはいえ,他人です。他人に自分を賭けてどうするのでしょうか。結局,わが子が有名な学校に進学したことを誇りたいということであれば,それは三木のいうとおり「有閑の婦人の虚栄心」だということになるでしょう。(p78)
 自分の考えがあっても,人に合わせてしまう人が多くいます。ある状況でどうするかを自分では決められないので,そこで,他の人の出方を見て追随する。その人たちはその場の,あるいは社会の,時代の空気を読んで行動しているつもりでしょうが,これはまさに三木のいう「虚栄心から模倣し,流行に見を委せる」ことになってしまいます。(p94)
 私が,私が,といっている自分本位の人は,実は個人ではないのです。アドラーの考え方では,関心が自分の方にではなく外に向いていないといけないのです。(p96)
 怒りは人と人を引き離す感情です。(中略)これは子育ての場面で大人がよくおかしてしまう間違いで,叱ることで関係を遠くしておいてから子どもを支援しようとしてもほとんど不可能です。(p128)
 怒りを始めとする感情的な手段に訴えなくても,それについて言葉で説明すればよいのです。そうしないのは,感情は人を支配し,言葉の力が及ばないと考えているからであり,自分が感情に支配されると考える人は,他の人も感情によって支配いうると考えているからです。(p131)
 生理学のない倫理学は,肉体をもたぬ人間と同様,抽象的である。その生理学は一つの技術として体操でなければならない。体操は身体の運動に対する正しい判断の支配であり,それによって精神の無秩序も整えられることができる。(三木 p137)
 すべて小さいことによって生ずるものは小さいことによって生じないようにすることができる。しかし極めて小さいことによってにせよ一旦生じたものは極めて大きな禍を惹き起こすことが可能である。(三木 p138)
 誠実ということを私なりに説明するなら,自分をその状況に参与させること,となるでしょう。混沌から秩序が形成されていくのを離れたところからながめているのではなくて,自らも混沌に秩序をもたらそうと努力することです。(p151)
 孤独は山になく,街にある。一人の人間にあるのでなく,大勢の人間の「間」にあるのである。(三木 p167)
 誰かとお付き合いを始めた時に,相手がどれほど熱烈な愛情を捧げても,ほんとうは愛されていないのではないかと不安に感じるということがあります。相手の愛の言葉を無条件に信頼することができない。それは自分に自信がないからです。(中略)個性的な人とは,自分で自分の価値を見出だせる人です。自分のよさ,価値について,他の誰かからそれを認めてもらう必要がない。(p189)
 過去を思い出している現在がある。現在の関心に照らして思い出されている過去は,過去そのもの,絶対的な過去ではない。今の自分にとって必要な過去,現在の自分にとって都合よく意味づけられた過去でしかない。いま,世間でいわれている「伝統」とはそういうものでしょう。(p204)
 カウンセリングに来られる人たちが過去を持ち出す理由は,現在の自分の正当化です。今の私がこんなにたいへんな思いをしているのは過去のあれやこれやの出来事があったからなんだというのですが,それにこだわっていても問題が解決しない。(p206)

2018年11月18日日曜日

2018.11.18 岸見一郎 『プラトン ソクラテスの弁明』

書名 プラトン ソクラテスの弁明
著者 岸見一郎
発行所 角川選書
発行年月日 2018.08.27
価格(税別) 1,500円

● 高1のときの担任の先生が『弁明』を読めと熱心に勧めていた(数学の先生だった)。で,岩波文庫を買ったんだけど,読まないまま老境に至り,やっと岸見一郎さんの訳と解説で読むことができた。
 ソクラテスが語っているのは,無知の知と,自分の付属物(財産,地位)を自分より優先することの怯懦。

● 70歳で死刑が決まったとき,ソクラテスには3人の子どもがいた。うち2人は幼児。ということは,ソクラテスは精力絶倫の人であったかと思われる。
 彼の哲学を考えるときには,こういうフィジカルな部分を等閑に付すべきではないと思う。

● 以下にいくつか転載。
 ソクラテスは自分が語ることが正しいか,そうではないか,そのことだけに注意を向け,よく考えることを要求しています。ソクラテスにとって重要なことは,話に説得力があるかどうかではなく,「真実」が語られているかどうかです。(p32)
 結論ありきで始まる討論は,そこに至る議論がどれほど論理的でも,議論の全体は結論を導き出すためのものでしかなく,まさに論じるべきことにはいささかも手をつけられていないのです。(中略)結論の正当性が揺らぐとそこに至る議論も瓦解することになります。(p49)
 ソクラテスは「知を愛し求める人」であって,「知者」ではないのです。(p75)
 長く話すソフィストのプロタゴラスとは違って,ソクラテスは問答による対話をしたのです。(中略)この方法で対話を進めていけば,互いに相容れない立場であっても相違点は実際にはあまり多くはなく,多くの点では考えが一致していることがわかってきます。(中略)他の人と話す時だけでなく,思考する時も,心の中で語り手が同時に聞き手として対話をするのです。(p90)
 死を恐れるということは,諸君,知恵がないのにあると思っていることだからだ。つまり,知らないことを知っていると思うことである。なぜなら,誰も死を知らないからだ。死はひょっとしたら人間にとってすべての善きものの中で最大のものかもしれないのだ。それなのに,悪いものの中で最大のものであると知っているように恐れているのだ。とはいえ,どう見ても,これがかのもっとも不面目な無知でないことがあろうか。(ソクラテス p112)
 ここでいわれる「善」は「ためになる」「有益なもの」という意味です。「悪」は,その反対で,「ためにならない」「無益なもの」という意味です。(p119)
 裁判を膨張していたプラトンは,ソクラテスが死刑判決を受けるのを見て,アテナイの民主制に対していよいよ批判的になっていったでしょう。(p171)
 やがて大学院を終え,渡しは奈良女子大学でギリシア語の講義をすることになりました。四月にα,β,γから学び始める学生が秋には『ソクラテスの弁明』を読めるようになりました。受講生は毎年,二,三人しかいませんでしたが,古典の購読に毎回膨大な時間をかけて臨む学生を誇りに思っていました。(p206)

2018年11月15日木曜日

2018.11.15 成毛 眞 『日本人の9割に英語はいらない』

書名 日本人の9割に英語はいらない
著者 成毛 眞
発行所 祥伝社
発行年月日 2011.09.06
価格(税別) 1,400円

● 7年前の出版。楽天とユニクロが社内公用語を英語にすると言い出したことに対して,小気味よく一刀両断。言語を明け渡すことは,文化や思想を乗っ取られることであって,わざわざアメリカの植民地になってどうするのか。
 社内言語の英語化って,その後どうなったんだろうね。なし崩しにチャラにした?

● 以下に多すぎるかもしれない転載。
 英語は普通の科目ではいい成績を取れない人のための救済科目になっている可能性がある。得意科目を聞かれて「英語」と答える人は,自分は物覚えがいいだけのバカだと公言しているのだと自覚したほうがいいかもしれない。(p19)
 必要だから覚える。それが自然であり,必要でないのに覚える人は自分のしていることの無意味さに気づいていないのだろう。(p22)
 追いつけ追い越せで先進国を追いかけている途上国は英語が重要だが,日本は追われる立場なのである。日本はこれから成熟を目指すべきであり,どこかの国をまねて追いかける必要などない。(p32)
 外資系企業とつきあいのある私ですら,この1年で外国籍の人と交流したのは数えるほどである。外国人はおろか,九州の人ともさほど交流などしていない。(中略)同じ国民同士ですら交流をもたないのに,なぜグローバル化が進むと,アメリカ人やイギリス人と交流するという発想になるのか不思議でならない。(p38)
 語学に関しては“泥縄”でいいのではないかと思う。(中略)英語はペットボトルの水とは違い,備えにはならない。(中略)英語はいつか話すであろうときのために習っておいても,ずっと覚えてはおけない。普段使わない語学は,使わないとあっという間に忘れてしまうのである。(p41)
 そもそも中国の非識字率は今でも増え続け,2000年から2005年の間に3000万人増え,2005年末時点で1億1600万人に達し,世界の非識字率の11.3%を占めている。英語ができる・できない以前に大きな問題を抱えている国なのである。(p45)
 英語を母国語としない人が,自国にいながら易々と他国の言語を受け入れるのは,想像以上に危険な行為である。言語を受け入れたら,文化も受け入れることになる。(p46)
 日本に何十年も住みながら,日本語を一切使わないのをプライドのようにしているアメリカ人もいる。(p47)
 英会話スクールは日常英会話を教えるのがきわめて下手である。英会話スクールの講師は,日常会話で使われる単語やセンテンスを覚えさせず,英語で会話をしているフリをさせているだけである。(p51)
 母国語がしっかりできていれば,何歳で学んでも外国語は習得できる。20歳を過ぎてからの語学は,いつスタートしても同じだろう。(p58)
 ツイッターでは楽天社員だと思われる人が,「『重要なことなので日本語で失礼します』という言葉が流行ってきた」とつぶやき,ネットではちょっとした騒ぎになっていた。これが本当のことなら,最高のギャグだと思う。(p67)
 幹部社員はともかく,一般社員にまで社内で英語を使わせることに,何の意味があるのだろう。おそらく,海外赴任を経験しないまま会社人生を終える社員が大半である。なぜそんな社員まで社内で英語を使わなければならないのか,まるで拷問のような企画である。年に1回しか乗らないのに,マイカーを買うのと同じぐらいムダな行為である。(p68)
 それでももし語学を学びたいなら,マイナーな言語を覚えるほうがまだ付加価値になる。(中略)誰もやらないことにこそ,成功の芽が隠れているのである。(p77)
 まじめに話そうとするから英語が出てこなくなるのである。(中略)「まだサムライはいるのか?」と聞かれたら,「ああ,この間日光で会ったよ」とさらりと答えればいい。(中略)気楽に構えているほうが,海外でも人と打ち解けられる。そのために人とコミュニケーションをとるのではないだろうか。(p80)
 外資系企業のトップの3%はネイティブと同じレベルの英語力を求められるが,それも体当たりで学んでいくしかない。実際,デリケートな交渉などは事前に学んだ英語で乗り切れるものではなく,コミュニケーション力を駆使して解決するしかない。英語はコミュニケーションを補完するものであり,TOEICのスコアなどほとんど当てにならないのである。(p83)
 どこに国内の本社で自国の若者より他国の若者を多く採用する国があるのだろう。ほかの大企業もこれに追随したら,間違いなく日本国内は荒廃する。(中略)日本の若者を見捨てている企業は,こちらから見捨てるぐらいでいいと思う。(p86)
 森本(正治)シェフは,客は30%しか味が分からない,残りの70%は予約の電話から始まって店員の対応や店の雰囲気によって評価されると言い切っていた。(中略)森本シェフはまさにグローバルな視点を持っている。(中略)商機をつかむ才能に長けているのではないか。結局,どこの世界でもそういう人が勝ち残る。(p93)
 学問とは学び問うこと。ただ暗記するだけの授業は学問ではないし,テストで1番をとるための授業も学問ではない。日本の学校は学問をするために通う場所ではなく,学問の楽しみを奪うためにあるような場所である。だから大人になった今,学問に目覚めよう。(中略)六十の手習いということわざもあるように,学ぶのに遅すぎることはない。(p99)
 英語は単なる道具であり,身につけても生きる力までは養えない。学び問えない勉強なのである。(p100)
 学校教育にすっかり洗脳された日本人は,通って学ばないと身につかないと想いこんでいる。だが,歴史の研究家の講釈を聞くより,書物を読むほうが自分なりの歴史観を養える。基本的に,スポーツ以外は人から習わなくても自分自分の力で学べるものである。学び問うのは教師に問うのではなく,内なる自分に問いかけるのである。(p100)
 私は洋書をほとんど読まない。(中略)理由は単純明快であり,日本の翻訳文化が優れているからである。海外の面白い本はほとんどが翻訳されているし,翻訳されるまでのタイムラグも驚くほと短くなってきている。(p127)
 雑誌に関しては『ロンドン・エコノミスト』『モデル・エンジニア・マガジン』など,英語雑誌を月に4~5冊取り寄せて読んでいる。(中略)『モデル・エンジニア・マガジン』というのは,イギリスで出版されているミニチュア模型の雑誌だ。(中略)不思議なもので,自分の趣味に関するものとなると,たとえ単語がわからなくても,どんなことが書かれているのかが完全に理解できる。(p129)
 現地の言葉を早く習得したとしても,その時点での日本語の理解度に合ったレベルでしか習得できないのである。(p138)
 幼いころから多言語と接しているために,どの言語もまともに話せない,理解できないようになる状態を「セミリンガル」,最近では「ダブルリミテッド」ともいう。(p138)
 受験英語の弊害は,テストに関係ないことには見向きもしなくなるという点である。(p143)
 学生時代に何も考えずに暗記するという習慣が身につくと,自分の頭で考えようとしなくなる。考えるより,暗記の方が数倍も数十倍も楽だからである。受験勉強はいかに効率よく覚えて処理するかをトレーニングする勉強である。物事を味わい楽しむ余裕はなくなり,すべてがタスク(仕事)になる。(p144)
 インターナショナルスクール出身の人で,日本で成功した人の話などほとんど聞かない。(p154)
 英文が読めたり,書けたり,会話ができるだけで役に立つものではない。何を読むのか,何を話すのかというところで価値が生まれる。(p157)
 もし自分の世界観を広げたいのなら,本を広げればいい。世界中を旅して回るより,短時間で未知の世界に触れられる。(p160)
 直訳英語ではネイティブをカチンとさせてしまうのである。(p163)
 グーグルもいつかは陳腐な大企業になり,それについれて被害者であるメディア業界や広告業界も気を取り直して反撃に転じ,創業期のメンバーが退職し,やがて若い会社と新しいビジネスモデルの出現に呆然と佇むであろうことを確信した。それはまさにマイクロソフトが辿った道なのだ。(中略)マイクロソフトに比べ,グーグルは成長も早かったが,老化も早いのかもしれない。(p171)
 日常会話をマスターするなら,日常的によく使われるフレーズを覚えるのが効率的である。単語をひとつひとつ覚えるより,フレーズで覚えてしまうのである。(p198)
 英語の字幕付きまたは字幕なしの映画は,ヒアリング力を鍛えるのに使える。海外のテレビドラマもいいテキストである。(p201)
 語学の場合,実際に使ってみて恥をかくことで上達するような部分がある。現地でなら,自分は外国人なのだと開き直って話してみよう。(中略)コミュニケーションとは互いにわかり合うところから始めるのではなく,分かり合えないからコミュニケーションをとるのである。(p202)
 まったく知らないことはいくら説明されても分からない。(p203)
 未知の世界に踏み込んだとき,自然と人は能動的に情報を得て取り入れようとする機能が働くのである。(p204)
 日本人から見ると,傍若無人で何にでも積極的に首を突っ込む人のほうが,喜んで受け入れられる。郷に入らば郷に従えということわざのように,海外では,オーバーアクションで意思表示をハッキリとし,傍若無人キャラに切り替えてみる。(p206)
 多くの物事は多数派に有利になっていく。だから,英語のルールも通じればOKという実用主義になり,難しい語彙やネイティブ独特の言い回しを使ったりしないシンプルな「グローバル英語」が台頭してきている。英語が母国語であるネイティブより,非ネイティブに主導権が移っているという面白い構図である。(p210)
 仕事で英語を使うのは,そのほうが便利だというだけで,本当はドイツ人もイタリア人も母国語のほうがやりやすい。仕事で使うだけなので,彼らは正しい英語や完璧な英語を目指すつもりは全然ない。そのようなことを気にするのは日本人くらいだろう。(p212)
 アメリカ人は偉い人の前では徹底的にへりくだり,意向を聞く場合は「Yes」ではなく「No」と言わせるように質問をする。それがビジネス界の鉄則であり,出世には欠かせない技術なのである。(p215)
 語学は女性より男性のほうが上達するのは遅い。それは単純に話す量が違うからだろう。一般的に男性同士はそれほどおしゃべりをしない。アフター5に居酒屋で愚痴を言い合っているビジネスマンもいるが,それは酒の力を借りておしゃべりになっているのである。女性はしらふであっても,他愛のない会話を何時間でもできるので,圧倒的に話す量が違う。(p233)
 恋愛やケンカで言葉が上達するのは,感情が裏側にくっついているからである。相手にぶつけたい感情がたくさんあり,それを言葉で表現しようと懸命になるから,言葉を覚えるし,言い回しも工夫する。それはコミュニケーションの基本である。(p234)

2018年11月12日月曜日

2018.11.12 村松友視 『黄昏のダンディズム』

書名 黄昏のダンディズム
著者 村松友視
発行所 佼成出版社
発行年月日 2002.10.30
価格(税別) 1,600円

● 12人(うち,女性2人)の作家,俳優,歌舞伎役者を取りあげ,彼らが備えていた“ダンディズム”の淵源に迫ろうという試み。
 日本の大人の男性がすっかり「ガキっぽくなって」きたことへの反発が動機のようにも読める。いい年寄りが,昔に比べれば今の60歳は若いなどと喜んでいるのだから,たしかにガキ化が進んでいる。

● その12人は次のとおり。
 藤原義江,市川猿翁,山本嘉次郎,植草甚一,古波蔵保好,幸田文,森雅之,佐治敬三,武田百合子,今東光,嵐寛寿郎,吉行淳之介。

● 以下にいくつか転載。
 “自由”と“安物”が大好きで,年をとるにしたがって“新しいもの”が好きになってゆく。この境地こそ,まさに“黄昏のダンディズム”の真髄と言ってよいのではなかろうか。(p82)
 これは平成五年『婦人公論』四月号,すなわち古波蔵さんが八十三歳の折の文章だが,もはや“黄昏”までも武器にしはじめたようなセンスにあふれている。(p99)
 私は,東宝のプロデューサーの貝山さんから「狙撃」に森雅之を起用すると訊いたとき,なぜ快哉を叫んだのだろう・・・・・・そのこところを辿り直してゆくと,日本の大人の男性から森雅之がそなえているような魅力が,すっかり失せてきたという実感が根拠だったのではなかろうかと思った。日本の大人の男性が,あの頃からすっかりガキっぽくなってきていたにちがいない。(p131)
 なにかを求めて,いつもなにかを追いつづけていた彼(森雅之)の気持ち,その気持を舞台では出しきれずに,だから彼は芸談となるとそれからそれへと際限がなかった。しかし芸談はついに芸談である。それは実りのない花のようなものである。(小沢栄太郎 p134)
 百合子さんの文章は何しろ新鮮だった。“文章道”にとらわれていないばかりでなく,文章の内面から確固とした才能が滲み出てくる,不思議なテイストだった。私は,オリジナルな才能とはこういうことを言うのではないか,と思った。(p167)
 今東光の生涯を辿り直せば,そこに卒業笑魚や免状と無縁の学究精神が,鬼気迫るほどにあふれていることに気づくのである。(p190)
 間近で会った吉行さんは,“いい男”というよりも“立派な顔”として私の目に映った。若い頃のように色気が表面に滲み出ることなく,穏やかさがただよっているせいかもしれなかった。(p216)
 吉行さんの席の下はタバコの灰だらけになったものだった。話に乗ってくると,吉行さんは喫っていたハイライトの先の灰を,せせこましく落としつつける。(p221)
 “タクシーの運転手恐怖症”“スピーチが超苦手”“タバコの灰”“野太い声”それに“せっかち”というのは吉行像の死角だ。(p222)
 井原西鶴『好色一代男』の現代語訳の連載中,私は何度か吉行さんのセンスの芯に触れたという思いを味わった。吉行さんは古典の現代語訳をするさい,想像以上に資料を調べ緻密な仕事をするタイプだった。それは“病的”に近い執着力を感じさせ,読解力にも鋭いものがあったが,ある瞬間,調べぬいた事柄をポンと切り捨てる度胸もあった。対談にさいしても,馴染みの相手だからと無手勝流でいこうなどとはいっさい思わない。その日のテーマをきっちり絞り,相手を調べぬいて出向くのだが,現場ではそれにこだわることなく,話の流れに沿って遊んだものだ。(p224)

2018年11月11日日曜日

2018.11.11 安野モヨコ 『働きマン 明日ををつくる言葉』

書名 働きマン 明日ををつくる言葉
著者 安野モヨコ
発行所 講談社
発行年月日 2007.08.23
価格(税別) 952円

● 「はじめに」の隣(左)ページに写っている営業職っぽい女性の写真がカッコいい。凛として颯爽としていて。そのくせ,少し陰があって。私生活を知りたくなる。
 ただね,仕事がその人に何を残すか。よほど特殊な仕事以外は,たぶん何も残さない。だからテキトーにやっていいと腹を括れるかどうか。万難を排して括るべきだと思うが,括れるほどの人なら出世しちゃうよね。

2018年11月5日月曜日

2018.11.05 伊集院 静 『いねむり先生』

書名 いねむり先生
著者 伊集院 静
発行所 集英社
発行年月日 2011.04.10
価格(税別) 1,600円

● 色川武大(阿佐田哲也)の作品は若い頃にあらかた読んだ。それで作った色川像と本書で描かれている「先生」はだいぶ違う。作者と作品は別なのだから,それがあたりまえ。が,読み方の問題もあるか。
 松山の“懐かしい建物”が出てくる。映画館の小屋。「銀映」のことだろうか。もちろん,今はない。

● 以下に上手いなと思ったところを転載。
「ボクはやめました。今の小説を読んであらためてよくわかりました。才能がまるっきりありません」「才能なんて必要なのかな」 Iさんは言って首をかしげた。「一番大事なところじゃないんですかね」「そうかな・・・・・・ボクはそうは思わないな。必要なのは腕力やクソ力じゃないのかな」(p289)
 街は用もないのに屯ろしている者の数の多さで,懐の深さがわかる。(p294)
 十五分,三十分先に起こることを推測し,それを絵図に描き,描いた絵に惜しげもなく金を放り込む。遊びと言ってしまえばそれまでだが,普段人が為している行為もこれと大差はないような気もする。(p350)

2018年11月2日金曜日

2018.11.02 堀江貴文 『堀江貴文のカンタン! 儲かる会社のつくり方』

書名 堀江貴文のカンタン! 儲かる会社のつくり方
著者 堀江貴文
発行所 ソフトバンクパブリッシング
発行年月日 2004.09.07
価格(税別) 1,500円

● ライブドアが昇竜の勢いだった頃の著書。働くとは,会社とは,を熱く語る。会社設立,上場の手引書ではない。
 今の堀江さんは,すでに会社を作って何かをやるような時代じゃないと,どこかで語っていたと記憶している。やりたいことがあるということ自体,稀有なこと。全体の3%しかいないのでは。

● 以下にいくつか転載。
 ラーメン屋やコンビニエンスストアなど,初期投資が大きくリスクも大きいビジネスは,手を出してはいけない業種の典型である。(p23)
 インターネットビジネスには,もう1つの重要な特徴があった。それはこのビジネスには当時,日本国内に先駆者がほとんどいなかったのである。これは起業するビジネスを選ぶにあたっては,とても重要なファクターだ。(p25)
 私は,市場も何もできていない状態だからこそ,逆に市場は無限にあると考えた。(p26)
 会社を興すにあたっては,実はガーンと気合を入れるのがいちばん大事なのだ。必死で気合を入れなければ,会社を軌道に乗せることはできない。(p31)
 銀行やベンチャーキャピタル,公的機関などから融資や出資を受けようなどという考えは,最初から持たない方がいい。(p42)
 創業時に集めるスタッフとは,できる限りドライでビジネスライクな関係を保っておいた方がいい。冷たく聞こえるかもしれないが,それが冷徹な事実だ。(中略)創業メンバーとはあとでどうせ別れるものだと割り切って,カネをかけずに知り合い関係から簡単に集めておくのがいいと思う。(p45)
 営業を一生懸命やっておけば,仮にそれ以外の部分がかなりボロボロになってしまったとしても,何とかなる。(p56)
 もし最悪,どうにも太刀打ちできない局面まで追いつめられ,納品ができそうもないということになったとしても,実は何とかなる。その仕事に限っては,技術力を持っている別の会社にアウトソースしてしまえばいいのである。とにかく,仕事を取ってくることが重要なのだ。(p57)
 営業のメリットは,物を売って売り上げを上げるというだけではない。顧客と直接接点を持つことができるため,顧客やユーザーが自社製品に対してどんな感想を持ち,どの部分に不満を感じているんかといった反応がダイレクトに返ってくる。このメリットは非常に大きい。(p58)
 従業員というのは放っておくと,みんなどんどん楽な方向に走っていってしまう。それをどう押しとどめ,仕事をさせる方向に持っていくのかが経営者の腕の見せどころといってもいいだろう。(p74)
 われわれは営利事業として株式会社をやっているのであって,営利という目的にそぐわない人材に対しては,バッサリと切っていくのは当然だと思う。(p77)
 「本当にそんなにしつこく値切って大丈夫なのか?」と思うかもしれない。でも,絶対に大丈夫だ。相手も商売なのだから,どんなに値切られたとしても,利益のでない金額を提示してくるわけがない。その金額で手を打てたということは,利益はちゃんと出ているということなのである。そこまで読みきれずに,「相手がこんなに泣きを入れているんだから,もう無理かも」と屈してしまう方が甘いのである。(p94)
 単発で月刊誌に1ページの広告を打っても,ブランドイメージには何の効果もない。短期的な広告には意味がないと思った方がいい。(p97)
 社長にとっては,小さなままで会社を経営していくというのは,大変なプレッシャーなのである。会社を大きくするのは確かに大変だが,実はそれよりも,小さいままのプレッシャーに耐えいていく方がずっと難しく,つらい。(p115)
 大手証券会社の社員は顧客のことを考えているふりをしながら,実のところ自分のことしか考えていない者が多い。そういう体質なのだ。(p135)
 わざわざ人と人のつながりを会社の中だけに求める必要があるのだろうか。(中略)会社で得た収入を使って,自分の本来の居場所は別のところに作ればいい。(p202)
 ライブドアの社内は「サークル活動的」という雰囲気にはほど遠い。確かにカジュアルな服装をした若者ばかりだが,どの社員も必死で目の前の仕事に取り組み,ビジネスに邁進している。楽しそうな雰囲気を期待して見学に来た人は,びっくりするかもしれない。しかし何度も繰り返すが,会社は別に楽しい場所である必要はないのだ。(p203)
 伝統的な大企業のように稟議や決裁などの手続きは,キャッシュアウトの処理以外ではほとんど必要ない。必要なのは「ノリ」なのである。(p205)

2018年10月29日月曜日

2018.10.29 堀江貴文・井川意高 『東大から刑務所へ』

書名 東大から刑務所へ
著者 堀江貴文
   井川意高
発行所 幻冬舎新書
発行年月日 2017.09.30
価格(税別) 820円

● エンタテイメントとして読んだ。刑務官を含めての刑務所の人間関係や,刑務所の食事の話,作業の話,面会や手紙が文句なしに嬉しいことなど,経験者でなければ語れない話が面白い。何度か笑ってしまった。

● 以下にいくつか転載。
 獄中でたくさんの本を読めたことも意味があった。思い返せば私がもつ知識の量は,東大時代が人生のピークだったと思う。社会に出てからは,アウトプットするばかりでインプットする時間があまりにも乏しかった。(井川 p7)
 佐藤優さんからこういうアドバイスを受けたこともあったな。「井川さん,裁判官にとっては,自分の年収よりも大きいカネに関わった人間は全員悪人ですから」(井川 p101)
 刑務所で一番ウマいのは何かといったら,そりゃなんといってもレトルト食品ですよね。(堀江 p109)
 運動後の麦茶が,あんなにおいしいものだとも思わなかった。運動したあとにゴクッとやる刑務所の麦茶は,ドン・ペリニヨンやクリュッグにも勝るかもしれない。(堀江 p115)
 だけど悲しいかな,シャバに出てきたらそいういう感覚はすぐに消えちゃうんだよね。刑務所という特殊な環境だからこそ,味覚や感覚が普通じゃなくなるのかもしれない。(井川 p115)
 受刑者って芸能人がどうのこうのというミーハーな話題が大好きですからね。(堀江 p125)
 月日の流れ方について言うと,前方を向いちゃいけないんだよね。なるべく後ろばかり見たほうがいい。「刑期はまだあと2年もあるな」と思うと気が遠くなるけど,「もう3カ月過ぎた」「もう半年も過ぎた」「1年が過ぎたぞ」と後ろを見ると,精神的にグッとラクになる。(井川 p155)
 生半可でも全然かまわないから,メール感覚でポンポンポンポン気軽に送ってくれれば良かった。手紙をもらいすぎてウザいなんてことはありえない。(堀江 p157)
 経営者から失脚してかえって良かったよ。会議室でエグゼクティブとしてバリバリ働いているよりも,ヤクザな生き方,傾奇者として歌舞うてる生き方のほうが,本来の井川意高だったのかもしれない。(井川 p201)
 シャバの悩みの90%は仕事と女だね。こっちには仕事の悩みも女の悩みもない。だから本当にストレスフリーだよ。男の悩みなんて,実際のところそんなものだよね。(井川 p212)
 本気でビジネスをやるためには,外でいろいろな人と直接意見交換しながら刺激を得ないと。紙の上から得た情報と空想を組み合わせてビジネスを思いつくなんて,天才はできるのかもしれないけど私には無理ですわ。(井川 p219)
 ウィキペディアすら調べようとしない横着者が世の中にはあまりにも多い。ということは,負の歴史なんてあっという間に忘れ去られるんです。(堀江 p224)
 私も女の子の前でいつ水着になっても恥ずかしくないように,がんばって週3はジムに通おうと思うよ。何事も動機は不純であるほうが,あとで出る効果は大きい。(井川 p227)
 ムショに入るかどうかは別にして,人間誰しも,シャバでついた余計なアカは人生のどこかのタイミングで1回きれいに落としたほうがいいよね。(井川 p228)

2018年10月25日木曜日

2018.10.25 出口治明 『仕事に効く教養としての「世界史」』

書名 仕事に効く教養としての「世界史」
著者 出口治明
発行所 祥伝社
発行年月日 2014.02.25
価格(税別) 1,750円

● 通史ではなく,いくつかのトピックを立てて,それらにつき歴史から説明していく。面白かったのは,アメリカとフランスは特異な国だというところ。
 理念で国を作った例外的な事例だと。学校で習う世界史では,そのあたりが逆に輝いて見えるわけだが。

● 以下に多すぎる転載。
 日本が歩いてきた道や今日の日本について骨太に把握する鍵は,どこにあるかといえば,世界史の中にあります。四季と水に恵まれた日本列島で,人々は孤立して生きてきたわけではありません。世界の影響を受けながら,今日までの日本の歴史をつくってきたのです。世界史の中で日本を見る,そのことは関係する他国のことも同時に見ることになります。(p18)
 生態系は本来貧しいのです。北九州の生態系だけで農業をやっていたら,たとえば1万人ぐらいしかご飯が食べられないのに,鉄が入ってくることによって10万人を養うことができる。つまり,人間は交易によって豊かになるのです。(p34)
 四大文明の中で,歴史が一番よく残っているのは中国ですが,神の発明の次に,中国の歴史を発達させたものは天才始皇帝の独創によって完成されたシステム,文書行政です。このウェイトがかなり大きい。(p40)
 前の王朝の最期の王様は全部悪くなるのです。悪性を行なったから王朝が替わったのだというロジックですから,前の王様が立派だったら,この論理が成立しなくなるのです。(p49)
 なぜ科挙という全国統一テストができたかといえば紙と印刷です。(中略)技術が,いかに制度に影響を与えるかという好例です。(p56)
 アメリカに留学して帰ってきた日本人は,よく中国人は勉強してばかりだと言います。そのとおりで,彼らはみんな必死に勉強して成り上がろうと決意を込めてアメリカに行った人たちです。(中略)彼らがどこに就職するかと言えば,その多くは中国へ帰るのです。それはなぜか。アメリカの経済成長率は,2~3%です。中国は,7~8%あります。中国のほうが成長率が高いということは,アメリカで就職するよりも中国で働くほうが,一旗揚げて儲かる確率が高いということになるからです。つまり優秀な人が帰って来るのです。(p58)
 僕は人間の想像力は,じつに乏しいと思っています。人間の頭は,人間に似たものしか考えられないので,そこで神様の姿形が生まれたと思うのです。(中略)なぜそれが発展して今日まで長続きしているかと言えば,その存在が,本質的,歴史的には「貧者の阿片」だったからです。(p64)
 「長者の万燈より貧者の一燈」などという諺もあって,貧しい人の真心の一燈が集まったときの力は,とてつもなく大きいものです。(p66)
 神さまはオールマイティのジョーカーなのだから,最期のときには何かしてくれるにしても,現実の世界では大変なときにも全然出てこないじゃないか,なぜなんだ。こう問われたらどう説明するか,ということはかなり難しい問題です。この問題はセム一神教の一番の弱点かもしれません。(p76)
 ローマにやって来たキリスト教は,まだまだ教義も不完全ですし,儀式もありません。新興宗教としての呼び物がありません。そこで物まねが大好きというか,たいへん柔軟に考えました。信者を獲得しようとするのだから,世の中で流行っているものはなんでももらってくればいいじゃないかと。(中略)いろいろな宗教から美味しいところを取ってきた柔軟性が,キリスト教を大きく成長させていった一つの要因だろうと思います。(p88)
 中国を理解するためには,中華思想が最初の手掛かりになります。中華思想は,周という国に対して他の諸国が抱いてしまった過度な尊敬の念に端を発しています。(p94)
 中華思想は漢字の魔力を介して周とその周囲の小さな王国に起こったことが始まりでした。後世まったく同じ現象が東アジア全体に起こります。(中略)中国が自分から言い出したことではなく,周囲の人々が勝手に中華ってすごい,中国ってすごい,と思い込んでしまったことが始まりです。(p98)
 何もしないで自然にまかせろ,自我は捨て去って万物の絶対性に従えと,荘子は説いています。このような超然とした思想は,たぶん知識人の発想です。(p104)
 遊牧民が農耕民と対峙しているうちは,緊張感もあってまだいいのですが,自分たちが優位に立って支配しはじめるうちに,中国は文化も高く物資も豊かなので,いつのまにか気を許してしまう。そして尚武の気風を失って,一つの遊牧民が消えてゆくのです。侵略した側が,侵略された側に影響を受けて吸収されてしまうのが,中国史の大きな特徴だと思います。(p107)
 宦官は遊牧民の伝統です。(中略)宦官という発想自体が,遊牧民でなければ生まれないのです。(p108)
 2世紀から3世紀にかけて,地球は寒冷期を迎えます。天災や飢饉が相次ぎ,大規模な農民叛乱が起きて漢は滅びてしまいます。(中略)この時代の天変地異,寒冷期が,いかにすさまじかったかと言えば,漢の盛期には人口が5000万人ぐらいあったことが,戸籍調査でわかっているのですが,三国志の時代には1000万人を切ったのではないかと言われるほどでした。(p110)
 新しい思想や宗教が入ってきたとき,これを広めようとすれば当然反作用も生まれます。これも世界共通です。(p115)
 中国という国は,少なくともこれまでの歴史のうえでは,じつはあまり対外的には侵略的ではないのです。朝鮮やベトナムなど,地続きのところに対しては,始皇帝の時代から自分たちの庭だと思っていますから,かなり無遠慮です。しかし中国の本来的な強さは,むしろ侵略者を全部飲み込んでしまうところにある。(p119)
 十字軍に大量の人々が加わった理由は,正義と信仰がすべてではなかった。(中略)噂に聞いている豊かで文化の華が咲く東方の国々に行けば,何かいいことがありそうな予感がした。要するに,出稼ぎの発想が多分にあったと思います。(p154)
 ローマ教会の変わったところは,ピピンの寄進によって領土を持ってしまったことです。それがいろいろな躓きの石になった。(p163)
 ヨーロッパは一つの国ではなかった。しかし教会は一つだった。それだからこそ国を越えたいろいろな情報を入手することができた。このことも,トーマ教会の見逃せない特異性だと思います。(p166)
 百年戦争までのイングランドとフランスは,ほとんど一体の国だったと理解したほうが早いと思います。(p198)
 一般に北に住む動物は白熊もそうですが,日照時間が短く温度が低いので色が白くなり,体が大きくなります。北の動物が大きいのは,熱を逃さないために,体重当たりの体表面積が狭くなっているからです。(p200)
 これは世界共通ですが,海で交易を行なう人々は,フェアなトレードが成り立つときは商人であり,アンフェアなことをされたら海賊になるのです。(中略)「ヴァイキングすなわち海賊」ときめつけるのは,かわいそうな話だと思います。(p202)
 生態系は横(東西)には広がりやすく,縦(南北)には広がりにくい性質を持っています。(中略)そのために北のアメリカと南のアメリカでは人の移動が少なく,交易が難しかった。人間は刺激がないと知恵は生まれません。南北アメリカでは,ユーラシアに比べてなぜ文明の始まりが遅れたのか,その大きな要因は人の移動が困難だった,生態系が閉じられていたという点に求められると思います。(p208)
 もともと純粋な生態系などありません。犬も猫も豚も牛も馬も,もともと世界中にいた動物ではありません。放っておいても動物は移動しますし,植物の花粉は飛散します。(p210)
 ユーラシア規模で交易を考えたときに,東が豊かで西が貧しいという図式がありました。平たく言えば,中国は豊かでヨーロッパは貧しい。これは氷河時代に原因があります。(中略)東は長江の南まで氷河が進出しましたが,雲南やインドネシアなど南に出っ張っていた部分は助かりました。ヨーロッパは全土が,すなわち地中海の北側すべてが,氷の下になってしまったので,貴重な動植物はほどんど死に絶えました。こうして東には辛うじて,お茶の木や蚕などの貴重な動植物が生き残って,それが東方においてお茶とか絹といった,圧倒的に競争力のある世界商品を生み出す源泉になります。(p212)
 海上交易が禁じられると,海に生きてきた人たちはどうするか。朱元璋の言うことを聞いて陸に上がって農民になるか,それとも国を捨てて海で生きるか。当然,後者を採ります。海で育った人が,海を捨てるのはとてもつらい。(p233)
 鄭和艦隊の最後の航海は1431~1433年でしたが,海賊の類は鄭和艦隊の二十数年でほぼ根絶されていました。(中略)こういう背景があったからこそ,プロとガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回って,インド洋に船を入れることができたわけです。(p239)
 記憶すべきことは,オスマン朝が東ローマ帝国を滅ぼしたとき,イスラム政権であるにもかかわらず,長い歴史を持ちローマ帝国の国教であった東方教会の伝統と文化を守ったことです。現代でも,東方教会の本部はイスタンブールにあります。(p266)
 人間はワインと一緒で,気候の産物である。どの人も故郷をいいところだと思っている。そして,自分の祖先のことを立派な人であってほしいと願っている。(p273)
 コロンが新大陸を発見して,何が一番,新大陸の人々に影響を与えたのか,という話があります。それは(中略)メンバーの誰かが,コホンと咳をした瞬間であった。(中略)新世界の人々に免疫はありません。抵抗力がないものですから,あっという間にいろいろな病気に感染し,バタバタと死んでいくことになりました。(中略)植民地を経営しようとしても,労働力になる先住民がいなくなってしまったので,アフリカから黒人を連れてきたのです。(p274)
 アメリカは世界でも珍しい人工国家であると思うのです。憲法,契約というか,人間の理性を国の根幹に置いている不思議な国家であるような気がします。(p276)
 アメリカの建国やフランス革命を見ていて彼らが懸念したのは,人間の理性,すなわち人間の頭ってそんなに賢いものだろうかということです。(p283)
 真の保守主義には,イデオロギーがないのです。(中略)人間がやってきたことで,みんなが良しとしていることを大事にして,まずいことが起こったら直していこう。それが保守の立場です。(p284)
 アメリカが人工国家であることが,アメリカンドリームという幻想の母体になっている気がします。(中略)アメリカンドリームの実現は,実際は,針の穴ほど地位台と思うのですが,どこの国に生まれてもアメリカの大学に行って勉強して,努力すればなり上がれるという幻想を世界中に振りまいていることが,アメリカの強みです。人工国家で伝統がない強みです。(p287)
 アメリカが特異なのは,人工的にできた国家であることに加えて,人々にやり直しの舞台を何回も何回も提供できた国であった,ということです。(中略)横に同じような気候風土が,ずーっと開けていた。そしてそれが全部肥沃な土地だったのです。(p292)
 モンロー主義は,要するに外へ出ていったことへの反動なので,アメリカの本質は引きこもりではなくて,外に出ていくことだと思います。(p297)
 アメリカは平たく言うと,おだてて頑張ってもらうのが一番である。あまり厳しく言うと閉じこもって引きこもってしまい,それだと世界のためにならないから,ある程度はおだてて,出しゃばらない程度に,保安官をやってもらおう。それが一番いいということを,ヨーロッパの人はよく認識しているように思います。(p297)
 世界の歴史を見ていくと,豊かで戦争もなく,経済が右肩上がりに成長していく本当に幸せな時代は,じつはほとんどないことがわかります。その意味で,戦後の日本はもっと高く評価されていいと思います。(p323)
 日本の幸運は毛沢東のおかげです。もし蒋介石が北京に残っていて,共産党政権が成立していなかったら,アメリカは日本を歯牙にもかけなかった可能性があります。しかも毛沢東は長く生きたので,大躍進や文化大革命などを発動して,中国はなかなか立ち直ることができなかった。(p325)
 歴史を学ぶことが「仕事に効く」のは,仕事をしていくうえでの具体的なノウハウが得られる,といった意味ではありません。負け戦をニヤリと受け止められるような,骨太の知性を身につけてほしいという思いからでした。そのことはまた,多少の成功で舞い上がってしまうような幼さを捨ててほしいということでもありました。(p332)

2018年10月20日土曜日

2018.10.20 磯田道史・嵐山光三郎 『影の日本史にせまる』

書名 影の日本史にせまる
著者 磯田道史
   嵐山光三郎
発行所 平凡社
発行年月日 2018.08.15
価格(税別) 1,400円

● 和歌,連歌,俳諧を西行から芭蕉まで辿る。詩歌が諜報と結びついていたことを強調したかったようなのだが,そういうことはあったかもねっていうしごく穏当な話が出てくる。諜報というのをあまり特殊なものと考えない方がいい。かつては日本も普通の国だったのだ。
 しかし,メインは西行解釈で,これが面白い。

● 以下にいくつか転載。
 天皇の経験者が生存状態で(中略)何人もいる。(中略)元天皇が競合してその中の一人が「治天の君」になって院政をしく。(中略)天皇自身が地位ではなく,フィジカルな,個人の体に宿った能力で政治を行う時代であれば,下までそうなるのは当たり前です。(磯田 p12)
 実力社会になると不安定化するのは自然の成り行き(磯田 p13)
 フランスの歴史学者マルク・ブロックが中世の「封建社会」の定義をいくつも述べましたが,そのうちの一つが「暴力の日常化」です。たぶん日本社会は一一四〇年ぐらいから激しい暴力の日常化に入って,(中略)はっきりと中世に突入した(磯田 p14)
 暴力の日常化は死を身近にしていく。そういう時代の人間は故意をしても命がけですし,美しいものを見ても,必死でその瞬間を刻み止めようとします。(磯田 p15)
 結果的に清盛は中世的世界を開き,信長は近世的世界を開いたわけで,いずれも「比叡山バネ」なんです。比叡山に抑え込まれることによって,その反発で次世代を開いた英雄といえます。(磯田 p19)
 あのころ出家した人たちは,いま思えばけっこういい名所へ庵と称する別荘を建てて住んでいる。これも「数寄」ですよね,贅沢の極致でしょう。(嵐山 p24)
 日本人は基本的に世を無常とみていて,人がそこで煩悩に苦しめられている,それを巡礼し見ることによって魂が浄化される。これは能の構造とよく似ています。うち棄てられた人間に対して,その人のことを思ってあげる優しさ。(中略)西行が日本人の琴線に触れて長く愛され,生き残り続けている原因の一つはここにあると思うんです。(磯田 p29)
 中世の教育はレベルが高いですから。近世の寺子屋のような“なんちゃって教育”じゃなくて,住み込みで,今で言えばラテン語でも読みこなせるようなレベルまで鍛えられる。(磯田 p33)
 前近代社会で,馬というのは自動車産業に近い。しかも高級自動車です。ものすごい富をもたらします。(磯田 p36)
 信西が理屈倒れなのは,追われて逃げたときの隠れ方が「土の中に潜れば大丈夫だろう」というものだったことによく表れています。ほんとうに穴掘って隠れたんですから。(中略)「隠れるとは自分の姿が相手に見えないこと」であって,「通報されないこと」だとは考えない。(磯田 p54)
 銃が登場すると,戦いからポエムがなくなります。(中略)弓矢と刀は人間の筋力が相手の死をつくるから,誰の肉体が誰の肉体を滅ぼしたかはっきりしていて,文学になりやすい。(磯田 p72)
 おそらく,日本は「言挙げをしない国」なんです。ヤマトタケルがどうしてあんなに悲惨な死に方をしたのか,荒ぶる伊吹山の神を退治する前に「こうするぞ。殺してやろう」と言挙げをしてしまったからです。(中略)相撲でも,「横綱は無言たれ」といい,ガッツポーズもだめ。それが『古事記』や『日本書紀』の時代からこの国の軸をなしている,この国の古層として沈殿した政治思想の文化であることは理解しておく必要があります。(磯田 p87)
 連歌の時代にはまだ現実の,実体としての自然を詠んでいた。そこからきて,人間の空想力を短い詩形のなかでここまで展開したという点では,西山宗因が登った山は明らかに芭蕉よりも高いと思います。(磯田 p130)
 伊賀上野にいたころの芭蕉は社交的で性格が明るい。気がきいて勘がよくて,人の話を聞くのがうまい。晩年の無常感が漂う芭蕉とはまるで違う。(嵐山 p143)
 ぼくが『三冊子』のなかでいつも心得ているのは,「物の見えたるひかり,いまだ心にきえざる中にいひとむべし」という言葉です。物が「あ,いま見えた!」とピカッと光ったように感じたとき,その感動が心に消えないうちに言語化しろと。(磯田 p187)
 芭蕉俳諧でも浄土真宗でも,本人より弟子に,師匠の思想哲学のエッセンスをわかりやすく伝える者が出たことが,爆発的に広がる一つのきっかけになったのだと思います。(磯田 p189)
 荒海や佐渡によこたふ天の川 も同じで,荒海ですから佐渡も天の川も見えない,その見えないものを見る,幻視するというのが芭蕉の力です。(嵐山 p191)
 嵐山 俳句はみんな嘘ですから。 磯田 そうなんだけれど,『悪党芭蕉』でも指摘されているように,その嘘を「見立てる」というんですね。「見立ての文化」は日本文化論できわめて重要な地位を占めます。何かに見立てる,つまり「~であることにする」。(p200)
 日本はもっともディズニーランドが成功する国なんです。「着ぐるみの中に人はいないことにする」も「夢の国であることにする」もできる。これはけっこう高度で,お互いの合意がないとできない。(磯田 p201)

2018年10月18日木曜日

2018.10.18 外岡秀俊 『発信力の育て方』

書名 発信力の育て方
著者 外岡秀俊
発行所 河出書房新社
発行年月日 2015.09.30
価格(税別) 1,300円

● 河出書房新社の“14歳の世渡り術”の中の1冊。中学生でもわかるように書けとは,本書にも出てくる言葉で,よく使われるけれど,中学生をなめちゃいけないやね。
 “中学生でもわかるように”とは,“アンタじゃわからないかもしれないけど”の後に続く言葉かもしれないねぇ。

● 内容は,「ジャーナリストの心構え」とでもいうべきもの。たとえば,ブログやSNSのPVを増やしたいと思って,本書を読んでもあてが外れるだろう。
 著者は新聞社に長く勤務した人だけれども,ここに書かれているとおりに仕事をしている記者がさてどの位いるのかという問題は,別途,存在するだろうね。

● 以下にいくつか転載。
 どんな人でも,一日に何度か,喜怒哀楽や驚き,興味を感じることがあるでしょう。その心の変化や気づきをそのままにせず,掘り下げていく。それが,私のいう「自分の井戸を掘る」作業なのです。(p15)
 記者の当時,先輩からこういわれたことがあります。「大切なのは,『エッ?』と『へーえ』なんだ。それを『そうなんだ』と納得してもらうのが新聞記事だ」(p15)
 いつも自分を起点に「問題意識」を持って自力で情報を集める。それだけが,ほんとうに「知恵」が身につく方法なのです。(p28)
 一冊の本には,ぼうだいな時間と労力が注ぎ込まれています。著者が下調べをし,データを取捨選択して組み立て,編集者がわかりにくい点や間違いを指摘して,はじめて本が生まれるのです。いってみれば,さまざまなデータの流れを一つの場所でせきとめ,豊かな水をたたえるダム湖のようなものです。データの海におぼれないためにも,その保水力を利用しない手はありません。(p34)
 百科事典は基本書の中の基本なので,執筆者は多数の本を読み,間違いがないかどうかを確認します。それだけで,項目ごとに一冊の本が書けるほどの労力を注いでいます。いわば知識の一番搾り,「知のエッセンス」といってよいでしょう。(p37)
 図書館にあってデータベースにないもの。それは,こうした道草で起きる思いがけない「出会い」です。(中略)検索エンジンは,キーワードによって,最短時間に最短距離で探しているものに行き着く道具です。しかし,図書館で開架図書を眺めるのとは違って,余計なものや「遊び」を排除してしまいます。いわば,自分に関心のあることにしか,関心が向かない。裏を返せば,関心の幅を広げることには不向きな道具なのでしょう。オリジナリティ(独創性)をはぐくみ,実らせるのは,検索したデータの積み重ねというよりは,こうした偶然の出会いや,「ひらめき」にあることが多いのです。(p40)
 どうすれば,「情報通」になれるのでしょう。答えは,「人に聞く手間を惜しまない」という言葉に尽きます。(中略)人と話すことを好きになる。それが,「情報通」になる秘訣です。(p61)
 すでに書かれた情報を頭に入れて現場に行くと,その情報に沿ったものしか見えない,ということが起こります。(中略)自分で「仮説」を立てて現場に行くと,その「仮説」では説明できないこと,「仮説」に反することが見えてきます。「仮説」が裏切られたら,それがニュースなのです。(p67)
 論説委員室では毎朝,二十人以上の論説委員が集まり,翌日に掲載する社説のテーマについて話し合いをします。(中略)その話し合いの結果をまとめて「社説」とします。おおぜいの討論の結果をまとめるので,「社説」には署名がありません。(p176)
 直感で思ったことを先に言い,そのあいだに,「なぜそう思うのか」を考え,話しながらまた考える(p178)
 コミュニケーションとは,この「熱意」と「誠意」のやりとりのことだと思います。ですから,コミュニケーションの力をみがく一番の方法は,技をみがくことではなく,自分に素直になり,相手に伝える熱意を持ち,誠意をもって表現することです。(p182)